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錬装機兵アルク・ミラー  作者: 四次元
陽はいずれ彼方へと消える
89/112

87.真実

 時と所は変わり、黎明地下基地第20ブロックにある多目的拷問部屋。

 そこでは外見年齢十代初頭の二人の美少女の手により、近くを歩いていたら食虫植物のように部屋に連れ込まれ、嬲られるといった、何とも凄絶なやり取りが行われていた。

 もっとも、片方はダークグレーの装甲を全身に纏い、もう一方は白エプロンに白い帽子に白いマスク、加えておびただしい量の返り血と、屠殺現場さながらの格好で、とても偏った性的趣向を持つ人間でも一目で逃げ出しそうな出で立ちをしている。


「……そっちはどう?」

「うーん、オジサン達、中々口割らないわねぇ~」

「あのお婆さんの部下なのに、もう少し上手く拷問できないの?」

「やりすぎて『死んだほうがマシ』って、舌噛ませまくるアンタに言われたくないっての!」


 その結果が、来世の真っ当な生を願いたくなるくらいに、凄惨な最後を迎えた死体の山々。

 ちなみにこの拷問部屋の本来の主は、真っ先に玉を引きちぎられて部屋の隅っこで息耐えている。

 ここ一時間近く拷問部屋の覇者となっていた深知とリーンは、死体の服で血糊を拭い取り、一台だけあった木製の机の上に現段階の収穫物を集めた。

 使用箇所不明の鍵束が三束ほど、カードキーが二枚、その他手書きのメモ帳がいくつか。

 どれもこれも決め手となりそうなものはない。

 そろそろ死体の臭いがきつくなって来たとリーンが鼻をつまんでいると、突如として部屋の内線電話のベルが鳴り響く。フェイスガードのおかげで死臭が完全に遮断されている深知が、そっちが近い、と左手だけで合図を送ると、リーンは怪訝な顔をしながら軽く背伸びをして受話器を取った。


「はーい、こちら拷問室。ただ今大繁盛ちゅー。なので手短にー」

『もしもーし、こちら地下五階司令室からでぇす♪元気ぃ?』

「なーんで電話でかけて来るよのぉ」

『コースケお兄さんのお手柄でーす。基地のマップが一気に明るくなったわよぉ♪』


 受話器から漏れてくる気の抜けた甲高い声に、深知もリーンに近づいて耳を傾ける。


「つーかこの通話は大丈夫なの?盗聴されてるんじゃないの?」

『へーきへーき!アイキくんの玉音放送のおかげで奴等もそれどころじゃないみたい』

「基地の入り口を閉鎖するって奴?」

『黎明の偉い人達も脱出の準備を始めてるみたいよん』


 先程の『基地内の入り口を全て封鎖しろ、これから出入りしようとする者は誰であろうと撃ち殺せ』という愛樹の放送は、当然深知達にも聞こえていた。彼女たちらしく、基地から出る時は普通に押し通れば特に問題はないと、浩輔の存在を差し置いて、そこまで気にしてはいなかったが。


『んで、ここから悪い話。あの色々と危ない女がここに向かって来ているみたいなのよねー。早くマスターを助けてトンズラしないとヤバイかも』

「それ信用できる情報なの?」

『さぁねー、私らには分からない人間サマの第六感みたいな奴らしいから』


 リーンは隣で聞いている深知の方をちらりと見るが、相も変わらず反応はない。メローネらしい、いつもの皮肉かと思ったが、勇治と違って特段興味はなさそうだ。

 情報の受け取り場所を確認してから電話を切ると、拷問部屋を後にして、近くの警備室へ向かう。

 扉には鍵がかかっていたが、捕まえた敵から奪ったカードキーを何枚か試してみると簡単に開き、部屋の中の監視カメラを手早く破壊する。ついでに中のロッカーに隠れていた兵士の顔面を殴りつけ、続け様に喉笛を引き裂いて絶命させた。

 いちいち殺害のやり方が惨いのは脇に置いといて、リーンが慣れた手つきで室内の端末を操作を行う。メローネから送られてきた情報を手持ちのデータと統合すると、二つの少女の口から感嘆が漏れた。


