第6話 籠鳥の空 その5
覚えていることはそれほど多くない。思い出せることも。
それでも去年のことは思い出せた。ユイを殴ったときのことだ。その日は放課後ユイと二人きりだった。理由は覚えていない。洋弓場の近くのベンチで、二人腰掛けた。ユイが楽しそうに話すのを、テンは聞いていた。いつだって、ユイといるのは楽しかった。一緒にいる時間が好きだった。ユイが問うから、テンはそのように答えた。
ユイがテンの頬に触れた。テンは良く分からなかった。これは何だろう……。頭の中で、父の言いつけが再生された。
――男に、身体を触られたら、その時は、殴ること。もう二度と、その気が起きないように、徹底的に痛めつけること。
身体とは、具体的にどの部分であるかと、テンが聞いたら、父は、手首から先以外、と答えた。頬は――アウトだ。
後のことは、覚えているけれど、思い出したくなかった。ユイは赦してくれたのだ。だから、もう、思い出さなくてもいいことにして欲しかった。
そして――。父が学園に呼び出され、テンの処分が言い渡された。父はもう二度とこんなことが起こらないよう、テンを教育し直しますと、誓った。
それで、テンは、停学が明けても、しばらく休学することになった。
「どうしてお父さんの言いつけを守らなかったんだ? 復学してから今まで、ちゃんと出来ていたじゃないか……それなのに……」
父はテンの前を行ったり来たりして、落ち着かない。
「なんでまた男の子と仲良くなったの? その子がテンにヘンな気を起こしたらどうするの? 家に上がるなんて一番ダメだ。しかも家の人がいない時に」
テンは父の言葉を聞いていた。言い返そうかと思ったが、出来なかった。テンに歯向かわれたら、父はどうするだろう……。
「またユイ君の時みたいになったら……」
テンは心の内でだけ反論した。ならない。ユイの時みたいには、ならない。もう二度と、そんなことにはならない。
(だって、自分で決められる。大切な人を傷つけないって、ちゃんと、決められる)
父はテンを理解しない。ケイタのようには理解しない。だから、テンは言わなくてはならないのだ。テンは自分が何になるか自分で決められると、父に伝えなくてはならない。だけど、それは。
(きっとそれはお父さんにとって、辛いことだ)
今までのことを、全部、否定するのだから。
父の顔を見上げた。父はテンを見て、また泣きそうな表情を見せた。父は悪くない。いつだって、父は悪くなんかなかった。必死だった。どうやってテンを育てたらいいのか分からなくて、父はいつも必死だった。そんな父が悪いことなんて何もない。ただ、及ばないだけで。
月曜日、父が仕事に出かけるのを見送った。学校が終わったらすぐに帰ってきなさいと言われた。テンも学校へ行く準備をし、家を出た。寮に教科書を取りに行き、ミトに会った。そしてそのまま、ミトと一緒に登校した。テンが一緒にお昼を食べようと言うと、ミトは諒解してくれた。
お昼に、ケイタはまたいつものようにお弁当を作って来てくれた。ただそのことだけで、テンは嬉しかった。ケイタと一緒にお昼を食べる日常があるなら、テンはケイタと出会って得たものを忘れずに済むと思った。
ミトも後から来てくれて、三人でごはんを食べた。たわいない会話、温かい雰囲気、三人で一緒にいることがテンは幸せだった。
午後の授業が終わって、テンがケイタの席までやってきた。テンの真剣な表情を見て、ケイタは今日が何かを分ける日だと、そう思った。
「黒はね、お願いがある」
「――はい」
ケイタは心の奥が融けるような感覚を覚えた。テンは、ケイタに望んでくれるだろうか。望むとしたら、何を。
(何だって、しよう)
そう思った。テンが本当に救われるためなら、何でもしようと。
「今日、おうちに来てくれないか」
「テンさんのご実家にですか?」
テンは頷いた。
「お父さんとお話しする。その時、黒はねにそばにいて欲しい。何も言わなくてもいいから」
「分かりました」
ケイタは荷物をまとめ、テンの後ろについて行った。
廊下を歩きながら、テンは言った。
「黒はねは……あたしを、箱だと、思うか?」
以前も聞いた問。でも声にあの時の悲壮さはなくて、ケイタはテンが何かを確かめたくて言ったのだと感じた。
「――テンさんは、箱なんかじゃありません。テンさんはテンさんです」
そうだ。テンは最初からテンで、どこまで行ってもテンなのだ。テンが何者であるか、テンは決められるし、決めていい。
「あたし、自分で決められたかな。何を、決められたかな」
「ユイさんに謝りました。自分でどうしたらいいか考えて、そのように」
「これからも、決められるかな」
「決められます」
テンは振り向いた。ケイタを見た。
「黒はね、ありがとう。きっと私、救われるよ」
