第5話 ふたりの約束 その3
次の日、朝。
いつもより早く登校したケイタは、朝のホームルームが始まる前に、生徒会室へ向かった。
ケイタは何故、ミトが「ミト」と「ミオ」を演じるのか、問いただしたことはない。それは、ミトにとって重要で複雑なことだから、ミトが話したいなら、自然に話してくれるまで、待てばいいことだと思っていた。ミトが絶対に言いたくないと思うのなら、自分はそれを知らなくていいと思った。
そうだ、ミトについて何をするにも、ケイタはミトに望んでもらわなければ出来ない。ミトがケイタに話したいと思わなければ、ケイタはミトから本当の意味で、何かを聞くことなんて出来ないのだ。
(でも、でも、望まれたなら――)
廊下を歩きながら、胸が締め付けられた。望まれたなら、何でもするのに――、例えどんな理由でも、ミトがケイタに「二人」と友達であることを望むなら、ケイタはそれをするのに――!
(何も言ってくれなかった、何も……あんなに、辛そうだったのに)
別れ際の背中を思い出す。あんなに弱々しい彼女は、見たことがなかった。
唇を噛む。このまま無力でいることなんて、嫌だと思った。出来るはずだ。何かは分からないけれど――、何か。
ケイタは生徒会室の扉をノックした。
「失礼します――」
室内。奥の席に生徒会長、その手前にセイジ。
「あら、ケイタ君じゃない……おはよう」
そして――。
「ミオ君、彼はうちの生徒会の役員で――」
「知ってますよ、会長」
本心の見えない不気味な笑みで、会長の前に立っているのは、万里谷ミオだった。
「彼には、ミトがお世話になっているみたいなのでね。昨日ご挨拶したところです」
「……そう」
会長の表情は複雑だった。この状況に対して焦るような気持ちがあるのに、それを懸命に見せまいとしているように感じた。
「お仕事のことですよね。よそ者は退散します」
そう言い残して、ミオは去った。
廊下を行くミオの気配が充分遠のくと、会長は深くため息をついた。会長にしては珍しく、暗い表情だ。
「ケイタ君……今日は早いのね。テンちゃんのことかしら――それとも」
「何しに来たんですか、あの人」
ケイタは自分で吐いた言葉に、自分でビックリした。会長に対して、こんな不躾な言い方をするなんて。
「ミオ君のこと? ……なんでもないわ。私がミトと友人だから、挨拶したかったんだって。それだけよ、何もないわ」
会長の瞳には悲しみがあるようだった。ケイタは自分の物言いを後悔した。
どんなに気持ちが急いたとしても、彼女は生徒会長なのだ。この学園の王なのだ。自分がそのように扱わなくては、彼女はそうではいられないのに。それが分かっていながら……。
「ミトのことで来たのよね……? 用件を聞くわ」
問われて、自分の言おうとしていたことを、言おうとして。
(何を聞くつもりだったんだ……僕は)
あのミオのこと? 聞いて、聞いて何が出来る? どうするのが一番いい?
言葉を失ったケイタを見て、会長は言った。
「命令よ、ケイタ君。ミトについて何があったか報告しなさい」
ケイタは息を吸った。報告。そうだ、それならば出来る。例えミトから望まれなくたって、自分には勅令状があるのだ。だから、生徒会長に報告できる。
「……昨日、デートの帰りに、あの人に会いました。先輩は――、ミト先輩は、彼を見て、とても、ショックを受けたようでした」
「そう。それで……、ケイタ君はどう思ったの」
促され、続ける。
「混乱しました。僕は、先輩の双子のもう一人は、交通事故で亡くなったと思っていましたから」
死んでしまった双子のきょうだいを、忘れないため。ミトのごっこ遊びはそのためのものだと理解していた。肉親を喪う痛みなら、ケイタだって知っている。だからケイタはミトに同情していたのだ。かわいそうだと思った。
「彼は生きてるわ。生きてるどころか、交通事故では無傷だったそうよ。ミトが庇ったから」
「……会長は、知っていたんですか?」
ケイタの問いに、会長は頷いた。
「会ったのは、さっきが初めてだけどね。話は知っていたわ。ミトとは中等部の時からずっと一緒だもの。前に言ったでしょ、種明かしするかって」
ケイタは小さく歯がみした。自分がどうも察しの悪いところがあるのは自覚していたけれど――、でも、仕方ない。ミトについてミトの口から聞かされるのを待とうと決めたのは、自分だった。
でも、ミトのきょうだいが生きているとしたら、分からなくなる。ミトは「ミト」と「ミオ」が「二人」であることを忘れないために、灯火をともすのだと言った。本人が生きているのに、何故その灯火が必要なのか?
