54.交錯
夢は見ていなかった。
静寂の暗闇の中で、体を暫し休めていた。
そう、あの瞬間、自分の中から何かが消えたという、微かな恐れを抱きながら。
だけど、この静寂にいればいるほど、その恐怖が増大していく気がする。
体は頭より正直だ。体力の回復より、心の回復を最優先にしてくれる。
◇ ◇ ◇ ◇
「おっはよー、と言っても、もう夕方だけど」
隣から来る甘ったるい声に、すっきりとしない気分のまま勇治は目を擦り、ゆっくりと目を開く。ここは車の中……あの研究施設に行く際に使った車の助手席だ。周囲の風景も夕暮れの田園地帯。まだ体全体が気だるく感じるが、自由が利かないわけではない。
運転席にいるのはメローネだ。あれだけの戦闘の後だというのに、化粧直しでもしたかのように整った顔で微笑んでいた。そしてルームミラーで後ろを見ると、後部座席には二人。ミューアと深知が互いに浮かない顔で座っている。深知の学制服のような服はあちこち破れたままで、髪も酷く乱れていたが、外傷の方はミューアに治療して貰ったのか、特に見当たらない。細くて華奢な右手の指も元通りだ。
「端島は?」
「死んだわ。……いや、正確に言えば、死んだも同然ってトコね」
「どういうことですか?」
「もう生物としての機能は果たしていないということです。ともかく、目的は達成しました」
後ろからミューアがどこか言葉を選ぶように補足する。もっと問い詰めたいところだが、ここは別の疑問に変えることにした。
「……それと、天北博士は?」
「ん~、微妙。地下まで様子を見に行ったんだけど、その後すぐに黎明の増援が来ちゃって、慌てて逃げ出してきたの。私等があそこで見つかると色々面倒なことになるしね」
「あの時はユージさんとミチさんもいましたので……ごめんなさい。だけど、息がある様子もなかったし、あの出血量ではおそらく……」
「……いや、もういいよ」
後ろにいる深知に気を使ったつもりであったが、当の彼女はぼんやりと虚ろな目をしたまま何も応じる気配がなかった。疲れ果てているのか、または状況が未だに整理できていないのか、いずれにしろ今はそっとしておくことにした。
「んじゃ、色々あったけど、ミッションコンプリートってことで!おつかれさま!夕飯は何がいい?お寿司?それとも卵かけご飯?」
「なんでその二つが並ぶんですか?」
「え~、二つともこの国のゲテモノグルメの代表格じゃない」
「少なくとも寿司はもうちょっと認められてるような……」
メローネの本気なのか冗談なのか分からない提案に、少し気を抜いた途端にこれだ、と勇治は内心呆れかえる。実際空腹ではあるが、彼等と一緒に飯を食べる気にはなれない。それに夕暮れ時となると、そろそろ母親も帰ってくるはずだ。つい今朝まで右手に重傷を負った息子がまた急に姿を消したなんて、その場しのぎの言い訳を考えるのも一苦労だ。その傷が一日で綺麗さっぱり治ってしまったということも、説明に苦労すると思われるが。
「ともかく、飯は別にいいですから、家に帰してください」
「ママの手料理派?」
「目的は達したんでしょ、とっとと解放してください」
「ツれないにゃあ。大人しくユミル様のところに来ればいいのに」
「嫌です」
「じゃあ、後ろのみっちゃんは?」
唐突に、かつ勝手にあだ名をつけられた深知であったが、彼女の反応も鈍いものであった。
「汚いですよ、そういうの」
「そうは言われてもねぇ。結構大事なことだと思うけど?」
一応批判はしてみるものの、勇治も深知の今後に関しては妙案が思いつかない。錬装能力が使えると分かったところで、彼女には家族も、帰る場所も既にないのだ。
自分の家で一旦預かるか?それも母親が何と言うか分かったもんじゃない。
「彼女が最初からこうなることも計画通りだったんじゃないのか?」
「私とミューアは本当に何も聞かされてなかったけど、ユミル様はそうかもねぇ」
「……何とも思わないのか?」
この問いに対して、メローネの回答は特に期待していない。問題は後ろの少年の方だ。考えどおり、やや訝しそうな顔をしている。
「ユージさん、確かにあなたの言い分も分かります。けど僕は……」
ミューアは顎下を押さえながら何やら考え込んでいたようだが、やがて青白い瞳を正面に向けて、勇治に向けてはっきりと答える。
「だったら、先生はそもそも僕にこんな思考ルーチンを与えませんよ」
思わぬ回答に勇治は反論を詰まらせてしまう。そもそも『人間』では思いつかない、ありえない回答だ。肯定でも、否定でもない。ある意味逃げの言葉であるが。
しかし、その答えに対しては、今度は深知が横槍を入れる。
「だったら、そのお婆さんと話をしたいんだけど」
「あらん♪じゃあ、みっちゃんは私達に付いて来てくれるのね?」
「別に、色々聞きたいだけ……」
そう言って深知はそっけなく視線を窓の外に移す。その隣でミューアはかなり困惑している様子であった。実際、二人の距離は後部座席のスペース一杯に開いている。
(ミューア……もしかして、この手のタイプって苦手?ルクシィで慣れてると思ってたのに)
(なんかもう、迂闊に近づけないです。それと、彼女にはあの手の拒絶はないですから)
(傷治すときに心の中はチラッと見えるんでしょ?)
