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Make-Believe  作者: 青川有子
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第5話 ふたりの約束 その1

 思い出すのはいつもの道中だった。やまない潮騒、夕日に長く伸びる影。繋いだ手は、幼くて……。護るから、必ず護るから。約束だった――そう思っていた。

 あのとき、空を舞った雫が、なんだったのか。簡単で鋭い、拒絶の言葉。要らない、要らない――!

 ねぇ、行かないで、ひとりにしないで、助けて……。


 薄暗い保健室で、ベッドに力なく横たわる少年。

「誰かを助けるために、自分がどうなろうと構わないというなら……」

 血の気の引いた顔。その額に触れながら、ミトは言った。

「護ります。私が、君を」

 そうだ、もし自分が止めることがなければ、彼はそのまま殴られていたのだから。相手の気が済むならば、自分は殴られても構わないと、本気で言うような彼だから。

「ケイタ君、私が君を護ります」

 約束。完成された約束。彼がその身を犠牲にして誰かを救うというのなら、その犠牲となるべき彼を護ろうと――。



 お昼休み、中等部の校舎裏。

 いつものようにお弁当を広げる。弁当箱のふたを開けてやると、テンは歓声を上げた。今日のお弁当はミートボールだ。ケイタは料理がそんなに得意ではなかったが、ミートボールだけはテンのお墨付きをもらっていた。

 ケイタはお弁当の袋から箸箱を出してテンに差し出す。テンはそれを受け取らずに、校舎の方を見て、声を上げた。

「水色先輩!」

 ケイタも振り返る。するとそこにはミトが購買のビニール袋を下げて立っていた。

「こんにちは。テンちゃん、ケイタ君」

「こんにちは!」

 テンは嬉しそうだった。この頃ミトはお昼に顔を出さないでいた。そのことをケイタ自身、寂しいと感じていて、たまには来て欲しいと頼んだのだが……。

 そこにいたのは「ミト」だった。男子の制服に身を包み、ビニール袋を持っていない方の手には竹刀が握られている。こちらに向かって微笑む様も、柔らかさの中にとげが含まれるような、そんな感じだ。いつも昼食に来ていたのは「ミオ」の方で……。

「ミト先輩……あ、えっと……お昼を?」

 ケイタはミトがどういうつもりで「ミト」として現れたのか分からず、しどろもどろになってしまう。するとミトはクックッと声を上げずに笑った。

「ミオじゃなくって残念でしたか? でもたまにはいいでしょう?」

 意地悪にほほえみかけてくる。ケイタはなんと答えればいいか分からなくて、曖昧な顔をするだけだった。

「水色先輩、今日はパンなんだな」

 テンが、ミトの持ってきた購買の袋をのぞき込んでいる。

「そうですよ。テンちゃんも食べますか?」

 ミトは座って、ハンカチを引いた上に、袋から出したパンの包みをテンに見えるように並べた。取り出されたパンの数は、ミトが一人で食べるには少し多いように見えた。きっとテンのために多めに買ってきたのだろう。テンはどれにしようかと思案していて、背中の羽がパタパタ動いている。

 テンはケイタと違って、「ミト」と「ミオ」を区別しない。テンはどんなときもミトのことを《水色先輩》と呼んで、どんなミトと会ったとしても連続した同じ人物としてあつかった。それでもテンはケイタと一緒にいるとき、ケイタがミトの演じ分けに協力していることについて、野暮なことは言わないのだ。

「先輩、あの……お弁当、食べますか」

 ケイタは自分の弁当箱をミトへ差し出した。今日のミートボールは自信作なのだ。

「そうですねえ……いただきたいのですけど、お箸がないんです」

 ミトが苦笑してみせる。ケイタはああ、そうだったとぼやいた。

「水色先輩、あたしがあーんしてやるよ」

 テンは選び終わったらしく、焼きそばパンにメロンパンにカレーパンを両手に抱えている。

「黒はねのミートボールおいしいんだよ」

 テンはパンを膝の上に確保すると、自分の箸を取り出して、ミートボールに突き刺した。そしてそのまま、ミトの方へ箸をつきだす。ミトはどうしたものかと迷っているようだったが、テンが「んっ」と箸を揺らして促すので、口を開けた。

