6.夢の職業
「あ、先輩!こんにちはー!」
こんなしがないフリーター生活にも癒しはある。
店先の掃除をしていた俺に、爽やかな挨拶をかけた彼女の名前は八瀬真織。
二十歳。ここから二駅ほど行った所にある大学の経済学部二年生。一言で言って可愛い。
スタイルもいい。性格もいい。声もどこか透き通っている。加えて少々ドジっ子。
その分競争率もかなり高い。ややウェーブがかった黒色ロングの髪は、どこかお嬢様っぽささえ感じさせるが、くりっとした悪意の無い丸い目が親しみやすさを感じさせる。まぁ、どのみち高嶺の花であることは間違いない。
年収一千万の男を取るなら、彼女くらいのスペックは欲しいところ。
「ああ、こんにちは。今日は昼からだっけ?」
「授業は午前だけなんで」
大学ってのはいいもんだ。人生の夏休みとはよく言ったものだ。こんな自由を与えられると、人間誰しも腐ってしまうかもしれない。
……その点では彼女は偉い方であはある。彼女目当てで来る客も少なからずおり、売り上げにも多少貢献している。
現時刻は既に昼休みのピークを過ぎており、客足はぼちぼち。余裕があるので、客がいないときには世間話に花を咲かせる時もある。相手が彼女ならなおさらであった。
「そうだ、先輩。シグ・フェイスって知ってます?」
「あ、うん。今有名だよね。テレビでも結構やってるし」
先日の繁華街爆破事件が明理、ひいてはシグ・フェイスのせいだとは、辛うじてまだ誰にもバレてないようだ。
いくつかの週刊誌でチラッと疑われたりもしたが、確証がないため、その噂も日々のニュースに掻き消されることとなった。当の彼女自身も特に気にすることなく、翌日から元気に悪人いじめに励んでいる。
「実は私の友達が昨日シグ・フェイスを見たって言うんですよー!民家の屋根を次から次に飛び移っていたって!本当にいるんですねー!」
「へ、へぇー……」
「先輩はあまり興味無いんですか?」
「い、いや、俺も本当にいるのかなってのが正直なところでさ。テレビとかの企画とかやらせか何かかもしれないし」
「あー、先輩って結構現実主義者なんですね」
現実主義って言うより、これが普通の感覚じゃないだろうか。
変身ヒーローなんて絶対に存在するわけがない。普通だったら。
彼女の目の輝きは、今の浩輔には痛すぎる。
「でもでも!夢がっていいじゃないですか!」
「ゆ、夢?」
「だって、今の世の中、みんなが夢見るようなことなんて全然無いでしょ?」
まさか彼女の口からそんな台詞が吐かれるとは、少し意外でもあった。
彼女自身、結構いい大学に入っているし、将来への希望なんて溢れ出すかようにあるものかと浩輔も思っていた。そこは当人なりの事情があるのだろう。
「八瀬さんは……ないの? 将来の夢とか」
浩輔もつい気になって聞いてみたが、言ったそばから少し後悔してしまう。おそらく自分も、同じことを言われるといい気分はしない。
案の定、真織も少し困ったように乾いた笑みを浮かべる。
「私は……そのー……具体的にはー……ないんですよねー……」
「たしかに、最近は将来の夢とかない方が多数派だよね」
「そうですよ。でも夢を持っていない人は駄目、みたいな風潮があるじゃないですか」
「あぁ……あるかも」
そこら辺は浩輔自身もよく感じているところだ。
「あれ?でもさっきは夢があっていいとか言ってなかった?」
「私が嫌なのは大して好きでもないことを、好きじゃないのかなんて強要されることなんですよ」
彼女の言う所によると、同級生の友人の何人かが既に就活モードに入っているのが納得いかないらしい。しかもその半分以上が公務員志望。大学生の就活は三年の後半頃からだと聞いていた浩輔は、世の中の飛びっぷりに驚きを通り越して呆れてしまう。
「就職難とはいえ、大学入っても受験戦争とは恐れ入ったね」
「それで面接の練習にも付き合わされるんですけど、将来の夢ってのがもう重ったらしくて。全部建前のものなんですよ。私に話してたのと全然違うじゃん!って」
「いいトコ入るためには仕方ないんだよ。嫌な役を演じないといけない時もあるもんさ」
浩輔は『俺みたいな高校中退の身には遠い世界の話なんだぞ』と言う台詞を飲み込む。
