第5話 ふたりの約束 その5
防具を着けないで竹刀で殴り合うのはやめましょう。
ミトは語った。ずっと大好きで、護ってきた弟のミオのことを。長くなると断っても、ケイタは躊躇しなかった。その姿に、ミトは覚悟を決めて、言葉を紡いだ。
「ミオは身体が小さく弱い子でした。だから私は、幼い頃からミオを護ると決めていたんです。私は一生懸命でした。ミオが危ない目に遭わないように、先回りしたり、少しでもミオにあたる子はすぐに懲らしめました。今は、それがミオにとって、お節介で重荷だっただろうと、思います。でも幼い私は、ミオを護ろうと必死でした」
「四年生の頃かな……、ミオが女の子と一緒に帰るのを見たんです。赦せないと思いました。ミオは私だけのもので、私がミオを護ってるのに、他の女の子が勝手に手を出すなんて、赦せないと思いました。だからその子を呼び出して、殴りました。でもそれだけじゃ不充分だと思ったんです。これからも、ミオが他の女の子から声をかけられないようにするにはどうしたらいいか考えました。ミオの髪が長かったら、女の子みたいに見えて、それがいいんじゃないかと思いました。だから、一緒に同じだけ髪を伸ばそうって約束したんです」
「六年生になって、別のクラスになりました。すぐミオは、女の子みたいだっていじめられるようになった。私がいじめっ子を懲らしめてやろうとしたら、ミオに泣いて止められたんです。せっかく出来た友達だから、殴らないで欲しいって。腹が立ちました。ミオは私と一緒にいるより、いじめっ子たちと一緒にいるのを選んだんです」
「その日、帰り道を、一人で歩くミオを見つけました。何かおかしいのがすぐに分かりました。髪が短かったんです。聞いたら、放課後、教室で切ったと。こんな長い髪は、女の子みたいで、ずっと嫌だったって言ったんです。ミトのせいで、嫌なことばかり起こるって言ったんです」
「私はミオに手を上げました。私は確かに、ミオを護ろうとして、ミオを縛っていたかも知れないけれど、それでも私は一生懸命でした。ミオが大好きだったんです。なのにミオは私との約束を破った。私を嫌だと言った。私に殴られて、ミオは怒りました。泣きわめいて、私を突き飛ばすと、道路に飛び出したんです」
交通事故。ミトは飛び起きて、ミオの腕を掴むと、歩道の方へ思いっきりひっぱった。反対に、ミトの身体は道路へ投げ出された。トラックはすんでの所でブレーキを踏み、ハンドルを切って止まった。しかし荷台の木材はミトの上へと放り出されたのだ。
「その時、なんだかすごく寒かったのを覚えています。血を流しすぎたからかも知れません。私は、ミオが助けてくれると思っていました。早く身体の上に載ってるものを、どかして欲しかった。でも」
「でもミオは、下敷きになっている私を見て、そのまま行ってしまったんです」
あのとき、空を舞った雫は、ミオの涙だった。簡単で鋭い、拒絶の言葉。
要らない、ミトなんか要らない――!
