第5話 ふたりの約束 その4
夢を見ていた。
暗い中から、外を見ていた。外には人がいて、こちらを見ていた。覚えている、優しい顔。好きだと思った。
――護るから……。どんな痛みからも、どんな寂しさからも……。
歌うような響きに耳を浸した。その言葉を信じた。これから生まれ出るこの世界が、優しい世界であることを疑わなかった。
――悪いのはお前だ。
手の内で、血がぬめった。熱い、熱い血。首のあたりから、流れてくる。ぬぐっても、ぬぐっても、止まらない。
――悪いのは、全部お前だ。
そうだ、そう――悪いのは自分。分かってる分かってるよ。血が止まらない。息が出来ない、苦しい、苦しいよ……。
飛び起きる。酸素を求めて必死に呼吸した。背中はじっとりと濡れている。急激な寒さを覚えた。自分の身体に腕を巻き付け、震える。悪夢だった。
涙が出る。過去は取り戻せない。死んだ人間は、生きている人間を赦してなんかくれないのだ。死んでいった、あの人は、永遠に、自分を、赦してはくれないのだ。
恐る恐る、視線を巡らす。寝室の壁に立てかけられた鏡。薄暗い中に、目をこらした。首のあたりに、手をやって確かめる。濡れているのは、汗だ。鏡を見ても、血は出ていない。深く息を吐いた。
もう何年もたっている。傷跡は残らなかった。そのように治療された。だから、傷が見えないように隠す必要も、血が出ないように覆う必要も、ない。けれど。
ケイタは布団から這い出すと、通学鞄の上に置かれたマフラーを手に取った。手早く首に巻き付ける。先の方を両手に持って、その柔らかさに顔を埋めた。
きれいなこころになりたかった。過去を帳消しに出来るくらい、きれいなこころになりたかった。誰かを救うためにその身を犠牲にするような、きれいなこころの持ち主になりたかった。
溜まった涙がぽたぽたと落ちた。全部出してしまえれば、また今日も、いつもみたいに戻れるはずだ。
朝、教室。
「水色先輩、昨日帰ってこなかった」
テンに告げられて、ケイタは愕然とした。
「……本当ですか?」
「あたし昨日、先輩の部屋で寝たんだ。先輩が戻ったらすぐ分かるように。でも先輩は来なかったよ。聞いてみたけど、寮母さんも他のみんなも見てないって」
「そんな……」
「先輩は前も帰ってこないことが何度かあったから、寮母さんもそんなに心配してないんだ。後でだいたい、外泊許可証が出るんだって。生徒会の。だから今度もそうかもって言ってた」
生徒会の外泊許可証。会長の判のあるその紙があれば、無断外泊について学園側からの処罰はなくなる。今までも会長がミトを庇って用意してきたのだろう。
ミトはまた会長から許可証を受け取るだろうか? そうならば、少なくとも、会長と一緒にいれば、ミトに会える?
