58.会談
平日の午後1時半過ぎ。
指定場所は都内の大通りに面した、とあるカラオケボックス。
今回のメンバーは5人全員のフル動員。下手に人員を分けたら逆に不都合が生じる恐れがある。
何しろ相手が相手なものだから、場所の選択については難航を極めた。相手の意表を突き、こちらが自然に行けて、あまり人目につかないこと、会話が周囲に漏れないこと、かつ壁一枚隔てれば大量の人がいることを条件に、喫茶店やらハンバーガーショップやらが候補に挙がったが、最終的にはこの場所に落ち着いた。
あと、真織がこのカラオケ店の会員証を持っていたのもポイント。
「八瀬さん頼りになりますね」
「なにせ一番の常識人だからね」
「うう、今度からこの店に行けなくなるような気が……」
そして、お目当ての人物も指定時刻の5分前だというのに、早々に店の前に姿を表す。柏原は昨日と同じく黒スーツの営業スタイルだが、もう一人の人物は、薄灰色のジャンパーとスラックス姿に、これまた地味な色のニット帽、そして老眼鏡と、つい先日までこの国の総理大臣を務めていたとはとても思えない出で立ちであった。下手すればホームレスにすら見えてしまう。
「随分と早かったですね。連絡したのは30分前だったのに」
「……こちらは、連絡が来るのかどうかも分からずに、気が気でない状態だったんだよ」
「それは失礼しました。後は、中で話しましょう」
一国の元総理だというのに、浩輔は全く物怖じせずに応対する。周りの仲間は感心していたが、浩輔自身もどうしてこうも緊張せずに済んでいるのか、不思議に思っていたくらいである。
それほどまでに目の前の人物は、あまりにもか弱く、か細く、脆すぎる存在に感じられたのだ。
大きく垂れ下がった瞼、くっきりと出た目の下のクマ、消え入りそうな瞳、がさがさの唇、ニット帽から漏れた細い白髪。最後にテレビで見てから半年も経っていないのに、もう十数年も歳を重ねたような、まるで末期患者のような老け込みようだった。
無論、カラオケのバイトの受付も客が元総理だと気づくことはない。それよりもこのグループの面子を見て、一体何の集団なのかを気にするくらいだ。
まずは二時間で部屋を取り、適当にドリンクを頼む。本来の用途に用いないというのもなんなので、うるさくない程度に履歴から適当に曲を拾って流そうとする。
「うわ、『宿命戦士ファムアイザー』だ。懐かしいなぁ」
「勇治くん、世代じゃないだろ?」
「昔録画してた奴を見てた……んですよ。……が、好きだったから。ん?あれ、見せて貰った……えっと……?」
「どうした?」
「あ、いや、なんでも……」
唐突な吃音。
すぐにその場を取り繕うが、勇治は何ともいえない引っ掛かりを覚えていた。
自分はこの特撮番組を見ていた。だが、いつ、誰に?どのように?番組の内容も覚えている。小さい子どもには中々衝撃的だったから。だが、それ以外だ。番組の内容は問題じゃない。何か、何かが、抜け落ちている。
勇治が一人冷や汗を流しながら履歴を見つめていると、隣からの真織の歓声が上がる。そして、周囲の注意もそちらに集中してしまっていた。
「ほらほら、女子十二楽坊ですよ!昔流行った!」
「何でカラオケに入ってるの?歌詞ないだろ?」
「あの頃はブームだったから勢いで何でも許されちゃったんですよ。でも今になって、こんな使い道があったんですねー」
真織は蔵出しと言わんばかりに、片っ端から歌詞のない曲を予約し始める。
「……誰だ?『般若心経』なんて入れたの?」
「ん」
「深知ちゃん、どこから突っ込めばいいの……?」
若者達の和気藹々とした会話に、柏原と桐島は完全に取り残されていた。
曲談義に参加していない明理も、一人静かに、真剣な目つきでフードメニューを眺めている。
「あ、あの、皆さん……?何をしに来たのか……分かってますよね?」
「だから周囲に漏れないように、こうして自然に振舞っているんじゃないんですか」
「…………」
半分嘘で、半分本当。
仲間は全員分かっていることだが、外からの二人にはこの言葉をぶつければ十分。おまけにタイミングよく店員がドリンクを持ってきたので、浩輔の放言は至言へと変わった。
