107.極致
――錬金術。
全ての元を辿れば、不老不死のための探求。
だが、今、この時は。
全ての禍根を終わらせるために、幾多の犠牲と、数多の死が積み重なったその英知が放たれる。
浩輔は引き金、ミューアは火薬、明理は弾丸。
連なった意志が、賢者の石が展開する無数の触手をも飲み込む光となり、辺りを覆い尽くした。
「キ、サ、マ、ラッ……!」
全身の細胞一つ一つを震わせるような、紛れもない憤怒の声。
柏原の肉体を通してではなく、賢者の石そのものの激昂。
「昇華開始……」
明理の宣言とともに、浩輔と彼女を繋ぐ手が焼けるように熱くなる。それでも離すわけにはいかないと、浩輔は明理の手を強く握り返した。
賢者の石から伸びる触手が次々と火を吹いて崩れ、乗っ取っていた柏原の肉体もマグネシウム片の如く閃光を吐き出しながら朽ち果てていく。
手が徐々に焦げていく激痛に耐えながらも、浩輔はその威力に高揚するが、自らの手の先、柏原と同様に服も髪も焼け果て、身体の凹凸すらも曖昧になった女の姿を見て息を飲む。
――疑いようもなく最後の力だ。
(死なば諸共……かっ!)
本体を晒された賢者の石は、その身が徐々に削れ、紅い水蒸気となって霧消していく。
このまま消滅まで、と思った瞬間、深淵の底から這い上がるような重い声がその期待を遮った。
「コノ、程度、カ……」
前後左右の三百六十度、どこからともなく飛んできた無数の紅い光線が、次々に賢者の石へと収束されていく。
ソフトボール程度まで縮まったはずの大きさが、今度はボウリングの倍にまで膨れ上がり、更には恒星の如き光炎を吹き出す。
「コノ世ニ、無数ニ散ラバル我ノ断片ヲ集メレバ、何ノコトハナイ」
「くっ?」
「単純ニ、貴様ラノ力不足ダト言ウコトダ」
希望を打ち砕く言葉と共に、炎の渦が浩輔たちに襲い掛かるが、辛うじて透明の壁に阻まれる。
未だ賢者の石の攻撃に対する防御は万全……そんな安堵感を掻き消すかの如く、澱んだ笑い声が絶え間なく響き渡った。
「気付カヌカ。貴様ラノ力ハ、己ガ身ヲ護ルダケノモノ……ソノ延長ニ過ギヌ」
あまりにも重い嘲り声が浩輔の意識を揺らす。
明理を繋ぐ手も既に焦げ付いてしまったのか、感覚が消え失せている。加えて、彼女の全身から発せられる熱で、眼球の水分を蒸発させられるような痛みを感じていた。
相手は余裕すら感じている様子だというのに、こちらの『攻撃』が進展する気配はまだない。
この状態が長く持たない現実を、受け入れる他なかった。
「コノ程度デ我ハ消セヌ。消エルノハ、貴様ラダケダ」
心の中の微かな焦りを見抜くかのように、賢者の石は断定する。
その姿は人の身長の直径にまで達し、目の水晶体を完全に潰しにかかる光の波を放出した。
「理解デキヌカ?コノ世界ノ根底……力ノ存在、ソノ理ヲ」
視界を閉じさるを得なくなった浩輔に対し、追い討ちをかけるような言葉の重圧がかかる。
「世ノ生物ハ、ミナ力ヲ求メル。力ヲ与エル存在ヲ、求メル。……我ト貴様ラ、世ニ存在スルベキハドチラダ?貴様ラノ意志ヲ、誰ガ求メル?」
賢者の石は浩輔と明理の目的を否定する。
「未来ナド変ワラヌ。ソノ刹那ノ時ノ中デ、最モ強キ者ガ世ヲ支配スル。コレガ世ノ理ナノダ」
賢者の石は明理の使命を否定する。
「過去モ揺ラガヌ。過去ノ克服トハ、スナワチ、力ヲ得ルコトダカラダ。力ヲ否定スル者ガ過去ヲ超エルコトナド、アリハシナイ」
賢者の石は浩輔の軌跡を否定する。
「平穏ノ世モ、戦乱ノ世モ、力ガナケレバ脆イモノダ。貴様ラノ短キ生デハ、望ムベク結果スラニモタドリツカヌ。刹那ノ快楽ニ溺レ、僅カナ充足ヲ貪ルコトシカデキヌ」
賢者の石は人の信じる人の歴史を否定する。
「……今更、私らにくだらねぇ説教を垂れるのかよ」
明理のぼやきに対し、地響きの様な笑い声が、白い空間の中で木霊する。
「我ヲ消スニハ、我ヲ超エル『力』ヲ持タナケレバナラヌ!貴様ラハ己ノ矛盾ニスラ気ヅカヌノカ!?」
賢者の石の姿形が光の空間を破るかのように巨大化し、明理の熱気すらをも包み込む、灼熱の嘲笑を生み出した。
(ちっ……たしかに、コイツの言う通りだ……これじゃあ堂々巡り……)
浩輔は今にも瞼を突き破ってきそうな光に耐えながら、賢者の石の言葉を反芻する。
仮に賢者の石を超える力を手に入れたところで、それも相手の思う壺。原理は分からないが、この世界から消滅させられるだけだ。そして『駒』という存在になる。
全ては、絶対的勝利のシステムに裏付けられた自信であった。
(だけど、問題はユミルが残した力だ……こうなることは分かっていたはず。何か勝算が……!)
