71.5日目②
政府が国家非常事態宣言を出そうとも、時既に遅し。
そもそも情報伝達手段が掌握されてしまった現状で、国民に伝わることもない。
時刻はまだ夜8時、そして仮にも東京都内の住宅街だというのに、周囲には灯り一つない。街灯も所々壊されており、澱んだ空が田舎のそれとは違う夜陰を作り上げていた。いつもの神経質な犬の鳴き声も野生の本能からか成りを潜め、付近住民達はまるで空襲でも恐れるかのような薄暗い室内で息を殺しながら、たまに来る車やバイクのエンジン音を恋しく思い始めている頃――。
とある古いアパートの一角で、親と子ほどに歳の離れた男二人の静かな戦いが始まっていた。
「……で、今日はどういった用件ですか。俺を勧誘でもするつもりですか?」
「最初からそのつもりはないし、そもそも不可能だ。今の私に、黎明を動かす権限は無い」
「どういうこと、ですか?」
「元々、彼等とはそういう契約だったのだよ。オペレーション・デイライトのフェイズ2……今の状態が始まったら私は上から退く、と。単なる人集めの文句というのもあるがな」
「そう言えば、この前言ってましたね、自分の命よりもこの作戦の実行が重要だと」
「君達から見てどうだ?この作戦を止めるための算段の一つでもついたか?」
挑発めいた東郷の言葉に、浩輔の喉の奥が詰まる。
仕草にこそ出さないように努めるが、回答が分かったうえの質問には不快感を隠せない。
「俺はただの一般人ですよ。どこぞやの軍師じゃないんだし、そんだけ頭が回れば、今頃もっといい仕事についてます」
「打つ手なし、というところか」
「それも図星ですけど。ですが、現時点で一つ確実に言えるのは、今更黎明を壊滅させたところで、そう簡単にこの騒ぎは収まらない。時間が経てば経つほど、騒動の根本が黎明の手から離れる仕組みになっている。それこそ、昔の漫画であったスタンドアローンコンプレックスとかいうやつみたいなものですか。実体のない物を壊すとか言っておきながら、それに代わるものを新たに作り出そうとしている……俺はそう思っているんですけど」
「その通りだ。この作戦は『社会に不満を持つ、何も事情を知らない一般人』がいてこそ成り立つ」
「しかし、この状態を意図的に、それも国家を形成する意思をも相手取る勢いのものを作り出すには、引き金を引くだけにも相当な準備と人員と力が必要となる」
「そのために、『あまりにも突拍子な人知を超えた力』を利用させて貰った、そういうことだ」
この社会全体の防災システム……物理的な防衛力に加え、法、思想、常識という精神的な壁。これらを突破して世の中に火種を上手く蒔くことが出来れば、あとは勝手に世界が炎上していくのを見るだけでよい。
そして、錬装機兵、ひいては錬金術もそのための引き金に過ぎないということを、東郷はいとも簡単に認めた。
認めるということは、相手に知られても痛くもかゆくもないということだ。事情を知らない者が絶好の機会とばかりに暴走していく事態を止めるには程遠い。
「聞かせてもらえないでしょうか?どうして、あなたがこんなことを起こしたのか」
「提案がある。邪魔が入る前に簡潔に済ませたいし、今回は互いに質問を3回づつにしないか?」
「別に構いませんよ。というか、あなたも聞きたいことがあるんですね。大抵のことは知っているのかと思っていたんですが」
「ああ、まずは君からでいいよ」
結局、相手に場を仕切られているような気がして釈然としないながらも、浩輔は感情の篭りがちな手をちゃぶ台の下に隠し、思考を整えた。
「では、俺から。今尋ねたのと同じです。このオペレーション・デイライトとやらの目的及び動機について」
「一言で言えば、今、この時を生きる、人間の本性を確かめたいがためだ。人があらゆる社会的・精神的束縛から解放されたとき、どのような行動を取るか、この世の中がどうなるか」
