第6話 籠鳥の空 その6
「あたしは今まで、お父さんの言いつけを、守って、生きてきた。だけど、これからは、お父さんの言いつけを守るかどうか、私が自分で決める」
テンは言った。父に向かって。言い切って、父の顔を見た。また泣くかも知れないと思ったけれど、父の表情はそのままだった。そのままの顔で父は返した。
「どうして、そう思ったの」
「黒はねが言ったんだ。あたしが何になるか私が決めてもいいんだって」
父はふうんと言って、いったんケイタの方を見た。またテンへ視線を戻す。
「テンは、ケイタ君にそう言われたから、そうなったの?」
ふと、嫌な感じがした。父は今まで見たことのない表情だった。
「だったら、それは……同じことだよね?」
「……どういう」
「テンは、お父さんの言うことじゃなくて、ケイタ君の言うことを守るようになったってだけでしょ。同じだよ。テンは空っぽだ。他人から言われたことをその通りにするしか出来ないんだ」
テンは息をのんだ。ミトが殺気立つのが分かった。ケイタがミトの肩に触れて制している。
「違うよ」
「どう違うか、言ってみなよ」
「自分で決めたもの! 黒はねが何も言わなくても、自分で決めたよ」
「何を決めたの?」
「ユイと仲直りした」
「……」
父は少し驚いたような顔をした。でもまた、元の表情に戻る。
「そう。ユイ君と仲直りしたんだ。ユイ君はテンのことどう思ってるの? また前みたいに手を出されたら、テンはどうするの」
「嫌だったら嫌だって言えるし、殴らなくても、ちゃんと止められる」
「じゃあ、嫌じゃなかったら、ユイ君の思うままになるって言うの?」
「自分の気持ちをちゃんと分かるし、伝えられる。思うままになんてならない」
「そんなこと、どうして言えるの? テンは自分がどんな目に遭ったか覚えてるでしょ?」
父が少しだけ、泣きそうな顔になるのを見た。でもまたすぐに戻る。
……覚えている。忘れようと思って、忘れたけれど、覚えている。何も出来なかった。声を上げることも、抵抗することも、何も出来なかった。耳の奥にまだ、声が残っている。その声が名を呼ぶのを聞いたら、その通りにしていた。父の言いつけがなければ、他人の思うままだった。
「昔のことだよ」
言い切った。それなのに、口の中が苦い。
「今はその時より、目もよく見えるし、ものもよく分かる。力の加減だって……。何より、今は自分で決められるって、分かってる!」
父は言葉を返そうとして――、そう、とだけ言って口を閉じた。しばらく父は黙っていたが、少しだけ鼻を鳴らして笑った。
「テンはさ、そんな風に言うけど。一人じゃ何も出来ないんだよ? お父さんがいなきゃ、学校にだって通えないし、住むところも、食べるものも、手に入れられないじゃないか」
そうだ。テンは父の庇護の中で生きている。もし今、父に見捨てられたら、テンは路頭に迷うしかない。でも……。
「私がいなかったら、テンは死んでたんだ。ううん、生まれてなかった」
父は思い出すように言った。
「あの日、廃棄処分が決まった素体は三体あった。その中から、今のテンになっている素体を選んだのは、ただの偶然だよ。二体が焼却炉に投げ込まれ、人間として生まれることなく死んだ。最後に残った一体を、私が連れて帰って、セットアップしたんだ。そうやって初めてテンは生まれた。私が君を選ばなかったら、君は死んでたんだよ。……それなのに」
父は、表情を維持しようとして、苦しんでるようだった。唇が青くなっている。
「それなのに、ずいぶんと生意気なこと言うんだね?」
生意気、かも知れない。父がいなくてはテンが生まれなかったのは、そうだ。例え人工生命だろうと、今のテンがテンであるのは、父に因る。何より父が育ててくれなくては、テンは生きられなかった。父がテンのために一生懸命だったことは、テンだってよく分かっている。だけど。
「お父さん、私は今日、死ぬ気で話してる」
テンは辛かった。死にたくはないが、そうでなければ、ここに立てないのだ。
「お父さんだって、あたしがいなきゃ、死ぬんだよ」
空の鳥かごを思い出した。鳥かごの中で鳥を飼えるのは、そこに鳥がいるからだ。
「あたしはお父さんに捨てられたら、生きて行けない。だけどお父さんだって、あたしを捨てたら死ぬんだ。だってあたしがいなかったら、お父さんは《お父さん》じゃなくなる」
父が、父であるのは、子であるテンがいるからだ。テンが生まれたとき、父は初めて父になった。
「もし、生意気だからって理由で、あたしを捨てるなら、そうすればいい。また新しい子を育てることだって出来るよね。でも、そうすれば、あなたは永遠に呪われるんだ。子の親であることをやめた者として、永遠に呪われる」
テンは言いながら自分が震えるのが分かった。父が先ほど唇を青くしたのも、分かる。怖い言葉だった。
「お父さんは、ずいぶんと、生意気なことを言うんだね? あたしを捨てれば、親として死ぬしかないくせに」
そうだ、テンが父に因って存在するならば、父だってテンによって存在する。だから対等なのだ。非対称だとしても、テンと父は同じ場所に立っている。
テンは父の反応が怖かった。目をそらしそうになる自分を押さえつけた。でも父は、少し眉を寄せただけだった。テンは言葉を続ける。
「私が、自分で自分を決めていくことを、お父さんにも認めて欲しい」
ミトが信じてくれたように、ケイタが支えてくれたように、テンが自分を決めることを、父にも承知して欲しい。
父は長く息を吐くと、ほんの少しだけ、表情をゆるめた。
「テンが自分で自分を決めて、でもそれが、間違ってたらどうするの……。お父さんはもう二度と、テンが傷つくなんて嫌だよ」
「間違うかも知れない……それはわかんない」
「お父さんは、言いつけをやめないよ。テンを護るためだから」
「いいよ、それでいい」
それで構わない。ただ、間違うことも赦して欲しい。テンはかごに飼われている鳥じゃなくて、この父の子なのだ。だから。
「間違わないように教えて欲しい。間違ったら助けて欲しい。だけど間違うかも知れないからって理由で、自分で決めちゃダメだって言わないで」
父はもう、何も言い返さなかった。テンを見つめて、そして――。
頬が熱いような気がした。ひりひりと痛む。父はテンの頭を撫でた。分かったと、つぶやいた。
テンの家のベランダからは、水没した旧市街が見えた。そのベランダからぼんやり景色を見ているらしいテンの父親に、ケイタは声をかけた。
「寒くないですか?」
「うん……ちょっと寒い」
台所では、テンとミトが、夕飯の支度をしている。テンの父親は、ケイタとミトが食事をしていくことを許してくれた。
ケイタもベランダに出て、窓を閉める。置いてあったつっかけに足を通して、父親の隣に並んだ。
「ケイタ君、君さ」
「はい?」
「どれくらい入れ知恵したの?」
ケイタは絶句してしまう。テンの言ったことがケイタの受け売りだったと父親は思っているのか?