ミトの家の事情は知らないが、離れて暮らしていたとしても、姉弟なら、家族なら、連絡を取り合って、つながりを持ち続けることが出来るのではないか?
「会長。ミト先輩は、どうして? 弟さんは生きてるのに……」
会長はまたため息をついた。うつむく。机の上で組んだ両手に力が入ったようだった。
「ケイタ君。私は、死ぬよりも辛い別れがあると思う。それはね」
視線を向けられる。
「――裏切りよ」
ああ、と思う。裏切り。命をかけて庇った相手の裏切り。それはどれほどの傷になるだろう? ミトの傷の正体はそれなのか。彼女が彼を失ったとは、そういうことなのか――。
会長の瞳には、悲しみとも恐れともつかない、かげりがあった。親友のミトを慮る故か――。
(それだけじゃない。裏切りは、会長にとって、最も恐れることだから)
王者が王者でいられるのは、従う者がいるからだ。従者が王者を王であるように扱わなければ、王者は王ではいられない。だから王者は従者の裏切りを恐れている。
ケイタがミトに同情したように、ミノリはミトに同情していたのかも知れない。大切な相手に裏切られた、かわいそうな友を。
ほんの少しの間に、会長はその瞳からかげりを消し去った。いつもと同じ、射るような強い目線で、こちらをとらえる。
「北見ケイタ。ミオ君が転校してきて、状況が変わったかも知れない。でも、あなたのすべきことは、変わらないわ」
そうだ、勅令がある。王者たる生徒会長の、絶対の、命。
そして、なにより。
(僕には心がある――!)
ミトを救いたいと願う心。悲しみを分けて欲しいと思う、つまずいても、立ち上がって歩んで欲しいと思う。ミトが、ミトであるという理由だけで、自分はミトを助ける、そう思う、強い心がある。
大切なんだ。彼女が。手を握った、微笑んだ、額を撫でてくれた。護ると言ってくれた、ありがとうと、言って、くれた。大切なんだ。ミトはミトだというだけで、とても大切なんだ。だから、傷ついているのなら、救ってあげなきゃいけないんだ。
「出来ます。会長。僕なら、やるべきことを出来ます」
言った。会長は、頷いた。それでこそ特命使だと。そして――ミトを頼むと、つぶやいた。
教室に戻って、テンに頭を下げた。今日は朝、生徒会室に行くために、弁当を作る時間がとれなかったのだ。お弁当がないと告げて、テンはまたいつかのように怒るかと思ったのだが――。
「水色先輩のこと?」
言われて、驚いた。でもそうか、テンとミトとは寮で一緒なのだ。もしかしたら、ミトの様子を知っているのかも知れない。
「お昼は、一人で食べられるよ。黒はねは先輩のそばにいてあげたら」
テンはそれだけ言うと、一時間目の教科書とノートを取り出し机の上に配置し始めた。ケイタは小さく礼を言って、自席に戻る。チャイムが鳴った。
昼休み。高等部の教室を訪ねる。ミトの教室の位置は知ってはいたが、来るのは初めてだ。会長には生徒会室に行って会うことばかりだったし、ミトのことはわざと訪ねないようにしていたのだ。ケイタの前で「ミト」と「ミオ」を演じ分けている以上、ミトはケイタとなんの用意もなく会うのは避けたいだろうと予想していた。だからあえてこちらから訪ねることはしなかった。
慣れない高等部の雰囲気に、居心地の悪さを感じながらも、目的の場所へたどり着く。
と。目に入った――、この学園の中にあって、明らかに目立つ存在。セーラー襟の黒い制服。万里谷ミオが、ミトたちの教室から出てくるところだった。
彼はケイタを見つけると、ゆっくり近づいてきた。
「また会いましたね、北見ケイタ君」
ニッコリと笑う。冷たい目。ケイタは胸のあたりに嫌な感じを覚えた。
「どうして、あなたがここに?」
初めて出会った日、彼は自分は高三だと言った。ここは二年生の教室じゃないか。
「ミトのクラスメイトに、ご挨拶していたんですよ。本当は私もミトと同じクラスがよかったんですけどね。ほら、ミトって、留年してるから。授業中は私は一緒にいられないから、せめて同じクラスの人にはご挨拶しようと思って」
ミオはニコニコと語った。ケイタには何がそんなに楽しいのか分からない。だいぶ彼をにらみつけていたようだ。
「そんなに怖い顔しないで下さいよ。私、ケイタ君のこと結構気に入っているんです。仲良くしたいな。どうですか? もしよかったらお昼、一緒に」