「おお!すっごっ!幹部クラスの部屋まで丸分かりじゃん!あのお兄さん、意外な伏兵ね!」

「あのお婆さんが捕らえられているところは?」

「メローネも既に探ってるだろうし、まだ分かんないわ。ローテクで気に食わないけど、やっぱ幹部の奴から直接吐かせるしかないかも」


 最優先目標がユミルの救出なので、それならそうと真っ先に言うはず。それが無いということは、まだ詳細な位置までは掴めてないと補足し、リーンはさらに画面の地図を指差して言葉を続ける。


「あとこれ、基地の入り口なんだけど、アタシらが事前に知らなかったのもいくつかあるわ。中にはエレベーターか何かで地上と直行しているのもある」

「それだと幹部に逃げられるかもしれない。少し急いだほうが」

「どうかなー。アタシらの見立てでは、幹部全員がみんなして仲良く逃げるとは思えないわ」


 リーンは舌の上でころころと根拠を並べて見せる。

 現在、日本の地上は、略奪不意打ち何でもありの危険地帯と化している。少数でアテもなく道を歩けば襲われる可能性もあるし、車やヘリは乗り物系は目立ち過ぎるし撃沈される恐れもある。わざと騒ぎを拡大させるために、一般市民にまでRPGなどの武装を与えてしまっているため、『もしも』の想定が異様な大きさまで膨れ上がっているのだ。

 だからこそ今、この国の中で最も安全なところはこの地下基地の中。

 もう少し時間があれば、端島老人の如くどこぞの山奥に秘密屋敷の一つでも作れたかもしれないが、今の幹部の多くは、ここ最近になって錬金術を始めとする黎明の強大な力に怖気づき、我先にと尻尾を振ったものばかり。これ以上の安全地帯を個人的に用意する暇などないはず。


「私らの攻撃に加え、トウゴウのオジさんは不在、加えてアイキの奴まで反旗を翻したことで、幹部の奴らは相当焦っているはずよ。こんなはずじゃなかったってね」

「だけど、逃げようにも外は危険……」

「ヤツらはこのまま一月くらい待って、地上のニンゲン共が完全に疲弊したのを見計らってから、華麗に救いの手という名の支配をやるつもりだったからね」

「その前に、海外からの介入が来るとは考えてないの?」

「そこら辺をデイブレイクを使った情報のコントロールで抑えているのよ。仲のいい国も悪い国もしばらくは迂闊に手出し出来ないみたい。……それとも、疲弊したところを侵略しようとしているのかもしれないけどね。ココと同じように」


 リーンはこの国がどうなろうと自分達の知ったこっちゃないと言わんばかりの口調だ。深知も目の前の少女の人間を馬鹿にしているような口調は気に食わないが、言っていることは割と筋が通っているので、黙って受け入れていた。


「……んで、幹部のヤツらが逃げようにも逃げられない理由その二。その情報戦の切り札、デイブレイクの存在」

「デイブレイクって演算装置スパコンみたいなものなんでしょ?実物は見たことないけど、大型ならたしかに『持って』は逃げられないけど」

「ええ、最悪アタシらのマスターを人質として連れて逃げることは出来ても、こればっかりは無理よ。デイブレイクとアルク・ミラー。この二つをもって、トウゴウのオジサンが建てたオペレーション・デイライトの要となるんだから。どちらかが欠けても、混乱後の支配が出来ないワケ」

「大体理解したわ。……にしても、デイブレイクって一体誰が作ったのかしら?」

「さぁ?そこは私達もノータッチよ。トウゴウのオジサンがどこからか持ってきたのは間違いないけど」

 

 深知はふと思ったので尋ねてみたが、よくよく考えればハッキング用のスパコンなど、現代技術なら決して不可能ではない代物だ。それこそ、アルク・ミラーのオカルトさに比べたら。

 このことは一先ず頭の片隅で留めておくことにした。


「あっ」


 基地のマップデータの詳細を色々と調べていたリーンから、声が漏れる。

 深知も後ろから顔を近づけて画面を覗き込むが、地図と英語表示しか情報がなく、内容が分からない。リーンの肩の上に乗せた左手に少し力が入ると、鬱陶しそうに手が払いのけられる。


