93.夢跡
――意識が朦朧とする。
先程の会話は、数秒前の夢の中のものであったとでもいうのか。
そこにある現実を認識出来ないまま、視界が一刻毎に揺らめく。
「…………あっ、大丈夫ですか?」
一先ずはその声で、自身の無事を確認した。
この澄んだ声は、もはや安全地帯の指標と化してしまっている。
彼女だけは、そのままでいて欲しい、と願うくらいに。
「……あぁ……真織ちゃんか……」
「真織ちゃんって……」
「あ、ごめん」
「……別にいいんですけど」
そう言いながら、目の前の少女は軽く目を伏せる。
思わず気が抜けてしまったせいで、微妙に気まずい雰囲気になったものの、段々と戻ってくる意識と感覚と共に、浩輔は口を開く。
「……っと、ここは?明らかに俺の家じゃないよな」
「近くの小学校の体育館ですよ。みんなでバリケードを張って、何とか凌いでるんです」
体育館、と言われて、覚えのない高い天井にも合点がいく。
天井の電気は点いていないが、アウトドア用のランタンなどで、周囲の輪郭がうっすらとと分かるくらいの明るさは保たれていた。
真織の髪型も、いつも垂らしているのにアップになっている。これも、ファッションと言うよりは環境の問題なのだろう。
「よーお、美女のお膝元でようやくお目覚めかい?」
能天気な声を出しながら、真織の後ろからアロハシャツを来たアパートの大家が、ひょっこりと顔を出してきた。いつものように若者をからかうような陽気さではあるが、その腕には包帯が巻かれており、顔も絆創膏だらけだ。
浩輔が尋ねる前に、老人は変に格好をつけた笑みを浮かべる。
「なぁに、気にしなさんな。名誉の負傷ってやつよ」
「その怪我は……」
「先輩たちが家を出た後、すぐに黎明の手下が襲ってきたんです。でも、アパートのおじいさんたちが必死に戦ってくれたんですよ」
「昔の血が騒いだのよ。俺だって若い頃はなぁ……」
そこからの話は今は不要だと、浩輔の耳が無意識的にカット。
しかし、よく考えさえすれば予測できた当然の事態なのに、自分の考えがそこまで回っていなかったということ。あの時は冷静なようで、かなり頭に血が昇っていたのかもしれない。
「みんなは……?」
「全員無事ですよ。誰一人欠けることなく帰還……なんですけど」
言葉の上ではめでたいことこのうえないのだが、真織の表情は壊滅的な損害を受けたかの如く複雑そのもの。
「どうかしたのか?」
「いや、だって、先輩含めてみんな浮かない顔してるから……」
「あぁ、天北さんは自分の父さんが亡くなったんだから仕方ないさ。ホムンクルスの奴等も主人が死んだんだし」
「あれ?知ってたんですか?」
無意識のうちに出た言葉に、浩輔は思わずはっとなって口をつぐむ。
「あっ、いや、そうか……奴等からは聞いていなかったんだな……」
「どうしたんですか?」
「あー、やっぱり今のなし。他の奴等には黙っといてくれ。あくまでも、君から聞いたってことで」
「え?あ、はぁ……」
浩輔の事情が分かるわけもなく、真織はきょとんとしながら、大家と顔を見合わせた。
「先輩、みっちゃんが助けに行っている間に、何かあったんですか?」
「あった。だけど、今それを言うわけにはいかない。特に……」
浩輔は辺りをぐるりと見渡す。
先程から周囲の影の山が気になっていたのだが、それらはダンボールを立てた仕切り。今の時代、ある程度のプライバシーがないと、かえって精神を壊してしまうのだろう。
仕切りの形状は様々で、おまけに歪で不規則。突貫で作ったものなのだろうか。他には、テントを張っているところもちらほらと。まるで大規模災害の中継で見た光景だ。
公権力が機能していない以上、寝床の格差は止むを得ないというところだが、取り敢えず、今の位置から見える範囲には、自分達の関係者の姿はない。