「そう……なんですよねー。分かってはいるんですけど……でも、だから、シグ・フェイスみたいな人からは純粋な夢を感じるっていうか……友達から話聞いた時、素直に格好いいなぁーって思いましたもん」
「格好いいかどうかは別として、中々人には真似できないことではあるね。本当だったら」
「やっぱり、子供っぽいですか?」
「いーや、俺もあんな風になれたらいいなって思う時はある」
明理のことは抜きにして、これは浩輔にとっても正直な意見であった。
ヒーローに一度も憧れない人間なんていないはずだ。
問題は、その憧れをいつ見限るかということだけ。
「私も会ってみたいなぁ、シグ・フェイスに。どんな人なんだろう」
「ああ、それは会わない方がいいかも」
「え?」
「いや、何でもない」
君の夢に解体用のスチールボールをブチ当てるようなものだから、なんて事を言えるはずもなく、浩輔は適当に笑って返した。
明理の思惑は実際のところ、結構上手くいっていたりする。
それが世の中にいい事かどうかは、今は分からない。
「それじゃあ先輩、お疲れさまでしたー」
「ああ、次は来週の火曜だね」
彼女との仕事はいつもより短く感じる。話している時間が長いからではあるが。
浩輔は夜勤シフトも多いので、中々時間が被らないのを残念に思っていた。
(まぁ、これはこれ。良い夢見たし、家に住み着く大食いお化けの飯の準備でもするか)
いつものように、チャリに乗って自宅の方向へ。日中シフトの時は廃棄物が貰えないので、道中の激安スーパーで食材を買ってから帰宅する。
先日の『臨時収入』のおかげで、不本意ながらも家計は少し助かっているが、これもいつまで続くか分からない。この一件で彼女が味をしめてしまい、更に金遣いが荒くなってしまったからだ。
その最たる例が……
「ようコースケ、お帰り。早く飯を作れ」
バイト帰りのこんな指令にも慣れたものだが、今までと違って彼女の目の前には3台のディスプレイが。部屋の中心にはゆったりしたソファーと硝子のテーブルを置き、くつろぎスペースを確保。更には大画面液晶テレビ。
当然、こんなもの六畳一間の部屋には入りきれないので、数日前に1LDKの部屋に強制的に引っ越しさせられてしまった。
決して新しい家では無いが、ヒーローの基地に相応しい形になったということか。家賃と光熱費だけで、浩輔の月収の八割を持って行かれるのが不安材料ではある。
何はともあれ、十二分にネット環境を整えたことで、お仕事がやり易くなったのは事実。
何をどう設定したのかは分からないが、警察の百十番通報を傍受する事ができ、以前より遥かに素早く現場に向かう事が出来る。
「うーん」
「どうしたんですか?」
「いや、ここのところ警察への通報がめっきり減っちゃってさ。仕事探しが大変だ」
「いい事じゃないですか。これを期に何かバイトでも始めてください」
流石に『正義のヒーロー』騒動の波紋は、犯罪者予備軍にまで回って来ている。
迂闊に悪さをすると、シグ・フェイスが飛んで来るぞ、と母親が子供たちに言い聞かせているほどだ。さらに三日前、強姦魔を退治した時に、彼の一物をぶった切って口に咥えさせたという、男なら誰しもが縮こまってしまいそうなお仕置きを与えたのも一因だと思う。
「あーあ、もっと金持ってる悪人とか出て来ないかなぁー。強盗系は全部みみっちい奴だから困る」
「その判断基準はおかしい」
いずれはマッチポンプと化してしまうんじゃなかろうかと若干の不安を抱きつつも、明理は夜の悪人退治へと繰り出していく。
今夜は軽犯罪者がボコられる程度に収まるだろう。平和なものだ。
そして、あの人がいないこの部屋は更に平和だ。まさにパラダイス。
浩輔一人では持て余している感があるが、大画面でテレビでも見ながら気分だけでも優雅な夜を過ごそうと、ソファーに腰掛ける。
『……支持率が低迷している桐島内閣ですが、ここに来て新たな刺客が現れました。与野党の一部の議員が離党して新政党が立ち上がったとのことです』
政治系ニュース担当の妙齢の女性がいつにもまして神妙な面持ちでニュースを読み上げている。
「のっけからこう来るか。芸能人の惚れた腫れたよりは全然マシだけど」