もちろん、『相手が元総理だからって下手に出る必要はない、まずは相手をこちらのペースに引き込んで様子を見よう』という打ち合わせも事前にしてはいるのだが、その作戦において最も重要なはずの度胸が知らず知らずのうちに身についてしまっているのには心の底で自嘲せずにはいられない。
「あ、食い物もお願い。メガ盛りフライドポテトに、ロコ・モコに、コーンマヨピザに、シナモンシュガーチュロスに、マカオタワーパフェに……」
「流石に時間がかかるものはご遠慮願います、明理さん」
「ちぇっ。じゃあ、このテラ盛り枝豆だけでいいや」
どこらへんが「じゃあ」なのかは置いておくとして、ものの数分で用意された総重量3kgはありそうな枝豆をつまみながら、ここに来た本来の目的、(自称)正義のヒーロー達と元総理との会談が始まった。
「まず、我々の話になりますが、黎明と錬装機兵……アルク・ミラーにの話については、桐島先生から大体の事情は伺っています。にわかには信じがたい話ですが……」
「伺ってるっていうか、もろ当事者じゃねーかよ」
「……そうなのかもしれないのですが、我々公の身分の者が知らされているのは、一政党としての黎明の姿だけです。黎明の本性……真の姿も知らずに、単なる革新派の政党として協力する人も実際多くいるんですよ」
「柏原くんは私の秘書の中でも一番の若手で、彼だけは最初から黎明の裏の顔を知っていたんだよ。私が最初に東郷と会ったときにたまたま同席していてな」
明理からの茶々に対しても、二人は冷静に言葉を返す。
普段から対マスコミのインタビューをこなしているだけに、受け答えに詰まることはない。
「柏原さんだけ?他の人には?伝えなかったんですか?」
「もちろん口止めをされたさ。東郷の奴に」
「なら、そもそも、何故あなた達は黎明に協力したんですか?特に桐島、さん。総理大臣までなっている貴方だったら、多少の……テロくらいは対処できるはず。そのくらいのコネはあるでしょうに」
「……総理大臣が持っている権力なんて微々たる物さ」
桐島は大きく息をつきながら自分のコップに視線を落とす。中身は既に氷だけになっていた。真織が気を利かせて飲み物の替えを頼もうとしたが、それも隣から静止される。
「そこの所も色々ありそうですが……ひとまず、置いておくとして。最初の話に戻りますけど、貴方が黎明にいた頃の話について教えてください」
浩輔は桐島を下手に追い込む流れを引っ込め、話題を大きく変えた。
桐島が東郷に協力していた理由は、端島老人から聞いた話で大体想像がついている。無闇に攻め立てて相手の機嫌を損ねるよりも、まずは本当にこちらが今知りたいことを聞くのが先決だ。
「まず単刀直入に、こちらが知りたいのは、黎明の目的について」
「目的、か……」
「はい、実を言うとですね。自分達はここ最近、結構な、修羅場っていうのを潜り抜けて来てはいるんですが、黎明側から仕掛けられたことってほとんどないんですよ」
発言に桐島と柏原は意外そうな表情をする。それ以上に明理と勇治も内心あっとなっていた。
結果的に敵対したことはあっても、基本的に事件の臭いのする現場に向かったらたまたま出くわした、というのが実際だ。いかにもな悪役的組織、ユミルや愛樹の敵対発言、そして戦闘続きの日々ですっかり錯覚してしまっていたのだ。
「東郷もユミルも、明理さんがシグ・フェイスだということは知っていた。ということは俺達の素性、下手すりゃ居所だって大体割れているはず。なのに、積極的に仕掛けてはこない。警戒しているだけなのか、自滅を待っているのかは分かりませんけど」
浩輔はいかにも不思議そうな面持ちをしながら、ここで言葉を切った。
ここで言わんとする意図は何なのか。国の中枢にいる人物ならきっと気づくはず。むしろ気づいてくれないと困る。露骨な駆け引きではあるが、それに乗ってくれないとここに来た意味がない。
桐島は険しそうな表情をするが、中々口を上げようとしない。