始業のチャイムが鳴り、ケイタは席に戻った。
(すぐに会えると思ってた)
ミトに会うのは簡単だと思ったのだ。その簡単なことさえ省いてしまったら、自分はミトに会う資格がないような気がした。だからセイジに頼むことはしなかった。でも、ここまでミトに会えないとなると――。
(でも先輩はもう、学園にいない可能性だってある)
セイジが見つけられるのは、学園の中の生徒証を携帯している生徒だけだ。
昨日は、いた。朝は寮を出て、放課後は弓野クオのところを訪れている。少なくとも放課後のその瞬間は、この学園にいたのだ。
学園の中にさえいれば、セイジに頼むことで、ミトの居場所は分かる。
(もう、そうするしかないのかも知れない……)
昼休み。今日もミトを捜しに行きたいと言ったケイタを、テンは許してくれた。お昼は一人で食べると言うテンの姿を見て、もしミトに会うことが出来たら――その次は、テンにとびきり美味しいお弁当を用意しようと誓った。
ミトは教室にはいなかった。授業にも出ていないらしい。会長には会えるかと思ったが、会長は既に教室を出たとクラスメイトから聞かされた。
会長が教室にいないのなら、生徒会室にいるはずだ。セイジにミトの居場所を聞くためにも、生徒会室に行くしかない。
しかし、生徒会室の扉は閉まっていた。明かりもついていない。ノックをしても、呼びかけても返事はない。無人のようだ。昼休みに生徒会室が開いていないことは、たまにある。今日はその日なのだろう。
ケイタは困ってしまった。会長はどこへ行ったのだろう? 生徒会室にいないとしたら、ミトの居場所が分かって、そこへ行ったのだろうか? だとしたら、自分はどうすれば――。
セイジに直接、ミトの居場所を聞くか? ……そう思ってみて、ケイタはまたショックを受けた。ケイタはセイジのクラスが何組か知らなかった。それどころか、セイジの名字すら知らない。ただいつも、会長が「セイジ」と呼ぶので、ケイタもそれが彼の名だと知っていただけだ。
(本当に、僕は――!)
自分が情けなくなって、ケイタは歯がみした。
セイジが高等部一年なのは、確かだ。彼の襟章を思い出して、心中で確かだとくり返す。例えクラスが分からなくても、フルネームを知らないとしても、高一の教室をくまなく探せば、彼を見つけられるかも知れない。
そして――、どうにかして、事情を話して、ミトの居場所を教えてもらおう。セイジが会長の言葉しか聞かないのは、ケイタもよく知っていた。悪意からではないだろうが、セイジは度々ケイタを無視していた。それでも、セイジに直接頼むしかないのならば、ケイタはそれを出来ると思った。
(だって、そうでなきゃ、そうでなきゃ――)
ケイタは走り出した。
階段を駆け上ろうとして、踊り場で人にぶつかった。あまりに勢いよかったので、相手は尻餅をついた。ケイタも壁に打ち付けられる。
「――ごめんなさいっ」
咄嗟に、言う。その相手を見て、ケイタはワッと悲鳴を上げた。
「痛ァ……、あ、あれ? あはは、ケイタ君ですね」
万里谷ミオだった。もういい加減、新しい制服が支給されたのではないかと思ったが、彼はまだ前校の黒い制服を着ていた。
「ホント、よく会いますね」
そう言って、立ち上がろうと手をついて、ミオは苦痛に顔をゆがめた。
「……大丈夫ですか?」
「あれ……ごめんなさい、ちょっと痛いです」
肘のあたりを撫でている。笑ってみせようとするのだが、それが出来ていない。本当に痛いのだろう。
ケイタは手を差し出した。
「保健室に、行きましょう」
「……いいんですか? 急いでいたみたいでしたけど」
ケイタは眉をよせた。急いでいた。でも、仕方ないじゃないか。自分の所為で怪我してしまった彼を、置いていくことなんて出来なかった。
養護教諭の見立てでは、怪我はそれほどひどいものではないようだった。ミオの肘に湿布が貼られ、包帯が巻かれた。学校が終わったらちゃんと診察を受けるように、そして午後の体育は見学するようにと命じられた。
