80.決意
こんなに人が光に飢えたのはいつ以来であろうか。
東京近辺の雨脚は弱まることなく、夜が明けても人々は朝日を見ることが出来ないでいる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一時の仮眠を取った勇治は、窓のカーテンの隙間から外を見ながら、薄暗い部屋の中で一人溜息をついていた。風呂やシャワーを浴びれるような状況でもないので、全身の不快感は日に日に増すばかりだ。
……そして、自分が今まで寝ていた布団を横目で見ると、胸元を大きく広げたメローネが静かに寝息を立てている。胸の谷間をすべるように滴る一筋の汗は少年の情欲を掻き立て――
「……いや、変なドッキリは仕掛けなくていいですから。こんな時に」
「ちっ、ガード固いわねぇ……」
そんなふざけたやり取りを流すかのように、オンボロアパートの一階改造倉庫に召集がかかる。
六畳一間の部屋に、7人もの人間|(人間じゃないのもいるが)と大量のダンボールとかなり息苦しい空間ではあるが、密談の雰囲気だけは無駄に高まらせていた。
「皆さん揃いましたね。とりあえずの作戦の算段が整いましたので、今から説明します」
四六時中白装束のミューアの挨拶に合わせて、隣でリーンがタブレットの画面を外付けのディスプレイに表示させた。
半透明の東京近郊の航空図、そして、その下に映し出される黎明の基地の全容。先日浩輔が見た通りの映像だ。今度は、ここからさらに視点は変わり、その下の階層図が立体的に表示される。地下の階層は10階まで達しており、見ている者の気をますます遠のかせていた。
「東京の地下にいつの間にこんな秘密基地を……アリかこいつらは?」
「いえ、基地と言っても大半は通路です。それも既存のものを発展させただけにすぎません」
リーンが作ったらしいCGアニメにその詳細が映し出される。
元々、東京の地下には地下鉄やら放水路など無数の地下道が通っている。黎明はそこから横穴を空けて、通路を作り、既存の建物と連結させるという工事方式を取っていた。協力者は自らの所有する建物、もしくは自らが勤める建物に無断で通路を通し、そこから基地に出入りを行っていた。今や地上からの基地への入り口は百ヶ所に届くような勢いである。
ちなみに工事は借金苦の人間や不法入国者を脅したり騙したりして行わせていたとのこと。まるで某賭博漫画さながらの展開だ。
「見ての通り、これだけ出入り口があるので基地へ入ることそのものは簡単ですが、当然ながら重要なエリアにはそれ相応の警備体制が敷かれています。加えて、緊急時に備え、セクションごとに隔壁を設けており、中枢部から任意で開閉できるようにもなっています。隔壁はどこも厚さ約50cmの合金製で、ちょっとやそっとでは壊せません。もちろん錬装機兵の量産も行われているでしょうから、増援のことを考えると、時間を掛ければ掛けるほどこちらが不利になります」
「つまり、基地を壊滅させるのは元から不可能に近い、ということね。狙いを絞るほかない、と」
深知は露骨に不満そうな表情をしながらも、事情は把握したと暗に述べる。ミューアは小さく頷き、ディスプレイの上に文字を表示させた。
「ここに書いてあるとおり、今回の作戦目的の優先順位は、1.ユミル様の救出、2.マスターコンピューター・デイブレイクの破壊、3.錬金術研究施設の破壊、4.黎明幹部の抹殺、5.その他施設の破壊、とします。作戦経過を見ながら、どの時点で引き上げるかを判断します」
「あくまでもお前等の目的が第一って話だな?」
「……批判は覚悟の上ですが」
「だけど、この中なら1番がある意味最も難しいんじゃないか?場合によっては、こちらの判断で優先順位を繰り上げさせてもらうよ」
「構いません。ですが僕らとしては、あくまでも先生の救出が最優先です」
