第6話 籠鳥の空 その2
覚えていることはそれほど多くない。思い出せることも。
学校から家に帰ろうとした。その日、ユイも、クオも、テンと一緒に帰らなかった。理由は、思い出せない。一人で帰る道のりは、いつもより長いような気がした。
声をかけられた。知らない人だった。
知らない人について行ってはならないと、父が言っていた。父は先生の言うことを聞きなさいとも言った。先生も帰りのホームルームで、知らない人にはついて行ってはいけないと、言っていた。だからテンは判断した。この人について行ってはならないと。そうだった。間違ってはいなかったはずだ。それなのに。
名前を呼ばれた。この人はこちらの名を知っている。この人は、自分を、知っているのか。おいで、と、言われた。名を呼ばれ、おいでと――テンはついていった。
外は暗くなり、不安が心を覆った。知らない人、知らない場所、ついて行きたいとは思わないのに、それとは関係なく連れて行かれた。何も出来なかった。
忘れようと思った。何もかも。だから覚えていない。
やがて父の決めた門限となった。帰らなくては。何をおいても、家に帰らなくては。走った。その時初めて、走ればよかったのだと知った。テンの足は速くて、知らない人は追いつけなかった。
帰宅した父は、テンを見て、蒼白になった。何があったのかと問われたが、何も答えられなかった。覚えていないから。父はテンを抱きしめて、泣いた。悪かったと、何度も謝られた。父は悪くない。仕方ないのだ、いつだって、父は悪くなんてなかった。
それから、守らなくてはならない決まりが、増えた。
目が覚めてしまえば、夢の中のことはもう遠くだった。カーテンの隙間から、日が差している。テンは布団の中から、身体を起こした。
今日の朝ご飯はなんだろう。思い描く。今日のお昼は――。
(黒はね、今日はお弁当作ってくれるかな)
ここ何日か、ケイタはミトのことで奔走していて、テンのお弁当はお預けになっていた。昨日のミトの明るい顔を思い出して、今日こそはケイタのお弁当を食べられるのではないかと、テンは期待した。父の送ってよこす栄養剤で、必要な栄養は足りているのだが、それでもテンはものを食べるのが好きだった。
昼、校舎裏。
「すごい!」
テンは歓声を上げた。ケイタが用意したお弁当は、今まで見た中で一番豪華だった。ケイタが得意なミートボールに、ああ、卵焼きはテンの好きなだし巻きだ。それにコロッケがある。冷凍食品じゃない、ケイタの手作りだ。テンは嬉しくて、背の羽がやたらと動いているのが自分でも分かった。
「昨日までの埋め合わせです。頑張りました」
ケイタはテンに箸箱を手渡してくれた。受け取る。テンはケイタの顔を見た。表情はいつもの通りだけれど、少し顔色が悪い。朝から少し眠そうな感じではあったが、早起きさせてしまったようだ。
「黒はね、ありがとう」
テンが言うと、ケイタは微笑んだ。嬉しそうな顔。ケイタはテンが喜べば、それが嬉しいのだ。
(黒はねが、喜ぶなら、それは――)
嬉しいと思った。テンは、喜びが、ケイタとテンの間を、くるくる回って、永遠に続くように思えた。
(うん、たぶん、こういうのが、幸せなんだ)
父のことを思い出した。テンが喜べば父が喜び、父が喜ぶなら――。
テンは箸箱から箸を取り出した。いただきますと声を上げて、ケイタのお弁当に向かった。
「テンさんは、ユイさんや、クオ先輩と、一緒にお昼を食べないんですか?」
ケイタが思い出したように、そんなことを言う。
そうだ。ユイとケンカする前は、三人でいつも一緒にお昼を食べていた。クオが調理室で何か作ってくれたし、ユイがお弁当を分けてくれることもあった。
ユイとは、仲直り出来た。傷つけてしまったことを謝った。ユイは赦してくれた。作りかけだったレモンパイも、クオと一緒に作って、ユイに食べてもらえた。
(でも、元通りにはなれないんだ)
思った。三人が一緒にいられたのは、幼かったからだ。ユイがテンにそれまでと違う気持ちを抱いた。それ自体が悪かったわけではない。でもきっかけではあった。その所為で、テンはユイを傷つけてしまった。だから仲直りしても、元通りにはなれないのだ。
「ユイには、時々会うよ」