何故こんな怪我をしたのか、廊下は走ってはならないと、養護教諭に叱られた。ケイタは自分が悪かったのであって、ミオは叱られる筋合いはないと、そう抗議しようとした。しかしミオが笑って、「私が前を見ていなかったのが悪いんです」と言って、ケイタを庇った。ミオは養護教諭に大事なことなのだから、ニヤニヤしないで真剣な顔をなさいとまた叱られた。
「どうして庇ったんですか」
保健室の前で、ケイタは低い声で言った。
「別に、いいじゃないですか。些細なことです」
ミオはまた笑ってみせた。ぶつかった直後は痛みでままならなかった表情も、今はちゃんと作れている。
「でもそうですね、ケイタ君に恩を売りたいっていう、下心はありましたよ。君は、義理堅い性格に思えましたから、少しでも恩があれば近づけるかなってね。私は君とお話ししたいのに、君は私を避けているみたいでしたからね」
打算的なことを、けろりと言ってのける。ケイタは逆に、そのあけすけさで、彼を好意的に見られるような気がした。
「――分かりました。ミオ先輩。昼休みが終わるまで、少しお話ししましょうか」
ケイタがまっすぐ見つめると、彼は苦笑した。
保健室の近く、外廊下に長いすを見つけると、二人で並んで腰掛けた。
「ケイタ君は、どうしてあんなに急いでいたんです?」
聞かれる。どう答えたものかと思案したが、素直に言うことにした。
「ミト先輩を捜していたんです」
言うと、ミオはほうと、つぶやいた。
「偶然ですね。私もミトを捜していました。ミトのヤツ、授業に出ていないし、昨日なんか寮にも戻らなかったんですよ? ホント、不良ですよね」
ミオは唇をとがらせて、非難するような口ぶりになった。でもすぐ、ケイタに笑って見せる。
「ケイタ君は、ミトがどこにいるか知りませんか?」
「いいえ」
それが分かれば、こんな苦労はしないのに。どうもミオの知っているミトの消息は、ケイタの知るそれと大して変わらないようだった。何となく悔しい。
しばしの沈黙の後、ミオは思い切るように聞いた。
「……ケイタ君とミトって、恋人なんですか?」
ケイタは首を横に振る。うつむいた。恋人だったら、なんだというのだ。思う、他の誰と恋人になれたとしても、ミトとだけは恋人になれない。
(僕と先輩の関係は、ごっこ遊びだから。本物には、なれない)
ケイタが、望むならそうするかと問うた時、ミトは欲しいと言わなかった。ミトは分かっていたのだ。ケイタとの関係が、どういうものか、ちゃんと分かっていた。
うつむいたままのケイタに、ミオは焦ったらしい。
「ごめんなさい、今のはちょっと、不躾でしたね」
あははと笑う。見た。今日のミオは、そんなに意地悪な感じがしない。どこか疲れたような、陰った表情だった。
「あなたとミト先輩は、よく似ていますね」
ぽつんと、そう言うと、ミオは意外そうな顔をした。
「そうですか? 双子なのに似ていないって、よく言われるんですけど」
確かに、見た目はあまり似ていない。背格好も瞳の色も違う。淡い水色の髪色は同じだが、ミオの髪はふんわりと癖がついていて、ミトのサラサラした感じとは違っている。
「昔からそうでした。ミトは背が高くて、私は小さかった。ミトは強かったけれど、私は弱かった。双子なのに全然似ていませんでした」
ミオはため息をついた。初等部まではこの学園にいたというミオ。昔というのはその頃のことだろうか。ミトが――「ミオ」が、幼い頃はいつも手を握って登下校したと言っていたが……それが、事実だったのなら、どうして、二人は……。
「ミオ先輩は、どうして、この学園に戻ってきたんですか?」
聞いた。聞いてから、進学云々のことを、また言われるかも知れないと思った。しかし、ミオはそうは言わなかった。
「なんででしょうね――」
意地悪そうな微笑みを作ろうとして、なんだかそれが出来ていなかった。ケイタの目にはまた、彼の傷が見えていた。
放課後、今度こそミトを見つけようと、ケイタは誓った。生徒会室に行く、そして会長に頼んで、セイジにミトの居場所を調べてもらう。