「まずは……俺たちが基地に突入してから、どれくらい時間が経った?」
「まだ日は跨いでませんよ。今、夜の11時ですから……先輩はここに来てから6時間くらいは眠ってますね」
「どうりで身体が軽いわけだ」
浩輔は不本意ながらもいい睡眠が取れたと言うつもりで身体を伸ばして見せようとするが、突如として腹部に強烈な痛みが走る。その様子を見て周りの二人が手をかけるが、悶絶したくなる衝動を抑えながらもなんとか手を振って答えた。
「なに……軽い、打撲……」
「大丈夫ですか!?みっちやんが、見た感じ怪我はないし、息もあるからって手当てとか特に何もしてなかったんですが……」
「……ミューアが俺を治そうしたり、とかはなかったか?」
「いや、ミューアくんもそんな余裕無さそうでしたし……」
浩輔は深知なりの気づかいだと思い、ならばとばかりに、ふら付きながらも立ち上がって、現状把握に取り掛かる。
体育館の時計で夜の11時を再度確認すると、周囲の人間の顔ぶれへと意識が移った。
人々はそれこそ災害時さながらに、毛布や物資にまみれて息を潜めている。寝ているのは子供か老人くらいで、大概の人間は目を半開きにして、身体を休めていた。外が外なので呑気に眠るわけにもいかないのだろう。加えて、多くの視線が、浩輔の動きをじっと追っているようにも感じられた。
それも当然だと、浩輔は足を引き摺りながらも、適当に会釈をしてその間を通り過ぎていく。
「……あ、篠田さん、もう大丈夫なんですか?」
その中で、思いもよらない見知った顔。
「花田くん?お前も無事だったのか?」
花田優。
浩輔と真織が勤めていたコンビニのバイト仲間であった少年。
もはや、かつて、と言うべきなのだろうが。
浩輔も、何年ぶりかに再会したような気分を味わってしまう。
相も変わらず厳つい顔に逞しい体。顔の傷も以前より増えている。
平時なら周囲の人間は怖がるだけだが、この状況下ではこんなに頼もしい者はいない。
「うす、篠田さん……色々話聞きましたけど、凄い目に会ってたんすね……」
花田もおおよその事情については説明を受けているようだ。
話を聞いてみると、彼が真織達をこの体育館の中に避難させてくれたとのこと。
かつての不良(と、誤解されていた)少年も、今ではか弱き市民たちを護る、頼もしい用心棒のような扱いになっていた。
当の本人は、今まで見たこともないくらいに眉を顰めていたが。
「ほんと……人間ってゲンキンなもんですよね」
「その様子だと、熱い手の平返しを受けたようだな」
「ええ、今まで俺にびびってた、先公や同級生達も、今俺がこんなことやってるってなった途端、『自分達を護って』ってなって……」
が、周囲を見渡す限りの人数では、そのような人物を誰でも彼でもと受け入れた訳ではなさそうだ。
傷一つない玉のような博愛精神ではなく、ちゃんと現実が見えているところは、浩輔も素直に感心してしまっていた。
「すまないな。俺達を受け入れてくれて。ここもそんなに余裕ないだろうに」
「いえ、篠田さんや八瀬さんには色々と世話になりましたから」
「…………」
「……どうしたンすか?」
「……いや」
ふと、浩輔の脳裏によぎったもの。
自分の中では上手く肯定できないが、目の前の光景が小さな欠片となってその答えの形をぼんやりと写し出す。
まだ、答えのパズルのピースは全然足りないが。
その答えが何となく分かるのが、分かってしまうのが、たまらなく嫌であった。
「ほれ、婆さん、風邪薬持ってきたぜ。それと白湯も」
「すまないねぇ……最近寒くて……」
「いいからよ、明日の飯も楽しみにしてるから」
「ここのじゃ、あんまり大したものも作れないんだけど……」
浩輔のボロアパートの老人達も何人か、周囲で見回りを続けていた。
