第6話 籠鳥の空 その1
覚えていることはそれほど多くない。思い出せることも。
幼い頃、父に手を引かれて、公園に行った。テンと同じくらいの大きさの子どもが、きゃいきゃいと遊んでいるのを遠目に見て、テンはただ父と手を繋いで歩いていた。交わす言葉は少なかったけれど、テンは父と歩くのが好きだった。枯れ葉を踏みながら、並木道を行けば、ただそれだけでよかった。
父は珍しく、カメラを持ってきていた。通りかかった人に頼んで、テンと父とを写真に撮ってもらった。シャッターを切ってくれた人にお礼を言い、カメラを受け取った父は、それを大事そうにしまった。
覚えていることはそれほど多くない。思い出せることも。だけどテンは分かっていた。父が父であること、自分がこの父の子であることを。
その日、いつも一緒に昼食を食べるはずのケイタは、既に教室からいなくなっていた。大切な用があるのだ。テンはその用が大切だということを知っていた。だからその用のために、ケイタが席を外すのであれば、それは仕方ないと思っていた。
鞄の中から、父がいつも送ってよこす、ゼリー飲料を取り出す。それを持って、イスを引き、立った。教室を見回す。
他の生徒は各々気の合う仲間と、机をよせてお弁当を広げたり、カフェテリアに行こうと声を掛け合ってる。
クラスメイトたちの姿を見ながら、テンは、彼ら一人ひとりに、みな顔があって、みな違う人間なのだと、思った。以前は、彼らの顔が、よく見えなかった。なんだか誰も彼も同じ顔に見えて、目をこらしても違いが分からなかったのだ。
(今は分かる)
授業の板書をノートに写し終わった神楽坂が、席を立ち、黒板を消し始めた。テンはその後ろ姿を見ながら、あの作業が終わったら、彼は自分に声をかけるだろうかと、ぼんやり考えた。
結局、考えはまとまらず、テンは神楽坂が黒板を消し終わる前に、教室を出た。
校舎裏。日の当たるここには、芝生があって、テンはいつもそこで昼食をとっていた。
復学したばかりの頃、教室の中にいて、顔のよく分からない級友たちから、ああでもないこうでもないと話しかけられるのが、辛かった。親切でかけてくれた言葉だったと、今は思う。だけど、その時のテンは何を話しかけられているのか、ほとんど分からなかった。声もみな同じように聞こえたし、耳に入る音が反響して、頭痛がした。何者か分からない相手からの言葉を聞くと、テンも自分が何者か分からなくなった。
(それは、みんなが悪かったわけじゃないんだ)
つぶやいてみて、付け加える。テン自身が悪かったわけでもないのだ。ただ、どちらも悪くなくても、うまくいかないことはある。
(黒はねはよく、あたしを分かったよなあ)
思う。彼だけだった。クラスの中で、ケイタだけが、テンのことを、変だとか不思議だとか、そういう評価をしなかった。ケイタはただ、テンのあるがままを見て、そのまま受け取るだけだった。それでテンは、ケイタの前ではテンでいられた。
(黒はねも変だからだな)
そう思う。ケイタは変だ。変わっている。だけどケイタは、本人が変わっていても、「普通」の人達と仲良くできるのだ。
(だったら、あたしも、みんなと仲良くできるよね)
その方がいいと思った。そうなりたいと思った。そうなりたいと望み、そうであろうと決めたなら、それはきっと、出来るはずだ。
ゼリー飲料の残りを、勢いよく吸い込む。ペタンコになった容器を持って、テンは立ち上がった。授業が始まるまで教室にいよう。もしかしたら、神楽坂が話しかけてくれるかも知れない。他の誰かが、声をかけてくれるかも知れない。