テンがてとてとと、ケイタの机まで歩いてきた。
「黒はね、これ」
あめ玉を差し出される。
「水色先輩に会ったら、渡して。あたしまた、寮で待ってるよ」
それだけ言って、テンは教室を出て行ってしまった。
ケイタは机の上のあめ玉を見た。ふと視線を上げると、同じあめ玉の袋を、神楽坂が持っている。神楽坂はケイタに向かって、苦笑いを見せた。どうもこれは神楽坂がテンにあげたものらしい。ケイタはなんだか申し訳ない気がしたが、神楽坂は気にしていないようだった。少し残念そうではあったが。
あめ玉を鞄に入れ、ケイタも席を立った。
テンにとって、食べ物はこの上ない幸福だ。それを分け与えるというのだから、テンはミトのことを強く心配しているのだろう。
ケイタが生徒会室に行くと、会長もセイジもそこにいた。
「ミトね……、どこにいるか分かるわよ。昼休みに会ったから」
ため息混じりに、会長が言う。
「だけどケイタ君……アレは、最悪だったわよ」
会長は口の中が苦いような、そんな顔をする。
「どういうことですか?」
「うん、荒れてる。荒れてるだろうなとは思ったけどさ……」
また深くため息をつく。机の上で、頭を抱える、そんな動作。しかし視線だけ上げて、ケイタを見た。
「でも行くでしょ?」
「もちろんです」
ケイタは答えた。どんなことがあっても、行く。
「分かった。場所を教えるわ」
会長が教えてくれたのは、高等部の使われていない校舎にある部屋だった。第十七更衣室、ミトの特権区だという。ケイタはミトが特権生だったことに驚いた。でも確かに、「ミト」と「ミオ」を演じ分けるミトにとって、更衣室は必要でふさわしいものだと思った。
プレートを見上げ、その部屋だと確認した。ノックする。返事はない。
「先輩、僕です。ケイタです」
呼びかけた。開けてもらえないのなら、自分から戸を開いてもいいのだろうか。でも鍵がかかっているかも知れない。それより、更衣室を無断で開けるのは破廉恥じゃないか?
そんなことを考えるうちに、戸は開いた。
「ケイタ君……」
疲れたような表情のミトが覗いている。
「よく来ましたね。入りますか?」
薄く力ない笑い方が、いつもと全然違うので、ケイタは胸が絞められるような気がした。ミトは、明らかに疲弊している。
中に入れてもらって、一つしかないイスを勧められ、腰掛ける。部屋の中は、ものが少ないのに、なんだか散らかっているように見えた。小さなテーブルの上には、何か食べ物の包みがそのままになっている。ロッカーの戸が凹んでいるのは、ミトが殴ったからか?
「お茶とか、ないんですけど」
「いえ、いいんです」
ミトはフラフラと部屋の中を歩き回って、やがて奥の簡易ベッドの上に腰掛けた。
ミトの姿はめちゃくちゃだった。いつもきれいにまとまっている髪は、あっちこっちに癖がついていいるし、ワイシャツもシワだらけだ。その裾から、そのまま白い太ももが見えて……ちらりと見えたストライプ柄の布が下着だと気づいて、ケイタは慌てて目をそらした。
「何かご用ですか」
ミトがぼそぼそと言う。まるでらしくない。ケイタはなんだか腹の底がイライラするのを感じた。
「先輩に会いに来たんですよ。昨日もずっと、捜していたんです」
「そうですか」
興味がないような、冷たい声。ケイタは悲しくなった。
ミトはおかしい。いつものミトらしくない。「ミト」でもなく「ミオ」でもない。完全に演じる気がないようだ。ミトは疲弊しているのだ。「ミト」にも「ミオ」にもなれないくらい、生気を失っている。よく見れば、目は泣きはらしたように赤い。どんなにケイタが鈍くたって、ミトが辛い状況なのは、分かる。
(なのに、言ってくれない――!)
一昨日と同じ。別れ際に、何も言ってくれなかった。聞きたい言葉があったのに。
「あの後、ミオには会いましたか?」
「……会いました。今日の昼休み、少しお話ししました」
「そうですか。じゃあ、もう、いいですよね」
あまりにあっさりした響きに、ケイタは呆然とした。
もういいって、どういうことだ?
