95.表裏
この瞬間、その場の誰もの視線が一点に集中していた。
誰一人、例外はなく、異質なモノへの本能的な警戒心を向ける。
その中心に至る白尽くめの少女は、何のことはないとばかりに、CDの割れ目に細指をなぞらせた。
「ルクシィ……今、何を……?」
目を見開いたミューアをさも見下すかのように、ルクシィの顔がゆっくりと上がる。
そして再度、これまでとは喉の造りが根本的に異なるかのような、流暢な声を発した。
「怖がらなくてもよろしい。あなたの失態は、あなたを『創った』私のものですから」
身長差は逆だというのに、まるで子供をあやすような声と共に、少女は金属の塊を握り潰した手でミューアの頬を撫でる。
「そうか……そういう事か……!」
浩輔は自らの頬に平手を叩きつけた。
明理が言っていた一旦距離を置くということ。それは、物理的な意味でなくてよいのだ。
死体をもカモフラージュ出来るというなら、他の存在へ成りすますことくらいは、容易。
話は、通る。
「お前はまさか……ユミル、そのものか!?」
浩輔の言葉に場は揺れ、そして理解が追い付く。
老婆の死を目の当たりにした勇治も、合点が行かないながらも、目の前の現実に答えを合わせる。
「あの死体は、入れ替わり……?いや、どうでもいい……生きて、いたのか……?」
ミューアは猛獣に睨まれたかのように、目の前の少女から、一歩、二歩と下がり、腰が完全に抜けて尻餅を着く。全て演技だとしたら、超一流の役者というどころではない。
「せ、先生……?いや、だとしたら、ルクシィは……?」
「ふふ、ルクシィというホムンクルスは初めから存在しません。これは、私の予備の身体」
まるで種明かしのようなやり取りに、周囲の人間は口を出すことが出来ない。
あの老婆が少女の肉体に意識を移したという現実。
ますます漫画・ファンタジーの様相を呈するものの、今更という言葉で全てが片付けられる。
この状況を嘲笑っているのか、少女は一頻りわざとらしくも愛くるしい笑い声を出したかと思うと、今度は空気が切り裂かれる音と共に、浩輔の顔を見据えた。
「まったく、余計な事をしてくれましたね。この期に及んで私達と敵対する口実を作り出すなど、一体どういう風の吹き回しですか?」
「……そもそも、くだらない茶番を仕掛けたのはそっちだろうが。まだ何も片付いちゃいないのに、このまま逃げようとしている奴等が気に食わないだけだ」
浩輔はやや感情が溢れたこともあり、反射的に虚勢を繰り出す。
姿を見せたのなら、時を稼がなければいけない。
問題は、どこまで相手に勘付かれないようにするかだ。
「なぜ、あなたはそこまで、『私』に喰らいつこうとする?」
「同じ事を言わせるな……!」
「違うわ。あなたは最初から、錬金術という力ではなく『私』を狙っている。ホムンクルスに対しても、警戒を超えて眼中になかったということかしら?そうでなければ、死んだはずの人間を引きずり出そうとはしない、でしょうから」
流石に的確な分析。
浩輔は次なる時間稼ぎの台詞を考えようとするが、それ以上に少女の声に対する違和感に思考を阻まれていた。
まさか、と。
この声は、と。
そして、その予感は的中する。
「違うか……コウスケ……?」
疑念の全てを確信へと変える声と共に、辺りに一陣の風が走った。
それも外からではない、内側からの流れ。
ルクシィ、いやユミルの顔を覆い隠す白いフードが揺らめき、なだれ落ちる。
その幼い素顔が露になった瞬間、人間の側、いや正確には『とある女』を知る全員が、驚嘆した。
「え……うそ……!?」
「どうして、お前が……!」
真織が肩を震わせながら脅える。
浩輔も顔の中身への想像は全く行き届いていない。
勇治も、深知も、花田も、アパートの大家も、なぜ、とばかりに目を見開く。
「明理……さん……?」
「……たしかに、『ルクシィ』は『灯』の意ではあります、が」
文字通り、少女の目の色が変わる。
生気無き人形へ意思が宿るかの如く、その瞳に光が蓄えられていく。
「この体は、元々こういう顔、ですよ?」
肩まで垂れた栗色の髪がなびき、誰しもが美女だとのたまう日本人離れした端正な顔を引き立てる。
その完成形態は、不敵に笑うかつての裕眞明理そのもの。
