75.目覚める狂気
その時、日比谷公園にいた全ての人間の虚をついた奇襲攻撃。
その場に突如姿を表した大男は自分の身長ほどもある大型の銃を肩にかけ、静かに残心する。
「うおぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁっ!!ウォォォォォォォダアァァァァァァーーーッ!」
目の前の惨状に対して、誰よりも先に咆哮したのは愛樹であった。
「よくもよくもよくもよくもよくもよくもぉよくもああぁぁ、邪魔しやがったなあぁぁぁっ!?」
喉が擦り切れるような怒声を上げながら、愛樹は複雑骨折した腕などお構いなしに一瞬で錬装化を行い、二人の決闘を終わらせた大男に全速力で向かっていく。相手の回答を待つこともないままに殺気丸出しの蹴りが繰り出されるが、ウォーダは溜め息交じりにそれをあっさりと回避した。
「……ふん、助けてやったのに随分な言い草だ」
「うるせぇこの狗がぁっ!そういう事じゃねぇぇぇぇぇっ!!」
「これだから人間は分からん……」
尚も怒声を上げながら、脚を振り回す愛樹。それでも明理との戦いのダメージは隠しきれないようで、その攻撃は尽く避けられていた。ウォーダの方も付き合いきれないといった呆れた表情で、それを捌いている様子だ。
だが、今の浩輔にとってはそれももはやどうでもいいことであった。異様な姿の乱入者に震えて身を屈めるギャラリーをよそに、おぼつかない足取りで一人明理の傍に近寄っていく。
「あ、かり、さん……?」
――絶念、それは誰の目で見ても明らかな絶望。
左肩は、消滅。短くなった左腕は、体から十メートルは離れたところに飛ばされていた。
そして、
そして――
切断面から、止め処なく溢れる、血。
止まる気配など、全くない。
口は小さく開き、目は前髪で隠れたまま、開いているのか、閉じられないだけか。
呼吸は……分からない。
「どっ……!」
浩輔は膝を落として、明理の傷口に手を当てて、押さえる。
馬鹿な行為だとは分かっていても、裂傷が自分の手の平より広がっていたとしても。
無意識的に、本能的に、体が動いていた。
「あ、甘かったのか……!?俺も、あんたも、考えが……!」
浩輔の手の指の間から漏れてくる血液。その絶え間ない流れ。
今まで築いてきたものが、思考が、一気に叩き壊された感覚。
幻想から地獄へと一瞬にして引きずり下ろされた感触。
明理の胸の動きは……見られない。
血に塗れた左手を彼女の口の上まで伸ばす……空気の揺れは感じられない。
(こんな状態で……どうやって助かるってんだっ……?)
明理の唇に一滴の血が滴り落ちる。
血塗れの手は首を掴み、何をするでもなく途方に暮れてしまう。
浩輔の視界が歪み、胸の奥が急激に冷めていく感覚を覚える。
(あ、ああ……そうだった……俺は、俺は……この人のことが……そうだった……東郷もそこまで分かって言ってたんだ……そうだ……そうだ……)
視界が曖昧になると同時に、浩輔の瞳孔が次第に狭まっていく。
体全体が震え、顔全体が引きつり、口元から妙な笑みが漏れ、涎が垂れ落ちる。
夜の闇が浩輔の周囲だけ、一層黒く、重く、覆いかぶさった。
「……落ち着け、アイキ。俺があの女をただ倒すために不意打ちしたと思っているのか?」
「るせぇっ!!勝てばいいんだろうがっ!貴様もっ、あのババアもっ……!」
二人の攻防はしばらく続いていたが、ウォーダが途中で明理の体に近づいた浩輔の姿を横目で捉えると、軽く舌打ちしながら迫る愛樹を突き飛ばす。
「……ちっ、余計な邪魔が入ったか。奴を引き離す――」
「余計な邪魔はてめぇだぁっ!」
再度、電磁加速砲を構えなおすウォーダの頬に鈍い蹴りが入る。ここまで来ると、流石のウォーダもやや憤激気味なのが表情に出ていた。
「貴様、いい加減に……!」
「クソ狗がぁっ……!」
愛樹とウォーダ、二人の怒りが拳となって交差した瞬間――
「がっ……あぅぁっ……!?」
その時、天を仰いだ手があった。
呻き声を上げた浩輔も、一瞬何が起こったのか全く把握できなかった。
ただ、途端に左半身が軽くなり、そして残りの全身に焼けるような熱さが走る。