――ねぇミオ、行かないで、ひとりにしないで、助けて……。
「ミオは私がどんなに呼んでも、戻って来てくれませんでした」
「それからしばらく入院していましたが、ミオは一度もお見舞いに来てくれませんでした。私は、ミオが来てくれたなら、それで赦そうと思っていました。なんでもいいから、ミオに会いたかったんです。でもミオは来てくれなかった」
「そして、そのまま、ミオは父の単身赴任先の中学校へ進学を決めてしまったんです。母は退院したら、ミトも一緒に行こうと言いましたが、私にはそうすることは出来ませんでした。ミオに、捨てられたと思いました。あんなに大好きで、大事にしてきたのに、裏切られたと思いました。もう、二度と、会いたくないと思いました」
退院した日、家の中で見つけた黒いリボン。制服のブラウスに結べば、それは喪章に見えた。ミオは死んだのだ。優しくてかわいいミトだけのミオは、あの交通事故で死んだのだ。そう思った。
「結局、私はこの学園の中等部に進学しました。入院が長引いて、その所為で学年は一つ下になってしまいましたけど。――その後のことは、まあケイタ君もだいたい想像がつくと思います」
話し終えて、ミトはケイタが呆れるのではないかと、恐れた。でも、ケイタはミトの瞳をまっすぐ見据えて、言った。
「先輩、ありがとう。よく話して下さいました」
辛かったでしょうと言うケイタに、ミトはまた涙が出るかと思った。
辛かった。確かに自分はミオに対して、いい姉ではなかったと思う。ミオにはひどいことをたくさんしたと思う。だけどそれでも、ずっと、辛かった。ミオに捨てられて、裏切られて、辛かった。
小指を絡めて、約束した。完成された約束。決して違うことはない。ケイタはミトに、必ず助けると。そのためにはどんなこともすると。ミトはケイタに、必ず助かると。そのためにはどんなこともすると。約束した。
ケイタは思った。水面に映る光の道は、人の身では至れない。けれど。
(先輩が望んでくれたなら、僕はその道を行ける――!)
胸の内の光の道は、きらきらと輝き、ケイタの歩は止まらなかった。
ミトが本当に助かるとはどういうことだろう。それはとても複雑なことだ。簡単にはできない。でも。
(とりあえず、ミオさんに会う)
二人の仲を取り持つことが出来れば、少なくとも、それは今よりよくなるはずだ。
ミトの書いてくれたメモを頼りに、ケイタはたどり着いた。それはミトとミオが以前住んでいたという家だ。ミトは中等部から寮に入り、その家には住んでいなかったが、今は戻って来たミオが住まっているのだという。
呼び鈴を押す。ミオの誰何の声に、ケイタは答えた。しばらくして、戸が開いてミオが現れた。
「この家、しばらく使ってなかったので、ホコリっぽいですけど、ごめんなさいね」
客間に通されて、待っていると、お茶を持ったミオがやってきた。お茶のカップを手渡される。ケイタは礼を言った。
「ケイタ君、今日はどうして? もう少しお話ししてくれるんですか」
ミオは少しおどけて見せた。ケイタはミオを見つめて言った。
「さっき、ミト先輩に会いました」
「……そう。ミトはどうしてました? 落ち込んでいましたか」
「落ち込んでましたよ」
ケイタが言うと、ミオはため息をついた。
「私がこの学校に戻ったら、ミトはきっと嫌がるだろうとは、思ってましたよ。ケイタ君はさっき、なんで私が戻って来たか、聞きましたね」
ケイタが頷くと、ミオは悲しそうな目をした。
「ミトに、復讐してやろうと思ったんです。こっちにいる友達から、ミトが『ミオ』と名乗っていることが度々あると聞かされました。それで、ミトのお芝居を知ったんです。腹が立ちました。本物のミオは――私は、ここにいるのに、自分で勝手に『ミオ』を創り出すなんて、そんなの、非道いじゃないですか。もし私が戻ってきたら、ミトはもうそのお芝居で心をなぐさめることは出来なくなる。私がいるだけで、ミトはいい気分はしないでしょう。だったら、わざとそうしてやろうと」