カフェテリアのある方を、手で示す。その動作すら、いらだたしくて、ケイタは言った。
「結構です」
「そう、残念ですね。では、これで」
万里谷ミオは去った。
ケイタはその場で唇を噛む。
どうして、ミトの周りをうろつくのだ。ミトが彼を恐れているのは、昨日だけで充分に分かった。どうして、ミトを威嚇するようなことをするのか、どうして、彼女を傷つけるようなことを……。
涙が出そうになった。
「――ケイタ君」
知った声を聞く。顔を上げると、生徒会長だった。
「ミトは今日、授業に出ていないわ。朝のホームルームにも来なかった」
廊下のはし、人気の少ない場所で、会長は告げた。
「ミオ君は昼休みが始まってすぐ、私たちの教室に来た。自己紹介して、ミトが世話になってるからありがとう、よろしくって、みんなに言ってまわったの。私もまた言われた」
それだけだったのかと問うと、会長は、物騒なことは何もなかったと言った。
「でも、彼にとっては――そうね、彼とミトにとっては、それで充分なのよ」
「充分って、いうのは?」
会長は、さっと周りに目を配った。あまり他人に聞かれたくない内容なのだろう。声を潜める。
「ケイタ君に対するほどはっきりとではないけど、ミトはクラスメイトの数人に対しても、『ミト』と『ミオ』を演じ分けてた。優しくて察しのいい何人かにね。彼らはみんなあなたと同じように、ミオは既に死んだと思っていたのよ。彼らは、『ミト』と『ミオ』が本当は一人のミトだと知りながら、ミオを喪ったミトに同情して、ミトと話を合わせていたの。だけど、死んだはずのミオ君が生きて現れて、演じわけがミトの勝手なわがままだと知れてしまったら?」
そのクラスメイトたちは、どう思うだろうか? ケイタと同じか、それ以上にはもやもやした気分になるだろう。今まで同情していた相手が、本当は同情に値しないと思ったなら、怒りも生まれるかも知れない。どちらにせよ、ミトにとってクラスは居心地の悪い場所になる。
それが狙いなのか。万里谷ミオは、そうなると分かっていて、わざと、ミトの知人を訪ねてまわっているのか。
「ミオ君の真意ははっきりしないけど……でも、ミトを知る人を、自分の側に引き入れようとしている感じがするわ。ケイタ君も言われなかった? お昼ごはん一緒に食べようって」
言われた。頷く。
「私も言われたのよ。私やケイタ君が、ミオ君と一緒にいるところを、ミトが見たらどう思うでしょうね」
ケイタはうつむいた。そんなところを見たら、ミトはきっといい気はしないだろう。不安に駆られるかも知れない。ただでさえ、心細いだろうに。
「僕、ミト先輩に会いに来たんです」
ケイタは言った。彼女のそばに行きたかった。聞きたい言葉がある。
「セイジに調べてもらおうか? ミトの居場所。学園の敷地内なら、寮でもどこでもすぐ分かるわよ」
首を振る。
「自分で探してみます」
歩きたかった。彼女を求めて、どこまでも、歩きたかった。自分の足で歩いてたどり着いたなら、ミトはケイタをそばに置いてくれるだろうか。
昨日見たミトの背中。弱々しく震えるあの背中。求めてくれなかった、望んでくれなかった。ケイタに対して、何も。
(僕は、頼りないかも知れない――、無力かも知れない。でも)
何か出来るはずだ。そうでなきゃ――。
この学園の中から、彼女を見つけることくらい、出来るはずだ。
昼休みの終わるチャイムを聞いて、ケイタは打ちのめされた。
心当たりを探しても、結局ミトは見つからなかった。いや、ミトがいそうな心当たりなんて、自分はほとんど知らないのだと気付かされた。ミトとケイタが会う場所はいつも決まっていて、ケイタが待っていればミトがやってくるという形だった。だから、ケイタはミトが普段どこにいるのか、知らなかった。
(知ろうとも、しなかった)
悔しい。自分はミトのことを、何も知らない。
廊下ですれ違った教員に、早く教室へ向かうように注意された。授業中はミトを捜すことは出来なさそうだ。観念して、授業に出ることにした。
終業のチャイムを聞き、ケイタは急いで荷物をまとめた。テンがケイタの席までやってきた。
「水色先輩に会えたか?」
ケイタは首を振った。
「今日は模擬喫茶の日なので、これから行こうと思います」