「つーか、あれだろ?武装組織作って、アルク・ミラーを量産して、暴力で国を転覆させようとしてんだろ?悪の組織の動機なんて別にいーじゃんよそれで」
獅子身中の虫の如き明理の発言に、浩輔は盛大にずっこける。
「あ、の、ですね……!それだけだったら回りくどすぎるんですよ。やり方が。政党を作ったり、わざわざ世論を敵に回すような挑発的な言葉を公の場で言う。それも遠く離れた外国じゃなくて国内で。だったら、アルク・ミラーの存在を隠すことなんてしないんですよ。もっと大々的にPRして国民を恐怖のどん底に落とせばいい」
「そうかなー?」
「大勢の聴衆の目の前で、自分が死んだ『振り』をするとか、どうやって説明するんですかっ!?」
「本人は監視の目を逸らすためだと言っていたが……」
「そう、そういう情報が聞きたいんですよ。桐島さん」
いつものように二人の漫才が始まる寸前であったが、浩輔は明理の口に枝豆を皮のまま掴んで放り投げ、周りと共に桐島と話を続ける。
あの時の遺体はフェイクだったということ。しかし、遺体そのものは本物で、表向きの東郷の身体情報は全てその時の遺体のものを使っているので、逆に偽者だという証拠もないということ。
「つまり、いくら俺達が実は東郷は生きていると訴えても、そっくりさんとか、単なるゴシップとしてでしか処理されない……ってことですか」
「理解が早くて助かります。遺体を引き取った病院も、情報を調べた国の機関も、何の事情も知らないですからね。我々が訴えたところで、そうじゃないと反論が来ます」
「なるほど。でも逆に言えば、彼はそうまでして監視の目を逃れる必要があったということです。そう思いませんか?」
浩輔の問いかけに、桐島の顔の皺が心なしか薄っすらと引いていく。
「……『オペレーション・デイライト』」
「え?」
「東郷が言っていた言葉だ。『オペレーション・デイライト』。黎明の真の目的、戦略……ともかく、こここから本腰に移るという様子だった」
「直訳すると……『日光作戦』?名前からはよく分かりませんが」
「内容までは知らない。東郷は『この社会のあらゆる闇と影に光を当てる』とか言っていたが……」
桐島も歯切れの悪い言葉で返す。本当に中身は分かっていないのであろう。その他に思い当たることはないか、念のために確認したが、それも要領を得ない返事が返って来るのみ。
しばらくの間、一同が言葉を控えてしまうが、今度は柏原が場を取り戻すかのように口を開く。
「黎明の真の目的については、まだはっきりと分かっていませんが、この国にとってよからぬことを企んでいることは間違いありません。あなた方も彼等の方から襲われたことがないにしても、黎明とは敵対していることは変わりないのでしょう?」
「…………」
「たしかに、桐島先生は今追われている身ではありますが、これは、先生だけの問題ではないんです。この国全体に関わる問題なんです。ですから、あなた達の力をお借りしたい。我々も協力を惜しみません」
「協力って……どの程度の?」
「既に古巣である自由民政党とも連絡を取っています。内閣府も黎明の動きは警戒していますからね。奴等の裏さえ取れればすぐにでも動けますよ」
「……それは、日本政府が味方につくという理解でいいんですか?」
「はい、皆が、黎明側の得体の知れない力に腰を重くしているのが実際なんです。それに対抗できる皆さんさえ協力してくれれば!」
「黎明の奴等もシグ・フェイスの強さにはかなり警戒していた。ぜひ君達の力を借りたい!」
柏原は深々と頭を下げる。桐島も請うような目で、それに続いた。
相手の視線が外れたのもあるが、浩輔は依然、釈然としないままの顔であった。
「へっ、政府公認かぁ。それも悪くないなぁ」
明理は既に八割ほど減った枝豆の山の最後の仕上げに取り掛かろうとしていた。
真織もその発言を待っていたかのように同調する。
「この国の平和を守るために戦う……これこそ正義のヒーローって感じですね!政府まで味方してくれるなら、それはもう堂々と行けちゃうんじゃないんですか!?」
「ま、それなりの待遇は期待していいんだろうけどな」
