第5話 ふたりの約束 その2
放課後、旧体育館。
いつものように、水面に映る夕日の道を見て、ケイタは満足だった。そろそろ帰ろうと、体育館を出る。
ふと見上げると、体育館の前に人影があった。ケイタは驚く。旧体育館は人気がなく、それ故ケイタのお気に入りの場所だった。時々、生徒会長がケイタに会うためにやってくることがあっても、他の生徒はほとんど訪れない。そんな場所に人がいるなんて……。
枯れ葉を踏むケイタの足音を聞いたのか、その人が振り向く。ケイタはその姿を見て、また驚いた。違う学校の制服を着ている。
他校生がこの学園に訪れることは、全くないわけではない。例えば、転入を考える生徒の下見だとか――。もしそうだとしたら、道に迷っているのかも知れない。ケイタは声をかけた。
「他校の方ですよね? 道に迷ったのですか?」
「いえ……えっと」
煮え切らない……というよりは、自分でもなんと説明したらよいか分からないのかも知れない。言葉を探して逡巡している。
ケイタは彼をじっと観察した。背はそんなに高くない。歳は、高校生くらいだろうか。透き通るような菫色の瞳。水色の髪はふんわりしていて、優しい顔立ちによくあっていた。見た目だけなら、女の子とも思えたかも知れない。でも声が低かったから、男の子なのだろう……。セーラー襟の黒い制服は、見たことがない。近くの学校ではなさそうだ。
「あの、今日から転校してきたんです。制服が違うのは、それで」
彼は柔らかく笑って見せた。
「道は分かります。初等部までは、この学園にいたので。久しぶりに戻ってきたから、懐かしくて、あちこち見て回っていたんです」
「そうだったんですか」
どうもケイタが声をかけたのは、全くのお節介だったらしい。それでも彼は迷惑そうな顔はしなかった。なんだか優しい人に思える。
「ここの体育館って、もう使ってないんですか?」
小首をかしげて、問うてくる彼に、ケイタは一瞬、止まってしまった。
(……なんだろう、これ)
既視感? そう思って彼の姿をもう一度よく見てみたのだが、何も感じるところは無かった。ただ女の子のような容姿の男子生徒……というだけで。
「……使って、なさそうですね」
ケイタが返答しないので、転校生は勝手に納得し、笑って間の悪さを誤魔化した。
再び何かを感じて、ケイタは混乱した。彼のことは知らない。今初めて会った。だけどなんだか知っているのだ。声でもなく、姿でもなく……。
必死に記憶を探ってみるが、確かなものは何も引っかからない。ただ何となく、もやもやとしたものがある。ケイタは無意識のうちに、マフラーの先に手をやっていた。毛先を手のひらに押しつける。
「私が初等生の時は、ここもまだ使っていたんですけど」
「……そうなんですか。僕が転校してきた時は、もう使っていませんでした」
違和感は残ったが、このまま黙っているわけにもいかないだろうと、ケイタは言葉を返した。そう、ケイタがこの学園に通うようになった時、学園から旧体育館の鍵を送られた。旧体育館はケイタの特権区だ。今はもうケイタだけのものだった。
「へえ、あなたも転校生だったんですね。今は中等生?」
「はい。僕がこの学園に来たのは、去年なので、先輩とはかち合ってないんじゃないでしょうか」
「先輩?」
きょとんと、彼は聞き返した。どうもその呼称が意外だったらしい。
「……年上に、見えたのですけど。同じ学校で、上の学年だったら、先輩って……」
「ええ。そうですね。私は高三ですから、確かに先輩ですね」
納得したらしく、彼はにこりとした。
高三と聞いて、はて、と思う。第二学期も折り返したこの時期に、高等部の三年生へ編入するのは、どういうことなのだろう。ケイタが疑問顔を向けると、彼も察したらしい。
