第6話 籠鳥の空 その3
自室のベットに収まって、ケイタは目を閉じていた。テンは傍らでそれを眺めて、息を吐いた。
家について、病院でもらった薬を飲み、ケイタは少し落ち着いたようだった。眠った方がいいだろうとテンが言って、ケイタも同意した。ケイタが寝間着に着替える間、テンは部屋を出ていたが、それが終わると、ずっとベッドのそばにいた。ケイタはどうもテンがいると眠れないようだったが、薬が効いてきたのか、眠ってしまった。
窓の外が、オレンジ色に輝いている。この部屋からは通りの並木が見える。やけに静かだった。
テンはまた、ケイタに視線を移した。白い顔は熱で少し上気しているように見えた。それとも、夕日の所為だろうか。掛け布団の切れ目から、首が見える。いつもつけている灰青のマフラーは、ケイタが着替える間に、ケイタの首から制服と一緒にハンガーに移動していた。
ケイタの首を見たのは、何もこれが初めてではないと思った。二学期の始まったばかりの頃、ケイタは水泳の授業に出ていたような気がする。その頃はまだ、テンはケイタと他の生徒の区別がついていなかった。
テンは水泳はいつも見学していた。テンは水に入るのは好きだったが、復学してからはプールに入っていなかった。父が、肌を外に出してはいけないと決めたからだ。テンは夏でも長袖のブラウスを着た。父の決めたことを、ちゃんと守っていた。
そうだ、父の決めたことを、ずっと、ちゃんと、守ってきた。
(だけど今は、自分で決められる)
テンは脳裏に父の言葉を再生していた。男子の家に上がってはいけない、家の人がいないときは特に――。ああ、とため息をつく。
(お父さん、黒はねは男の子だし、おうちの人はいないけど……でも、私は黒はねのそばにいたいよ)
ケイタの頬に触れた。少し熱いような気がする。
もっと他に、出来ることはないだろうか。考えを色々と巡らせてみた。夕食を用意してあげられたらどうだろう? 病院ではお腹に優しいものを食べなさいと言われた。
(じゃあ、おかゆだな)
テンは立ち上がると、ケイタの勉強机に視線を走らせ、家庭科の教科書を発見した。前にクオが、ごく基本的なメニューは、家庭科の教科書に載っていると言ったのを思いだしたのだ。ページを繰る。ご飯の炊き方についてのところに、おかゆの作り方もあった。やれると思う。
テンは教科書を小脇に抱え、ケイタの鞄を探ってお弁当箱を出した。両方持って、台所へ向かう。部屋を出るとき、ふり返って、また少しだけケイタの顔を見た。
(うん、やれば出来るんだな)
ほかほかと鍋の中で湯気を立てるおかゆを見て、テンは満足した。ケイタが食べるときに味をつけて、器に移せばいいだろう。とりあえずはこれでよいと、テンはふたを閉めた。
自分一人で料理をしたのはこれが初めてだった。クオが料理するのを横から見ていたことはあったけれど、一緒に料理することはほとんどなかった。テンは食べるのは好きだったが、料理をする機会はあまりなかった。
ユイがテンの作ったレモンパイを食べてくれたときのことを、思い出す。クオと一緒に作ったから、美味しいのは当たり前だと思ったが、それにしても、食べながらユイが泣いたのは、やり過ぎだと思った。すごく嬉しかった。
(いいもんだな)
誰かに料理を作ってあげられるなら、それはいいことだろうと、思った。ケイタやクオが、テンのために料理してくれる気持ちが、分かるような気がした。
ケイタはテンの作ったおかゆを喜んで食べてくれた。薬も飲んだ。テンは冷蔵庫で見つけたスポーツドリンクを枕元に置き、いつでもすぐ飲めるようにした。電話の子機も枕元に置いた。他に必要なことはないかと言うと、ケイタは答えた。
「あとはだいたい大丈夫だと思います」
しゃべり方も、しっかりしたような気がする。
「明日と明後日はお休みですし、明日は城戸さんが来てくれることになってるので」
「きどさん?」
テンが疑問顔を見せると、ケイタは説明してくれた。週に何度かケイタの家に来てくれるお手伝いの人だという。
テンは合点がいった。ケイタは同年代の中ではかなりしっかりした方ではあるけれど、それでも一人で家事を全部やるのは容易ではない。どうしているのかと思ったのだが、お手伝いに来てくれる人がいるのか。
「テンさん、もう、寮に戻らないと。夕食の時間もあるでしょう?」
ケイタは時計を見上げて言う。確かに寮ではそろそろ夕食の時間だ。でも。
「あたしまだ、黒はねのそばにいたい」
そう言う。言ってみて、ずいぶん簡単に口から出てしまったと、自分でも驚いた。テンがポカンとしていると、ケイタは微笑んで見せてくれた。