「ケイタ君。私はあなたを利用していたんですよ。あなたが優しいから」
こちらを向いて、ミトは言った。その瞳には何も映っていない。
「ケイタ君は、私の双子が死んだと思っていたでしょう? アレ、嘘なんです。本当は死んでなんかいないんです。気にくわなかったんですよ。ミオのことが。だからミオと離れて暮らすようになってから、自分の好きな『ミオ』を、自分で勝手に創りだしたんです」
ミトの浮かべる表情が、あまりに虚ろで、ケイタは背中が寒くなった。
「楽しかったなあ。みんな優しくて。双子のきょうだいが死んだからって臭わせれば、みんなよく乗ってくれました。でもバカな人も何人かいて、私のこと間違ってるなんて言うんです。バカですよね、そう思うなら近づかなければいいのに」
アハハと声を上げて笑う。
「あんまりしつこい人は、ボコしてやりました。三人はやったかなあ、みんな二度と私に近寄らなくなりました」
ケイタは耳をふさぎたくなった。違うのだ、そんな言葉を聞きたいんじゃない。
ミトは寝台から立ち上がると、またフラフラと歩いて、ケイタの方へよってきた。
「ケイタ君は、傷ついた人に同情して、その人を助けるのが趣味なんですよね?」
問われて、答えられない。
「ケイタ君は本当によくやってくれましたよ。完璧でした。私、すごく楽しかったです」
ミトは腰掛けているケイタの隣に膝を折って立った。ミトの手が、ふわりと伸ばされ、ケイタの肩に載る。
「でもね、残念でしたね。私は本当は、同情に値しない、卑劣な人間なんです。私はあなたを騙して利用していたんですよ……」
ミトの反対側の手が、ケイタのマフラーの先に触れた。手の内で、毛先をもてあそぶ。ケイタはぞっとした。――怖い。
「かわいそうに、ケイタ君。私みたいな人間に引っかかって……かわいそうに」
ミトの手が、すっと、ケイタの首に伸びる。
(――あ!)
涙が浮かんだ。なんで、こんな。
次の瞬間には、ケイタは両手でミトを突き飛ばしていた。ミトが床に倒れる音が聞こえる。ミトがマフラーの先をつかんだままで、ケイタの首が絞まった。
(嫌だ、死ぬ! 殺され――)
頭の中の思念に、取り込まれそうになって、ケイタは夢中でマフラーをといた。そしてそのまま走り出す。更衣室の扉にぶつかり、扉を開け、どちらとも知れず、廊下を走った。
手の中に残っているマフラーを握って、彼女は呆然とした。
打ち付けた背中は痛んだが、怪我はしていないようだ。すっくりと立って、彼の出て行った扉を閉める。そして。
「――っ! ぅく……ぁあ――!」
泣いた。声を上げて泣いた。その場に崩れ落ちる。
もうこれで終わりだろう。もうきっと、見捨てられた。
彼の弱点が首であると知りながら、そこに触れたのだ。彼女の言葉に耐えられても、過去の傷には耐えられなかったのだろう。これでいいんだ。優しくてきれいな彼に、もうこれ以上、何も望めない。望んではいけないんだ。
彼の残したマフラーを抱きしめた。隣を歩く時、少しだけ感じた彼の匂いが、ここにある。涙が落ちた。
(……ケイタ君)
心の内で、名前を呼んだ。こちらのどんな無茶も、最後には笑って受け入れてくれた。冷たい瞳でにらんだ時、震えながらも強くあろうとする彼は、きれいだった。おろおろする姿がかわいかった。なんでも一生懸命にして、本当にいい子だと思った。握った手のぬくもりも、触れた額の冷たさも、まだずっと覚えてる。護ると言ったのに、傷つけてしまった。
(でも、でも、これでいいんだ――)
言い聞かせるように、何度もつぶやいた。これでいい。何も選べない、前にも進めない、ただ怯えて隠れるだけの自分。テンのように前に進めないのなら、ケイタの隣になんていられないんだ。涙を流すことも、今だけだ。もう、これで終わりだ。