「要するに、この国の人間を試している、ということですか?」
「そういうことだ。私のことをどう思おうと構わんよ。しかし、正気の沙汰では為せない所業だというのは自覚しているつもりだ」
「……それだけ?」
「そうだ」
東郷はきっぱりと言い切る。
湯飲みに手をつける素振りはない。喉を鳴らす様子もない。
しかも、その答えは相手の意見を先回りしているようで、その辺も浩輔の気に障った。
「だったら……質問2、いいですか?」
「ああ」
「『あなた自身』は、この国が、この国の人々が、どんな風になってほしいんですか?俺の批評がどうだっていいいんだってなら、正直に答えてください。建前ではなく、あなた自身の正直な本音、理想を」
間髪入れず、語気を強めた浩輔の問いに対して、東郷は口を緩め、愉快そうに笑った。声が外に漏れないように努めていることは分かるが、それでも今まで見せたことのない表情であった。
「おいおい、いいのか?質問の2つを私の動機なんぞに使って。君は他にも知りたいことがあるはずだろう?」
「そうですね。知りたいこと、知るべきことはいくらでもあります。……ですが、この質問は、『あなたにしか回答できないこと』です。だから、尋ねている」
若者のブレのない眼差しに、東郷の眉間の皺が僅かに緩む。本当に誤差くらいのものであるが。
しかし、肩は見て分かるくらいに落ちた。天井を仰ぐように大きな溜息も漏れた。
浩輔は、この質問が当たりであることを確信した。
「……ならば、正直に言おうか。『そんなものはない』」
「はぁっ!?」
「更に補足しようか。私自身の考えとしては、この国、人々がどうなろうと知ったことではない。無論、この国に限らず、世界がどうなろうと構わん。滅びようが、戦争しようが、独裁者による恐怖政治がなされようが、みんな仲良く手を取り合って世界平和にでもなろうがな」
予想外の答えに浩輔は逆にとてつもない失望感を覚える。
が、それでも、目の前の男から『小物臭さ』は一切感じられなかった。
それが不思議でならなかった。
「何が知ったこっちゃないですかっ!?大勢の前であんなこと言っておきながら!」
「あれは、部下の連中が勝手にやったことだ」
「いや、思いっきりあんたが話してたじゃないですか!?」
「あれはユミル殿に作ってもらった操り肉人形だよ。以前、有楽町で演説した時に銃撃されていたものがそれだ。彼女の力を使って、別の人間に私の顔と声を再現させたものだ。また、私の公の生体情報はそいつのものを使っている。それで……」
「公には死んだと見せかけた……ってか、今となっては意味ないですけどね」
「部下が私に隠れてあんなものを撮影していたのには少し驚いたがね。まったく、元々デイライトのフェイズ2も無言でやるように、とは言っていたんだが。やはり連中は単に民衆に力を見せ付けて、自分達が世の支配者になり代わりたいだけらしい」
「どんだけ自分の部下を信頼してないんですか……」
「組織が大きくなると、そういう虫も増えてくる。私が目的のため、建前で言っていることを真に受ける者はともかくとして、それを単に利用する輩だって当然いるだろうさ」
浩輔の頭の中で、目の前の人間の人物像が凄まじい勢いで移り変わっていく。
その監視の目が一瞬揺らいだ隙を見計らってか、東郷は静かにお茶をすすっていた。
「……さて、サービスが過ぎたようだが、君の質問はあと一つだ。何を聞きたい?」
「あなたの質問も一応聞いておきたいです。最後のはそれ次第で」
「いいだろう。では、私の質問一つ目」
浩輔も少し熱くなり過ぎたと、湯飲みに口をつける。
「あの裕眞明理という女のことについて、君が知っている限りのことを教えて欲しい」