浩輔はもはや信じることしか出来ない。
自分の意識、はたまた命が何分何秒保つかの勝負。
「お前の力を持てば……その人間はこの世から消える……」
既に元の原型を留めていない明理が絞り出すような声で呟いた。
「素質ガアレバ、ノ話ダ」
賢者の石が瞬時に訂正する。
「じゃあ、私がお前の力を使いこなせれば……その『駒』とやらになれるのか……?」
「同ジ質問ヲ……」
「答えろよ……分からないのか……?」
明理は煽っている。
まだ。
浩輔はそう勘づき、信じた。
託す他なかった。
「……ナレル」
「確証もないのに、認めやがったな……?」
「力ヲ与エルカ否カは、我ガ決メル」
「口喧嘩で既に負けてんだよ、お前は!」
周囲の空間に大きなうねりが起きる。それが感触で分かった。
意を決して目を開いて見ると、賢者の石は絶望的なまでの大きさとなり、煮え滾ったマグマが今にも二人を飲み込まんと目前にまで迫っていた。
それでも、明理は吼える。
「お前は既に負けたんだ!私らを説得、いや、納得させられなかった時点でなぁっ!」
「ソレヲ、負ケ惜シミト言ウノダ」
「私らが消えようと、お前の負けは残るっ!人類に敗北した瞬間が!お前自身の中で永遠にな!」
「タワケ……ガッ!」
唐突に始まった勝ち負けの押し問答に、浩輔の意識がぐらりと沈みかけるが、僅かに残った腕の神経への揺さぶりで強制的に繋ぎ止められた。
「モウ、ソノ男ノ命モオワル。下ラヌ罵倒ナド無意味ダ」
「そうかい。じゃあ、下らなくない話をしてやる」
明理が笑った。
何も見えないし、明理の表情などとうに消え失せてしまっているはずだが、不思議と浩輔はそう感じ取れた。
――しかも。
――これは。
紛れもない、心から勝利を確信した笑みだ。
「お前の力を使いこなす『人間』は、この世界から『駒』となって消滅する……この台詞に、嘘偽りはないんだな!?」
「何度同ジコトヲッ!」
「答えられないのかっ!?」
「ナイ!」
「例外はっ!?」
「ナイト言ッテイルノダ!」
賢者の石は力強く断言した。
それと同時に、浩輔の胸に明理の鼓動が伝わる。
心臓が踊り出すような、愉快、痛快、失笑。
この言葉を、この台詞を、待っていたのだと。
「……ナッ!?」
賢者の石の声色が変わる。
「……ナニヲッ!?」
――狼狽えた。
明らかであった。
「貴様……我ニ、何ヲシタッ……!?」
賢者の石の炎が揺らぐ。
暴力的な熱線と光線が明後日のベクトルになる。
「なぁに、お前の『目的』を一つ叶えてやっただけさ」
明理は完全にしてやったりといった様子。
体の熱が徐々に引いていくのを感じ、浩輔も口を開いて尋ねる。
「……一体何を?」
「単にパズルのピースを繋ぎ合わせただけだ。しっかし、あんのババア……本当にこれでよかったのか?何も知らされてなかったから、こっちも土壇場で思い付いたんだぞ?」
呆れたように息をつく明理。
それとは対照的に賢者の石からは、聞くに耐えないような苦悶の声が何重にも吐き出される。
「ガァァァッ!コ、コンナッ!?コンナコトガァッ!?」
「人の質問にちゃんと答えないから、こうなるんだぜ」
「何故ッッダァッ!?」
賢者の石の勢いが収束していく。
あまりにもあっけない形勢逆転に逆に不安すら覚えていると、明理が意地の悪い笑いと共に語り始める。
「答えは、私自身にあった……私の存在が答えだったんだ。そして、この力の発動に、錬金術という言葉を入れたのもな」
「繋ぎ合わせたっていうのは……」
「お前もデジャブは感じてたろ?あのババアの言動も全てがヒントだったんだ。この時のためのな」
明理にしては妙に遠回しな説明だ。
表情は見えないが、会心のドヤ顔が脳裏に浮かぶ。
「コースケ、おさらいだ。錬金術は元々何のために産み出された?その始まりは?」
「……貴金属を作ったり、人を不老不死にしたり、神の論理を解き明かしたり、とか?ウィキ知識ですけど」
「そのためには何が必要だった?」
「……賢者の石?」
「それを作るためには?順序があるだろう?」
もっとシンプルに、子供のなぜなぜどうしてどうやっての如く順序を踏む。
「化学反応……いや、自然界の仕組み、理……人の魂の性質を知る…………あっ!?」
全てが、繋がる。
そのための可能性が、ホムンクルス。
人間ではないはずの存在が、どれだけ人間に近づくことが出来るか。
加えて、明理はホムンクルスに創られたホムンクルスなのだ。
その彼女が、自らを人間と変わりないと断言した瞬間。
反論を許さなかった刹那。
それこそが、ユミルが目指していたもの。
――人の魂を作る。
此即ち、錬金術の極致。