ここに住まわせて貰う以上は、という奴だ。
「…………」
「ここじゃあみんな、自分には何が出来るかって思ってしまうみたいだぜ」
隣で大家がポツリと呟く。
浩輔は思い出したかのように自分の服のポケットをまさぐると、東郷から託された金色のカードが姿を現した。色々と大立ち回りをやったが、奇跡的にどこも破損していない。
……だけど今は、まったく使い物にならない物だろう。
「なぁ、篠田くん。もしかして東郷くんは……」
「……それ以上は言わないでください」
強めに遮ったつもりだったが、逆に大家の心に火を点けたようであった。
「東郷くんはよ、みんなに分かって欲しかったんじゃないのか?本当に大事な、人間の強さって奴をさ……」
「いくらなんでも、その解釈は都合よすぎますよ」
「いいじゃねぇか……俺はそう信じたいんだよ……」
大家はそう言うと、無事な方の手で、浩輔の腹を軽く小突く。
やはり、ここは年の功というところなのだろうか。心の奥底を見透かされている感じだ。
――お前も、そうなんだろう、と。
しかし、東郷の本心はどう足掻いても知ることは出来ないのだ。彼はもう、死んでしまったのだから。
その事実を今は伏せざるをえない浩輔は、大家の答えにただ黙っていることしか出来ない。
このまま沈黙を続けるのは決まりが悪いと、別の話題を思索した。
「……勇治たちとホムンクルスの奴等はどこにいるんだ?」
「勇治くんとみっちゃんはあっちで、ミューアくんたちは……」
真織の示す先に浩輔はすぐに違和感を覚える。
両者が体育館の対角に位置していたからだ。
「何だ?俺が言うのもなんだけど、露骨に距離取ってないか?」
「勇治くんというよりかは、みっちゃんの方なんですけど。何かあったのかな……」
ピンポイントで思い当たる節があると、浩輔は迷わず勇治達の方へと向かって行く。
体育館の角に、カップ麺のダンボールをガムテープで繋ぎ合わせただけの簡素な仕切り。だが、角から九十度を完全に囲っているため、入り口らしき物は存在せず、どうアプローチして良いのか困る構造だ。
その隣でいかにも不満そうな顔をしているチャラめの若者に尋ねてみると、折角の一等地なのに、いきなりずかずかと乗り込まれて、今日一晩だけ譲って欲しいと脅し混じりに頼まれたとの事。
そこへ「今頃、二人でよろしくやってんじゃねーの?」という冗談が追加されるが、二人の年齢的にそれはないだろうし、あったとしても年長者として止めざるをえないと、浩輔はダンボールの壁に手の平でノックする。
浩輔の声を確認すると、ダンボールの仕切りは壁の方からゆっくりと開けられた。
隙間から出てきたのは勇治。
真織の言うとおり、浮かない表情なのは間違いない。
「いいか?」
「篠田さんと八瀬さんなら……狭いですけど、どうぞ」
小声での対応だったため、二人はそろりと体をダンボールの仕切りの中に滑らせる。中は風を遮っているせいか、どことなく暖かい。
そして、壁際に詰まれた飲料の横で、幼い顔の少女が静かに寝息を立てていた。
「……交代で寝ようって」
「随分と信頼されてるじゃないか」
「勇治くんなら間違いは起きないだろうしねー」
「からかわないでくださいよ……」
勇治の声と表情には苦笑いと呼べる要素はなく、ただ疲れのみが伝わって来る。浩輔と真織を奥に通すと、入り口を閉じ、そのまま壁にもたれかかりながら腰を下ろした。
「篠田さん、何で脱出するって言っときながら、下に潜ってたんですか?」
「それはマジで謝る。いつもの悪い癖だ」
開口一番の勇治の問いかけ。
しかも、露骨に不機嫌そうに。当然だが。
浩輔も下手に弁明などはせずに、素直に頭を下げる。
「東郷に付いて行った……とかじゃ?」
「当たらずとも遠からずって感じだな」