「…………」
「どうした?質問に答えてくれ」
予想だにしなかった質問に、脳が別方向のベクトルへの回転を求められ、つまるところ困惑した。
「あー……でも、当然か。警戒しているのは分かりますけど、期待しているようなことは言えませんよ?」
「君が知っている範囲で構わん。君が一番彼女のことを知っているはずだからな」
そう断言されつつも、浩輔は改めて考えてみて更に戸惑ってしまう。
自分が彼女について知っていること。
口にしようとしても上手く答えが出てこない。
あまりにも慣れすぎてしまって、深く考えていない部分であった。
……いや。
「むしろ、俺が教えてくださいって感じなんですけど……」
「嘘をついている顔ではないな」
「ナリは見ての通りです。年齢不詳。多分20代?まず、滅茶苦茶強い。生身でも武装したヤクザ1ダースは相手に出来るでしょう。変身したらそれはもうって感じですね。普段はすっごい我侭ですっごい怠け者ですっごい大飯ぐらいですけど、有事には頭は回るし、戦闘に関してはスペシャリスト、的な?好物は……何でも食うなぁ……好き嫌いは無し。趣味は悪人いじめ。昔のことは記憶喪失だからの一言で済ませられちゃったし。あとは、うーん……」
悪気も意図もないとはいえ、結果的に不真面目な回答になってしまう浩輔の姿を一通り確認すると、東郷は静かに溜息をつく。
「……それで十分だ」
「なんだか、凄く申し訳ないような気分になりますね」
「いや、それでいい。君が何も知らないという確認が取れれば」
「いいんですか」
「では、質問の2つ目」
浩輔はおそらく次の質問も不意打ちが来るだろうと読んでいた。
そして、その読みは当たっていた。
「君は、裕眞明理のことをどう思っている?君の本音を聞かせて欲しい」
「……仕返しのつもりですか?」
「いや、始めから考えていた質問だ。答えてくれ」
質問の意図はともかくとして、内容の方でも既に浩輔は答えに詰まっていた。
「どう思うって言われてもな……」
「なぜ、君が自分の生活を犠牲にし、身の危険を犯してまで彼女に協力するのか。君の本来の素性も知っているが、単なるヒーローごっこはともかく、その相手を彼女とした理由だ」
「随分と含みのある言い方ですね。その答えは先日、あなたが言ったことではないんですか?」
「あれは私の仮定だ。君自身の答えは……人目もあったし言い難かっただろう?」
「それは、あんな力を持っているから……」
「それなら、他の者に協力を求めてもよかったのではないか?単に君の目的を達するだけなら、それでも良かったはずだ」
先日と同じだ。
東郷は浩輔のことを自分と似ていると、評した。
浩輔自身はそれを認めるつもりはないが、まるで自分の行いを反省するかのように問いかける語り口は、自分の腹の底を抉られるようで到底我慢できるようなものではない。
「答え難いなら先に言っておこうか。彼女の素性について」
「人に聞いておきながら……」
「いや、分からないのだ。シグ・フェイスという存在を認知してから、黎明の総力をもって彼女の過去を洗った。それでも、何も出てこないのだ」
「…………」
「結論から言おう。彼女は存在しないはずの人間だ」
浩輔は湯飲みの中のすっかり温くなったお茶を一口飲み込む。
「だけど黎明の手が届く範囲って、所詮は日本国内に留まるんでしょう?彼女が海外から来た可能性だってあります。渡航記録がなくても……あの人なら泳いで渡れそうですからね」
「ほう、君は彼女が海外から来た人間、単にそうだと思うのかね?その他の可能性はないのか?」
「その他って……他に何があるんですか?」
「例えば、宇宙人。他には未来人、異世界人……」
「はぁっ!?何をそんな急に馬鹿なことを!?」
「錬金術がある世の中だよ。何が在ってもおかしくはない」