「貴様ッ……我ヲ、我自身ヲッ、人間ニ変エタトデモ言ウノカアァァァァッ!?」
「正確にはお前のその意思を、だな。私という前例をもって人の魂を形作ってやった」
「マジかよ……」
浩輔もなんという荒唐無稽で無茶苦茶な手段かと思ったが、これでユミルの行動の理由に説明がついてしまうのだから納得せざるを得ない。
「お前のその意思こそが全ての突破口だった。私らに対して随分と饒舌だったし、長年誰とも話してなかったから寂しかったのかな?」
「ガ…………」
賢者の石の熱が失われ、中の気体を失った風船の如く徐々にしぼんでいく。
その先は、最初とは異なり、丸くはならなかった。
また、別の形へと変化していったのだ。
「さぁ、お前自身が決めたルールだ。『お前の力を使いこなす人間は、この世界から消滅する』。ちゃんと果たせよ」
「ソンナ……モノガ……!」
「あぁ?自分が負けそうになったら、ルールを変えるのか!?それこそが、お前が人類に完全敗北した証拠だっ!」
最後の仕上げとばかりに明理は捲し立てる。
「お前に与えられた選択肢は二人に一つ!大人しくこの世界から出ていくか!己の敗北を認めて、惨めったらしくこの世界に居座るかだ!」
「……いや、もう一つ。お前自身が力を捨てるか」
「へっ、だったら、すぐにでもタコ殴りにしてやるよ」
賢者の石の呻き声が徐々に、明瞭さを増していく。不快、重圧、恐怖は消え去り、『何てことのないモノ』へと変異していく。
しかし、離れていても感じられる力の波動は圧倒的だ。普通に戦えば勝てるわけがない。
だからこそ。
「ワレ、ハ……」
「だったら、お前は、何だ?」
「ワ……」
「私と同じ形を与えてやったんだ。私が人間でないというのなら、否定してみせろよ。何が、どう違うのか」
止めでもあり、慈悲でもある投げかけに、答えが返ることはなかった。
一面が光にまみれた世界に突如として歪みが生じ、空間が裂けて漆黒の穴が現れる。
よく見慣れた生物の形状へと姿を変えた『賢者の石だったもの』は、手足のようなものを使ってもがくが、それも空しく、漆黒の裂け目へと引き寄せられ、そのまま吸い込まれていった。
その『穴』は、浩輔と明理にも視線のような感覚を一瞬与えたが、すぐに身を引くように、空間の裂け目が元通りになっていく。
そして、辺りは再び真っ新な世界へと戻る。
「見逃して……くれたのか?」
「お前はただの人間だし、私も行く先が決まった存在だからな……」
「あの穴の先には……」
「そこんとこはもういい。キリがねぇよ」
もう自分達に出来ることはやるだけやった。
ここから先は、もはや神々の領域だ。
「……あいつの意思に触れたとき、な」
明理が小さく呟く。
「あいつ自身のアイデンティティみたいなものが感じられなかった。……だから、自分が何者なのかを、言えなかったんだ」
ついに全ての根源を絶ったというのに、どこか寂しさすら感じる声。
「私らと戦っているときにも、感情みたいなのが見えたろ?あいつは、あくまでも私らを倒すことに拘った。最後だってルールを変えれば、私らだけを消すことだって出来たかもしれないしな」
「……余裕の煽りじゃなかったんですか」
「力で敵わない相手を倒すのは大変だな……ほんとに……」
そう締めくくられると、明理の輪郭が徐々に元通りになっていく。
やはりというか、裸体だが、特段変な感情など湧き上がらない。
浩輔はただ、とにかくやり切ったのだと、全身を脱力感に委ねていた。
(……いや、まだだ)
もう少し意識を残そうと、浩輔は既に感覚の無い右手は置き、残った左手に思い切り力を込める。
――何かがあった。
あるべきものではなかったものが。
ぎょっとして、思わずそれを落とす。
「賢者の石っ?いつの間に俺の手にっ!?」
「……ん、いや違うな。似てるけど違う」
浩輔の手から投げ出されたピンポン玉程度の紅い石は空中で止まり、それを明理がすくい上げる。
そのまま指先で回しながら全体を一通り眺めると、やがて一人で納得したのか、興味深そうに頷いた。
「……なるほどなぁ。これは、コースケ。お前の、なんだな」
「何が?」
「はは、残念だったな。研究者にでも拾われてれば」
明理は浩輔ではなく、石に語りかけるように視線を落とすと、石をそのまま上に放り投げる。
重力とか物理法則がどうでもよくなっている空間なためか、そこから落ちて来ることはなかった。
「今のは気にするな。忘れていいことなんだ……とっとと仕上げに移ろうぜ」
「仕上げ……?」
「この世界まるごと、やるんだ。まだ、死ぬなよっ!」
その一声と共に真っ新な世界が破られる。