愛樹とウォーダも、互いの拳を受けながら、その瞬間の結果を、唖然とした目で見ていた。
「ュ……ァ……ショ……ゥ……」
大股に開き、歪みなく地につかれた二本の長い脚。
左肩からわき腹に至るまで消滅し、心臓すらも抉れているのではないのかと思える傷から、重力に逆らうかのように漏れる血液。そんな状態でも、猫背のままでありながら、起こされた体。
汗と熱気で湿った栗色の前髪から無機質な茶色の瞳をのぞかせ、口元を酷く歪ませるその女の右手には……人の腕が握られていた。
「あぁっ……!?うあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
その脇、足元で、浩輔がこの世のものとは思えない形相で、左肩を押さえながらその場に体を崩し、倒れこむ。左肩から先を失い、さらに傷口を押さえる手からはドス黒い出血が漏れていた。
浩輔のその左肩から先を握った女は、流れるような動作でその腕を自分の左肩の傷口へと近づける。
女の体からアルク・ミラーのものと同じ光の象形文字が流れたかと思うと、肉体が粘菌のように形を変えて浩輔の腕に伸び、絡むと、滴る血液を舐めるようにさらに皮膚が伸び、致命傷ともいえる傷が塞がっていく。完全に取り込まれた浩輔の腕からは、動脈から毛細血管の形がまるで暴れるように浮き上がるが、すぐに光の象形文字が腕全体に広がり、何事もなかったかのようにその女の一部となる。
「な、なんだっ!?なんて滅茶苦茶なことをっ!なんなんだよあの女は!?」
新たに自分のものとなった左腕の感触を無表情で確かめる女の姿に、流石の愛樹の肝を冷やしていた。その隣では、ウォーダが静かに電磁加速砲の照準を前方の女に定めており、その場にいる全員が呆気に取られている中、何の躊躇いもなく引き金が引かれる。
「…………駄目かっ!」
電磁加速砲から発射された弾は女の背後の建物を破壊し、周囲に轟音を撒き散らす。しかし、当の本人は全くの無傷。回避動作の痕跡すら見せずに、その場から数メートル横に平然と片足で立ち、未だに左手を閉じたり開いたりしてその状態を確認していた。
やがて、顔がゆっくりと上がり、見下ろすような目つきで、ウォーダと愛樹の姿を捉える。
「くそっ、確証が取れたから言っておく。奴は人造人間だ……!」
ウォーダから苦々しそうに放たれた一言に、愛樹が口早に尋ねる。
「ど、どういうことなんだ!?あの女は錬装化していたじゃないか!人造人間にはアルク・ミラーは使えないんじゃなかったのか!?」
「マスターが言うには、な」
「ふ、ざけるな……!」
自分が今まで戦っていた人物の正体に愕然とする愛樹。
人造人間と断定された女は、静かに口を開く。
「キサマラ、デハ、アイテニ、ナランガ」
まるで機械のような片言言葉での話し方とその台詞に、愛樹も本能的に身構える。
「シケン、カドウ、ダ」
明理が両手を広げると、愛樹とウォーダの体に電気でも流れたような痺れが走る。
何かしらの力か、それとも単なる殺気か。
ウォーダがすかさず次の弾を撃つが、それも生身のまま最小限の動きで回避される。
再装填のため一旦後ろに下がるウォーダの動きと共に、愛樹も一歩足を下げようとしたが、すんでのところでそれが止まる。愛樹は口の中の歯全てを噛み締めながら、鼻息を荒らげ明理と対峙していた。
「……錬装昇甲」
明理の口から一言、錬装化のための台詞が呟かれる。女の声帯とは思えぬほどの低く澱んだ声から、その言葉の僅かな違いを理解するのに、一瞬思考が止まる。それが通常の錬装化と異なるものだと気づいたときには、相手に攻撃の隙を与えるまもなく光の文字の拡散は終わっていた。
『アルク・サイド。システム、オーバーエクスプレッション』
今までは全く流れてこなかったはずの、オリジナルのものと全く同じ認識音声。
愛樹とウォーダは絶句していた。
それは今までのシグ・フェイスとしての姿とは全く異なる装甲の形状。いや、装甲と呼ぶにはあまりにも有機的過ぎた。色彩は今までと同じく白を基調としながら、四肢及び間接部はまるで甲虫を思わせるような多間接と曲線を多用した形状。フェイスガードはまるでこれから相手を捕食でもするかのような殺意を感じさせる鋭利な意匠。
