108.紅い世界
声が、聞こえる。
驚愕、戸惑い、恐怖、達観、畏怖、絶望――。
紅い光が、この世界の空を覆っていく。
人の意識を通して、それが分かる。
(これじゃ……煩わしいだけだな……)
浩輔は、人が何を考えているのかが分かってしまう世界のことを思い出していた。
過去に小説か何かで読んだ話だ。
頭に入ってくる声が数人程度なら、まだ我慢や諦めもつくが、それが何十、何百ともなると、脳の情報処理の限界を軽々と超えてしまう。聖徳太子でも耳を塞ぎたくなるだろう。
人の心の声を聴くという能力は、指向性があって初めて成り立つものだ。制限なき受容では、あらゆるものが雑音と化してしまう。
(――いや、別に『心の声』に限った話じゃないか。普通の声だって、多すぎると雑音にしかならない)
だから、人は耳を塞ぐ。
欲しい声だけを選び取る。
自らにとって都合のいいように。
そして、邪魔なものは排除する。
無数の雑音を排除するためには――。
(だから、これでいいんだな。俺は、これでいいんだ)
全身が、人の意思を遮ることなく、ありとあらゆるものを通していく。
全てを受け入れる。
そして、自分自身が削がれて行く。
『何やってんだ。まだ終わってねぇぞ』
聞き慣れた女の声に、薄れ行く意識が揺れ動かされる。
体の感覚は既にない。
先程まで繋いでいた女の手の感触さえも。
立っているのか、寝ているのかも分からない。
感じるのは全身を包み込むような、柔らかな暖かみ。
『――ったく、こうなるのを、望んでいたのか?』
――核心だった。
力も何もない自分が、途方ない話に巻き込まれ、それでも望んで命を危険に晒し続けた理由。
目的さえ達成すれば、その先は不要だ。
自分自身は未来の事などどうでもよかったのだ。
自分が生きる理由は、これで終わる。
『――シノダ・コウスケ。最後に一つ、本当の事を言っておく』
女の声が改まったものになる。
あの老婆……というか年齢を超越した化け物と対峙した時を思い出し、意識が強張った。
『今、こうしてお前と話をしている私という存在は、お前自身が創り出したものだ』
頭に率直な疑問符がわく。
女の方も自分で言ってみてそれに気づいたようで、すぐに言葉が悪かったと訂正する。
『あー……つまりだな、日比谷公園の一件での前後で、私の意識は別物だってことだ。そもそもの私の本来の意識、というか人格は、今となってはどんなもんだったかは分からない。ミューアの奴がユミルのスペアボディとしてのルクシィをベースにしたんなら、物凄く無口だったかもしれないしな』
女の調子がいつもの雰囲気に戻り、不思議と聴覚の先が固定されていく。
『お前と最初に会った時の私の人格は、この世界の状況確認のために、近くにいたスタントマンだか、プロレスラーだかを取り込んだ奴だった。肝心の目的の記憶は吹っ飛んでいたけど、朧気ながら動こうとはしてたんだな。……ああ、そいつらの冥福は祈っといてやってくれ』
そこをさらっと流すな、と頭の中から静かな突っ込みが入れられる。
『んで、だ。日比谷公園でウォーダの不意打ちを喰らった時だな。あの時に幸か不幸か意識のリセットが起きた。おかげで本来の目的を思い出したが、もう一度状況確認をする必要があってな。その時、お前からもぎ取った腕から、情報を頂いた訳だ。……そして、この人格もな』
このタイミングでの告白。
――だが。
と、いうことは。
「あの時点で俺の事、全部知ってたんですかっ!!」
思わず声が出る。
そして、実に愉快そうな笑い声が返ってくる。
『お前の方から言ってくれなきゃあな』
「なんでそんなことを……」