「大学部に入るには、一般試験を受けるより内部進学の方が楽なんです。この学園は以前に在学経験があれば書類だけで編入できて……それで」
そんなことがあるのかと、ケイタは感心した。確かにこの学園は、黙っていても大学部までエスカレーター式に進学できる。
「まあ、でも」
彼は言った。突然、声の色が変わったようだった。ケイタは背筋に寒気を覚えた。
「ここへ戻ってきた理由は、それだけじゃないんですけどね」
ハッと、目をとめられる。今までの優しい雰囲気が、嘘のようだ。鋭い、氷のような――。何か恐ろしいものを見てしまった気がした。目をそらせばいいのに、それでも見ることをやめられない。
そうだ、彼には――傷がある。
心に傷を持つ転校生。気になった。もし望んでくれるのなら――。
(でも結局、名前も聞かなかった……)
生徒会長に頼んで、セイジに調べてもらえれば、きっとすぐに分かることだろう。けれど彼の情報が分かったとして、あまり接点のなさそうな上級生に近づくのは、難しそうだ。
(それに望んでくれなきゃ、どちらにしたって無理なんだ……)
ケイタ一人では誰も救えない。相手がケイタに救われようと思わない限りは、ケイタは何も出来ない。
目に映る全ての人を救えるわけなどないのだ。だとしたら、望んでくれる人を救うしかない。そして今、ケイタにそれを望んでくれるのは。
(テンさんと――そしてきっと、ミト先輩)
家に続く道を歩きながら、黄昏の空を見上げる。「ミオ」もどこかでこの空を見ているだろうか。
次の日の放課後。海浜公園。
たくさん並んでいる自動販売機の中から、彼女の好きそうなジュースに目星をつける。それを二つ購入し、両手に持って、ケイタは歩き出した。
自販機の横には、プラスチックの椅子とテーブルが乱雑に並べられている。日差しの強い頃、活躍するはずのパラソルは、今はくしゃりと閉じられていた。
「ミオ」はぐったりと、テーブルに伏していた。今日は待ち合わせの時から、なんとなく元気がないように感じた。身なりはいつも通りピシッとしている。律儀に第一ボタンまで留めたブラウスを、学校指定とは違う黒いリボンが飾っている。だけど今日は、いつもつけてる花のヘアピンが見えない……。
「ミオさん、はい」
机の上に、彼女の分のジュースを置く。彼女はまぶたを開き、伏したままケイタを見上げて、言った。
「ありがとう、ケイタさん」
身体を起こして、ジュースを手に取る。
「ミオさん、今日はお疲れですか?」
ケイタはミオの隣に、自分の椅子を引っ張ってきて、座る。ミオの顔を覗き込むと、ミオはニコリと笑って、答えた。
「ごめんなさいね、ケイタさん。せっかくのデートなのに」
「いえ」
「すごく具合が悪いというわけではないんですけど……曇りだとなんとなく気分が落ち込むでしょう?」
「そうですね……」
ケイタは彼女の言葉に同意して、海の方を――空を、見た。
「曇りだと、先輩の好きな夕日も見えないですしね」
ミオは夕空を見るのが好きだ。それはケイタも同じだった。デートは週に二度だけれど、別にどこへ行くわけでもない。二人で歩いて、空を眺めて、語りあい、笑いあえれば、それが楽しかった。ただなんでもない時間が楽しいというだけで、彼女が癒されるなら、ケイタはそれを続けようと思っていた。
「ケイタ君……」
名を呼ばれ、ケイタは彼女に振り向く。彼女が見せる微笑みは、穏やかで――いつも明るい「ミオ」が見せる表情と、少し違うような気がした。
「ケイタ君、いつもありがとう」
ゆるい風が、彼女の髪を揺らす。ケイタは彼女の視線を、受け止めて、何も言わなかった。なんと返せばいいのか、すぐに判断できない。だってこれは、「ミオ」の言葉じゃない。かといって「ミト」の言葉でもない。
(試されてる――?)