「分かりました。ご飯は作ってあげられないですけど……」
「いいよ、あたし自分でなんか出来ないかやってみたい。お台所借りてもいい?」
「ええ、もちろん」
ケイタの微笑みは、なんだか感慨深げな感じに見えた。料理に対するテンの意欲を、汲んでくれたのかも知れない。
「あと、お電話も貸してね」
夕食の前に、寮に電話しなくては。思えば、寮で暮らすようになって、これが初めての外食だった。
テンは家庭科の教科書のレシピからシチューを選んだ。野菜の大きさがまちまちだとか、色々と初心者らしいミスをしたが、出来はそれなりだった。出来上がりをケイタに報告したら、ケイタはテンの成果を自分のことのように喜んでくれた。
やがて再び眠りに落ちたケイタの姿を、テンはずっと眺めていた。ベットによせたイスにかけて、静かに眺めていた。ケイタが眠るために灯りは落としてある。薄暗い中でも目は慣れて、テンはケイタの姿をとらえていた。寝息に合わせて上下する胸。熱が引いたのか、顔色は白かった。
父親のことを思い出した。忙しいとき、父は家に帰るとすぐに眠った。大した言葉を交わすこともなく、眠ってしまった父の横で、テンはずっと父の顔を見ていた。
テンは、ベットに上半身だけ伏した。だんだん、視界が狭くなる。眠かった。
覚えていることはそれほど多くない。思い出せることも。
学園に来る前のことは、なんだか霞がかっていて、上手く思い出せない。ただ、家で、父親の帰りを待っていた。
父は忙しい人だった。家のことについて要領が悪く――当時はそうだと気付かなかったが――仕事と家事とを両立するのに苦労していた。自分は何も出来ず、ただ右往左往する父親を見上げていた。
学園に通うことが決まったのは、いつだったか。ある日突然、学園の職員がやってきて、言ったのだ。例え――であろうと、学校には通わせるべきだと。今の世論の流れを見るに、数年後には、人の子と同じように、学校に通わせることが義務化されるだろうと、その職員は言った。人の中で人間として生きるならば、それは必要なことだと。そして一般の家庭に先立って、南條家は――を学校に行かせるべきだとも。
そうだ。父親は、南條ダースは、研究所で働いていた。――をこの世に生み出したのが研究所であり、その研究開発の一端を担う者として、自分の養育する――は率先して学校に通わすべきだと。
学園の職員の言葉を、当時の自分が理解できたとはとても思えないのだが、その時初めて、自分は――というもので、父親とは違った存在なのだと知った。
門限の迫る頃、万里谷ミトは寮の玄関ホールに降りてきた。同級生の菅原ハルコが、電話の前で本を読んでいる。
「ハルコさん」
ミトが声をかけると、ハルコは顔を上げた。
「テンちゃんってまだ戻ってないですよね」
「はい。まだ帰ってないですよ」
夕食前、テンから寮母に電話があったという。クラスメイトが風邪を引いて看病している、夕食はその子のところで食べて帰るという内容だったという。そしてそのことを、ミトにも伝えて欲しいとテンは言ったそうだ。
ミトはそれを聞いて、おそらくクラスメイトというのは、ケイタのことなのだろうと予想した。テンがそのように接する相手は、クラスではケイタくらいだろう。
ケイタが風邪を引いたというなら、それはミトにとっても心配事だった。テンが戻ったら様子を聞きたいと思った。でもまだテンは戻らない。門限を破るとそれなりの罰則があるし、ミトは何度かそれを経験していた。出来ることなら、テンがそんな目に遭わない方がいいと思った。
「テンさん、今日はお友達のおうちから、お父様にお電話するのでしょうか」
ハルコが言った。
テンが毎日父親に電話をすることは、ミトも知っていた。宿題の途中だろうと、時間になるとテンは電話をかけにいった。強迫的とすら思えるほど、電話についてテンは規則正しかった。
何か嫌な予感がした。テンはケイタの家から父親に電話をかけるだろうか? テンの父親が、テンに男が近づくことを極度に嫌うらしいということは知れた。テンの不思議な行動のほとんどは、父の言いつけだったし、それらを合わせて考えると、ミトにはそのように思えたのだ。
(テンちゃんが、ケイタ君の――男の子の家にいるって、いうのは)
きっと父親にとって好ましくない状況だろう。テンはどうするのだろうか? 電話を欠かせば、父親に寮に戻っていないことが知れる。ケイタの家から電話をしたとして、父親は何も勘付かないだろうか?