 こんなことは初めてだ。なんだか見ているこっちが気恥ずかしくって、ケイタはほほがあつくなるような気がした。テンはきっと、男の子にこんなことはしないだろう。テンはミトが女の子だと知ってるから、こんなことをするのだ。でも別に、ちょっとだけ箸を貸せばそれで済む話だと思うのだが……。

 ミトの唇に、ミートボールが触れるか触れないかの時だった。突然――

「箸ならここにあるぞ!」

 叫び声が聞こえた。

 驚いて、声のする方を見る。テンとミトも同じようにそちらへ振り向いた。

「……は、箸なら……ここに」

 えんじ色の箸ケースを握って、仁王立ちになっていたのは見知った男子生徒で。オレンジ色の前髪の間から、ハチマキのように巻いた白い包帯が見える。三人から一気に注目されたのに気圧されたらしく、どこか情けない表情だ。そう――名前は。

「ユイ」

 テンが男子生徒の名を呼ぶ。そうだ、三ツ矢ユイ――彼には一度、行き違いがあって……、殴られそうになったことがある。

「テン! 箸は、ここにあるんだ。だからその、あーんなんて……するなよ!」

 ユイは泣きそうな顔になっている。恐らく、ユイはテンに恋しているのだ。男子生徒の格好をしたミトが、テンにあーんしてもらうなんて、見てられなかったのだろう。

 ユイは意を決するようにずんずんとこちらへ向かうと、ミトに箸箱を押しつけた。

「勘違いするなよ! たまたま持ってたから貸してやるだけだ!」

 ユイの怒声と一緒に、ミトは箸箱を受け取った。ミトにしては珍しい、ポカンとした表情だ。

「――覚えてろよ」

 ユイはよく分からない捨て台詞を吐くと、脱兎のごとく駆けていった。その手にお弁当袋が下がっていて、ユイの足並みに併せて揺れているのが見えた。

 ミトは渡された箸箱を開けてみて、それがまだ使われていないきれいな状態なのを確認している。ミトは箸を手に取ると、こちらへ顔を向けた。

「ケイタ君?」

 声をかけられ、ケイタは一瞬びくっとして、そしてミトの方を見た。いつの間にか、片手でマフラーの先の方を掴んでいた。息を吸う。

 もう大丈夫と思っていたのに、まだ身体は怯えたらしい。ユイを目にして、思い出したのだ――、勘違いだった、行き違いだった、それは後々分かったことで、ユイだってケイタに謝ってくれた。だから水に流せればそれが一番なのは分かっているのだが……。

――悪いのは全部お前なのに。

 ユイの瞳。暗く淀んだ淵のように、光の入らないその目を、思い出した。先ほどのユイにもはやその面影はなかったのに。

 いやだ、と思う。こんな自分はいやだと思う。

 ポンと、頭に手が乗せられた。顔を上げると、ミトがケイタの頭をなでている。

「ケイタ君、大丈夫、大丈夫ですよ」

 優しい表情だった。「ミト」のものとも――「ミオ」のものとも違う、穏やかな表情。

 約束――、ミトがケイタにしてくれた約束。君を護ると。大丈夫、大丈夫だ。どんな痛みからも、ミトが護ってくれるから。

「ミートボール、いただいていいですか?」

 ケイタが落ち着いたのを確認すると、ミトはまたすぐ、ちょっと意地悪な「ミト」の顔に戻った。

「あ、はい。どうぞ、先輩」

 ケイタはミトの方へお弁当箱を差し出した。

 テンはまだ、ユイの去った方をじっと見ていた。もしかしたら――ユイも一緒に昼食をとれたらいいと、思っているのかも知れない。

 そうだ、ケイタだって、そう思う。ユイを前にしても、無駄に怯えたりすることなく、彼を新しい友人として、迎えられたら――。

 ケイタは思った。ユイを前に笑えるようになりたい。だってテンは取り戻したのだから。ユイとの関係を――一度壊れてしまった関係を、取り戻したのだから。



 夕暮れの頃。海浜公園。

 この公園から見る夕空は、いつもいつも綺麗だった。淡い空色のグラデーションは刻々とその色味を変え、やがて闇に染まっていく。耳の奥にかすかに届く波の音を聞きながら、ミトはいつまでも空を眺めていた。