『理解すること、分かり合うことが重要なんじゃない。理解しようとすること、分かり合おうとすることが大切なんだ。錬金術の発動の為にはな。ミューアからの受け売りだ。引いてはユミルに行くんだろうけどな』
常日頃から俺様街道を往く彼女とは思えない台詞だ。
それも、浩輔の記憶を喰ってから変わったということなのだろうが。
「つまり……今のあんたは、俺が望んだ人格であって、俺自身が望んだ存在……」
『恋愛感情は無かったんじゃないのか?』
「質悪いっすね」
『じゃ、冗談ということにしておいてやるよ』
けらけらと声無き笑いの振動が耳に響く。
『おっと、見てみな』
視界が『下』へと向けられる。
光を失ったはずの見慣れた街並み。
「これじゃ、いよいよ幽体離脱だ」
『意識が賢者の石の残骸に引き寄せられているだけさ』
「それ不味いんじゃ」
『大丈夫だ、奴の意志はもうないんだ。あるのは文字通り、力の残りカスさ』
地上には、多くの人の姿、その動きがあった。
荒廃した東京でも、しぶとく命を繋いでいたのだ。
皆が空を見上げ、指をさして騒いでいる。
『さて、最後の夜だ。でかい花火を上げようか』
目が眩むような、紅い光。その塊。
毒々しさを感じさせる賢者の石の色。
それが、音もなく弾ける。
光は伸び、広がり、世界を照らす。
「夜明け……か。最高に皮肉が効いてますよ」
『んなことないさ。これは、特別なものじゃない。単に忘れていただけの話だ』
光が広がる。
それと共に、浩輔の意識も飛翔していく。
街を越え、島を越え、大陸を臨む。
光が星を覆い、人の意識を吸い寄せていく。
その中で紅い粒が点々と煌めき、次々と宙へ舞い上がっていく。
「世界中に、賢者の石はこれだけ散らばっていたのか……」
『ユミルの残した負の遺産だ。奴も世界中を回り、全てを止める方法を探していた。だけど、力そのものは封印できても、痕跡までは完全に消せはしなかった……』
「それこそが、賢者の石の質の悪さ、ですね」
青き星が、紅き光で染められる。
まるで、世界の終わりすら想像しそうな光景だ。
実際にそう思う者も多くいるのだろう。
「……思えば、六畳一間のヒーローごっこから、随分と遠くに来ましたね」
『この世界の中では、六畳一間での出来事でしかないさ。日本以外の奴らは、明日には忘れている』
「そいつは安心しましたよ。外国の事にまで責任は取れませんから」
吸い寄せられた紅い粒は再び膨張し、薄い膜のような光となって拡散する。それが、幾重にも重なり、紅い世界は現実味を増していた。
『……消去完了。後は、私が消えるだけだ』
終わってみればあっけないものだと、肩から力が抜ける。
意識が再び動き出し、生まれ育った島国へと帰って行く。
日本の東京、皇居の上だ。
「これで、正真正銘、終わりですか。あんたも、俺も……」
『……どーかな』
気がつくと、目の前に一人の女がいた。
出会ってから一年経つかどうかだというのに、随分と長く連れ添ったような。
自分でも目を逸らし、覆い隠していた自身の胸の内を、初めて晒した存在だ。
『上、見みてみろよ』
いつの間にか視界が、地面すれすれのところまで降りてきており、空を見上げるのはごく自然な感覚になっていた。
あるのはきっと、紅く染め上げられた空だと。
下から見上げたらどんなものかと思っていた浩輔の心は一瞬にして裏切られる。
もはや、時間の感覚さえ忘れ、明るさも、温度も、何が起きようと動じるはずがないと信じていた心。
「眩しい……?」
大地から見た空は、紅くなどなかった。
ただただ、暖かな光が、そこにあった。
全てを等しく照らす、灯りが。
『この世界は血でまみれている。生存競争なんてシステムがある時点で、そういうもんなんだ』
「血の流れが広がっているはずなのに、こんなにも明るくなるんですね……」