「分かったよ」
人間勢からの了承が得られると、ディスプレイの画面が再び航空図へと戻り、その上にいくつかの赤い交点が示される。
「これが、突入……いや潜入地点の候補です」
「随分多くないか?」
「……今の段階では、先生の監禁場所もデイブレイクがある場所も、おおよその候補しか分かりません」
「おいおい、ハッキングには成功したんじゃなかったのか!?」
「そんな大事な情報を『データ上に保存』なんてしないってことね。基地の階層図だっておそらくコレで全部じゃないだろうし。何か別に、紙の地図とかがあるんじゃない?」
機密保持ならローテクの方に利があるとリーンが自嘲気味に補足するが、既に雲行きが怪しくなってくる様子をその場の全員が共有していた。そして矛先が情報収集を行っていた彼女の方へ向けられているのを察知してか、リーンは不機嫌そうにむくれる。
「……ルクシィの奴がもう少し上手くやってくれたら、よかったんだけど」
「無茶言うなよ。彼女は元々こういう役割は与えられていないんだし」
「まだ他に仲間がいるのか?」
ミューアはふて腐れるリーンをなだめることに専念し、横からメローネが事情を話す。
「ボウヤ達とはあまり縁がなかったけど、マスターの介助用のホムンクルスよ。でも、本当に『お手伝いさん』だから、あまり大立ち回りは出来ないの」
「ってことは……」
「そ、今は黎明の基地の中に隠れているわ。何とか追撃は免れて、出来る範囲で私達に情報を流してくれているのよ」
「だいたい肝心のマスターをほったらかしにして、なにやってんのよアイツは!普段からなぁんにもしゃべらない奴だったけど!」
「でも、彼女がそう動いたおかげでいち早く僕らも対策を打てるんだし……そもそも彼女は先生の命令しか聞かないんだから、先生がそういう指示を出したってことだよ……」
「……内輪もめはいいから、話を続けてくれ」
人間とは違うと言いながら妙に人間臭いやり取りを見せ付けられるのは、人間を実に複雑な気分にさせるものである。
そう考えているのは浩輔くらいで、他の人間は手の付けようがないといった感じで、特に深知は今にも舌打ちしそうなくらいに顔を歪めていた。
………………
…………
……
ミューアからの説明が一頻り終わり、浩輔と真織は一足先に倉庫部屋を出て二階の居間に戻っていた。勇治と深知は直接戦闘を担うアルク・ミラーということで、更に補足説明が入るとのこと。そして、能力者でない者にはあまり教えたくない内容だとのことだ。
それも当然かと思い、何の力も持たない凡人はとっとと退散と、部屋の中でぬるいお茶を飲みながら一息ついていた。
昨晩のうちに物資の確認をしてみたが、水と食料はどんなに切り詰めても後一週間程度。もちろんホムンクルスを人数に含めない計算で、だ。地味に痛いのが、このアパートの老人達の面倒も見なければならないこと。彼等も悪気はないのだろうが、自分の命の価値は老若男女関係ない、ということだ。
水も電気も止まったこの状況下で一番恐ろしいのが、食料をめぐっての内紛である。こうなると肝心の団結力さえも脆く崩れ去ってしまう。だからこそ、精神面で余裕を持たせるために、飲みたい時にお茶を飲める環境を許している。
よって、黎明に潜入しているルクシィというホムンクルスからもっと詳細な情報が送られてくるまで耐える、というのも実質無理。そもそも、端末用の充電器ももう残り少ない。
ジリ貧になる前に仕掛ける。これしか方法はない。
「だけど、あの作戦、本当に大丈夫なんでしょうか……いくらなんでも大雑把過ぎじゃ……」
「かといって、あれ以上の作戦は思いつかないさ。人手も物資も何もかもこちらが不利だ」
「明理さんがいれば、また違ってたんですかねぇ……」
「違いはしても、有利不利はないよ。状況は大して変わらない」