「何でぼかすんですか……今更……」
勇治は目を閉じながら顎を下げる。
浩輔も、もっと追求が飛んでくるのかと思っていたが、そこまでで言葉が止まっていた。
「……だいぶ疲れてんな、勇治。お前も少し寝たらどうだ?」
「いいです。俺も先に少し寝ましたから。どっちかが起きていないと……」
今は落ち着いているが、外からの脅威が無くなったわけではない。
有事の際に対抗できるのはアルク・ミラーのみ。
知らずのうちに随分と気を負わせていたと、浩輔と真織は肩を縮ませる。
「篠田さん、ホムンクルスの奴等を正直よく思ってないでしょ?」
「まぁな」
「俺も、今になって同感です」
「おいおい」
意外な方向に話が進み、浩輔も軽くたじろいでしまう。
「厳密に言えば、ユミルって婆さんの方に、ですけどね」
「……お前もなのか?」
「今まで頭の中でもやもやしていた物が、今日の戦いでようやく固まって来ました」
勇治の揺ぎ無い視線。
これは彼が本心を語る時の分かり易いサインである。
演技でこれが出来るほど器用ではない、ということでもあるのだが。
「深知も、明日になってみんなに話したいことがあるって言ってました。それまで誰も触れないように見張っとけって」
「そういうことか……」
「俺も、その『固まった物』は明日話します。……篠田さんも、本当は何があったのかはその時に言ってください」
「そこまでお膳立てしてくれれば助かるよ」
男二人の会話に完全に置いてけぼりにされた真織は、所在なさそうに深知の毛布を掛け直していた。
(まったく、とんだ自惚れだったな……俺は……)
浩輔は深く息を吸い込んで、肩を落とした。
皆年下だと思っていたのに、随分と成長を見せている。
いつの日からか、自らの心を変えることに出来ずにいた自分とはえらい違いだ。
だが、今はそれでよいと素直に思えた。
これで、自分の事に専念できる、と。
力を込めて意識を進められる。
そして、これはその次の段階への布石。
「勇治、今のうちに一つ確認しときたいことがある」
「何ですか?」
「俺を、信じられるか?」
いろいろとすっ飛ばした質問。それでも、今はここまでしか言うことが出来ない。
返事は思いのほか、早かった。
「正直言うと、篠田さんへの信用はかなり薄くなってますよ。……だけど、それが敵か味方かってのはまた別の話です」
「お前にとっての敵味方、か」
「奴と戦って、そして勝って、よく分かりました。敵だからこそ信じられるものがある。味方だからこそ信じられないものもあるって」
「何だか知らんが、パラドックスって奴かな?」
「本気で味方を信じていられるなら……俺は戦う必要なんてないんですよ。元々。ましてや殺し合いなんて」
浩輔はこの時、勇治の瞳の中に底知れぬ闇が見えた気がした。
そして、もはや自分が下手に彼の内面に踏み入る余地などない、と。
それは、もはや一種の危険信号。
(……上等だぜ、勇治っ!)
浩輔の体の内部、いや精神全体が不敵に震えた。
ここ何年ものあいだ忘れていた感覚、見得も含めた対抗心という奴だ。
4歳年下の少年に自分の心は見透かされているのかもしれない。
それでも、よい。構わない。
自分のやるべきことは決まった。
「答えはこんなものでいいですか?」
「十分だ。勇治、頼むぜ」
「……?」
浩輔はすぐにちょっとトイレに行くと言ってその場を立ち、段ボール造りのパーソナルスペースを後にする。
薄暗闇の体育館の中で新たな思考と共に眼球が激しく蠢くと、起きている人間に一人、また一人、と声を掛けていった。
そして、最大のお目当ての人物を見つけると、暫しの思索の後、更に押し殺した声で尋ねかける。
「……花田くん、ちょっと耳貸してくれ」
「何スか?……………………えっ?」