肉体を縮めた分、狂気が倍増したようにも感じる。
「ミューア、本当なのか!?」
「……はい」
勇治の追及に、ミューアは血の気を引かせながら小さく頷いた。
「私も黎明の研究所にいる時にチラッと見たぐらいだけど、たしかに、目付きや輪郭はあんな感じだったかもね……!」
さらに補足するかのように深知が付け足した。
顔付きについては、どうしてもっと早く気づけなかったのかと、舌打ち寸前であったが。
「裕眞明理という存在は、何者かが、ルクシィの肉体情報を手に入れて改良を加えた人造人間だったと……先生の見たてでは、その、はずだったんです……!」
ミューアの独白に対し、勇治がついに激昂する。
「なんでそれをもっと早く言わなかったんだよっ!?」
今にも胸ぐらを掴む勢いで迫る勇治を、いやに透き通った笑い声が撫でた。
「それを先に言ってしまうと、あなた達の協力が得られなかったでしょうから。特に、そちらのお兄さんは私達をかなり警戒していましたしねぇ?」
自分に向けられた矛先を感じとった浩輔は、気負けはしないとばかりに返す。
「俺達如きに一体何を協力してほしかったんだ?」
「アルク・ミラーの試験も兼ねて、あの女を創り出した不届き者を探るため、ですよ。この錬金術を扱える存在を、野放しにしておくわけにはいきませんから。私の命を狙うのなら、特に、ね?」
「なるほどな……その素顔を見せたら、お前が真っ先に疑われるもんな。おまけに明理さんは錬装化できるホムンクルスだ。そういう技術がある、ということも明るみになってしまう。だから、お前は本当の事は何も言わずに、上手いように俺達と黎明を戦わせていたわけだ」
「ふふ、中々の推理ですね」
ユミルの足が一歩前に出されると、浩輔は無意識的にその倍、後ろに距離を取っていた。
触れられれば記憶を読まれることを警戒してのものであったが、逆にそれが相手に余計な疑念を抱かせてしまったかもしれないと内心、唇を噛む。
「あなたの記憶は全てミューアに探らせたはずですが……どうやら、その後に何らかの情報を得ているようですね。妙に鋭すぎる」
「まるでミューアの思考は全て自分に筒抜けみたいな言い草だな」
「ええ」
味方を捨てる言動は躊躇するものかと思ったが、ユミルはやけにあっさりと肯定する。
ホムンクルス故に気にはしていないのか。
それにしては、ミューアは口を開けてただ呆然としていた。
このやり取りの異常さ加減にようやく理解が追いついたのか、勇治が逆にミューアを脇に置くようにして前に足を踏み出す。
「ユミル……あんたとはもっと早く出会いたかったよ……」
「なにゆえ?」
「あんたの行動は、どうも善悪が分からないところがあった。……だが、今の篠田さんとのやり取りを聞いて、はっきり分かったよ。あんたは、このままにしておけないってな」
「そうですか。……ですが」
ユミルは両手を持ち上げたまま、開いた脇を閉めると、高らかに宣言する。
「ヒトの世の善悪など、何の意味もない。故に私は、あなた方の思想など何の興味もありません」
そして、加えた。
「私の邪魔さえしなければ、大人しくこの国から出ていきますよ?」
脊髄レベルの反応で、勇治が反論する。
「元はと言えば、東郷や黎明の連中に錬金術を教えたのはあんたなんだろう……?この国をこんなに滅茶苦茶にしといて、言うことはそれだけなのか……!?」
「その錬金術を利用しようとしたのは黎明の方々、つまりこの国の人間自身です。もっとも、私はアルク・ミラーの技術を無闇に周囲に漏らすことのないように、と何度も忠告していたのですが?」
それについては深知が目を細めた。
「そんなこと言って、初めから漏れることは分かっていたんじゃないの?」
「ふふ、ヒトの浅ましさはよく知るところではありますが……いずれにせよ、この国の惨状はあくまでも自業自得ですよ。まぁ、アルク・ミラーもどきを一掃するのは容易いことですが」
ユミルはさらりと流すが、その一言は人間達の背筋を瞬間的に凍りつかせる。
一瞬で溶けるのは、どこまでが本当なのか、が分からない故。