浩輔がお茶でもすすりながら適当に聞いてると、テレビの中の女性に横からカンペが流れてくる。
『……あっ、今入って来た情報によりますと、新政党の名前は『黎明』だそうです!』
『新生党『黎明』発足』『衆議院解散総選挙か?』のテロップがあらかじめ用意されていたかのように、画面に映し出される。
「物々しい名前だなぁ。黎明って。『党』はつかないのか」
他のチャンネルも回してみるが、どこの局も新政党の話で持ち切りだ。そしてやっぱり『党』はつかない。別に決まり事ってわけじゃないんだろうけども。
おまけに具体的なメンバーと党首はまだ不明だと来ている。
政党理念もまだ不明だし、現状では本当に有名人の色恋沙汰と変わらない程度の話だ。
確実に言えるのは、今の内閣もそろそろ終わりということだ。
現職の桐島総理も、今一つぱっとしない人というのが、特に政治に詳しくない浩輔の評価だ。勿論、世間からも世襲議員ということもあってか、評判はあまりよろしくない。
『今回の一件で与党は大きく議席を減らしました。近日中に解散総選挙が行われるかもしれません。桐島総理も官房長官らと緊急の会談を……』
キャスターは大真面目に話しているが、この放送を見ている国民の大半は寝る前のBGMがわりくらいにしか聞いていないというのが実情だろう。
浩輔も選挙とあらば一応投票くらいはしているが、それがどれだけの影響を持っているのやら。
多分他の人も同じ考えで。金と権力で集めた組織票には勝てない。
だから投票率も段々低くなっていくのだろう。
『あっ!さらに今入った情報によりますと、黎明の党員が今夜10時より緊急の記者会見を行うそうです!』
浩輔がふーん、と思った瞬間に、滅多に使わない携帯電話が鳴りだす。
こんな夜中にかけてくるのは、おそらくは明理か店長……正直どっちも勘弁してほしいと、気が進まなかったが、珍しく真織からであった。
彼女との電話など数えるくらいしかしていない。
「もしもし?」
『あ、先輩!?すみません、こんな夜中に……』
電話の向こうの真織は明らかに様子がおかしい。
普段は相当忙しい時にしか聞けない、かなり焦った様な早口。さらに押し殺したような声。
「どうしたの?何かあった?」
『せ、先輩……今、時間ありますか……?』
「あるけど……」
時々詰まるような声が聞こえる。どこか心ここにあらずといった感じ。
周囲を気にしているのだろう。
『い、今すぐ、来れますか!?私だけじゃ、どうしよう……!』
「え、何!?どうした!?まさか誰かに襲われているのか!?」
『あ、違うんです。この子が、えぇっと……とにかく何て説明したらいいか分かんないんです!』
「警察は!?呼ぼうか!?」
『あ、駄目!警察の人達がさっき来たんです! でも、そしたら、この子、急に怯え出してその場から身を隠して!』
『警察は駄目』『この子』『警察を見たら怯えて逃げる』どれをとっても混乱する言葉だ。
だが、当の真織はもっと混乱してるのだろう。
いきなり「来てくれ」なんて、さっきから文脈が滅茶苦茶だ。
「あー、わかった。今からそっちに向かう! ……で、場所は!?」
『鷺ノ池公園です!』
「わかった!すぐに出る!」
浩輔は電話を切ると、すぐにテレビを消し、身支度を済ませて家を飛び出す。念のため、普段から常備していた『緊急事態用バッグ』も抱えてだ。
鷺ノ池公園は、ここから自転車で三十分弱。いや、夜道なら二十分でいける距離だ。
本当ならこういう時こそ明理さんの出番のはずだが、変身中は基本的に電話は出ない。
どうやって持ち歩いているのかは前々から不明だ。普段からあんなハチャメチャをやって、壊れた事がないのが不思議である。あのでかい胸の間にでも挟んでいるのだろうか。
浩輔はすぐに首を振って、明理に頼るという選択肢を一旦消す。今はすぐに現場に向かえる顔見知りに自分の方が、彼女にとっても助かるはずだ。
家を出て、自転車をトップギアで漕ぎ出す。今日はいつにも増して風を冷たく感じるくらいだが、急いでいる浩輔の頭を冷やすのには、ちょうどいいくらいであった。
そして――。
この時、この瞬間、全国の家庭が文字通り凍りついていたのを浩輔が知ったのは、それからしばらく経った後だった。