真織が漏らした言葉を、浩輔は明確に否定する。彼女の前に昨日リーンが舐めていたものと同じ棒付きフルーツキャンディを放り投げ、自分もそれを口にくわえた。
「あの……先輩?」
「ん?」
「こんな時にこんなことを聞くのもなんですけど……先輩は、明理さんとこの部屋で半年以上も同棲してた……んですよね?」
「ああ」
「先輩は、実際、明理さんの事、どう思ってたんですか?その……ね?」
こんな時だというのに呑気な話題を、と心で思っても口には出せない。
女の子らしい痴話話なのか、相手を気遣ってのものか、単に自分が知りたいだけか。浩輔は質問の意図を考えることを止め、とりあえずの回答を出すことにした。
「まず、大前提として、恋愛感情は微塵もない」
「うそ……」
「あの人と付き合うのは本当に骨が折れたよ。もし、好きになるんだったら、その倍は骨を折る羽目になるだろうな」
「絶対嘘ですよそれ。だいたい私と目が合ってない」
「……頼むから信じてくれ」
浩輔は懇願するように頭を下げるが、その先には既に相手はおらず、いつの間にか自分の隣に両膝を抱えて座っていた。しかも下はスカートだ。視線はますます明後日の方へと飛んでいく。
「あのコンビニでバイトしている時からずっと聞こうと思ってたんですよ……『先輩、付き合っている人いるんですか?』って……」
「そういう思わせぶりなことは……」
「ほら、そういう事にはちゃんと敏感なんですよね!?」
隣で急に声量を大きく上げた真織は、更に浩輔に詰め寄るように首の下から迫る。
「それでも明理さんのことを何とも思ってないって言うんですね?好きじゃないって言うんですね!?私にはどう見ても付き合っているようにしか見えませんでしたけど!?」
「いや、そう言われても……ていうか怒らなくても……」
「昨日からずっと思ってたんです……!なんで、ずっと一緒に暮らしていた人を簡単に見捨てるんですか!?何でそんなに割り切ってるんですか!?」
「俺は腕をちぎられて死にそうになってたんだけど!?」
「何かその……間違いとかじゃなかったんですか!?たまたまとか、うっかりとか!」
「いつも殴るだけで済んでたのが、エスカレートして腕ちぎりってか!?そんなんじゃ命がいくつあっても足りないって!」
「……じゃあ、いつも殴られてたなら、なんで別れなかったんですか?」
「向こうが出て行かなかったんだよ!」
「先輩が逃げればよかったんじゃないんですか!」
「どこにだよ!?」
「先輩ならどこに行ってもやっていけるはずです!色々器用だし!」
「俺はそんな褒められたもんじゃ……って、あーもう!」
突如として食ってかかってきた相手に対し、浩輔もどう応戦してよいか分からず途方に暮れる。
言葉を失えば、部屋に残るのは二人の荒れた吐息のみ。
「私、夢を見せられてたみたいです。明理さんに……」
「夢?」
「正義のヒーロー。いい歳してバカみたいですけど、あの人が言うと不思議と説得力あって」
「口上は無駄に凝ってたからな」
「以前、私、将来の夢なんてないって言ってたの、覚えてます?」
「そんなこともあったな。……まさか、実は正義のヒーローにでもなりたかったのか?」
「はは……『世のため人のため!』……って、なんか格好いいし、何よりも楽しそうだし、刺激もあって……それも、露骨な悪が蔓延る世界ならもっと充実してるんだろうなって」
「傍から見たら、そう思えるよな」
「でも、やっぱり、私、ダメみたいです……こんなの……」
真織は両膝の上に顔を埋め、瞳を潤ませた。
不意に、夢から覚めるような感覚。ここ最近、彼女と話す時に強く感じていたものだ。
浩輔自身もそれを求めていたのかもしれない。彼女がたった一つの、意識の出口。
しかし、それは求めと呼ぶには、あまりにも自分本位過ぎたのかもしれない。