 傍らのケイタも、同じように空を眺めていた。こちらが何も言わなければ、ケイタもまた何も言わない。

 彼が何を感じ、何を思うか、本当のところは何も分からないけれど。ただこうして、並んで空を見ている間だけは、心がひとつになったような気がした。

 欄干に載せていた手を、ひっくり返し、平を上にする。そのまま少し、彼の方へ移動させれば、ほら、彼はその上に手を置いてくれた。軽く握る。視線をやって微笑めば、向こうも優しく微笑み返してくれる。

 そう、ただこうして、手を握って空を眺めている間だけは、自分とケイタとの心は、ひとつなのだ。


 日が沈んで、学園近くのファーストフード店。

 小首をかしげて、聞いてみる。

「ねえケイタさん、ミオはかわいいですか?」

 突飛なことを聞かれて、ケイタは言葉を失っている。ハンバーガーをくわえたままのポーズで、ぴたりと停止していた。

 こちらが何か補足するのを待っている様子だ。だけどそのまま、微笑みの形に顔を固定して、何も言わないことを表す。

 しばらくして、観念したケイタは、口の中の食べ物を飲み込み、ジュースを一口すすってから言った。

「ミオさんは、かわいいです」

「そうですか?」

「え、ええ……スラッとしてるし、美人だし、髪がきれいで、笑顔が……すてきで」

 ケイタは少し落ち着かない様子で、視線を彷徨わせた。この手のやりとりに戸惑うケイタを見ると、こっちの方がかわいいなあとそんな気分になる。

「クラスの人に――あの、神楽坂(かぐらざか)さんに、しつこく聞かれたこともあって」

「?」

「あんな綺麗な人とつきあってるのかって……」

「なんて答えたんですか?」

 ニッコリと笑ってみせると、ケイタは盛大に困った顔をした。

「えっと、その、つきあっては、ないって言いましたけど……」

「そうですか」

 あんまりからかうのもよそうと思って、引き下がった。

 つきあってはない。恋人ではない。当たり前だ。約束したのは週二回のデートだけで、恋人になろうと言ったことは無かった。

 だってそれで充分だったのだ。「ミオ」が存在するために、必要なことは、それで充分だった。本当の恋人になんて、ならなくていい。ただ一緒に、なんでもない話をして、夕空を見て、時々手を握ってくれるのであれば、それでよかった。恋人ごっこで充分だった。

 自分がたった一人だと思い知らされたくなかった。失ってしまったものを、取り戻したかった。「二人」はずっと一緒なんだ。かわいい「ミオ」と、強い「ミト」。その両方とつきあってくれる相手、(きた)()ケイタ。ケイタが「ミオ」と一緒にいてくれるなら、自分は一人きりのミトじゃなくて、「二人」の「ミト」と「ミオ」でいられた。

 ケイタのことはただ利用するだけだと思っていた。優しく愚かなこの少年を、自分の望みのために利用するだけだと。もし都合が悪くなれば、上手く切り捨てなくてはならないとも思っていた。そう思っていた。だけど。

 テンの言った言葉を思い出す。ケイタの望みを。誰かを助けたいという願い。それは強い願いだ。誰かを救えるのなら、それがケイタにとって一番の幸福なのだ。

 テンは言った。自分たちは、彼のために、救われなくてはならないのだと。それが彼のためになるのだと。

 だとしたら、ケイタとの関係は、こちらが一方的に利用しているとはなり得ない。ケイタはケイタの望みのために、「ミト」と「ミオ」のお芝居につきあっているのだから。ケイタはそれがミトを救うことにつながると信じて、こちらの求めるままに応じてくれる。ケイタは本当に、救うためなら何でもする。