「何はともあれ、折角トウゴウがここまでお膳立てしてくれたのです。今ならよい機会だと思いますよ。あなた達の『力』でより良い世の中を『創って』みたらどうですか?……あぁ、アルク・ミラーは好きに使っていいですよ。私が調製したものですから、出来損ないのような副作用はありません」
無責任。
開き直り。
……を通り越して、もはや横暴。
「ふざっ……けるなぁっ!!」
真っ先に怒れる男は、勇治であった。
「ユージ、あなたのその正義感は素晴らしいものですが、私が力を与えなければ、とうの昔に死んでいますよ。あの地下の掃き溜めに捨てられていた失敗作と共に、ね?」
「だから……感謝でもしろっていうのかよ……!」
「力なき者が正義を為そうとすると、そちらのお兄さんみたいになるのですよ?あなたの純粋な意志を支える力として、アルク・ミラーは良いものでしょう?」
一瞬話を振られた気もしたが、それ以上に浩輔は違和感を覚えた。
ユミルの言動は明らかな煽り。挑発だ。
――何かがある。
「勇治、こいつの言葉は――」
「……だったら、一つ教えてくれよ」
浩輔の静止の言葉も不要とばかりに、煮えたぎった水蒸気の様な息を吐きながら、尋ねた。
「このアルク・ミラーの力が俺のためだってんなら……」
「何です?」
「どうして、俺と奴を戦わせた?」
代名詞ではあったが、奴が差す人物は容易に想像できる。
彼との因縁があった存在、真紅のアルク・ミラー。
「もり、あいき、だっけか……漢字は分かんねーけど……奴もあんたが調製したんだろう?」
「ええ」
「奴は何を求めていた……?」
どうして、今のこいつは尽く自分の想定外の台詞を言うんだ――。
浩輔の汗ばむ手に嬉しさと焦りが入り混じる。
「真なる平等……これで、満足ですか?」
一瞬で返された答えに対して、勇治は鼻で笑う。
「そうかい……あんたが言うならそうなんだろうな。……じゃあ、俺は何を求めていた?あんたが、この力をくれた瞬間、俺は、何を?」
「自らの正義の証明、これ以外に何かありましたか?」
「だったら何故俺とあいつが戦わなければならなかったぁっ!」
怒り。
純粋なまでの慟哭。
全ての矛盾を晒す、恫喝。
「俺はあいつが正しいなんて思っちゃいない!同情なんかもする気はない!だけどな、ただ一つ言えるのは、俺とあいつは『出会わなくても』よかったんだ!この力がなければ、出会わなかった!」
悪があるからこそ正義がある。
正義が存在し続けるからこそ、悪もまた存在し続ける。
勇治が抱え続けていたパラドックス。
だが、彼が憤るものはそこへ向けてのものではなかった。
「……何も、関係ないじゃないか!考えが違ったとしても、正義が違ったとしても、互いに知らない人間同士が殺し会う理由がどこにあるっ!人の善悪に興味がないだと?違うな!お前は全部知ってて散々弄んだんだろうが!」
ユミルは一切の反論をしない。
そして鼻で笑う。
「……自分を殺そうとした相手に、随分と優しいのですね。結果的にあなたが勝ったのだから、それでよいではないですか」
「違うな!俺が勝ったのはたまたまだ!十中八九あいつの方が強いに決まってる!俺が死んだらどうするつもりだったんだっ!?」
「それも一つのデータとして、感謝します」
「てめぇ……!」
「では、今から、私にどうしてほしいのですか?」
ユミルは幼い顔に似合わない、艶のあるため息をつく。
「ここで私をいくら非難したところで同じこと。言葉の上での謝罪ならいくらでもしましょう。この国の流儀に従うならドゲザ?それともハラキリがよいのかしら?」
「償う気は……ないのか?」
「幾千万人の命を救うことが出来れば、数万人を殺害しても許されるとでも?それなら簡単です」
もはや勇治は言葉を失いつつあった。
ただただ甘いと罵るかのように、こうも言葉を切り捨てられては。
そして返事が来ないと見るや、ユミルは流れるように言葉を締めくくる。
「人が人に心の底からの詫言を引き出させることなど、不可能。同じ次元の存在ですもの。凄惨な拷問にでもかければ話は別でしょうけど……ふふ」
ぎり、と勇治の口から音が漏れる。
既に結論は出ている、と。
対話の拒絶。
「私がいかなる答えを言ったところで、同じこと。これ以上の問答は無用」
「やる……気か……!」
「その前に……メローネ、リーン、還りなさい」