「こんなの嫌ですよ……ついこの間まですぐ隣にいて一緒に笑ってた人が、いきなり殺そうとしてくるなんて……私の家だって……」
「……何かあったのか?」
「私の家の隣に住んでいる人。小さい頃からの付き合いだったんです。小学生の時なんて毎日のように挨拶してきた優しいおじさんが……私の両親を殺そうと……あの時、みっちゃんがいたからよかった。……ううん、でも、みっちゃんもほんとに、簡単におじさんを殺したんです。何も分からなかった。どうして私達を襲ってきたのかなんて、何を恨んでいたのかのかも……何も聞けませんでした……」
世の中がこんな惨状なのだ。
正当防衛だけに、真織は深知を責めることも戒めることもできない。
オペレーション・デイライトの本来の目的から言っても、その人物の心の奥底にあった恐怖心や、人を殺すための小さな動機が煽られただけに過ぎないのだろう。
だろう。
――だろう。
結局は、推測だ。
「人が、あんな簡単に死んでいくなんて……。みんなも人をどうやって殺すかばかり考えて……そんなの、絶対におかしいですよ……みんな、みんな、どうかしちゃってる……」
「……そうでもしないと生き残れないからだよ」
「どうしてみんなで協力しようって考えられないんですか……?」
「そうしようって思ってても、結局行き着くのは独裁か依存のどちらかだったからさ。今まで、ついこの前まで、そうなってたんだ」
目の前の女の子に掛ける言葉としてはあまりにも残酷だと分かっている。
そう理解しなければ、今の世の中では生きられない。
今の状況だって、以前とどう変わっているのかといえば意外とそうでもないのかもしれない。
資本主義のもとに競争があり、相手の未来を奪う戦い方を教わる。
敗者は死ぬまで這いつくばり、その先の子供たちも底辺の世界へと追いやられる。
その競争の形が少し異なるだけだ。
黒い部分が表に出ただけ。
「私……もう夢なんていらないです。もう一度、あの頃に戻りたい……あのコンビニで、みんなで笑いながら、店長さんや花田くんのことを心配したりして……そんな、日常でいい」
「日常、か……」
「先輩も、そう思いませんか?あの頃みたいに、もし、昔に戻れたら、もっと楽しんで、もっと頑張って――」
昔。
過去に戻る。
そんな事がもし実現できるなら。
人は後悔などしない。
自分がもしやり直したい過去に戻るのならば。
――どこまで戻ればいいのだろう。
「……やっぱり、明理さんのこと考えているでしょ?」
真織は目を細めながら、わざとらしく低めの声で問いかけた。
「先輩にとっては明理さんの存在も日常かもしれないんだし」
「違うよ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃー質問変えますよ。『先輩も、明理さんに憧れてた』。違いますか?」
「もう、いい加減にしてくれよ!何でそんな明理さんの事ばかり――!」
「先輩が怖いんですっ!」
浩輔の外への怒りを完全に吹き飛ばすかのように、真織の怒声が全身を逆撫でる。
「どうしてそんな平気でいられるんですか!?どうしてそんな冷静でいられるんですかっ!?いつ誰に殺されるか分からないんですよ!?実際殺されそうになっても全然だし、こっちが何を言ってもスカした言葉ばかり言って!」
「スカしたって……」
「今まで傍にいた人に殺されそうになって、何とも思わないんですかっ!?好きだったから許してるのかと思ってたら、頑なに認めようとしないし!」
「…………」
「何とか言ってくださいよ……怖いです……」
この時、悟った。
真織は好意だとか良い意味で浩輔に近づいたのではない。
この距離なら、大声を出したところで、どんな怒声を浴びせたところで、手は出せない。
怖いから。
恐ろしかったから。
近づいたのだ。
仲間になろうとしたのだ。
今までもそうであったのだろうか?