(意識がないにも関わらず、もの凄いプロテクトでしたよ)
常人の二人には一切気づかれていないが、メローネとミューアの間では思念感応の激しいやり取りが行われていた。ホムンクルス間の情報交換は会話をしなくても行えるが、普段は周囲を欺くために、あたかも積極的なコミュニケーションを取っているように見せているのだ。
(そういう心理状態ってどういうの?)
(人には絶対に言えない秘密を持ってるってところでしょうか。無意識の内でも隠そうとしているということは、本人も忘れたがっているレベルの……)
(わー読んで読んで♪面白そう!)
(嫌ですよ!こういうのは大概『負』の記憶なんですから!気分悪くなります!)
(それも修行の一環だって!)
(『好奇心で無闇に人の心を読むな』って、先生の教えです!)
次第に二人の顔に脳内(寧ろ脳間?)バトルの兆候が表れてきた最中、前方から黒塗りの車が猛スピードで突っ込んできて、側面ギリギリを通過して行く。危なくはあったが、話題変えにはちょうどよいとばかりに、メローネはわざとらしく口笛を鳴らした。
「何だよ今の車……完全にスピード違反じゃないのか?」
「車通りが少ないとはいえ、危険ですよね。性質悪いなぁ……どんな人が乗ってました?」
「前にまでスモークかかってて全然見えなかったわねぇ」
「それ思いっきり違法ですよ」
勇治とミューア、それに深知までもが、危険運転の車に気を取られて後ろを振り向いていた。道路上にはタイヤの擦れた黒い後まで残っている。
「方向からいっても、ただ事じゃなさそうだな。もうこれ以上の争い事は勘弁して欲しいよ」
「そうですね……ただでさえ、ユージさんはコードバーストまで起こしているのに」
「何?コード、バースト?」
聞き慣れない単語の問いに、ミューアは思い出したように勇治に向き直って解説し始める。
「人間の強い感情やそれに起因する記憶を昇華させて、アルク・ミラーの駆動エネルギーへと変換する機能です。色々危険なんで、本当に緊急時に起動するようにはなってるんですが……」
「……そんな隠し玉が残ってたのかよ」
ミューアがあれだけ連続使用は避けろと言っていた、『神速の侵食』を三度も使ったにも関わらず、幾分か動ける余力があったのにはちゃんとした理由があったのだ。
勇治は呆れつつも、さり気ない一言を追求した。
「でも色々危険って何だよ?」
「はい、簡単に例えて言えば『感情と記憶を燃料に変える』ものですから、つまり……あの時、何かしらユージさんの記憶が消えているはずです」
説明口調で凄まじいことを言われ、冗談じゃない、と勇治は頭を押さえながら当時の事を思い出そうとする。寝ている時に感じていた妙な焦燥感の正体はこれだったのだ。
「な、何だ……何が消えた……?」
「それは僕にも分かりません。状況から考えると、その時にユージさんが強く思っていたことなんでしょうけど。消えた事柄が後で分かることはあっても、その中身まで思い出すことは決してありませんからね。だから、今後の使用は絶対に避けてください。下手すれば精神に異常をきたしますよ」
記憶喪失という生易しいものではなく、記憶の消滅。それも単に勉強等で覚えるような記号的なものではなく、精神状態に直結するもの。喜びや怒り、悲しみ、憎しみの『対象』を失い、終いには自我の崩壊を起こす可能性もありうる。しかし、今回失った分は今の勇治の状態を見る限り、新しい記憶で埋めればそこまで障害は残らない、とミューアは慰め交じりに補足した。
「納得できるかそういうの!」
「だ~か~ら、無茶は止めてねって言ってるんじゃないの~?」
「……ねぇ」
再び騒がしくなり始めた車内が、少女の鶴の一声で静まる。声量はないはずなのに、異常に重みのある声を出せるのは、ある種の素養と言うべきか。
「さっきの車、追って来てる」
車内の人間が一斉に振り向くと、後方から黒塗りの車が薄黒い煙を吐き出し、クラクションを撒き散らしながら、一直線に迫って来ていた。メローネの言っていたとおり、フロントガラスにもスモークが張られており、中の人間は一切見えない。終いにはカーブを抜けた直線の道でも波動のグラフのように蛇行を続けているのである。所々で見かけられる付近の通行人も相当びびっていた。