(……どれくらい、って言った)
見ると、父は別に嫌な表情はしていなかった。どこかスッキリしたように見える。
「ホントに、僕が言ったのは、あれだけです」
自分が何になるか自分で決めてもいいのかとテンが言ったから、ケイタはもちろんと答えただけだ。それだけだ。
「そう。じゃあ、大丈夫かな……。暴力でもなく、受け売りでもなくて、自分で考えて、あれだけ言えるなら、さ」
ケイタはハッとして父を見た。そうか、と思う。父はわざとテンを挫けさせるようなことを言って、テンがそれを論破出来るか見ていたのだ。
「……テンさんを試したんですか?」
「試したって言うと、なんだか私がエライみたいだけど……。違うよ。安心したかったんだ」
「安心?」
「うん。だって、大事な娘だから……。もう二度と、非道い目に遭って欲しくないって思ってるから」
父親はうつむいた。それから少し、こちらを伺うように見て、言った。
「ケイタ君なら、分かるかな……テンは本当に箱のようになってしまうことがあるんだ。何も考えず、ただ言われるままに動くことがある。そういう風に、造られたから」
人工生命としての、テンの仕様の話か。それは分かる。けれど――。ケイタが言い返す前に、父は言葉を続けた。
「テンが本当に何も感じないただの箱なら、私はテンを護る必要なんてない。だけど違うんだ。テンが空っぽじゃないことくらい、テンを見てれば分かる。例え生まれにどんな特徴があっても、テンはそんなこと超えて、生きてる。感じたり、考えたり、決めたり出来る」
それは、ケイタの言いたかったことと同じだった。分かってるのだ、この父はちゃんと分かっている。
「テンはテンだ。だから、護らなきゃいけないって思ってた。テンが自律出来ないなら、私がテンを律するしかなかったんだ。でもどうも、私の方が追いついてなかったみたいだね」
父親は遠くを見た。冷たい風が、父の前髪を揺らした。テンと同じ髪色。
「私はテンのことちゃんと見てあげられてなかったって思ったよ。この土日、少し気をつけてテンを見てみたら、ビックリした。あの子、笑うようになった。それにさっきは……泣いていたよね」
そうだ。テンは泣いていた。ケイタはテンが涙を流すのを、初めて見た。父親に向かって、果敢に言葉を述べたテンは、その目に涙を浮かべていた。本当に一生懸命だったのだ。
「しかも、夕食を作るなんて言った――あの子が、料理するって」
父はむせるように言う。嬉しいのだろう。
「初めてだよ、そんなの。テンは、ちょっとずつ、成長してるんだ……」
父の瞳は潤んでいるようだった。袖を指で掴んで、目尻に当てている。
「私はあんまりいい親じゃないけど……忙しいし、未熟で、子育てのなんたるかもよくわかんないし。でもさ、仕方ないよね。私しかテンの親じゃないんだから」
「――そうですね」
ケイタは同意した。確かにテンの父親は、理想的な親ではないだろう。でも、誰よりもテンのことを想っている。そして誰も、この父に代われる者はいない。テンが代えられないように、この父も。
「失敗もあるし、間違いもあるけど……、でもそれはお互い様だよね」
ケイタは微笑んだ。テンがテンであることを赦して欲しいと言うのなら、テンはこの父が父であることを、赦すだろう。
そうやって、お互いに。
(それがきっと親子ってことなんだ)
ケイタは心の中で、声を聞いた。今はもういないあの人の、取り戻せない、声。
テンがうらやましかった。この父がうらやましかった。これから先、どれだけ間違っても、お互いに赦しあい、助け合い、生きて行ける二人が。
心から望んだ、この二人の幸せを。いつか、死が二人を別つまで、ずっと――。
遠く空のはしに、月が見える。月の光が反射して、水面に道が出来る。人の身では至れない道。
ああ、世界中すべての人を、救うことは出来なくても。目に映る、誰かを。大切な、友達を。
テンは救われただろうか。ミトは。
やがて夕餉の時が訪れるまで、ケイタは光の道を眺めた。
She got the skies.
最後まで読んで下さってありがとうございます。
Make-Believeは、サイドストーリーがいくつかあるので、そちらはまた別立てで投稿します。
よかったら読んでやって下さい。
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