『正しいとか、間違っているとか、そんなことも全てうやむやにしてしまう。これが、お天道様の光ってやつだな』
浩輔は一度目を伏せる。
光に打たれた目の霞を、瞬きで洗い流す。
そして、もう一度見上げる。
自分のいた世界を。
忘れてはいけないと。
光が、徐々に薄れていくまで。
『――まだ、生きられるだろ?』
今までの付き合いからすると、不自然なまでに優しい語り口で、明理は問いかける。
『この世に全ての罪を償って死んだ人間なんていない。誰だって、やり遺しはあるもんさ』
「…………」
『だが、お前の中には、死んだ人間から託された遺志がまだ残っているはずだ。せめて、お前なりの決着をつけろ』
途方もない話だ、と浩輔はぼやく。
それなら、言い方を変える、と明理が浩輔の手を取る。
『また、会いに来いよ』
「…………」
『その時は、お前の望み通りに私が手を下すさ』
静かな間が、流れた。
浩輔はゆっくり明理の手を離し、握り拳を作る。
明理もそれにならう。
二人の拳がゆっくりと、力強く突き合わさる。
「あんたの世話にはならない……しばらくはそれを目標にしてみます」
『楽しみだな』
「じゃあ、また」
『ああ。『また』だ』
二人の心が。
魂が離れる。
あるべきところに帰る。
『さぁ、帰ろう。主人……』
明理の右腕には、既に事切れた少年が抱きかかえられていた。
浩輔は小さく、別れを呟いた。
未来の世界はこれからどうなるか分からない。
無事を祈るのならば、今の世界を必死に生きるしかない。
ただ、残酷なまでに。
◇ ◇ ◇ ◇
皇居の一角にある小さな庭園に、男が一人、佇んでいた。
米軍の介入で敷地内での戦闘行為はほぼ終息しているが、それでもまだ、人気のない所で一人になるのは些か無用心であるというのに。
そんな所へ、足音を隠そうともせず、森の中から一つの影が現れる。
「……こんなところにいたんですか。桐島さん」
「あぁ……君は、篠田くん、だったな……」
桐島はゆっくりと振り向きながら、寝起きのような声で反応する。
表情はひどく疲れ果て、目元は薄明かりの中でもはっきりと分かるほど黒ずんでいた。
白く染まりきった髪は頭皮に張り付いており、何日も着尽くされたよれよれのスーツが哀愁を越えて、同情を誘う格好となっている。
「米軍のヘリもそろそろ撤退するみたいですよ」
「私はいい……」
桐島は定年後にやることを失った老人のように、池の水をぼんやりと眺めている。
長い夢、それも悪夢から、ようやく抜け出せたのか。
それともまだ、微睡みは続いているのか。
「君は私を殺しに来たんじゃないのか?」
「まぁ……でも、実際ここを指揮していたのは柏原さんだったんでしょう?」
ひいては賢者の石なのだが、桐島はそんなこと知るよしもなかったと踏み、浩輔はそこで言葉を止めた。現場の人間にすら同情されたのなら、なおさらだ。
「柏原くんは……死んだか……」
「最後は自滅でした」
浩輔の淡々とした返事に、桐島は肩を落とし、頭を抱える。
「彼はあんな男ではなかった。私もそれなりに付き合いがあったから分かる。あんなことを出来るはずじゃなかったんだ……!全ては東郷の……!」
桐島は嗚咽を堪えるように、絞り出すような声を出した。
辺りには鼻をすする音だけが流れ、やがて静かに首が振られる。
「……いいや、思えば全ての元凶は私にあった。私が端島にそそのかされてなければ、あの時、自分の罪を受け入れる事が出来ていれば、東郷に一言でも謝っていれば……あるいは……」
後悔ばかりが口から漏れてくる。
全ては、遅すぎる懺悔であった。
浩輔も軽く目をこするが、指に湿りは一切ない。
「桐島さん、東郷があなたの事、どう思っていたか、教えてやりましょうか?」