夜、寮の玄関ホール。
寮には電話が二つある。一つは寮母の専用のもので、寮生が使うことは出来ない。寮生が使える電話は、玄関ホールにあるこの一台だけだ。
テンがホールに降りてきた時、電話の前の丸イスには先客が座っていた。高等部二年の菅原ハルコ。小説らしい文庫本を読みながら、そのイスにかけている。
テンは知っていた。ハルコは電話を待っているのだ。夜の間、いつかは分からないが、恋人から電話がある。自室で待っていても、電話を取った誰かが取り次いでくれるのだが、ハルコはその間ももどかしいのだろう、すぐに電話に出られるよう、いつも玄関ホールにいた。
テンの足音を聞いたのか、ハルコは文庫から顔を上げた。テンを見て、緩やかに微笑んだ。
「お電話かしら? どうぞ」
席を立って、テンに譲ってくれた。
「ありがとう、ごめんね」
「いいえ」
ハルコはホールを去った。テンが電話をかけている間は、ハルコは気を遣って席を外してくれるのだ。
ハルコが電話を待つ常連だとしたら、テンは電話をかける常連だった。だからテンはハルコと顔を合わせることが多かった。ハルコの物腰はいつも穏やかで、それとない心遣いに優しさを感じた。きっと彼女の恋人は幸福だろう、そう思うほどに。
以前、待っていないで、こちらから電話をかけてはどうかと言ったことがある。ハルコは微笑んで「待つ間も楽しいのよ」と言った。その後すぐに電話があって、受話器を持ったハルコは、他のどんなときに見るより、輝いて見えた。
テンは丸イスに腰掛けて、受話器を取り、実家の番号を押した。父への電話を毎日欠かさないことは、この寮に住むことになった時に、父が決めたことだった。
何度かのコール音の後、父が電話を取った。少し疲れたような声。残業だったのだろうか? テンは問われるままに、語った。今日、食べたもの、受けた授業、困っていることはないか――。そして、週末には戻ってくるようにと言われた。
テンはいつの週末にも必ず実家に帰宅している。毎日の電話と同じで、それを欠かしたことはない。けれど、父はいつも電話口で帰ってくるようにと言った。テンも毎回、帰ると返事した。
電話を切る。テンはそのままそこに座っていた。父は変わらない。そう思った。自分は変わっただろうか。
ぼんやりしていると、やがてハルコが戻って来た。テンはハルコに電話が済んだことを伝え、席を譲った。
自室に戻ろうとして、目についたものがあった。以前から玄関ホールに置いてあるものだが、それまで気にしたことはなかった。
空の鳥かご。
「なあ、ハルちゃん先輩」
鳥かごを指して、テンはハルコに振り向いた。
「これって、なんなんだ?」
聞くと、ハルコは開きかけた文庫から目を上げ、こちらを見た。
「……確か、以前いた寮生がそこで鳥を飼っていたんだって。その生徒が寮からいなくなって、鳥もいつの間にかいなくなってしまったって」
「それで、空なのか」
「うん、そうみたい」
ハルコはまた、本に視線を落とした。テンはしばらく鳥かごを眺め――、その場を去った。
鳥かごに鳥を飼えるのは、かごの中に鳥がいるからだ。もし鳥がいないのなら、そこにあるのはただのかごだ。
王者が王者であるのは、従者がいるからだ。もし従者がいないのなら、そこにいるのはただの人。
救世主が救世主であるのは、助けを求める人がいるからだ。もし誰も助けを求めないなら、そこにいるのは――。
(――じゃあ、親子は?)