テンは言った。休み時間や放課後に、テンが一人で歩いていると、ユイと行き会うことが何度かあった。テンから洋弓場へユイに会いに行ったこともある。ユイはテンを視界に入れると、途端にそわそわしだして、テンが見つめると視線をそらした。矢を射れば、射るはしからみんな外した。部長からは、三ツ矢、お前はそんなんじゃないはずだと、悲壮なセリフを聞かされていた。
「クオは」
テンは思い出していた。
「今は違う人のために、ご飯を作っているみたい」
模擬喫茶に行ったとき、頭を撫でてくれた。久しぶりにクオにそうされて、テンは懐かしくて嬉しかった。その時、遠くで感じた視線を、テンは思い出していた。小さな身体、小さな手、トレーを抱えるようにしていた。メガネの奥につんとすました瞳。かわいい子だった。
元通りにはならないのだ。テンが壊してしまわなくても、いつかは一緒にお昼を食べなくなっていたかも知れない。それは分からないけれど――。
(全くの元通りを、望んだわけじゃない)
そう思った。きっと今は、これでいいのだ。
そして。
ケイタを見た。テンがお弁当を食べる役をすると言ったら、本当に毎日お弁当を作ってきてくれた。それがテンの慰めになるならと、尽くしてくれるケイタ。応えたいと思った、彼の望みを叶えてあげたいと思った。
(本当に救われるって、どういうことだろうな――)
考えてみた。何度も、くり返し。答は少しずつ変わっていった。最初は、ユイと仲直りすること、そして今は――。
「黒はね、あたしまだやらなきゃいけないことがあるんだ」
一人ではきっと、挫けてしまうだろう。でも、二人なら。ケイタと、二人なら。
午後の授業の間、ケイタのくしゃみを、数度聞いた。放課後には、ケイタはぐったりしていた。
「黒はね大丈夫? 風邪?」
「……そうですね、はい、そうみたいです」
ケイタはのたりくたりと、教科書を閉じ、資料集を閉じ、ノートを閉じ、それを重ねて、順番を入れ替え、下から順々に引っ張り出して鞄にしまった。無駄が多い。
テンは手を伸ばして、ケイタの額に触れた。ケイタはふゃっと、いつも聞かないような声を上げた。テンは自分の額にもう片方の手を当ててみたが、なんだかよく分からなかった。昔、父がそのようにして、熱を測ってくれたと思ったのだが。
「熱ありますか?」
ケイタが問う。
「うーん、わかんない」
テンは手を引っ込めた。ケイタがトロンとした目で、こっちを見上げている。なんとなく気恥ずかしい。
「保健室行くか?」
「ああ、はい、そうですね……」
ケイタは立ち上がる。そしてまた座った。鞄を肩にかけて、また立った。テンは自席に戻って荷物をまとめると、フラフラと歩き出したケイタに付き添った。
養護教諭はケイタの様子を見て「風邪ね」と一刀両断した。早めに病院で診療を受けるように言われる。養護教諭から一人で病院に行けるかと問われ、答えられないでいたケイタを見て、テンは自分がついて行くと請け合った。
「我ながら、アホなことをしまして……」
病院からの帰り道、ケイタは言った。
「……まあその所為でしょう、たぶん」
「なにしたの?」
「……そうですね、突発・着衣泳でしょうか」
くしゅんと、またくしゃみをする。両手で自分の肩を抱いて凍えている。
秋も終わりのこの時期に、無計画に水の中に入ったのだとしたら、それは確かにアホかも知れない。でもきっと、今日の朝、テンのお弁当のために早起きしないで、ゆっくり休めたのなら、もう少し、マシだったのではないだろうか。
「黒はね、家に一人なんだろ? 大丈夫か」
テンは不安になった。ケイタは一人暮らしなのだと聞いていた。風邪の時、一人でいなくてはならない寂しさなら、テンも知っている。熱にうなされながら、父を呼び続けたことを思い出せる。
「そうですね、はい」
ケイタはさっきから似たようなセリフしか言わない。
「……大丈夫なような、そうでないような」
はっきりしないケイタを見て、テンは思った。
(うん、私が決めればいいんだ)
「あたし黒はねの家に行くよ。お世話してあげる」
「……はあ、えっと」
ケイタはこちらを見る。ぼんやりした表情。そこから少し驚いたような目をした。
「ええ? そんな、いいんですか」
「いいよ。決めたから」
テンがそう言うと、ケイタはもう、食い下がらなかった。
第6話 その3へ続く