校舎を出て、噴水広場のあたりで、テンは足を止めた。後ろを歩いていたケイタは、テンにぶつかりそうになって、立ち止まった。
「――仲間はずれなんて、嫌ですよ」
そう言って、こちらに笑いかけたのは、ミトだった。
「水色先輩!」
テンは嬉しそうな声を上げて、ミトのそばに寄った。
「テンちゃん、今日何かあるんでしょ? 私にも出来ることはありませんか」
「いいの先輩? 嫌なことかも知れないよ」
「構いません」
ミトは言った。
「私はね、テンちゃん。あなたがうらやましかった。自分が傷つけてしまった相手に、ちゃんと謝ろうって決められたあなたが。私にはずっと出来なかったことだから。私はテンちゃんが好きです。だけどそれはどんなテンちゃんでもいいってわけじゃない」
ミトはまっすぐテンの方を向き、テンの瞳を見つめた。
「自分で自分を決められるテンちゃんが好き。私はテンちゃんがそう出来るって信じてる。だから、ねえ、信じさせて」
ミトはテンの頬に触れた。テンはその手を取って、深く頷いた。
そうだ、ミトが信じるなら――テンはきっとその強さを増す。テンがテンであることを、信じる人がいるならば、テンはテンであることの強さを増すのだ。
三人でテンの家についた。玄関先で、テンは少し片付けるからと、先に中に入った。ミトとしばし待っていると、やがてテンが中に入れてくれた。
食卓のイスを勧められて、ケイタとミトはかけた。テンは冷蔵庫からジュースを出してくれた。
「お父さんとは、あたしが話すから、黒はねと水色先輩は、横で聞いてて」
「それだけでいいんですか?」
ミトが言う。ミトはいつも持ってる竹刀を、今日も持っていて、イスに立てかけてある。
「私、腕には自信がありますよ?」
ミトが冗談めかして言うので、ケイタは吹き出した。ミトらしいと思った。
「ありがとう、先輩。でも大丈夫だよ。お父さんあんまり強くないし」
テンはそう言って、遠くを見るような目をした。
「昔は力の加減がよく分からなくて、お父さんにしょっちゅう怪我させてたんだ」
ケイタはテンの視線を追って、その先に、写真立てがあるのに気付いた。幼いテンと、父親らしい男性の写真。幼いテンは張り付いたような無表情だったけれど、傍らの父からは娘を慈しむような雰囲気が見えた。
(きっと、悪い人じゃないんだ)
そうだ、本当に悪い人なんて、そうはいない。ただ、どちらが悪くなくとも、うまくいかないことはある。家族なら、特に――。
夜になって、テンの父親が帰った。
ケイタとミトがお邪魔していますと挨拶すると、父はテンをひっぱって行って、小声で言った。
「お父さんがいない時に……、男の子を家に上げちゃいけないって、言わなかったっけ……」
「言ってないよ、お父さん。友達を家に上げるときは、男の子と二人だけにならないようにしなさいとは言ったよ。今日は先輩がいるもん」
「……テンはいつからそんな屁理屈を言うようになったんだ」
テンの父は頭を抱えるようなポーズをしてみせる。
「屁理屈じゃないよ。今日は学校が終わったらすぐ家に帰ってきたし、ちゃんとお父さんの言ったこと守ってるよ」
テンが言うと、父はため息をついた。こちらに向き直り、口を開く。
「万里谷ミトさん。この前は失礼しました。少し取り乱していて――」
「いいえ」
「それから……、北見ケイタ君だよね」
ケイタはテンの父親がケイタのフルネームを言ったのに驚いた。テンは父親にも、ケイタのことを《黒はね》と言っているのではと思っていたからだ。
「君って、北見教授の息子さんだよね」
「……はい」
「一応、私も君の親御さんと同業なんだ。……うん、まあ、それだけだけど」
ケイタはなんと答えればいいか分からず、曖昧に返事した。
「――それで、今日は」
テンの父は、息を吸った。テンと、ケイタと、ミトを全員視界に入れ、覚悟を決めたようだった。
「ただ遊びに来たってわけじゃないよね。話を聞こうか」
「先に言っておくけど」
食卓を挟んで座り、テンの父は言った。
「君たちがテンと私のことについて、どんな理想的なことを言おうと、現実にテンの親で、テンを養育してるのは私だから。責任がない者の口出しは、相応の扱いしか受けないよ」
釘を刺す。テンの父が、ケイタやミトはテンについて意見しに来たのだと思っているなら、この言葉は妥当だろう。
「お父さん。黒はねと水色先輩は、お父さんに何も言わないよ」
「……? じゃあなんで来たの」
「あたしが、お父さんと話すのに、挫けないように、来てもらったの」
テンが言う。そんなテンの強い態度を見て、父はたじろいだようだった。おそらく、こんな風なテンを今まで見たことがないのだろう。
「お父さん、今日は私からお話があります」
第6話 その6へつづく