「わかったわよ、説明してやるわよ!アンタ、このくらいの英語も読めないの!?」

「習ってないものは解からないから。……で?」

「……アンタのお父さんの居場所を見つけたのよ」

 

 深知の左手が今度は首を掴むように露骨な動きを見せると、リーンは腕を滅茶苦茶に振って喚きながら、その場所を教えてやる。


「……で、行くの?」

「…………」

「そこはっきりしなさいよ!折角教えたのに!」

「……いや、行く」

「何が『いや』なのか、分かんないケドさ……」


 呆れるように答えるリーンの後ろで、部屋の端末にメローネやミューアからの返事が届き、互いの状況が明らかになる。基地の画像と共に、現在の状況が伝えられると、リーンは部屋の椅子に深く座り、端末の操作に集中する態勢となった。


「……ま、あのオジサンならこの基地の事色々と知ってるかもね。まだ生きてたら、だけど」

「…………」

「悪気はないからねー?デイライトが始まった時点であのオジサンの命は二週間もてばいい方だったんだから。もうそろそろ限界よ。あんただって聞いてるでしょー?」

「そんな事をわざわざ言うからガキなのよ」

「アンタには言われたくないっての!」


 見た目も含め似た者同士ということで組まされた二人であったが、今回の作戦が始まってからはずっとこんな感じだ。

 同族嫌悪というか、致命的に噛み合わない部分、合わせることができない。

 一言で言えば、子供ガキ

 そんな議論は長続きもせずに、この部屋はリーンに任せ、深知は足早に目的地へと向かう。

 先程の愛樹の放送の影響がかなり浸透しているのか、警備は非常に手薄であった。遭遇する兵士などほとんどいない。逆に物影に隠れている者を何人か見つけたが、全て無視した。もちろん、誰一人として追ってくる気配はない。

 そんな感じで区画を三つほど越えると、黎明の兵士用の寝室を見つける。中のクリアリングを終えると、深知は地面に向かって電磁加速砲レールガンを展開・発射し、大穴を開けた。

 警備室で見た地図上では、下の階に行くための階段なり昇降機なりは一応存在したのだが、距離があったり、警備が厳しい可能性もあった。内部の人間にも情報を伏せるような重要エリアならば、周囲の隔壁の強度も上げているはず。

 と、いうことで、適度な距離の位置から下の階への道を作ったというわけだ。下の通路の位置は先程の地図で大体把握しているので、見事に開通大当たり。流れるように、下の階へと飛び降りる。

 

「な、なんだ貴様はっ……ぶぅぇあっ!?」


 降りて早々発見されてしまったが、深知は相手の顔を確かめることなく、手持ちの電磁加速砲の砲身を振り回し、下顎への一発を食らわせる。味方の声でなければ片っ端から殺る方針ゆえ、その動きに一切の迷いはない。

 声の主は三十から四十くらいの中年間際の冴えない顔をした男。少なくとも知った顔ではないので結果オーライ、ノープロブレム。下顎以前に壁にも強く叩きつけられ、まともに生きていられる状態ではなさそうだ。


(一応、探ってはみようかな)


 見張りの兵士……にしては装備が脆い。というか無駄に多すぎる。

 近くの適当な部屋に引きずり込み、持ち物を物色すると、護身用の銃に加えて金目の物多し。財布に入っている免許証を見ると、下西康則しもにしやすのりという名前。加えて、衆議院議員という肩書きの名刺も出てきた。

 前述のものは全てその辺に放り投げたが、大きな収穫が一つ。

 拷問室で見つけたものとデザインが同じながらも、見たことのない色のカードキーだ。

 試しに近くの扉で使ってみるが、開く開く。

 これが幹部用のものだと確信した深知は、そのまま一気に目的地まで足を運ぶ。

 そして、


(あっさりと着いてしまった……)