あまりにも馬鹿げている。
そんな可能性など万に一つもあるはずが……というところで、浩輔の思考が踏みとどまる。
東郷はそんな様子を確かめながら、肩を落として皮肉めいた口調で言った。
「私もこれでいて世界中を回っている。少なくとも、錬金術はユミル殿にしか使えない。いや、使えなかったと言うべきか。アルク・ミラーも人造人間も、彼女にしか作れなかった。そして、ユミル殿自身が、裕眞明理という存在を最も警戒しているのだ。何せシグ・フェイスがこの日本に現れたのは、ユミル殿がこちらに来る前のことだったからな」
「存在しないはずの、存在……」
「そして、彼女は手始めにウォーダというホムンクルスに探りを入れさせる。結果は現場にいた君も知ってのとおりだ。ユミル殿はさらに警戒を強め、岳杉くんを事実上の監視役として相手方に接触させ、様子を探らせた」
「泳がしていた、というわけですね。最も警戒するべきは、彼女のバックにあるはずの存在……」
「そう、最初は君を疑っていた。しかし、君はそんな事とは無縁の一般人。色々と興味深い過去ではあったがな。結局、ユミル殿の言葉によると、裕眞明理の力もアルク・ミラーのコピーではあった、らしい。それでいて性能はオリジナルのものを凌駕する」
「……つまりは、こういうことですか?」
「私の口から言おう。君はあの裕眞明理という女が信頼に足る存在だと思っているのか?」
――謀略。
東郷の言葉を聞いた瞬間に、浩輔もその考えを否定しようとはした。
「……少なくとも、黎明の奴等よりは」
「分からんぞ、単に漁夫の利を狙っているかもしれん」
「変な工作は止めてくださいよ、ますますあなたを見損ないます」
「そうか、なら警告だけに留めておこう。気をつけておけよ」
東郷はこれ以上追求することはしなかったが、それがかえって疑心暗鬼を掻き立てる。
流石にこの辺りの年季は、といったところ。
認めたくない。
認めたくはないにしても。
浩輔はそう思うことにした。
「さて、質問の3つ目はどちらからにする?」
「…………」
「私からでいいかな?」
浩輔は静かに頷く。動揺は完全に気づかれているだろう。
そう分かっていても相手の出方を伺うしかない。
「ここ数日の間で、ユミル殿の部下からの接触はなかったか?」
「えっ?」
「回答はその反応で十分だ。君の質問をどうぞ」
3つ目の質問は、ものの十数秒で終わる。
浩輔が次の言葉を発することが出来ないでいる間に、東郷はお茶を飲み干し、次の一杯を急須に注いでいた。これもサービスか気遣いなのかと、考える暇もない。
首を軽く横に振り、一呼吸置いて、最後の質問を選定する。
最後にまさかの質問と言うのもあった。それも聞き出したくはあるが。
……しかし、やはり、どうしても聞きたい質問はこれしかなかった。
「俺の質問3つ目。あなたとユミルとかいうお婆さんの関係について」
「定石だな。しかし、彼女の素性ではなく、私との関係と来るか」
「あなた自身も彼女のことを良く知らない可能性がありますからね。これも返しですけど」
東郷は新しく淹れたお茶の湯気の具合を確かめたのち、浩輔に視線を合わせる。
「彼女は昔の恩人だ。無論、彼女には彼女なりの目的があるのも承知している」
「勇治くんからある程度話は聞いていますけど、彼女自身も黎明の人達から嫌われ、警戒されているみたいですね。……まぁ、あなたの目的からすると、彼女の存在はどうでもいいみたいですけど」
「そうだな」
「ですけど、明理さんをあれだけ警戒しておきながら、ユミルさんがあなたの目的を妨害しようとすることは考えないんですか?」
「それはない。仮にあったとしてもそれは別に構わない」
「……それは、恩人だから、ですか?」
「そういう事にしておこうか」