明理は顎を摩りながらチラリと桐島の方を見やる。相手からは小さくも確かな頷きを得られた。
「篠田さん、ここは明理さんの言うとおりかもしれません。敵の敵ではあるけど……」
「……お前も、そう思うのか?」
「少なくとも住まいをいきなり襲われる、ということはないはずですよ。今の状態じゃいつ闇討ちされてもおかしくないんですから。一旦、この人達と組んで、危険を減らす方が……」
勇治としても政府と手を組むのは賛成である。もちろんその先に続く言葉はあるのだが。
浩輔は何か考え込んだまま俯いたままで少し考え込んでいた。正直、既に3人も相手の話に乗ってしまいそうになると、彼自身の立場もない。
浩輔は少し早い気もしたが、相手のペースに乗る前に本命の質問を出すことにした。
「まぁ、俺達も悪いんですが、今はこういう場ですから。それと、2点だけ、聞かせてください」
「あ?あぁ……なんだね?」
日本政府を味方につけるか、それとも敵に回すか。片や甘露。もう一方は猛毒。
だが、甘い言葉に惑わされてはいけない。下手の者に簡単に心を許しては駄目だ。
「1つは日本政府と警察との関係。政府で警察組織全部を動かせますか?」
「ぜ、全部は無理かもしれないが、上の方に働きかけることは……一体どうしてだね?」
「俺達は一度警察に追われた身です。おまけに、この女性が警察官を何人か病院送りにしているはずです。こちらとしては正当防衛だと言い張るしかありませんがね。そこのところ、何とかできますか?」
「き、きっとこれまでは互いに誤解もあったことですし、ちゃんと事情を話せば、相手方も理解はしてくれるんじゃないかと……」
柏原は答えのようで微妙にお茶を濁す言葉で返すが、浩輔はこんなとこかと水に流す。
「2つ目は日本政府とマスコミの関係。ここ数日の報道で俺達……いや、単に俺と明理さんが完全に悪者にされていますよね。日本全国に広がったこの捏造報道……全て無に返すことは出来ますか?」
「う……む、それは……」
「日本政府が責任取れとは言いませんよ。責任はマスコミ側にある。全報道機関に、あの事件が誤報であったことを謝罪させられるかどうか」
無茶振りであることは分かっている。
だが、当然のことでもあるのだ。力を借りるというのならば。
それなりの報酬。それなりの待遇。
今が負であるのならば、それを正に転じさせるくらいの支援がなければ。
「……報道機関を今すぐ動かすことはできません。たとえ、真実を報道したところで、市民の方もすぐには信じようとしないでしょう」
「それは一理ありますね」
「こんな言い方も悪いかと思いますが、それに関しては今後のあなた方の活躍次第です」
これも上手くかわされたか、と、内心で浩輔は舌打ちした。
しかし、この二点はどうしても譲れないところ。譲歩するにしても、もう少し引っ張りたい。
「じゃあ、この話……一旦持ち帰ってくれませんか?あなた方二人では、回答しにくい面もあるでしょうし、関係機関にも話をしてもっと明確な話をいただければ……」
浩輔は付け焼刃の役所言葉を使いながら、場を沈めようとする。
相手に時間を与えるのは諸刃の剣だが、相手も時間が惜しい状況なら、威力は高い。
案の定、桐島と柏原は中々要領を得ないように顔を見合わせている。
「協力のお返事はまだ頂けない、と……?」
柏原は理解に苦しむといった目で浩輔たちを覗き込む。
真織も、勇治も、何故回答を引き延ばすのかという疑問の目で彼を見ていた。
「へっ、コースケ。決定権なんかお前にあるのかよ」
場の空気を吹き飛ばすように、明理が浩輔の頭を小突く。
「ロクに戦えもしねーのにさっきから仕切ってんじゃねぇ。コイツらと協力するかどうかは、私らの意思で決めさせてもらうぜ」
明理は浩輔の頭を押さえつけ、不適な表情で仲間達を一瞥する。思わぬ拒絶を受けた桐島と柏原の目に輝きが戻ってきた……が。
真っ先に聞こえてきた返事は、テーブルにコップが乱暴に置かれる音。
「…………」
「み、深知ちゃん?」
「帰る」
「え?」
深知は一言呟くと、一人席を立って部屋を出る。