ユミルが右手をかざした瞬間、空気が破裂するような音と共に周囲に光の文字が拡散する。
事情を知らない人間達はまたも言葉を失っていた。
ホムンクルスとはいえ、人二人が一瞬にして消滅したのだから。
「あ……あぁっ……!そんな……先生っ……!」
「ふふ、ミューア、あなたは別です、それと、あなたの『それ』も無駄ですよ」
ユミルの視線がミューアの後ろを捉える。
周囲の人間も遅れて気づくが、腰を落としたミューアの首元に出刃包丁が当てられている。
いつの間にか後ろに深知が控えていたのだ。
抜け目のない彼女らしい判断であったが、それすらも甘い声で笑い流される。
「ホムンクルスに死という概念はありません。存在か非存在かのみ。肉体の原型が少々壊れようと、どうにでもなりますよ」
「……なるほどね、だから父さんはあんたのことを……!」
「ふふ、親子とは、よいものだったでしょう?イズハ?」
「その名前をっ!」
深知は出刃包丁をユミルに向けて投げるが、いとも簡単に二本指で受けられてしまう。その上、包丁の切っ先に指を当てたかと思うと、いとも簡単に刃を海老反りに圧し折って見せた。
これには周囲の人間も完全に肝を潰してしまい、武装した屈強な男達もいつの間にか後ずさりし始めている。武装していない者はなおさらだ。
ただ二人の例外だけが、白尽くめの少女の凄まじい重圧に逆らっていた。
「ユージ……イズハ……力を与えた私に逆らうのですか?私としては、そちらのお兄さんを引き渡して貰えば、この場は引くつもりなのですが」
「篠田さんは関係ない……これは俺自身の問題だ……!」
「甘い事言って人を好き勝手にしようなんてね……父さんの話抜きにしても、気に食わないのよっ!」
二人が戦意を、殺意を口にする。
ユミルの表情は、明理でさえも見せたことがないくらいに、非常に穏やかなものであった。
『錬装着甲ッ!』
「深化ッ」
そして、攻撃が始まろうとしていた。
勇治は禍々しい色の装甲を纏いナイフが発現しきれないうちに突貫。深知も勇治が仕損じること前提で電磁加速砲を展開し、照準を定める。
二人とも最初から全力。
ユミルの今の身体能力が如何に強力でも、この猛攻をどうさばこうというのか。
――が。
(誘われたっ――!?)
浩輔だけが、この瞬間を警戒していた。
そして、その予感は、的中する。
ただ一言、少女の口から紡がれた言葉、そして右手から漏れる紅い光で、終わらせられた。
「――錬装拘束」
超高熱を帯びたナイフがユミルの顔面まで三十センチというところで、真下へ落ちる。電磁加速砲の砲身も、そして二人の体も焼死体の如く折れ曲がり、その場に崩れ落ちる。
「ぐっ……ああああぁぁぁっ!?」
「ちくっ……しょ……ああぁぁっ!」
堅牢な装甲を纏ったはずの二人から漏れる悲鳴、苦悶、叫喚。
そんな中でも、ユミルの決して大きくないはずの声は聴衆へと通った。
「私が調製したものですもの。安全装置くらいはかけてありますよ。殺すつもりはないから安心なさい。今まで働いてくれた分のお礼です」
浩輔の脳裏に、明理の言葉がまた一つ、走った。
この時ばかりはと抱いたミューアへの感謝の念も、後方からの悲鳴ですぐにかき消される。
「ぐっ、あああぁぁぁっ!?」
「どっ、どうしたんだ小林っ!?」
一斉に振り向いた面々は驚愕した。
ここにいるはずのない錬装機兵がその場で苦悶の声を上げていたからである。更に体育館の方角からも同様の悲鳴が沸き上がっていた。
「まさか、今のは二人だけじゃなくっ……?」
「ふふ、トウゴウの『アラフ・スミス』のデータを流用している以上、紛い物はどうにでもなります。……ま、この通り、ネズミは何処にでも潜んでいるのですよ。あなた達も気をつけなさい」
ユミルは周囲へ向けて皮肉めいた言葉を加えると、再び浩輔へと向き直る。
「さて、この通り、私は別にあなた方をこれ以上どうこうするつもりはありません。コースケ……あなたを除いては」
「……そうですかい」
「あなたは、少々踏み込みすぎた」
「お前の堪忍袋って奴にか?」
「あくまでも私に敵対すると言うのなら、あなたの存在は、記憶だけで十分」
ユミルの両手から再び紅い光が発射される。