「分かった。あたしは寮に帰るよ。先輩が寮に戻ってきたら、黒はねが会いたがってたって言うね」
ケイタはテンの顔を見た。テンの表情はいつもと特別何か違うというわけではない。でも、ケイタは涙が出る気がした。テンは優しいのだ。
「テンさん、ありがとう。お願いします」
ケイタは荷物を持って、模擬喫茶へ走った。
「万里谷先輩なら、さっき会ったよ」
模擬喫茶の店長、弓野クオはそう言った。
「授業が終わってすぐ、俺の教室に来て、今日は模擬喫茶を手伝えないからごめんって」
ケイタは絶句した。だとするともうミトは模擬喫茶に来ないということになる。また、会えない。
「……あの、先輩は、どんな様子でした?」
「うん……」
クオはうつむいた。何となく浮かない顔をする。
「ヘンだったよ……万里谷先輩って、制服いつもきちんとしてるだろ? 第一ボタンもちゃんとしめて、リボンもきっちりしめて」
クオは自分の襟元に手をやって見せる。記憶の中からミトの姿を引っ張り出してみて、ケイタも同意した。
「しゃべるのだって、はきはきしてるのに、今日はなんかヘンだった」
「そうですか」
それが何を示すのか、ケイタは分かると思った。
ミトが身なりに気を遣うのは、「ミト」と「ミオ」を演じ分けるためにそれが必要だからだ。しゃべり方だって、意識して「ミト」と「ミオ」で使い分けている。
(あの人が、現れたから)
ミオの出現により、ミトは「ミオ」になりきることを、封じられた。それは同時に「ミト」であることも出来なくなるということだ。ミトにとって、「ミト」と「ミオ」が「二人」であることは、とても大切なことだったはずだ。守らなくてはならない、大事なことだったはずだ。
(それが、出来なくなった――)
ミトの心中はどんなだろう? 心配になる。
「――あ、すいません、まだ準備中なんです」
クオが、声を上げた。ケイタはふり返る。模擬喫茶の入り口に立つ人物は――、万里谷ミオだ。
「いえ、ごめんなさい。模擬喫茶に来たわけではなくて、店長さんにご挨拶しようと思って。あれ」
ミオはこちらに近づいて、ケイタを見て微笑んだ。
「ホント、今日はよく会いますね、ケイタ君」
クスクス笑う。その笑い方が――、ミトとそっくりで、ケイタはぞっとした。本当に、本当に双子なのだ。双子なのに――。
「クオ先輩、ありがとうございました。僕はこれで」
「あ、うん――また」
ケイタはミオから逃げるように、その場を後にした。
女子寮の前。日が傾いて、風が少し冷たい。
「黒はね、風邪引くよ。これ」
寮から出てきたテンがケイタに、テンのものらしい上着を貸してくれた。
「ありがとう、テンさん」
ケイタは礼を言い、上着を羽織った。テンよりケイタの方が小柄なため、少し肩が余る。
「水色先輩、戻ってこないな」
「そうですね……」
模擬喫茶を後にして、再び学園中を探したのだが。ケイタはミトを見つけられなかった。仕方なく、こうして女子寮の前で張っている。いくらミトでも、寮には戻ってくるだろうと思ったのだ。ケイタが来る前はテンが一人で立っていた。
テンがどうしてこんなに協力的なのか、ケイタは少し不思議だった。以前、「ミオ」が、テンとは寮で仲良しなのだと言っていたことはあった。テンがミトを気に入っているらしいことは、ケイタも知れた。それでもミトのためにここまでするのはどうなのだろう。聞いてみたら、テンは言った。
「水色先輩、昨日、泣いてた。ごはんも食べなかった。だから部屋に行ったら、泣いてるのが聞こえたんだ。ノックしても、返事してくれなかったから、何も出来なかった。朝起きたら、もう先輩は出かけたって寮母さんが言ってた」
テンが答えたのはそれだけだった。どうしてテンがミトのためにこんなにするのか問うたのに、テンが言ったのは、ただミトの様子だけだった。
(テンさんにとってはそれだけで、こうするに値するって、ことなんだ)
きっと、テンにとっても、ミトは大切な相手なのだろう。
二人並んで、ミトを待つ。早く帰ってきて欲しいと、ケイタは心から願った。
門限の時間が来て、テンは寮母さんに寮に入るようにと言われ、ケイタも自宅に戻るようにと言い渡された。
「先輩が帰ってきたら、あたし言うよ。黒はねがずっと待ってたって」
ケイタはテンに任せて、その日は帰ることにした。
第5話 その4へつづく