そう思って、少しだけ身体が硬くなった。だけれど、彼女の表情を見るに、緊張する必要はないように感じた。だって、その笑顔はあまりに穏やかで……。
(……信頼? だとしたら)
ケイタは胸が熱くなるのが分かった。
「いつも、ミオと一緒にいてくれて、ありがとう」
ああ、と胸の中で思う。やはりこの言葉は、「ミオ」の言葉ではないのだ。
「私は幸せです。ケイタ君がミオを見つけてくれたから。そして、友達になってくれたから」
救いたいと願った。心に傷を持つこの人を、救いたいと思った。そのためなら、なんだってやると。そして、彼女が幸せなら……ケイタが彼女を救えたのなら、それが、溜まらなく嬉しいのだ。
「ありがとう、ケイタ君……本当に、ありがとう」
心のなかに、彼女の言葉が入ってくる。この柔らかな響きを、ずっと覚えていようと思った。
彼女の住む寮は、学園の敷地の中にある。だからデートの終わりはいつも、学園の噴水広場だった。
「ケイタさん、今日は楽しかったです」
ニッコリ笑って「ミオ」が言う。もうすっかり元気で、いつもの「ミオ」だ。
手を振って別れる。いつものように。そう思った、のだけれど。
寮の方へ一歩踏み出した彼女が、そのまま歩みを止めてしまった。肩越しに、誰かいる。その人物と鉢合わせして、彼女は固まってしまったのだ。
「こんばんわ、ミト。久しぶり」
それは昨日のケイタが出会った転校生だった。セーラー襟の制服に身を包み、夕闇の中でも透き通る菫色の瞳。
「あなたは……」
ケイタが言うと、彼はこちらへと視線をよこした。少し驚いたような表情を見せ、やがて合点がいったというように、ふうんと息を吐いた。
「北見ケイタ君ですか?」
「そうです、けど……」
何故こちらの名前を? ケイタの胸を不穏なものが占める。胸騒ぎがした。
「へえ、君がそうだったんですね。ちょっと残念かな。ううん、でもきっと私たち仲良くできますよ」
彼は一人でそう言うと、彼女の方へと視線を戻した。
「ねえ、ミト?」
同意を求める。
しかし、彼女は固まったままだった。
「先輩?」
見上げる。彼女の顔は蒼白で、閉じられた唇は震えている。
「何も言えるわけないですよね、ミト。傷ついたフリをして、自分の都合のいい幻想に、この子を巻き込んでたんだもの」
彼は笑った。意地悪な――、まるで「ミト」みたいな笑い方。
「……なんで、ここにいるの」
震える声を絞り出すように彼女が言う。自分の中の怯えに、必死にあらがっているように見えた。
「ああ、転校してきたんですよ。昨日からこの学校に通っています。ミトには電話で言おうと思ったんだけど、言う前に、切られちゃったから」
彼はアハハと笑う。彼女はうめいた。
「……どうして今更」
「ミトはそう言いますけど、私がどうしたいかくらい分かって欲しいなァ」
両手を広げ、手のひらを上にするポーズ。震える彼女に対して、あまりに軽い彼の動作。
「ねぇ? だって、たった二人の姉弟だもんね」
(――あ)
言われて、初めて気付いた。昨日彼に抱いた、もやもやとした既視感の正体を。そっくりなのだ。しゃべり方、笑い方、まとう雰囲気も――、彼はミトとそっくりだった。
「ケイタ君。自己紹介が遅れてしまってごめんなさい。私の名前は万里谷ミオです。ミトの、双子の弟です」
底意の知れない微笑み。氷みたいな視線。同じ――ミトと同じ。
震える彼女の背中に、ケイタはどうしたらいいのか分からなかった。
転校生が去っても、彼女はその場に凍り付いたままだった。恐る恐る、その背中に、声をかける。
「先輩……」
今の彼女が、「ミト」と「ミオ」、どちらの顔をするのか分からなくて、名前を呼べない。
「……」
彼女は答えなかった。けれどうつむいていた顔を、空の方へ向けた。泣き出しそうな顔だった。でもその顔を、ケイタの方へは向けない。
小さく、唇が動いた気がした。けれど声は聞こえなかった。
しばらくして。
「……さよなら」
彼女がやっと紡いだ言葉は、別れの挨拶だった。そのまま寮の方へ行ってしまう。
ケイタは立ち尽くし、追うことも出来なかった。
第5話 その3へつづく