それは勇治たちの動きを封じたものとは異なり、無数のソフトボール大の玉を形成し、ユミルの手、腕、そしては体全体を渦巻くように動き出し、徐々にその速度を速めていく。
数秒もしないうちに、その速さは暴れていると表現する方が正しいと思えるくらいの、燃えるような光の軌跡と、人の恐怖心へ本能的に訴えかけるような凄まじい轟音を吐き出し始めた。
それが一体何なのかも説明がつかないまま、目の前の物体は、一瞬のうちに浩輔の周囲5メートルから部外者を引き離す。
「賢者の石の力が、どういうものか――」
ユミルの左手が軽く上がると、紅い光の玉の一つが遠心力で弾かれたように飛び出した。
光の玉は唸りを上げながら大きく弧を描くと、学校の校舎、柱、地面を通過し、錬装が拘束されてうずくまっている男の体を貫き、再びユミルの身体の周囲へと帰ってくる。
その軌跡にあったのは、無。
非存在。
敢えて言うなら、空気。
これ以上の説明は、必要なかった。
周囲の意識ある人間達は、逃げ出すか、腰を抜かすか、ただ茫然としているか。
浩輔は、三番目。
「こんなのと、どう戦えってんだよ……」
とうとう、引き笑いと共に、浩輔の口から思っている台詞が漏れてしまう。
相手はもはや問答無用。
不意打ちは全てが遅い。
通常武器は駄目。
アルク・ミラーも駄目。
そもそも、まともに戦える味方もいない。
対するは、当たれば容赦なく物体を削り取る光の玉。
おまけに間違いなく追尾機能付き。
完全に、お手上げという奴だ。
(ここらが潮時か……)
不思議と浩輔の頭の中には、覚悟といった感情は芽生えず、簡単に諦めがついてしまっていた。
実際のところユミルに対しては、勇治達と違って個人的な恨みがあるわけではない。気に食わない奴ではあるが、それはどうでもいい。それこそ、勇治の言うとおり、交わらなければ全て他人事で済む話であった。
――自分自身の復讐は既に終わったのだから。
これは、身勝手なまでの償い。
自分はどうせ死んだ家族と同じところに行くわけが無いのだから。
せめて、世話になった周囲の人間には迷惑をかけずに。
楽な死を。
「――報いを、受けなさい」
微かに聞こえる声と共に、無数の光の玉が浩輔を包囲し、襲い掛かる。
人がかわせる隙間などない。
もはや身構える気すら起こらない。
浩輔は肩の力を落とし、頭を垂れた。
(こんな相手にどうするってんだよ、明理さん……)
思えば確かかどうかも分からない存在のための戦い。
彼女の存在も、自分自身が生み出した幻想だったのかも、と。
瞼と共に、浩輔の思考が静かに閉じられる。
『――何言ってやがる』
不意に、浩輔の頭の中に声が響いて来る。
懐かしい、女の声。
『――そんなもんでお前は死にはしない』
不敵な声。
『強く念じろっ!そんな光の玉如きでお前はくだばらないっ!』
呼びかける声。
『何も起きはしないっっ!』
浩輔の目が強く見開かれる。
無数の光の玉が文字通り眼前まで迫ってきていた。
走馬灯の猶予さえも与えないくらいの速さで、浩輔の全身に衝撃が走る。
――だが。
「ってぇ……!」
全身に無数の石つぶてを受けたような感覚。
流石に痛い。
だが。
「……あ」
痛い。
痛いけど、全身の感覚はある。
残っている。
「ほんとだ……」
浩輔の視界がようやく定まる。
目の前にいるのは明理……いや、ユミル。
口を震わせ、驚愕の表情をしている。
あんな表情は明理も見せたことはない。
逆に面白おかしくさえある。
「な、ぜ……?」
「はは……よく分かんねーけどさ、この攻撃は何かのトリックか?」
浩輔の脳内に笑いながらその台詞を肯定する声が響いた。
「あなたは……錬金術を知っている……」
ユミルは唇を震わせながら、呟く。
「……いや、知っている者と手を組んでいる」
垂れた前髪の隙間から覗かせる、その瞳には猛烈な殺意が宿っていた。
明らかにこれまでの余裕を含んだものとは異なる。
流石に浩輔もこれは逆にまずいのでは、とまで感じ始める。
(おいおい……状況は悪化してるぞ……)
『もう少しだ!もう少しでそっちに着く!』
浩輔はハッとしながら、脳内の声に意識を傾ける。
地下基地で浩輔にした『何か』は、ここまでを想定していたものだったのだ。
(明理さん!あんたのこと感づかれてますよ!)