 気がつけば、錬金術研究所所長室と書かれたプレートの部屋まで来ていた。

 所要時間は十五分足らず。

 上の階層の状況に輪をかけて不自然なくらいに、ここまで人との遭遇がなかった。

 一応監視カメラの存在も気にはしており、見かけたら破壊するようには心がけているのだが、それにしても警報一つないのはどこか異常だ。

 誘い込まれているのかもしれないと、辺りを見渡してみても、前後に長い通路が伸びているのみ。

 更に言えば、先程とは打って変わって明るい照明、染み一つない白い壁に小奇麗な廊下。上の階に響いていた耳障りな機械音も、空調の音以外は何も聞こえない。

 ここが幹部用のエリアならば、なるほど確かに腐敗している、と深知も妙に納得する。


(何やってるのよ……)


 不意に気づいた。

 自分の足が妙に重い。

 もちろん、それはただの気のせい。

 周囲には障害となりそうなものは何もない。

 それでも、足が進まない。手も伸ばせなくなっている。


(まさか……怖いの……?そんなの、今更……あの人が遺体になっていようが……)


 自分は一度、彼の死を見ている。

 そこで、関係は一度断たれたはずだったのだ。

 あれが今生の別れになるはずだったのだ。

 そして、自分はアルク・ミラーの使い手として『生まれ変わった』。

 ――そう、周りに思わせていた。


「…………ぃっ!」


 不意に苛立ったように目の前のドアを叩き、我を返すと、ドアの隣にあったカードリーダーに乱雑にカードキーを突き刺す。すぐさま電磁加速砲レールガンの砲身が展開されて電流が走り、機械がカードキーを読み込んで扉が開く頃には、その砲身が前方へ構えられ、指に引き金がかかっていた。


「――えっ?」


 開かれた扉、その先の光景を見て深知は絶句する。

 その先に敵が潜んでいるのか、どんな罠が仕掛けられているのか。

 そんな警戒心を全て貫いてくる、紅い光。

 喉を鳴らしながら、深知は震える足を一歩ずつ意識して動かしながら、部屋の中に踏み入れる。

 部屋は、狭い。

 浩輔のアパート二部屋ぶんくらいだ。仕切りも特にない。

 だからこそ。


「――ぅ?」


 部屋の真ん中にある、巨大な紅い結晶の塊。

 これだけが異常すぎた。

 気づけば照明も何もついていない。『これ』だけが異様な輝きを放っているのだ。

 入り口を閉めても、部屋の物の輪郭は変わらなかった。


「ぁれ、だ……?」


 そして、その巨大な紅い塊がゆっくりと動く。

 形状を追ってみると、確かに人の形をなぞっている。

 それを支えるように結晶の下には椅子があり、机に突っ伏しているのが分かる。

 紅い塊の先に、人の肌が見える。


「お、とう、さん……?」

「あ、あぁ……来てくれたのか……」


 深知は聞き覚えのある声に息を飲むと、電磁加速砲レールガンの砲身を閉じ、変わり果てた父の元へとゆっくりと近づく。

 その父は全身が微かに震えていはいるものの、とてもじゃないが動けるようには見えない。

 もしやと思って反対側へと回ってみると、結晶化しているのは入り口側の左半身の方で、右半身は辛うじてまともな人の姿を残していた。目を血走らせながらも、その顔形は確かなもの。

 深知は監視カメラの類がないことを確認すると、錬装化を解除して更に近づこうとする。

 しかし、そんな彼女の前に、開かれた手の平が突き出された。


「……それ以上、僕に、近づくな……君まで、石に、喰われるぞ……」

「石に……?」

「……そ、そこの本の間に……CDがある……」


 手振りも加えられない、唐突な言葉。

 深知は黙って従う。

 天北博士の視線の先にあるのは、机の上の、それこそ100円で買えそうな簡単な本立て。そこには英語で書かれたタイトルの本が4冊ほど並んでおり、その間を探ってみると、一枚のCDケースがあった。中を確認したが、タイトルも何も書いていない無地のCDのみ。