最後はどうにもはぐらかされたような気がするが、浩輔はこれ以上の回答を求めなかった。
自分に向けての質問と合わせて、知りたいことの一つの答えが固まったからだ。
東郷もちょうど良いタイミングかとお茶を一気に飲み干し、腰を上げた。
「本当に質問3つで帰るんですね」
「ああ……それと、殺意が、近づいているからな」
実のところ浩輔も腰の辺りに拳銃を仕込んではいるのだが。
撃とうという素振りは見せてないし、今ここで撃つ気も起きていない。
「……明理さんですか?」
「違うな。ただのチンピラだ」
東郷が靴を履いて玄関のドアを開けた瞬間、外、それもかなり近くから窓ガラスを割る音、そして年配の女性の悲鳴が鳴り響く。
浩輔も部屋の電気を消し、東郷に続いて外の様子を伺う。
近くに灯りは見えない。だが、物音はする。何から壊されている音。
そして、低い笑い声。これは男のものだ。
浩輔も無意識的に腰の拳銃に手をかける。
東郷はゆっくりと、だが確実に周囲に音を響かせるようにアパートの階段を下りる。
「こんな夜分に灯りもなしに、それもこんな住宅街に何の用かな?」
「……あぁ?なんだぁおっさん?」
若そうな男の声と共に、アパートの前に人影が次々に現れる。
目が慣れていないせいで、容姿まではよく分からないが、少なくとも5人以上。
「へっ、俺達はこの世の中を正そうとしてんのよ!」
「ほう、そんな武器でか?」
「世の中が悪くなったのは、みんな糞ジジババ共のせいだ!俺達若者から金と権利を毟り取るだけ取りやがって。先もねぇ癖にのうのうと暮らしてやがる!」
「それでもまだまだ金がねぇ金がねぇってな!ふざけてやがるぜ!」
「だから、口減らししてやってんのよ!昔だって姥捨て山とかあったんだろ?だったら、ジジババ共はとっととぶっ殺すのが良しってね!」
色々と突っ込みたいところがあるが、浩輔はいよいよ拳銃を取り出した。
このボロアパートに住む人は、自分と明理以外は皆65歳以上だ。いや、このアパートだけではない。近所にも結構な数の高齢者がいる。年寄りを狙うだけならともかく、それを守ろうとする家族もいるかもしれない。こんな状態の相手にまともな倫理観を期待してはいけない。
「君達の事情も分からなくはないが……この付近の年配の方には、私が以前お世話になった人も多い。どうか見逃してやってくれないだろうか?」
冗談のような東郷の返しに暴漢達は素っ頓狂な声を上げ、すぐに罵り声に変えた。
「てめぇ、寝ぼけてんのか!?」
「たしかに生活保護受給世帯の半数が高齢者だ。君達の憤りもよく分かる。しかし、この付近には受給者はいないはずだが?デイブレイクで検索をかければ誰が受給しているか、どの地域に住んでいるかはすぐに分かるはずだぞ?年金問題について文句を言いたいのなら、消えた年金がどこに行ったか、誰のせいなのかも載っている。老人の医療費もこの近辺の――」
「ふざけんじゃねぇぞ、おっさんっ!」
暴漢の一人が金属バットらしきもので、近くにあったアパートの大家の自転車を思いっきり殴りつける。どうやら、目が慣れていると言っても暗がりのせいで、目の前の人間が東郷であるということには全く気が付いていないようだ。
「話を聞け。私はただ君達の憎む相手について教えてやってるのだ。無駄な犠牲を出す必要はない」
「そうかい、あんたもリケンが惜しいんだなぁっ!!」
東郷の言葉など聞く耳も持たないと言わんばかりに、一人が金属バットを振り上げて襲い掛かる。……が、ものの数秒で進んだ向きとは逆方向へ吹っ飛ばされ、コンクリートの壁に背中から叩きつけられていた。
攻撃方法は明理の時と同じパターンだ。……が、こんどはそれを受ける人の事情が違う。
男は背中から崩れ落ちたまま、呻き声一つ発することはなかった。