実際は、真織との付き合い自体は、期間だけで言えば明理よりも長いのだ。
明理と会う前の自分は、彼女の目にどう写っていたのだろうだろうか。
『――ただ、君が私に良く似ていると思っただけだよ』
認めなければならないのかもしれない。
あの時の東郷の言葉の真の意味を理解しているのは、自分自身だけだ。
受け入れないとならないのかもしれない。
明理の真意が何であれ、彼女に殺されそうになったのは、必然だったと。
答えなければ。
自身の恐怖を吐露するという、勇気に対して。
「……正直に言ってさ、あの人のこと」
「はい……」
「怖かった」
「先輩」
「本心だ。憧れもあったかもしれない。さっきは微塵もないって言ったけど、もしかしたら恋愛感情ってのもちょっとはあったかもしれない。それでも……最後に来るのは『怖かった』だ」
「……ひどい」
浩輔は静かに頷いた。
「『真織ちゃん』。俺の事をそう思うのは正しい。怖いというのも合ってる」
「いや、真織ちゃんって……え?」
「俺は単なる悪人だ。どうしようもない、わが身可愛さに、自分の本当の事も言えない臆病者だ。あの人が本当の事を知ったとき、俺をどんな風にするのか、そのことにずっと怯えながら、そして終いにはそのことすらも忘れてしまう、御都合主義な人間だ」
「……な、何を、言ってるんですか?」
戸惑う真織に対して畳み掛けるように、浩輔は向き直って目の前の少女の両肩を掴む。
歪な体の震えが、両腕に伝わる。
「おまけに、馬鹿みたいだけど、どうやらプライドってのも一丁前にあるらしい。君と話してたら、自分に対して、段々腹が立ってきた……!」
「せんぱっ……ちょっ、いった……い……!」
浩輔は真織の肩から手を離すと、その場にゆっくりと立ち上がり、そして見下ろす。
まるで箱わなにかかった小動物のような弱々しい目をした少女が、そこにいた。
そんな少女に、自分は攻め立てられたのだ。
力だったら全く適うはずがないと分かっているのに。
自分が逆の立場なら……情けない。あまりにも、無様すぎる。
「俺はあの人と、もう一度話がしたい。それで、今度こそ殺されたら、仕方ないな」
「そんなこと言わないでください……」
「真織ちゃん。これだけは言っておく」
「……はい」
「昔の日常なんて、もう帰って来ないんだよ。結局、過去は過去なんだ。日常ってのは今でしかない。どんな風に自分や世の中が変わったとして、今そこにあるものでしかないんだ。……俺が、そうだったんだから」
それは、一つの決意。
優柔不断な人間が長い紆余曲折を経て出した、当たり前の回答。それも、目の前の少女では、到底受け入れることは出来ないもの。これも、当たり前だ、元々住む世界が違った。相手側の譲歩のおかげだ。
それも、もういいだろう。よくここまで付き合ってくれたと言うべきだ。
真織が背を向ける浩輔に何かを呟く。
それが、どんな慰めと肯定の言葉だったとしても、今は聞いていられなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
現世に別れを告げるように外に出た浩輔を待っていたのは、小さな人影と溜息。
初っ端から思わず脚を二度踏みしてしまったが、それも格好がつかなすぎると、そのまま平静を装ってドアを閉め、小声で尋ねた。
「聞こえてた……よな?」
「うん」
扉の横にちょこんとしゃがみながら、深知は例の如く棒付きキャンディーをくわえていた。
一枚絵で見たら清楚な面立ちであるのにも関わらず、今の彼女はまるで校舎裏でタバコをふかしている不良女子校生のようなオーラが漂っている。よくもこんなやさぐれた娘がメイドの真似事をやっていたものだと、感心せざるを得ない。
「話は終わったのか?」
「私はね。勇治は居残り」
