18.拉致監禁
――暖かい。
そして、とても心地よい感触。
何かに、いや、誰かに、触られているだろうか。
触れらているような部分は、奥の方からじんわりと熱を帯び、まるでその周りだけ重力がなくなったかのように浮き上がる感触を覚える。
目は……開かない。開けることができない。瞼が完全に脱力してしまっているのだ。
……いや、瞼だけじゃない。全身が、だ。体に全く力が入らない。それだけでなく、周囲の音も全く聞こえない。全身の神経が切断されてでもいるのだろうか。
次第に、何かが触れているような感覚さえ薄らいでゆく。それと同時に、唯一の拠り所でもあった暖かみもすらも消えて行く。
自分の脳が、頭が、心が恐怖心を訴えかけてくる。
これは――
「――肉体情報を展開」
聞こえなくなっていたはずの耳へ、不意に音声と物騒な情報が入って来る。
自分の体は今……どうなっている?
「あなたは――」
突然、頭を金属のハンマーで思いきり殴られでもしたかのように、意識が大きく揺らぐ。その衝撃は尚も続き、自分の意識を破壊しようとしている。
ついには今までの記憶、場面、感情が走馬灯のように意識の中を駆け巡り始める。
このままじゃ死ぬ。殺される。
かろうじて残っている生物としての防衛本能が必死にそれを訴えかけるが、何せ肝心の肉体が全く言う事を聞かない。意識が深層へ沈もうとしても、何かの手によって無理矢理表に引き上げられ、尚もそれを砕こうとする衝撃が襲いかかる。
「……お父さん?」
衝撃が止み、そのひび割れた傷口から再び暖かい感触が伝わり、自分の意識の中へ軟膏のように染みわたる。こんな状態だと……ほんの気休めであるかもしれないが。
「自分の心と向き合いなさい。あなたの心が、まだあなたの物であるうちに」
何を言っているんだ。
「この力は『使わないことも出来る』。それをよく覚えておいて」
何を勝手な事を。
「……調製を始めます」
その言葉ともに、ちくり、と意識から痛みが伝わる。
そして、ゆっくりと、何かが、冷たいモノが、自分の中に、入って来る。
大きいモノ、小さいモノ、細いモノ、太いモノ、ナガイモノ、ミジカイモノ……
自分の中の感覚が点いたり、消えたりしている。体内の血液や水分の流動が次々にコースを入れ替えられている。
――気持ち悪い。吐き気、目まいとかそんな物理的な物ではなく、純粋な不快感。
自分と言う存在が、書き換えられているような。
ただ、いやだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「うぉぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!!?」
人間が生涯で何度出せるのか分からないくらいの悲鳴を上げながら、少年は目覚めた。
見覚えの無い場所に、前後の記憶も曖昧。少年は息を荒くしながら、体を起こす。
「な、何だったんだ、今のは……!?」
少年は思わず自分の両手、そして全体を見渡しながら所々つねってみたりするが、ちゃんと五体満足な上に、感覚神経も通っている。服装もそのまま、制服だ。
おそるおそる自分の上着をめくってみるが、傷らしきものは一切ない。
呼吸も落ち着き、少年は安堵の溜息をつきながら、再び仰向けに倒れる。
「よ、よかったぁ~。夢かぁ……」
頭がこつんと鳴る音がした。加えて、背中のひんやりとした感覚。見知らぬ天井。
目が覚めた時点で既に気づいていたのだが、少年はなおも現実から逃げようと必死に目を瞑る。さらに頬を強くつねる。親指の爪を太ももに刺してみる。
意を決して目を開くと、やはり風景は見知らぬ場所のまま。
「って、ここどこだよ!?」
少年の身体が転がっていたのは床から壁、天井までコンクリート造りの三畳くらいの空間。周囲五面は隙間一つなく、唯一外に通じていそうなのは目の前の鉄格子のみ。
少年は間違いなくここは牢屋だと確信する。部屋の奥にある洋式便器が、少年の嫌な予感に拍車をかけるように自らの存在を主張していた。
留置所なら最低限の待遇は保証してもらえると幾分か諦めもつくのだが、生憎この牢屋には筵一つ敷かれておらず、床は冷たいコンクリートがむき出しのまま。生活器具と呼べるものは、便器とちり紙のみ。文化的な生活をさせる気が全く感じられない。
鉄格子の向こう側には、少年が今いる牢屋と同様の部屋がある。間隔は4メートルくらい。鉄格子に近づいてみると、同じような牢屋がさらに左右に続いているのが見える。
「よう、落ち着いたか?新入り」
右側から若い男の声が聞こえ、少年は握っていた入口の鉄格子に思わず顔を擦りつける。
「お、俺の他に誰かいるんですか!?」
「見りゃわかるだろ……って、見えねぇか。まぁ、何と言うか、お互い災難だったな」
「それじゃあ、あなたもいきなり捕まって……?」
「ああ、トレーニングの帰りにぼーっと道を歩いていたらこのザマさ」
「トレーニング……?」
「あぁ、自己紹介がまだだったな、俺の名前は秋山尚人。これでも一応プロのボクサーさ」