ミオは自分の分のカップを、ぎゅっと握った。
「でも、いざそうしてみたら、なんだかばからしくて」
笑って見せる。先ほどさんざん見た、ミトの笑みのように、力ない。
「ミトが落ち込んで、どこかに隠れてしまうなんて、思ってませんでした。きっと怒って私をやっつけに来るって思っていました。だって、その方が、ミトらしいでしょ?」
そうかも知れないと、思った。もし「ミト」だったら、そうだったかも知れない。でもミトは、きっとミオが思うより、ずっとミオのことで傷ついていたのだ。
「ミトが私を殴りに来たら、私もミトを殴ってやろうと思ってました。その先のことは考えてなかったけど……」
急に、ミオは喉をつまらせた。目が潤んでいる。
「……でも、もしかしたら……仲良く、出来るんじゃないかって、思ったんです。バカ、ですよね。そんな夢みたいなこと、あるわけないのに」
ケイタはかぶりを振った。夢じゃない。お互いに望むなら、その間にどんな決裂があったって、どんなに時を隔てたって、その関係は取り戻せる。一度にうまくいかないとしても、いつかは。
だって、生きているのだ。ミトも、ミオも、生きているのだ。死んだ人間との関係は取り戻せない。だけど、生きていれば、お互いに生きているのなら、それは、取り戻せるのだ。
「ミオさん、あなたが望んでくれるなら――僕は、その夢を叶えられます」
ケイタは言った。ミオは不思議そうな顔でケイタを見たけれど、ケイタの気持ちを受け取ったのか、深く頷いた。
次の日の放課後、ケイタはミトと旧体育館にいた。
ミトは何となく落ち着かない様子で、体育館の中をウロウロとしていた。
「本当に来るでしょうか、ミオ……でも来たら、なんて言えば」
先ほどから、同じことをくり返しては、ため息をついている。ケイタは静かな気持ちで、ミトを見つめていた。
今日のミトは男子の制服だった。いつもの真っ黒なタイはなかったが、着こなしはきちんとしている。「ミト」の格好なのに、どことなく立ち居振る舞いに「ミオ」のような女の子らしさが見えて、ケイタはそれがなんだかかわいいように思えた。
高等部三年生の授業が終わるのは、もう少し先だ。それはミトも分かっているのだが、どうにも落ち着かないらしい。
ケイタは思い出して、鞄の中からあめ玉をとり出した。昨日テンに託されたものだったが、ミトに渡すのを忘れていた。間を持たすのにちょうどいいかと思い、ケイタはミトにそれを手渡した。
「テンちゃんが私に?」
「はい」
「そうですか……」
ミトはしみじみと嬉しそうだった。
「昨日も、寮に戻ったら、テンちゃんが待っていてくれました。あの子は、なんにも聞かないし、なんにも言わないけど、みんな分かっているみたいですね」
ミトは包みを開き、あめ玉を口に入れた。やっと少し落ち着いたように見えた。
やがてミオは現れた。薄暗い旧体育館の中で、透き通るような菫色の瞳。ケイタと同じに、舞台に腰掛けていたミトが、ミオをその目にとめて、びくんとするのが分かった。
ケイタは立ち上がり、ミオのそばまで歩いて行った。
「ミオさん、こんにちは。よく来て下さいました」
「こんにちは、ケイタ君」
ミオはこちらにほほえみかけて、そして奥のミトの方へ視線を向けた。
「ミトも、こんにちは」
「……こんにちは」
ミトはぎこちなく挨拶をした。
「ミト、私、我慢ならないことがあるんです」
ミオは言った。その様子には、以前のような芝居がかった嫌味な感じはなかったけれど、鋭さはあった。
「奇遇、ですね。私も、我慢ならないことがありますよ、ミオ」
ミトはそっと、舞台から降りると、傍らに置いてあった竹刀を、とった。二本。
「きっと、お互い様だと思うんです」
「――そう、ですね」
「でもやっぱり、このまま水に流すのは、まだシャクだって思うんです」
ミトはミオの言葉に頷いた。こちらへ歩いてきて、持っていた竹刀の内、一つをミオに手渡した。
「これでは、ハンデがありすぎるかな」
ミトが言う。するとミオは笑い飛ばした。