「こ、これが……あんたの本気ってワケか……!」
詰まりそうになる息を押し出しながら、愛樹は一歩踏み出す。小刻みに振動する奥歯を無理やり食いしばり、目の前の相手へと向かい合う。
「よせっ!アイキっ!」
「勝てる相手としか戦えない狗は引っ込んでろっ!コイツと戦わないと僕は――」
それは、戦闘に特化した思考には到底できない人間の矜持。譲ることのできない部分。ウォーダの警告を振り切った愛樹はほとんど特攻同然に明理の元へと迫っていく。
腕は既に使い物にならない。全力の蹴りを浴びせるしか勝算はない。既に愛樹の脳内に戦略というものはなかった。あるのは目の前の恐怖に抗うためにひたすらに燃やし続ける、人間の意地。
真紅の装甲全体から小爆発が起こる。今までのように一瞬で相手の死角を付くための推進……ウォーダはそう思った。手の内を知る相手ならそう思うのが必定だった。
が、爆発により砂埃が舞い、周囲の視界を遮ったものの、愛樹は一切そこから動いていなかった。これはフェイントの意味も結果的にあるが、最大の理由は逆。全身から爆発により、自分の体をその場に固定したのだ。すなわち、全身を『軸』にした。
その状態から繰り出される、正面からの最大威力での、蹴り。
愛樹自身も小細工を弄したとは思っていない。これが今の自分にできる唯一つの対峙法。
「……ニンゲン、ラシイ……」
距離数十センチ程度の人間にしか聞こえないような呟き。
そして、ボールでも割れたかのような鋭い破裂音と共に、二人の周囲の砂煙が一気に晴れる。
先程の攻撃の結果は……日の目を見るより、明らかであった。
「ぁっ……か、なっ……!?」
「…………ムダヲ、アイスル、ニンゲン……ソノモノ」
愛樹は正面から対峙し、攻撃した。
明理も、その場を動いていなかった。
明理は左手を構えているだけだ。その手には、思わず目を背けてしまうほどの光が放たれている。
愛樹の右脚、腿から先は内部から爆発でもしたかのようにバラバラになっていた。
細切れになった肉片はそれぞれ地面へと飛び散っていったかと思うと、次々に光の象形文字を吹き出しながら、爆竹が破裂するかのごとく砕け散っていく。その跡には文字通り血痕一つ残っていない。
「あの力……錬金術そのものだというのか……!?」
ウォーダは状況を理解すると同時に、電磁加速砲をその場に放り投げ、飛び出す。
愛樹は後先の思考無しに全力で攻撃した反動で、地面に倒れこもうとしている。そして、彼の体が地面に付く暇も与えないとばかりに、明理の光り輝く左手は既に追撃体勢に入っていた。彼女の左手が愛樹の頭部を捕らえる寸前に、ウォーダが彼の体を掴み、後ろの茂みへと放り投げる。
一切の動揺もなく対象を変えられた攻撃を皮一枚でかわすと、ウォーダはそのまま身を翻して、愛樹を放り投げた茂みの中へと飛び込み再び彼を掴む。
(くそっ、とんだ皮肉ってやつだ!)
ウォーダは寸分の迷いもなく、その場から逃げることを選択していた。しかもその理由は『目の前の相手にはどう足掻いても勝てない』という確信によるもの。
ミューアの話によれば、ウォーダの思考ルーチンには、過去から現代に至るまで数多くの戦闘のプロのものが取り入られている。ユミルが過去に直接コードを抜き取って手に入れたものらしく、作成には結構な手間隙がかかっているとの事であった。
その戦闘のプロの判断故に逃げる。全力で逃げるしかない。
違うといえば、ユミル製のオリジナルのアルク・ミラーである愛樹は回収しなければならない、ということだ。どんな形であろうと、錬金術を理解した者があの女の背後にいるのならば。
「来るかっ!」
当然、明理は二人を追ってくる、そこまでは予想の必要すらない。
ウォーダは愛樹の体を右手で抱え、さらに後方に飛びのく。その位置にコンマ数秒という差で、空間そのものを削り取るような蹴りの軌跡が走った。しかも次の瞬間にはすぐにウォーダの目と鼻の先まで攻まり、例の光り輝く左手を繰り出そうとしている。
(かかれっ!)