「えっと……」
少年の反応が予想通りだったのか、隣からかかか、と笑い声が聞こえて来る。
「まぁ、知らねぇのも無理はねーよな。実際バイトと半々だし。公式試合にもちょくちょく出てるけど、テレビは有名どころしか映さねーからな」
「はぁ……」
自嘲じみた乾いた笑いが薄暗いコンクリート造りの空間に木霊した。
笑いはすぐに止み、秋山は次は少年の番だと催促する。
「俺は、名前は岳杉勇治っていいます。今高校2年で、部活はハンドボール部。後は、えっと……そんくらいです」
「ハンドボールか……お前さん、スポーツは得意か?」
「得意ってほどのものじゃないと思いますけど……普通くらいかと……」
「過去に何か大会で優勝したとかは?他に何かやってたか?」
「いや、特には……他には小さい頃に剣道やってたくらいで……でもパッとしなかったし、高校上がってからは止めました」
「そうか……」
秋山は何か考え込んでいるようだが、勇治は一体どのあたりが疑問なのか分からない。
そもそも彼の頭の中は既に疑問だらけなのだ。
真っ先に出て来るのは、意識を失う直前に出会った白ずくめの奇妙な老婆の姿。
「秋山さんも、俺みたいに変なお婆さんに話しかけられて連れて来られたんですか?」
「お婆さん?……違うなぁ。俺は本当に突然だったんだ。いきなり後ろから、口を布みたいなので押さえられて……睡眠薬か何かを嗅がされたんだろうけど」
「な、何で、こんなことを……?」
「さぁな。俺はここで目覚めてもう三日目だ。俺が連れて来られた時は他にも何人かいた」
「俺達の他にも……?その人達はどうなったんですか!?」
「さぁな、防護服を着た変な男達に連れていかれて、その後は知らねぇ。おそらくは……」
秋山はそこで口を止めたが、勇治は彼の言いたい事は十二分に理解出来てしまった。
……再び牢屋の中に沈黙が訪れると、それまで現状把握で必死だった頭が落ち着き、代わりに目の前の恐怖と言う名の現実が勇治の頭の中を入り込んでくる。
「ぼ、防護服って……まさか……」
「どーかなー。他の奴とも話してみたんだが、ここに連れて来られるのはみんな運動神経に自信のある奴らばかりだ。男女は関係ないみたいだが、比較的若い奴が多いらしいな。たまに四十歳くらいの奴もいたっぽいけど」
「それで、さっきスポーツのことを聞いたんですか?」
「ああ。ちなみに、お前がいるところの真向かいに入ってたのは、まだ中学生の女の子だったそうだ。なんでも高飛びで県記録を更新したとかなんとかな。でも、入って三日目くらいからはずっと泣きっぱなしだったらしいぜ」
秋山の言葉に、勇治の背中に冷たい物が流れる。そして同時に、何か胸の中から熱い物がこみ上がって来るような感覚を覚えた。彼女を哀れに思う気持ちと……自分自身でも戸惑いを覚えるくらいの焼けつくような怒り。
「秋山さん、俺の想像ですけど、ここは……」
「言うな。大体俺も同じ考えなんだ。言葉に出すと怖くなるから止めてくれ」
成人した大人である秋山でさえも今、自分が置かれている状況に恐怖している。
いかにこの空間においての『三日』という時間が残酷であるか。先程の秋山の笑いは、自分の潰れてしまいそうな心を必死に保とうとしてのことだったのだ。
「あ、あの、話は変わりますけど。ここって、食事出るんですか?」
「期待するなよ」
ほどなくして、真っ白な防護スーツを着た人間が入って来る。その人物は無言で勇治と秋山の様子をじろじろと観察し、それが終わると、二人の牢の前に中身の入った紙コップを置く。
「こ、これは……?」
「飯だよ。飲んどかないと奴らに連れてかれる前に、脱水症状でくたばるぜ」
勇治は鉄格子の隙間から手を伸ばして、紙コップを牢の中に引き寄せる。おそるおそる中身を覗いてみると、なにやら薄い黄色がかった液体が入っている。
秋山の忠告があるとはいえ、勇治はこの液体に口をつけるまで、四回ほどの深呼吸を要した。
「な、んだ、これ……?」
勇治が意を決して液体を一口含んでみる。
飲めない事はない味。が、決して積極的に飲みたくない味。
強いて表現すると、栄養ドリンクを薄めたような味だ。ゲロマズとまではいかないが、美味いとは決して口に出せない。
こんな飲み物が、容量に換算して350ミリリットル。
「うぇぇ~……もしかしてこれが三食?」
「そうだよ。これで胃の中のモンを全て外に出しちまうんだろうな。だからかは知らないが、大抵の奴は三日四日で連れて行かれる」
「…………」
「俺も、そろそろだろうな」
防護服の男は、いつの間にかいなくなっていた。
勇治は最初に一口飲んだ後、すぐに便器の中に残りを捨てる。
その音が聞こえたのか、隣から再び乾いた笑い声が聞こえて来る。
「それは誰もが通る道だ」と。
「無駄な事だとはわかっていても、こうせずにはいられない」と勇治は返す。
だが、恐怖に耐えれば耐えるほど、彼の喉の水分はどこぞやに奪われる。喉を鳴らす回数も次第に多くなり、時の経過が分からぬ空間の中で、勇治は自分のしたことを後悔するまでに至ってしまっていた。