「や……やっぱり敵!?」
「……なんですかね?」
「い、急いだ方がいいかも~!」
メローネの表情が盛大に崩れ、アクセルが一気に踏み込まれる。情けない声を出しながらも彼女のドライビングテクニックは見事なもので、田舎特有の曲がりくねった道を隙のないコーナリングで突破していく。だが、運悪く長い直線の道路にさしかかり、車の距離は段々と縮められていく。
「段々近づいてきてますよ!もっとスピードは出せないんですか!?」
「や~ん!これハイブリッドだから、あんまし速度出ないのよ~!」
「……やる?」
明らかに挙動不審の車に対して、深知の方は既に殺る気を見せ始めていた。勇治も威嚇だけでも先手必勝で行くべきかと、錬装化の覚悟を決めた瞬間、後ろの車の右後部のドアが開け放たれ、白い影が飛び出す。
この時、車は直進か右折かの交差点に差し掛かっており、メローネは相手を撒く為に右に曲がろうとしていた。幸いにして対向車はいないので、道路一杯のドリフト走行。直進で猛スピードを出している追っ手に対しては最適な手段……の、はずだったのだが、完全に読まれていた。
白い人影はドリフトで失速した車のボンネット目掛けて飛びかかり、ついでにフロントガラスを盛大に突き破る。前二人は予想の斜め上を行く展開に、大量のガラス破片に対して思わず顔を覆ってしまう。終いには、ボンネットの上からハンドルを掴まれ、近くの電柱へと激突させられた。
「よう、見間違いじゃなかったな。やっぱりユージじゃねぇか」
マスク越しに聞こえる低くくぐもった、女性の声。
全身の白い装甲は、わざわざこのためだったと一瞬で解除され、光の砂となって風に流れていく。
「あ、か、り……さ、ん……なん、すか……?」
前の座席二人はエアバッグに押しつぶされ、息も絶え絶えになっている状態であった。すぐに明理が手刀でエアバックを切り裂くと、破裂音に近い音を出しながらエアバックがしぼんでいく。
「まさか、こんな所で会っちまうとはな。正義の味方同士惹かれあうって奴か?」
「出会えたのはいいとして、もう少しまともな挨拶は出来なかったんですか!?」
「だって、逃げたのはそっちだろうよ」
「あんないかにもな車に乗ってたら普通逃げますよ!」
後部座席の二人もシートベルトをしていたので軽傷で済んだものの、ようやく車の外に出られる状態であった。前部のドアは大破しているので、勇治とメローネは一人ずつ後部座席から脱出する。四人とも鞭打ちを喰らったかのように頭や首を押さえており、普通に事故現場である。
だが、謝罪の言葉もどこかに飛んでいくくらいに、中の面子を見て明理は口笛を鳴らした。
「なんだなんだ?あの時のチビッ子に……ババアと一緒にいた金髪のガキぃ?これまた妙な取り合わせだな」
「事情を話すと凄く長くなるんですが……」
「そんなものはコースケの方に話しとけ。少なくともこのガキは、あのババアの取り巻きと言うのは間違いないしな」
そう言いながら、明理はずかずかと首を押さえてまともに動けそうにないミューアの方に駆け寄り、乱暴に胸倉を掴む。身長差は歴然で、ミューアはつま先立ちでも微かに浮いてしまうくらいに体を持ち上げられ、苦悶の声を上げた。
「なーなー、あのユミルとかいうババアについて知ってること全部教えてほしいんだけどさー」
「……あっ……がっ!?」
「返事はー?」
明理はいつものように敵に対しての外道っぷりを発揮しようとし、メローネと勇治の非難(もしくは攻撃)を受ける寸前であったが、直後に目を見開き、慌てたように手を離してしまう。
ミューアは解放されたものの、背中にかけて事故の負傷が響いており、バランスを取ることもできずにその場に崩れ落ちる。
「…………っ!?」
「ほっ……ごほっ……な、何なんですか!?」
「~~っ!?」
一体何があったのかと、ミューアを含めた周囲が不思議そうに明理の方を凝視する。彼女も胸倉を掴んだ自分の右手を押さえ、苦々しそうな表情を隠せないでいた。