静止する声に対して振り向こうともせず、般若心経の音楽をバックに姿を消した。
「あ、あの子は?あんな小さい子もあなた達の協力者なんですか?」
「はい……彼女ぉいっ!?」
勇治が口走ろうとした瞬間、左の脛に明理から鋭いつま先蹴りが入る。同時に浩輔も勇治に向かって手を振り上げようとしていたが、何事もなかったかの様に頭を掻く。
「ふーむ、やるな。あのチビッ子」
「なるほど……勘に触ったってことですか」
「先を越されたな、コースケ」
「分かってて言ってたんですか……」
明理は能天気に見えて、こういう部分には意外と鋭い、と浩輔は思った。いや、普段が直感的な考え方しかしないため、とい言った方が正しいのかもしれないが。どのみち、先を越された、というのは完全に当たっていた。おかげで、心なしか体全体が軽くなったような気もした。
「すみません。俺も、今日のとこは回答待ちってことで。また、後で連絡します」
浩輔は深知の後を追いかけるように、続いて部屋を出た。一瞬、明理に感謝の目配せをしながら。
呆気に取られていた柏原は、すぐに気を持ち直して、明理の方に詰め寄る。
「あ、あの、シグ・フェイスさん……あなたのお気持ちとしては……」
「んーんーんー、どうしよっかなー♪何だか、急に最中が食べたくなってきたなー♪それも金ピカでずっしりと重たいヤツー♪」
明理は全然遠回しの言い方になってないおねだりで、更に相手を閉口させる。明後日の方向を向き、口笛を吹きながら、親指と人差し指、中指を高速で擦り合わせるという、自称正義のヒーローらしからぬ振る舞い。
「今すぐ用意できねえのなら、こっちも今すぐ返事をする必要はねえってことだ。今度会うときは、お前等のいい回答を期待してるよ」
いつの間にやらの逆転宣言をかましながら、明理は上機嫌で席を立って部屋から出ようとする。周囲が必死に引き止めようとするが、それを意にも介さない。
「あ、あなたまでっ!?」
「ごちそーさん」
「ちょ、ちょっと明理さーんっ!?」
3人に席を立たれて急に不安になった真織までもがその場から逃げ出してしまい、ついに勇治だけが取り残されてしまった。
「あ、の……」
「そうか……あの人たちは……」
「な、何一人で納得しているんですか!?一体なんで!?」
「すみません。俺も命がかかっているもんで。呼び出したのはこっちだけど、これで失礼させていただきます」
勇治は二人へ向けて、大きくお辞儀をする。柏原の引きとめようとする手をかわしながら、部屋のドアの前で立ち止まり言った。
「俺達がやっている……いや、今までやってきたのは殺し合いです。黎明と対抗するということは、人を殺すということなんです」
「…………」
「もし、仮に俺達が政府に協力したとして、さらに仮に黎明が大規模なテロ活動を仕掛けてきたとしたら、これはもう『戦争』なんじゃないんですか?」
「……せんそう?」
「戦争なんてしたくないです。俺は」
二人には目の前の少年の言っている意味が全く分からなかった。
これが、戦いに巻き込まれた挙句、人殺しを犯してしまった人間の最後の一線だということも。勇治自身も頭の中からではない、もっと別の部分から来た言葉だった。
ついに最後の一人も出て行き、部屋の中には歌詞のない弦楽器の音楽が延々と流れる。
「は、話が違うぞ!柏原くん……こんなはずでは……」
明確に敵対するとは言っていない。だが、彼らの言葉の端々には強い不信感を感じていた。交渉ごととはそういうものなのかもしれない。時には粘り強くやれば動いてくれるかもしれない。相手は良い条件を引き出そうと動いていただけだ。そのことは、桐島も柏原も理解していた。だが、その良い条件というものは……彼等が最も避けたいもの。それを無意識に感じ取っていたのである。
「大丈夫ですよ、先生。最初はこんなものです。十分想定内ですよ」
柏原は桐島をなだめるように微笑みかける。一方の桐島はなだめられたというより、畏怖のあまり絶句していたという方が正しかった。
若い秘書のこれまでに見せたことのない、据わった目つきに。