(もし、私が、君の命で救われるとしたら? 君の命が欲しいと言ったら)

 心の中でつぶやいた。目の前にいるケイタに、そのつぶやきは届かない。けれど。

「……もし、先輩がそうしたいなら、僕は」

 先ほどの話の続きだろう。もし本当に恋人になりたいと言うなら――それによって救われるのだとしたら、そうしようと。

 首を振る。

(そんなに何でもくれようとしなくていいよ……)

 いい。ごっこ遊びで充分だ。本当の関係なんて要らない。ましてや命なんて以ての外だ。第一、そんなもので自分が救われるとは思えない。

「ありがとう、ケイタさん。私は今のままで充分です。ケイタさんは私に、とてもよくして下さるもの。私、ケイタさんといるととても楽しいんです」

 笑ってみせた。それが得意の作り笑いだと知っているから、ケイタはそれ以上踏み込まない。曖昧な表情の彼を見て、でもミトはただ、微笑むだけだった。



 夜、寮の自室。

 ミトは本棚にさしてあった古い写真を取り出して眺めていた。ため息をつく。本当はこんな写真で感傷にふけったりはしたくない。いつもは見るのもいやだと思うのに、どうしてか今日は、ずっとこの写真を見ていた。

 ノックの音を聞いて、ミトは写真を机の上に置いた。ドアを開けると、同じ学年の菅原(すがわら)ハルコが微笑みを浮かべていた。

「ミトさん。お電話ですよ」

 ハルコは階下を指で示す。寮の電話は共用なので、電話をとった人が取り次ぐのが決まりだった。

「名前は聞きそびれちゃったんだけど、男の子」

 ミトが礼を言うと、ハルコは去っていった。

 誰だろう、思いながら、寮の階段を下りていく。

 すぐに浮かんだのは小柄な後輩だった。北見ケイタ。しかし彼がこんな時間に電話をよこすとは、考えにくい。ならば、弓野クオ? 佐渡セイジか? そのどちらもミトに電話をよこしたことは今までないし、この先もないように思えた。すると分からなくなる。

 電話機の横に置かれた受話器をとる。もしもし、と言う声の調子を決めかねて、中途半端な発音になってしまった。

『こんばんは、ミトですか?』

 受話器からこぼれる声に、ミトは背筋を凍らせた。

(――ダメだ! 絶対にダメ)

 慌てて受話器を置く。この声を聞いてはいけない。この声は――

(あってはならない)


 寮の廊下をとぼとぼと歩く。何が起こったのかよく分からなかった。自分のしたことが、よかったのかどうかも。胸がざわつく。

 うつむいたまま自室の扉を開いて、顔を上げて驚いた。人がいたのだ。

「水色先輩、おかえり」

 他人の部屋に上がり込んだことを悪びれる様子もなく、そういってよこしたのは、テンだった。

「テンちゃん、どうしたんですか?」

 テンが部屋に訪ねてくることは、そう珍しくはない。どうもテンは学校の勉強が苦手なようで、手近な上級生であるミトに、宿題を持ってくることが度々あった。そう思って、ミトはテンが勝手に座っている、自分の机の上に目をやったのだが、ノートも教科書も見つけられなかった。今日のテンの用件は、宿題ではないらしい。

「お散歩いかないか。今日はきっと月が見えるよ」

 テンは椅子からぴょんと立ち上がると、戸口に立つミトの方へよってきた。ミトを見上げる表情は、出会ったばかりの頃より、ずいぶん柔らかくなっていた。微笑んでいると、言ってもいいかもしれない。

「いいですよ」

 ミトはテンに微笑み返す。ざわついた気持ちは、夜風にのせれば晴れるかもしれない。この気まぐれで無遠慮な後輩を、ミトはありがたいと感じた。


 夜道を行くテンは、不思議なステップを刻んでいた。早くもなく、遅くもなく、ちょうど普通に歩くミトと同じくらいの速度で、少し前をぴょんぴょんと跳ねるように歩いていた。