「これ?」

「ああ……それを、ユミルさんに渡してくれ……。僕の研究成果の全てが入っている……」


 深知は素直に頷いたが、一つ確かめるように尋ねた。


「もし、あのお婆さんがもう死んでいたら?」


 自分がユミルの取り巻きの人造人間ホムンクルス達の協力で、彼女を助けるためにここに来ていることを告げると、博士は咳き込みながら答える。


「その時は……君の判断に任せる」

「いいの?あのお婆さんの弟子かなんか知らないけど、ミューアって子には」

「……その子に渡すかどうかも君の判断に任せるよ。この研究の内容と価値を理解できる人は限られているだろうから……」

「……分かった」


 深知はCDケースを服の中に仕舞おうとするが、今後の戦闘の事を考えてしまい、どこに入れるかで少しまごついてしまう。

 見かねた博士がケースに向けて既に結晶化した左手を掲げると、赤い光がケースの周りを囲み、ずしりと重みのある頑丈なものへと変化した。


「ふ……凄い力だろう……?使えば使うほど、こいつに体が喰われていくんだっ……よ……」

「お父さん、そんな事のために……!」


 博士の顔の結晶化が更に進行していき、ついに上唇まで達する。

 普段から表情の変化が少ない深知も、流石に動揺が見え始めていた。


「もう、治す方法はないの?」

「……そんなものは、あっちゃいけない。代償がなければ、人間がこんな力を、持って良いものか……」

「私達のアルク・ミラーだって……」

「そんなもの、序の口だ……何度も言うが、この力は、錬金術なんかじゃない……皆がそう思いこんでいただけだ。『そうあればいい』と、自分達の都合のいいように。欲望のままにそれを望んでいただけだ……その先に来るのは、身の破滅さ……はは……」

「あの人は……ユミルはどうなるのよ……!?」


 感情が乗った深知の声。

 初めて聞いたかも知れない、と博士自身も自虐的な気分になる。


「彼女は……破滅することも出来ないんだ……どうか、許してやってくれないか?」

「許す?」

「今の僕の力をもってしても、彼女の心の奥底だけは、覗かせてもらえなかった。だから……この研究成果の全てを渡すことが、僕なりの意趣返しなんだ……」


 正直、深知もその言葉の意味は分からなかった。

 別に、今に始まったことはないが。

 理解できるのは、これが心からの願いということだけ。


「後は、頼んだよ……」


 博士の結晶化した左目が強く発光したかというと、深知は脳が揺さぶられる感覚を覚える。

 頭の中に展開される基地の地図情報。そこへ追加される、新たなる光点。


「これが……今、ユミルがいるところ……」


 深知がその情報の正体に気づいた瞬間、博士の全身が微かに宙に浮いていた。

 肩は脱力し、残された右目も閉じられ、残された顔も非常に安らかなものであった。

 目の奥からこみ上げてくるものを必死に抑えている彼女の悲痛な表情を前にしたところで、大きな溜息が吐かれる。


「ふぅ~~っ。伝えないといけないのは以上だ。何とかもったな、僕の体」

「え……?」

「ここからは、ロスタイム……」


 呆気に取られる深知を前に、天北博士は相手に向き合うように体の位置を変える。

 一度浮き上がったのはそのためだった。

 加えて、残った人の顔を使って満面の笑みを見せる。


「この部屋には、監視カメラも盗聴器もない。全て僕が破壊したからね。よって、ここからは二人だけの会話の時間だ」

「…………」

「今の僕なら君の心を全て読むことが出来るだろう。……だけど、それじゃあ駄目なんだ。あまりにも無粋すぎる。人と人の間にはっきりとした境界があるからこそ、相手を想う事が出来るんだろうし、相手を愛することが出来るんだ」


 言っている意味は分かるが、意図が分からない。

 いつもの深知なら、いつもの彼女なら、そこで考えを止めるところだろう。


「君の声で、君自身の心を聞きたいんだ」

「…………うん」

「よし、じゃあ……」


 正直、『その』覚悟は出来ていないなかった。

 このままで終われば、そのまま時は進むはずだった。

 彼女自身、それを最も恐れていたのだ。

 それは、最大の恩人に対する、最悪の裏切り行為だから。

 そして、今までの時間の全てを引き裂く一言が、呟かれようとしている。



「――君の、本当の名前を教えてくれないかい?」


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