問うてみた。答は自ずと返った。
親が親であるのは、子どもがいるからだ。子どもの存在が、親を親たらしめる。
(そっか、《あたし》がいなかったら、お父さんは《お父さん》じゃないんだ――)
自室の扉がノックされた。明日の授業の教科書を鞄に詰めていたテンは、はてと顔を上げた。
戸を開ける。見知った人物だった。
「水色先輩」
「こんばんは、テンちゃん」
ミトは微笑んで、後ろ手に持っていた菓子の袋を、テンの前に掲げて見せた。
「おやつ持ってきたんですけど、お邪魔してもいいですか?」
テンは頷いて、ミトを中に入れた。
部屋の隅に追いやられていた折りたたみ式の小机を引っ張り出す。それを広げて、向かい合った。ミトは菓子の袋を割いて広げた。
「どうぞ」
テンの方へ差し出す。テンは礼を言って手をつけた。一心不乱に食べる。ミトはテンの様子を見て満足げな顔だった。時々、テンが手を止めている間に、ミトも菓子をつまんだ。
「先輩は、仲直り出来たのか」
前触れもなく、聞いてみても、ミトは驚かなかった。元々その話をしに来たのだろう。
「ええ。まあ、なんとか――」
言葉は曖昧だったけれど、ミトの表情は明るかった。
「私、もしかしたら、この寮を出るかも知れません」
「一緒に暮らすの?」
聞く。一度は失い、取り戻したという、その人と。
「そうですね……まだ分かりませんけど。もしうまくいかなかったら、またここに帰ってきます。だから一度くらい、試してもいいですよね」
「そうだな」
家族が、一緒に暮らして、いつもうまくいくとは限らない。それでも、家族なら、一緒に暮らしていいはずだ。
「ケイタ君のおかげなんです。あの子は強いですね」
ミトは言った。テンもその評には同意しようと思った。単に、腕っ節というだけなら、ケイタはミトに敵わないし、テンにも及ばないだろう。ケイタの持つ強さは、そういったたぐいのものではなかった。
(折れない、こころ)
どんな目にあっても、誰かを助けるのだと、堅く信じ、そのために走り続けるような、強さ。
(信じることが出来れば――)
そう、テンやミトが、ケイタを信じることが出来れば、ケイタは誰よりも強く、何ものにも妨げられず、望みを叶えるのだ。
「私、テンちゃんにも、お礼を言います」
ミトの言葉に、テンは顔を上げた。ミトは優しい顔をしていた。
「テンちゃんがいなかったら、挫けてたと思うから」
「そう?」
自分がミトに何か出来ただろうか。テンはミトが失ったものを取り戻すなら、それがいいと思った。そう思うくらいしかテンには出来なかった。でもそれがミトのためになったのだろうか。
「……じゃあ、それなら、よかった」
「はい、ありがとう、テンちゃん」
ミトの顔を見て、テンは胸が熱いような気がした。不思議だった。
テンはミトが好きだった。一緒にいると楽しかったし、宿題を教えてくれるし、時々はお菓子をくれた。ミトはテンに親切だった。寮にいる他の誰よりも、気が合うと思った。だけど自分がミトのために何か出来るなんて思ってなかった。ミトのことを好きでも、ケイタのようにミトに寄り添えるとは思わなかった。
(でも、なれるんだ。私も、なれるんだ)
優しくしたり仲良くしたり、大切な人に何か返せる人間に――。
(――ううん、なったんだ)
「水色先輩」
呼ぶ。その名は、テンがミトのために用意したものだった。ミトが「ミト」だったり「ミオ」だったりすることに、テンはつきあえなかった。だからせめて違う名前で呼ぶことで、ケイタとミトを邪魔しないようにしようと思った。
でも今は、それよりも、もっと違う意味で、その名を呼べる気がした。
「あたしと先輩は友達だね」
それは今までのテンには言えなかった言葉だ。ミトは少し不思議そうな顔をしたけれど、すぐにまた優しい表情を見せてくれた。
「そうですね、私とテンちゃんは、友達です」
ミトが微笑んで、テンはそれが嬉しかった。
一昨日、寮の前で立ちながら、ケイタに問われ、言えなかった言葉。どうしてミトのためにテンがここまでするのか、そう問われて、友達だからだと言えなかった。でも、これからは――。
(私と先輩は友達だ。大切にしよう――)
自分でそう、決められる。決めたのなら、そのために努力できる。そして、努力するなら――、それは、叶う。
「先輩、あたし、まだやらなきゃいけないことがあるんだ」
言った。以前、同じことをケイタに告げたとき、ミトもその場にいた。その時のことを、ミトも思い出したらしい。真面目な表情を見せた。
「まだ少し怖いけど……でも、きっとやるよ」
テンは告げた。うまくいくかは分からない。でも、試してもいいはずだ。
第6話 その2へつづく