「おい……ガキ、いや、ボーズ。あー……えっと名前は?」
「……え?あ……ミューアですけど……」
「ミューア……。お前、前にどこかで、会ったことないか?」
「だから、有楽町のビルで……」
「いや、もっと前だ……」
普段は穏やかな性格のミューアも、流石に明理の前では表情を強張らせている。が、それ以上に明理の不自然なまでの動揺に逆に驚いていた。そんな二人のやり取りの最中に後ろから浩輔が近づいて来るが、一場の異様な空気を一瞬で読み取り、掛ける寸前だった声を飲み込んでしまう。
「それ以前にあなたと面識はないはずですが?」
「……本当か?」
「嘘はつきません」
「じゃあ、一つ尋ねるが、前にババアが見た私の魂の情報とやらについてだ。お前も何か気が付いたんだろ?」
浩輔たちは明理のコードの話については、何も聞かされてはいない。単に彼女が人に弱みを見せたくないということもあったのだが。今度はミューアの表情が明らかに動揺していた。メローネがいつの間にか彼の後ろに保護者のように寄り添っており、彼の肩に手をかけている。しかも指の具合から見て、かなりの力のようだ。その様子を含めて、明理は睨み付けながら、拳を握り締める。
「もういい加減、オアズケはご免だぜ」
「ミューア、構うことはないわ」
「……いえ、言います」
「マジでっ!?」
「ただし……」
ミューアがぐるりと軽く周囲の人間を見渡し、人差し指で来い、の合図をする。明理が鼻を鳴らしながら耳を近づけると、ミューアが口に手を当てて明理に向けてぼそりと何やら呟いた。
僅かに明理の瞼が動くが、表情は変わらない。ますます大きく鼻息をつくのみ。
「いや、もっと驚かないんですか!?」
「別に。だからどーしたって感じだ。そもそもお前が言えることじゃねーだろーうが」
「たしかに……じゃなくて!」
「むしろ私は、その程度でビビッている、お前等の主人のタマの小ささに驚いたぜ」
明理はとんだ肩透かしだと、いつもの調子を取り戻したかのようにからからと笑って見せた。
「けっ、興ざめもいいとこだな。おい、とっととお家に帰ってあのババアに私への恐怖で枕低くしすぎて寝違えないよーにって伝えとけ!こっちの事が済んだらすぐにでも首取りに行ってやるからよ!」
「あれ、逃がすんですか?」
普段と比較すると寛大すぎる処置に、浩輔の方から突っ込みが入る。
「だって、こいつら雑魚っちそうだし」
「殺さないにしても、人質にするとか色々方法はあると思いますけど」
「篠田さん、なに恐ろしいことさらっと言ってるんですか!?」
「面倒だからそういうのもなし!力押しで十分!」
「……もう逃げられてるし」
深知の締めと共に一同が一斉に8時の方向を向くと、メローネがミューアを脇に抱えながらぴゅぴゅぴゅのぴゅーと夕陽が沈むの山の向こうへと走り去っていた。尻尾を巻いて逃げるとはまさにこのことだと、その場に妙な共感が生まれる。
その場に誰ともなく溜息が吐かれると、明理は大きく首を鳴らしながら腕を振り上げた。
「よーし、だ!戦闘要員のユージとも合流できたし、行くぞー!」
「いや、どこへ?」
「端島のジジイをぶっ潰しにだよ!ほら、あそこの山の奥に黎明の研究施設があるそうだ!」
「今夜そこの施設を端島の部隊が襲うという手はずになっているらしくてね。施設の破壊と一緒に返り討ちにしてやるんだと」
「いやー、下っ端共を片っ端から屠ってたんだが、11件目にしてようやく有益な手がかりだったからな!もう20時間近く寝てないわー!ヒーロー家業もとんだブラックだぜ!」
「とりあえず、事情は車の中で聞くとして……勇治くんも手伝ってくれるか?」
やたらと意気込む明理と、やれやれながらもそれに追従する浩輔。
勇治は突っ込むタイミングを逃してしまい、口をパクパクと動かすほかなかった。後ろで大きな溜息が吐き出されるが、助けを求めようとして、振り向いて目を合わせようとしても、ものの見事にあらぬ方向へ逸らされてしまう。
そんなノリの悪い勇治に対し顔面チョップが叩き込まれる。その後、渋々ながら事情を説明すると、さらに追加で3発のチョップと延髄斬りを喰らわされるのであった。