ウォーダが微かな眼球の動きと共に、左手の内のスイッチを押すと、側面から爆音と稲妻を兼ね備えた衝撃が走り明理の体が崩れる。
黎明の研究者達が酔狂で取り付けていた電磁加速砲の自動発射機構――
先程銃を投げ捨てた時に、あらかじめ狙いをつけていたのだ。弾丸の装填数は一発だけにチャンスも一回だが、これをモノにするのが普通であるかどうか、人間であるかどうかの違いだ。
弾丸が直撃したのか、それとも衝撃でバランスを崩させただけか。そんな結果を確認することすらなしに、ウォーダは一目散にその場から離れる。
(一先ずは成功……!)
主人であるユミルが、何故人間の部下を持たずに、人造人間を携えているのか。単に人を信用できないからだろうと、黎明の人間が言っていたのをウォーダも聞いたことがあった。
勿論完全なる忠誠心も理由の一つだが、もう一つ重要なのは人造故の思考速度の付与であった。人間の持つ人格……いわば余計な感情をそぎ落とした最適かつ迅速な判断力を持たせること。
「……ヤハリ、コノテイド、ダナ」
ウォーダの視界が揺れ、全身が止まる。
止めているのは……右腕。それを掴む、白い装甲を纏った右手。
愛樹の体を離すのと同時にウォーダの右腕から光の象形文字が噴出し、次々に筋肉が、血管が破裂していく。しかも、それを引き起こす『何か』の感触は、腕から徐々に肩の方へと湧き上がって来ている。左手の手刀により自らの右腕を切り落としたのは、作り物故の判断――むしろ直感に近いものであった。
瞬時に数メートル距離を取る……それ以上は離れられなかった。……愛樹がいるからだ。
『――とは言っても、自分以外の守る者を設定している時点で結構な穴があると思うんですよね。でも、それが先生らしいところというか、優しさというか――』
錬金術を使えるようにするためとはいえ、人造人間の中でも群を抜いて余計な思考ルーチンを持たされたミューアが冗談交じりに話していた内容が、最悪のタイミングで現実のものとなってしまう。
それだけ、目の前の敵は人の持つ想定を超越した存在であった。もはや憤る余裕すらないウォーダは、空中で光を吐き出しながら霧散していく自分の腕を横目に、最後手段に出る腹積もりで左の拳を握り締める。
しかし、明理はその手段を潰す最適解として、地面に横たわる愛樹を庇うようにウォーダの前に立ちはだかった。
「コイツトトモニ、アトカタモ、ナク、ジバク、カ?」
「貴様っ……!」
作戦を完全に読まれたウォーダはすぐさま次の手段への思考を迫られる。それでも、次に想定されるのは、相手が自分の行動の先を読んでくるという事態。あってはならない確信。思考を続けようとも、繰り返そうとも無駄。全ては一つの結末へと収束されていく。
「何者だ、お前は……!」
最後に出たのは、戦闘のプロフェッショナルには決してあってはならない無様な問いかけであった。
明理は静かに両手を下ろし、フェイスガード越しに熱気の篭った白い息を吐き出す。
「ユミルハ、イマドコニイル?」
「……っ!?」
「コード、ヲ、ワタセ」
明理の右手が今度は白色に発光し、ウォーダの顔面へと近づいていく。
「悪いな!俺も主人の居場所は知らん!コードを読み取ろうと無駄だっ!」
ウォーダの答えは嘘であった。
目の前の相手はユミルの居場所を知りたがっている。それが、目的だ。
ならば、自分が死ねば時間が稼げる。コードを読み取られる前に殺されればいい。始末できなかったのは不覚だったが、愛樹も彼女の居場所は知らない。
これが、この時点の最適解であり、そして、最後の不始末は……
「キュウガタノ、ホムンクルス、ガ」
「……何だとっ!?」
「キサマノ、シコウパターンハ――!」
直前に発せられた、あまりにも意味深な言葉。
明理の右手は白い輝きを保ったまま、ウォーダの顔面へと振り下ろされた。