「へぇ、何かあったのか?」
「あいつ、覚悟決めちゃったみたいだから」
深知の口から取り出されたキャンディーの棒の先端は、何度咀嚼を受けたのかが分からないほど、繊維単位で裂けているのが肉眼で見える。
「覚悟?」
「うん、篠田さんのあんな過去の話されちゃあね」
「……あいつ……どこまで聞いた?」
「その『どこまで』ってのは私も分からない。篠田さんしか、ね。私は逆に尊敬したよ?」
「相手が誰であろうと褒められる話じゃないさ。俺は後悔して……そして、怖くなったんだから」
「あのリーンって子じゃないけど、人間って本当に馬鹿で無様よね。私もだけど」
深知の視線は周囲の住宅街の遥か先を見つめようとして……そして地に落ちた。ぐしゃぐしゃになった紙製の棒も人差し指で弾かれ、アパートの二階から土へと還っていく。
「篠田さん、本当のこと言うの、やっぱり辛かった?」
「情けない話だよ、ほんと」
「私も、そんな勇気はない。もし、あの『ガキ』が、篠田さんのことのように私の本当のことを言ったら、何をするか分からない」
「……そうか。でも、俺に対してそう言ってくれるなら逆に嬉しいけどな」
深地は何も言わずにゆっくりと顔を伏せる。
浩輔もあえてそれ以上は踏み込もうとしなかった。
会話の止まった外の空間には、雨が地面と建造物に当たる音だけが響いていた。先の空も、そのまたずっと先の空も切れ目のない雲がかかっている。
遠くからいつ銃で狙われてもおかしくない状況だというのに、二人は時間を忘れ、小さな世界を蹂躙するかのように降り注ぐ雨音に聞き入っていた。自分達の心の奥底を蝕む決して変えることの出来ない過去を、静かに見つめ続けているかのように。
時間を忘れてふけっていると、下の倉庫部屋の扉が開き、何やら少年達の声が聞こえてくる。
深知は揺れるように立ち上がり、浩輔の耳元で小さく囁いた。
「勇治はいずれあなたの敵となるかもしれない」
「……え?」
「あの女とは別の意味で、よ。私の戯言だから気にしなくていいけど」
相手の反応を確認せぬまま、深知はゆらゆらと真織のいる部屋の中へと入っていく。
続いてドアの閉まる音が二つ。上に誰かが上ってくる気配はない。外の状況を確認しただけだろうか。もはや、聞き耳を立てるだけの好奇心なぞ残ってはいないのに。
浩輔はそのままアパートの壁に背を預けながら、深知の言葉の意味を何度となく反芻していた。
そして、今の自分の心境なら、その答えがあっさりと出てしまうのが何とも皮肉であった。――そう、今の自分には、その答えしか出せない。彼女も分かってて言ったのだ。
勇治とホムンクルスたちが下の部屋で何をやっているのかも大方予想がついている。
今は、待つだけだ。
だが、その時までに、自身の『答え』を出さなければいけない。
決めなければならない。
ずっと、先延ばしにしていた、己の言葉を。
「――篠田さん?どうしたんですか?こんなところで……」
覚悟を決めたという少年の言葉が、その決意への最後の問いかけとなる。しかし、今の自分に、用があるのは彼ではない。
やや疲労の色が出ている勇治とその後ろにいたメローネとは視線だけでやり取りをし、浩輔は階段を下りて、一階の倉庫へと入る。ドアのノックは最低限の礼儀として。
中には戦略の詰めを練っているリーンと、やはりどこかくたびれた様子のミューアの姿。部屋に足を踏み入れた瞬間は、二人とも一様に戸惑う様子を見せるが、そこから先の反応は別れた。
「お前等が勇治に何をやったのかは大体想像がついているよ。それだったら、疲れているところ悪いが――頼みがある」
答え合わせはミューアの顔の動きで十分だった。
ならば、後は、請うだけ。
こんな頭なら、幾らでも下げてよい。
「俺を、アルク・ミラーに調製してくれ」