『大丈夫だ!私が向かって来ていることには気づいていないっ!いくらなんでもここまでやれば、用心深い奴なら一旦身を引くはずだからなっ!』
(あとどのくらいですかっ!?)
『もうちょい時間稼げっ!』
最後の最後でアバウトになったところで、浩輔の耳を劈くかのような破裂音が周囲に響く。
意識をユミルに戻す必要はなかった。そうでなくても、周囲一体に無数の光の玉が拡散していたからだ。
浩輔はこれの意味のなすところを予感し、全速で叫んだ。
「みんなっ!この光の玉は『当たっても何ともない』と念じてれば大丈夫だっ!とにかく大丈夫だって思えっ!」
「マジっすかっ!?」
「そんなんでいいんですかぁっ!?……あぁ、何ともない、何ともない……!」
今はその言葉にすがるしかないのか、周囲の人間達は一斉に念じ始める。
真織に至っては両手を組んで何かを拝むような態勢だ。
(とりあえずはこれでっ……!?)
これまた直感。
浩輔は一瞬で全身を逸らし、飛んできた貫手をかわす。
タネをバラされた以上、あの光の玉はもはや囮でしかない。
この瞬間で反応できたのは、普段から明理に殴られ続けた賜物だ。
「ただのヒトにしてはよい反応です、がっ!」
ユミルはすかさずバランスを崩した浩輔の腹に蹴りの追撃を食らわせ、地面に叩きつける。
浩輔の意識が戻ったときには既に馬乗りの状態となって、紅く光る指先を振り下ろしていた。
今度はまごうこと無き喉元への衝撃。
浩輔の呼吸が止まり、更には全身が一気に脱力。視界一面に光の象形文字が拡散したかと思うと、脳全体に生暖かい液体が侵蝕してくる感覚を覚える。
「やはり、あの女……!」
明理の入れ知恵について早々に読まれ、そこから先の情報で眉を顰められる。
「……ッ?こちらへ向かってきている?この男は囮……それ以外は……」
生暖かい液体が浩輔の眼の奥、耳の鼓膜、肺の根元までを乱暴に掻き回す。
「これは、思考通信用のコード……?こんなものを仕込んでいるなんて……!」
ユミルの口から怒りの呟きが漏れた瞬間、浩輔の全身が揺れるくらいの声が響く。
『よーう!待たせたなぁっ!ようやく、捉えたぜ』
「貴様っ……!」
『もう遅い!お前は既に私の視界に入ってるんだっ!』
その言葉に対して、ユミルは慌てたように浩輔から手を離し、自らの全身に紅い光を纏わせた。
「なっ……この移動は……音速っ!?」
ここまで異常な速さで移動できる物体が、地上に存在するわけがない。
故に、ユミルの目は何もない空間、上空へと向けられる。
そこから先は常人の肉眼でも捕らえられた。
東京の空を大気を切り裂く音と共に、一つの物体が通過する。
――戦闘機。
しかし、通過しただけだ。
「……まさかっ!」
ユミルの驚愕の声と共に、地震でも起きたかの如く、辺りが揺れた。
学校の周りのビルが何棟か崩れ落ち、バリケードの一角が木っ端微塵に破壊され、グラウンドが大きく抉れ、砂埃を上げている。その破壊音は遅れて、人々の耳へと到達していた。
そして。
「ふぃ~っ!中々いい腕してたぜ、パイロットのあんちゃんよぉ」
気の抜けた声を出しながら、砂煙の中から一つの人の影が現れる。
ゆっくりと近づいていくる。
その白い装甲の輪郭が露になる。
だが、力の証とも取れる鎧は、すぐに光輝く砂となって霧散した。
中から現れたのは、そこにいた白尽くめの少女をそのまま大きくしたような、女。
「私、参上!……ってやつだ」