 浜辺へ続く道は、アスファルトの上の砂が少しずつ増えていく。そんなことを観察しながら、ミトは自分がうつむいて歩いていたのに気づいた。顔を上げると、テンの背中が見えた。白い小さな翼。テンの背には、ほんの手のひらほどの大きさの羽があった。その羽を不思議と思ったことはない。ミトのクラスにも、翼を持つ生徒はいたし、それほど珍しいものではなかった。

(ケイタ君も、羽を持っていたっけ……)

 そんなことを思い出す。小さな翼は、本人の意志で、消えたり現れたりするらしい。ミトはケイタの翼を見たことはあまりなかった。けれど保健室に彼を連れて行ったとき、その背にはぐったりと羽が現れていた。テンとは違う――学園の翼を持つ生徒のほとんどとも違う、黒い羽。珍しいとは思ったが、言及したことはなかった。

 少しずつ、潮騒の音が大きくなる。防風林を抜けると、黒くうごめく海面が見えた。

 月があった。テンの言ったとおり月が見えた。

 テンは突然駆けだして、砂浜の上に腰を下ろした。ミトは歩調はそのままでテンの元までたどり着いて、隣に座る。

「きれいですね」

「うん」

 テンは月と、月が水面に作る光の筋を眺めていた。ミトはテンの横顔に、見とれてしまった。テンがかわいらしい顔つきなのは、よく分かっている。テンのクラスには、きっとテンに恋心を抱く男子が数名はいるに違いないと思っていた。テンはかわいいのだ。それは知ってる。

 だけどミトが見とれたのは、少し前からテンが身につけた、何か意志のようなもののせいだった。ミトはテンがうらやましかった。


 初めて、テンと二人で話したときのことを思う。

 そうだ、まだ、出会ったばかりの頃。ミトがケイタに決闘を申し込んだ。それは「ミオ」がケイタとおつきあいするために、必要な作業だったのだ。「ミト」は溺愛する「ミオ」が、他の男と仲良くするのを、指をくわえてみていたりはしない。約束なのだ。「ミト」は「ミオ」を護る。それは違わぬ約束だった。だから、ケイタを試すために――「ミト」は彼と決闘しなくてはならなかった。

 決闘の前日、ミトはテンに声をかけた。二人きりで話がしたいと。テンはうなずいて、ミトの自室までついてきた。

「ケイタ君のこと、どう思っているんですか」

 意地悪く聞こえてしまったかもしれないと、ミトは後悔した。威嚇したかったわけではないのに。

 しかしそんな心配が必要ないくらい、テンは素直に答えた。

「友達。大切な友達」

「そうですか――」

 ミトは息を吸う。大切ならば、それはきっと、傷つけられたくないだろう。

「明日、私はケイタ君と決闘します。もしかしたら彼は、怪我をするかもしれない」

 同じ台詞を、次の日にも言ったのだった。言った相手は違ったが――答は、不思議と同じだった。

「それは、あたしに断ることじゃないよ」

 テンの瞳は強かった。表情が読み取りにくいテンの、それでもはっきりとした意志を、ミトはそのとき初めて見たのだ。

「黒はねは、自分がどうするか自分で決められる。だからあたしは心配しない」


 それから、ミトはテンと寮でよく話すようになった。テンはいつもぼんやりしていて、何を考えているのかよく分からなかった。だけどそんなテンの中に、はっきりと意志を見ることが、数度あった。テンの真摯で潔い身の振り方を、ミトはうらやましいと思った。テンは自分の意志で、自分がどうするか決めたのだ。

(私は――どうだろう)

 受話器越しに聞いたあの声がよみがえる。あれは確かに彼の声だった。記憶の中にあるより、少しだけ低い音。名を呼ぶあの発音は、忘れもしない――。

(……私は、何も決められない)

 今の自分は、自分が望んだ姿だろうか。そう自問して、分からなくなってしまった。月を見ても分からなくて、だけど隣のテンは自分と違ってきれいだった。

「水色先輩……?」

 じっと見つめていたら、テンがこちらを向いた。

「……」

 テンは何も言わず、ミトの目尻へ手を伸ばすと、指で涙をぬぐってくれた。

第5話 その2へつづく

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