ミトは時計を見上げた。門限にはまだ少し間がある。しかし――、テンが父親に電話する時間は、もうずいぶん過ぎていた。
暗い中に、光がある。ぼんやりと、テンは目をさました。誰かが話している。
「はい、僕です」
ケイタの声だ。誰と話しているのだろう?
「えっと、門限までに帰るようにって言ったんですけど……僕、寝ちゃってて……え、戻ってないんですか? あれ……えっと」
ケイタは電話をしているようだった。暗い部屋の中で、受話器の液晶画面が光って見えた。テンは身体を起こした。どうも、ケイタのベッドの横で、眠ってしまっていたらしい。
「黒はね……?」
自分の存在を知らせようと、テンはケイタにつぶやいた。ケイタはその声に気づいて、こちらを見る。そして電話口の人物へと言った。
「あ、あの、います、テンさんいました。今ちょっと気付かなかったんですけど、ここにいました」
ケイタは、はい、はい、とくり返し、やがて電話を切った。
「テンさん、寮母さんからお電話でしたよ。門限過ぎちゃったからって」
「今何時?」
テンが言うとケイタは子機の液晶画面を示した。確かにこれは非常識な時間だ。
「ミト先輩がお迎えに来てくれるそうです。僕、送ってあげられないから……」
ケイタは申し訳なさそうに言った。テンは首を振る。
寝込んでしまったのはテンのミスだ。ケイタは悪くない。むしろ長居して申し訳なかったと思う。
「ごめんね、黒はね」
「いいえ。大丈夫ですよ。ちょっと、ビックリしましたけど」
暗闇の中でも、ケイタが微笑んでいるのが分かって、テンは少し安心した。
「黒はねと一緒にいられて楽しかった」
玄関先で、テンがそんなことを言った。まだ少し頭がぼんやりしていたケイタは、受け答えするのに少し時間がかかった。
「ごめんね、長くお邪魔しちゃって」
「いいえ、こちらこそ、大しておかまいも出来ず……」
紋切り型のセリフを返しながら、なんだかこれは違うなとケイタは思った。
(そうだ、言うべき言葉は――)
「テンさん、色々ありがとう。助かりました」
ケイタは言った。テンは台所の片付けをみんなしておいてくれた。おかゆも美味しかった。テンのおかげで、色々と助かった。だからお礼を。
テンは少し、恥ずかしそうな顔をした。あまり見たことのない表情だと思った。
「あたし、あんまり上手に出来なかったけど、黒はねが助かったならよかった」
嬉しそうな顔を見せる。ケイタは思った。技術が追いつかないことなど、そんなのは二の次だ。ケイタの作るお弁当だって、クオの料理のように美味しくはなかっただろう。それでもテンは食べてくれた。そのことが、ケイタにとって一番の報酬だった。だからいいのだ。上手くなんてなくても。
やがてミトが訪れて、テンを連れて帰った。
第6話 その4へつづく