「物事の優先順位・効率を考えても、君達のやっていることは目的達成の前の無駄が多すぎる。余計な感情と情報が入っているとしか思えんな」
「な、な……!」
「単なる憂さ晴らしは世直しとは言えんぞ?」
「だ、黙れぇっ!!」
暴漢たちが一斉に襲い掛かる。……いや、襲い掛かれない者もいた。明らかに逃げ出そうとする者がいた。そいつは真っ先に攻撃を受け、その周りの人間も次々に地に伏せられる。暴漢たちで生き残った者はただ一人。その場を動かなかった者だけ。
東郷と視線が合うと、最後の人は腰を抜かしたように尻から倒れこむ。
「ひっ、ご、ごめんなさい……!」
「……なぜ私に謝る?君達は正しいことをしていたのではないのか?」
「ち、違います!違いますぅ!い、命だけは……!」
東郷は無言のまま男に背を向ける。
男が犬掻きでもするかのように逃げ出そうとした瞬間、体が浮き上がり、これまた逆方向へと投げ出された。東郷は男の顔面を踏みつけるて動きを止めると、破壊された大家の自転車からスポークを一本ちぎり取り、男の胸を二ヶ所突き刺す。男は首と刺された胸を押さえながら、その場をのた打ち回っていた。
「……最も正すべきは貴様だ。存分に苦しんで死ぬがいい。助けを求めるなら、自分の人徳に期待するのだな」
東郷は独り言でも呟くかの様に言うと、スポークをそのその場に放り捨てる。
その場を離れようとすると、それを追いかけるようにアパートの一階のドアが開け放たれた。部屋の位置からして大家。浩輔も階段を下りている最中だったが、ちょうどそれと鉢合わせする形だった。
アパートの大家は暗闇の中でも分かるくらいの悲壮な表情をしていた。
「と、東郷くん……!」
「これで、しばらくこの近辺に近づくものはいないでしょう」
「な、なんだってお前さんがこんなことをよぅ……なんで……!」
いくらマスコミ嫌いの大家でも、今回の騒ぎの張本人は嫌でも知らされているようであった。
浩輔もこの陽気な人物がここまでむせび泣くような姿を見たことはない。
東郷は頭を垂れた老人に向かって一礼すると、そのままいずこへと去っていった。
アパートの他の住民達も騒ぎが収まっておずおずと外に出てきたが、浩輔から事情を知らされると、皆一様に嘆き悲しんだ。
浩輔も住民達が始めて見せる姿に事情が飲み込めないでいると、やがて住民の一人が口を開いた。
「あの東郷くんがテロを起こすなんて、昔の彼からじゃとても考えられないんだよ……」
「あなたまで知り合いだったんですか?」
「……このアパートの住民はほとんど知ってるよ」
浩輔はここの住民のことを深く詮索しようと思ったことはなかったが、昔から住んでいる人が多いというのなら、それも別段おかしくはない話ではあった。
「わしにとっては東郷くんは命の恩人だったんだ……昔ヤクザに絡まれたところを助けて貰ってな。ところが、遅れて来た警察は東郷くんの方を傷害罪で逮捕しようとした。あの時はわしもこれ以上ないくらいに喚いたよ」
「…………」
「それだけじゃないさ。ここのアパートの住人は皆東郷くんに世話になった。俺たち、どうしようもない男達にとってのヒーローだった」
「東郷くんの事を超のつく右翼だとか、弱者を容赦なく切り捨てるような奴とか言われてるけど……そんなことはない。彼は優秀な男だったが、弱肉強食という言葉を誰よりも嫌っていた」
老人達の話は尽きることを知らなかった。石油か温泉を堀りあてでもしたかのように、止め処なく記憶があふれ出していた。浩輔は老人達の思い出話を黙って聞きながら、その場に腰を下ろしアパートの外壁に背を預け、空を見上げる。
「何が世の中がどうなろうと構わない、だよ……!」
星々の光は確かにこの上にあるはずなのに、人間の目では輝きを感じることすら出来ない。
都会の夜空はどこまでも深く澱んでいた。