「バカにしないでよ。もうあの頃とは違います」
ミオは慣れた手つきで竹刀を握り、構えた。その様子を見て、ミトが感心したように息を吐く。大丈夫そうだ。
「やっぱり、こういう方が、ミトらしいです」
ミオは笑った。笑顔だった。
「そうですね。そうかも知れません」
ミトも少しだけ、笑顔を見せた。視線を鋭くして、言う。
「決闘です、ミオ。私が勝ったら、して欲しいことがあります」
「いいですよ、ミト。その代わり、私が勝ったら、なんでも一つ言うことを聞いて下さい」
両者は合意し、決闘は始まった。
体育館に響く、竹刀の音。その爆裂に、身体を震わせながら、ケイタは二人の姿を見た。おしつおされつの激戦、もはやこれまでと思っては、更に巻き返す、互角の戦い。
見るのも恐ろしいはずの決戦、ケイタの身体は静かに震えていた。それなのに、ケイタは笑っていた。
きょうだい。共に生まれ、共に育った、双子の姉弟。想う故に、すれ違い、恨み、離ればなれになった。
だけどやり直せるのだ。きっと、やり直せる。この戦いが終わったのなら、きっと――。
いつしかケイタの笑い声は、戦う二人にも共有され、やがて戦いは決した。
「万里谷さん、またあなたなの? もうケンカはやめなさいって何度言ったら……」
「だからケンカじゃないですよ、先生。決闘です。生徒会の許可だってちゃんとありますし」
「また生意気言って」
「まあまあ、先生。今回は大目に見て下さいよ」
「ちょっと、万里谷君? あなたは今回は怪我しなかったからいいような顔してますけどね。昨日肘を打ったのに、安静にしてないってどういうことなの!」
「いえ、その、これには深いわけが……」
「そんなの知りません! いいですか、次にこんなことがあったら――」
「――先生。もうしません」
「え?」
「もう、決闘はしません。これで最後です」
「あら、まあ……」
養護教諭はミトの言葉に、嬉しそうな、どこか寂しいような表情を見せた。
「そう、やっと大人になれたのね、万里谷さん」
保健室の前で待っていたケイタは、扉が開いてミトとミオが出てくるのを見た。二人の肩越しに見えた養護教諭が、なんとなく晴れ晴れとした顔をしているのが、ちょっとだけ見えた。
「ケイタ君、お待たせしました」
「いえ、先輩、怪我はどうでした?」
「大したことはありませんよ」
ミトはニッコリ笑ってみせた。
「当たり前ですよ。手加減してあげたんです」
隣で、ミオが唇をとがらせながら、言う。
「ハッ、本当に手加減したのはどっちでしょうね?」
負けじと、ミトも言う。しばし半眼でにらみ合う。ケイタには二人の視線が衝突して、火花が見えた気がした。
「――まあ、その、なんにせよ、決着はついたんですから」
ケイタが言うと、二人はこっちを見た。そして順繰りに言う。
「そうだ、私、ケイタ君に言わなきゃならないことがあったんです」
「奇遇ですね。私もですよ」
なんだろうと、ケイタが思っていると、二人は顔を見合わせ、笑いあい、そしてケイタの方を向いて、声をそろえた。
「ありがとうっ!」
夕焼けの頃、水没した旧市街。
夕日に向かって延びる光の道。人の身では至れない道。
ケイタは歩いていた。水を含んで重くなる制服が、足にまとわりつく。ずぶずぶと、腰のあたりまで水に浸かりながら、それでもまだ、前へ前へと進んでいく。肩で息をしながら、それでも口元は微笑むことをやめなかった。目の前の夕日が、見つめ続けられないほどにまぶしくて、目を閉じると涙がこぼれた。
叫びたかった、呟きでも構わない。なんでもいい、告げたかった。その先にいるかも知れない何かに向かって、告げたかった。
自分は、誰かを救える。望まれたのなら、出来る。過去は取り戻せなくても、今は望む人を救える。その人がその人であるという理由だけで……。きれいな、きれいなこころ。そうだ、これが。
「これが――」
息を吸う。潮気を含んだ空気に、むせて、それでもまだ言いたかった。
「これが、僕だ」
The Perfect Promise
第6話へつづく