「……奴から何か聞いたのか?」
「まぁ、そんなところです」
錬金術云々の話は省き、浩輔は頭の後ろを掻きながら口を開いた。
これも、ユミルがくれた遺志。
全てを話すと長くなるが、要約するとこうなる。
「東郷は、あなたの事なんて眼中になかったみたいですよ」
「はっ、そうか……本当に……言った通りだったんだな……」
「少しは気が晴れましたか?」
「そうだな。私など、取るに足りなかった、か。そうだ。思い上がっていたのは私の方だ……」
桐島は一通り自嘲すると、大きく息を吐き、背を伸ばす。
そして、浩輔に向き直る。
だが、既に浩輔も桐島に背を向けて、その場を去ろうとしていた。
「篠田くん……!私に……私に何か出来ることはないか!?」
枯れた喉で張り上げられた声に、浩輔の足が止まる。
「私の罪は永遠に消えることはない。だが、せめてもの罪滅ぼしとして、私は……!」
どこか頷くような動作を交えながら、浩輔は向き直った。
その表情は微笑んでいるようで……影があった。
「桐島さん、俺は東郷とは違います」
「そうだ……君は……」
「たしかに、奴なら、ここでまたあなたを生かして、利用していたかもしれません」
引っ掛かりを覚え、桐島はその台詞の意味を反芻する。
意味に気づき、目に入って来たのは、慣れた姿勢で拳銃を構える青年の姿であった。
「なっ!?」
「俺は意地汚くあんたを利用したりなんてしない。ここで確実に始末する」
「ま、待て!」
桐島の両手が上がりきる前に引き金が引かれ、桐島の右目がぐちゃり、と破裂する。
「罪滅ぼしをするんじゃ、なかったのか……?」
桐島に最後に意識に残ったのは、この台詞と、月明かりに照らされた銃口の煌めきだった。
さらに数発、頭部に弾を打ち込まれ、後ろに向けた勢いで遺体は池の中へと落ちていく。
「……行こう」
浩輔は拳銃を湿った布で拭き取り、池の中へと投げ入れる。
水面は辺りの涼やかな風にも揺らされて、まるで見送るかのように波紋を残し続けていた。
「終わった、か……」
庭園を抜けると、殺風景な建物の奥から、日の出と共に赤みがかった空が目に入ってくる。
「父さん、母さん、あかり……終わったよ……」
今まで封じ込めていた家族の存在が口に出てくる。
落ち着いたら、施設に入れられている母の元へ行こうかとも思った。
この騒動で死んでいるかも知れないし、そちらの可能性の方が高くはあるのだが。
(俺は、もう少し、生きるよ……)
太陽の光と共に、眠っていたような手足の感覚が徐々に目を覚ます。
足取りも、確かなものになる。
(たぶん、そっちには行けないと思う)
大通りを歩き、広場へと出る。
そこにはまだ大勢の人間と、数台のヘリがいた。
皆くたびれた様子であったが、喧騒を生むくらいの元気と安堵がそこにはあった。
その中の一角が大きく揺らめく。
(だから……もし、天国ってのがあるんなら、もし、生まれ変わるとしたら、みんなで楽しくやっていてほしんだ……)
人が駆け寄ってくる。
真織が折角の顔をくしゃくしゃにしながら、涙ながらに飛びついてくる。
花田が厳つい顔を崩し、聞いたことのないような喜びの声を上げる。
勇治はその後ろで、どこか事情を察したように軽く顔を下げる。が、すぐに黙って手を伸ばし、浩輔とハイタッチを交わす。
深知は相変わらず一歩引いたように、一人腕を組んでいる。それも、中々見せない笑みを携えながら。
そして、もう一人。
「俺は――」
仲間、そして戦友達に迎えられながらも、浩輔はその先の陽光に目が向かった。
幻だと。
目に焼き付いただけだと分かってはいるが。
不敵に笑う女の姿があった。
「人を、待たせてるからさ」
惚れたかどうかは、また出会えば分かる。