嗚咽の収まる頃、――唐突に。
更衣室の扉が開いた。ミトはビックリして、視線を上げる。
そこにいたのはミノリだった。
「バカね、本当にバカ」
ハンカチを目元に押しつけられて、涙を拭かれる。
「ミトはいっつもそう。手がかかるったらありゃしない」
「……ごめん」
涙を拭き終わると、ミノリはズボンでもスカートでもいいから何か下にはくようにと言った。仕方なく、床の上にほっぽり出されていた制服のスラックスを拾い上げ、足を通す。
「ケイタ君泣いてたわよ。なんで泣かしたのよ」
「……だって、かわいそうだと思ったから。これ以上私に振り回されるのは。ああすればもう私に近づかないでしょ」
ミノリは呆れたようにため息をついた。
「やっぱりあんたバカだわ」
「うん……知ってる」
「そうね、これから、身をもって知ることになると思うわ。あんたが見通しの悪い大馬鹿者だって」
そこまで言うからには、何かあるのか。ミトはミノリを見つめた。
「私を誰だと思っているの」
そう問うミノリに、少しだけ考えて、ミトは言った。
「生徒会長」
「そうよ。そして、あなたの親友でもあるわ」
「……うん」
「生徒会長が言ったことは絶対なのよ。そして、親友の友情も絶対なの。だから、私が、あなたのために、ケイタ君を用意したら――」
ミノリは大きな歩幅で、更衣室の入り口へ歩み寄った。
「――ケイタ君は、あなたを見捨てたりなんかしない!」
ガラッと、戸を開く。
そこに立っている人物は。
「……ミト先輩」
ケイタだった。小さくて弱い肩、前髪の隙間から見える白い額、何度もミトを見上げたあの瞳。そこにいるのはケイタだった。
ケイタは聞きたい言葉があった。ミトの口からどうしても聞きたい言葉があった。
「先輩」
言って、一歩近づく。ミトはひるむように一歩下がった。目を合わせてくれない。
「僕は、先輩がいい子だから、先輩を助けるんじゃありません」
強く、言い切る。ミトは少しだけこちらを伺うように視線をよこした。
「先輩が、素晴らしい人だから助けるんじゃありません。偉いから助けるんじゃありません。僕はただ、先輩が、ミト先輩がミト先輩だから、助けるんです」
そうだ、その人がその人であるという理由だけで、助ける。それが救世主。
「先輩がどんなに意地悪でも、自分勝手でも、僕はあなたを見捨てたりしない。どんなに言葉を重ねて、僕を遠ざけようとしても、無駄なんです。だって、知っているから。僕はあなたが本当に傷ついてるって知ってるんだから!」
初めて出会った時から、見えていた。ミトの傷。どんな事情で、どのように出来た傷であっても、それによってミトが苦しんでいるなら、ケイタにとってミトは救うべき人なのだ。
誰かを救いたい、本当に救いたい。そのためには、相手に、自分に救ってもらうことを望んでもらわなくてはならない。そして、ひとたび、望まれたなら――。
「先輩。僕は、欲しい言葉があります。先輩がその言葉をくれたなら、僕はなんだってやります。それさえあれば、どんなに辛い目にあっても、どんなにいたぶられても、どんなに惨めな気持ちになっても、僕は平気なんです。だから――」
ケイタは手を伸ばして、ミトの手を取った。
「僕にその言葉を下さい」
手を握る。強く。ミトの瞳は、潤んでいるようだった。
「いいんですか? ケイタ君――」
ミトは小さく、うめくように言った。
「何度も言わせないで、先輩」
ケイタは微笑んでみせた。ミトは涙を落として、言った。
「――助けて、助けて下さい。ケイタ君。私のことを、助けて下さい」
第5話 その5へつづく