第三話 施設
どのくらい走っただろうか?
10分くらいの事だった気もするが、一時間くらい長く感じたような気もする。
ともかくも、車は警察署をでて施設に向かっているということがわかっている僕にとってはそんなことはどうでもよかった。
そのとき、僕の目に初めて映る景色が飛び込んできた。
海だ!
思わず叫びそうになったが、ここはぐっとこらえて不機嫌そうにしていた。
波は穏やかで、それでいて海の深い青色はその水の厚みを感じさせた。
決してきれいな海とは言えなかったが、初めてみるその雄大さと潮の香りにほんのひと時、時間を忘れた。
ふと気が付くと、目の前の信号は赤だった。
施設から迎えに来たという女は僕のほうをマジマジと見ながら言った。
「ダイスケ君…海は初めて?」
そんなことを言われるなんて、よっぽど顔に出ていたにちがいない。
僕はなにやら気まずいような気がしてだまってうつむいてしまった。
すると、信号は青になり、また車は走りはじめた。
「ダイスケくんのおうちの近くには海はなかったの?」
そう言われてはっとした。
不注意に何かをさとられて身の上がばれていくのは得策ではない。
この女、確実に僕のことを探りたがっている…
「見たことある…」
と小声でつぶやくことしかできない自分の度量に情けない気持ちになった。
しかし、今にして思えば僕は運がいい。
一人目は一人で暮らすルンペンに拾われ、二人目はあまり外との交流のない小さな村のこれまた一人で暮らす女
普通だったら、僕の存在に大騒ぎになって怪しげな研究の対象になりかねない。
いくら小人病の人でも30年も経てばそれなりに顔は老ける。
僕にはそれすらない。
特に二人目のルンペンの時には色々と世の中のことをよく教えてもらった。
これから施設にはいるとしてもせいぜい数年でまた抜けださなくてはならないくらいの計算はできるようになっていたし、彼女とあっていなければこうして施設にはいることすら思いつかなかっただろう。
そんなことを考えているうちに車は、町外れの古びた白い建物のある敷地の中へと入っていった。
門を入って行く時、傷だらけの気の弱そうな子供が門の影でさっきまで泣いていたかのような真っ赤な目で僕のほうをじっと見ていたのが通りすぎ様にチラッと見えた。
その時、僕は何も思わなかったがそれが彼との出会いだった。
車を降りて、中に案内されると広い玄関に大きな下駄箱があった。
すのこの上で靴を脱ぎ、スリッパにはきかえると長い木の床の廊下を突き当たりに園長室というのがあり、僕を迎えにきた女はその部屋の扉をノックした。
「峰です。連れてきました。」
すると中から
「早かったですね。どうぞ。」
と、少し年輪を感じる優しそうな老女の声がした。
中に入ると正面に窓があり、その手前に大きな木の机と座り心地のよさそうな竹で編んだ椅子があった。
そこに白地に淡い花柄のブラウスをきた、少し太った白髪の女が涼しげな表情をして座っていた。
扉を開いたので窓から風が少しはいり白いカーテンがふわりと風になびくと、それと同時に窓の外につってあるガラスでできた風鈴がリーンと音を響かせ、まだ梅雨の明けたばかりの初夏の暑さとはうらはらに、その二十畳ほど殺風景な部屋はなんとも涼やかな雰囲気に包まれた。
そんな中、園長はにっこりと微笑んで僕のほうを見ていた。
しかし、僕はこの時この女の名前が「峰」ということを今知ったということにむっとしていた。
隠そうとしていた僕が先に名前を明かして、隠そうとしていないこの女の名前を探ろうともしていなかった自分にだ。
そんな僕を優しそうな目で見ながら園長は僕に話しかけた。
「色々話は聞いとるよ、何も言わんでもええ。居たいだけここにおりゃええ。」
それを聞いた峰はあわてて
「ですが園長…」
と何か言いかけたが
「まあ峰さん、無理に聞こうとして話す子が三日も警察でだまっていますか?」
という園長の言葉に峰は言葉を失った。
その様子をみて園長は
「名前は聞けたんですか?」
とゆったりとした口調で問いかけた。
峰は、はっとして
「あ、はい。ダイスケ君です。…苗字はまだですが」
と答えると園長はまた僕のほうを見て
「ダイスケ君ね。それだけ分かっていれば十分です。あ、でも学校いかにゃいけんで、年は教えてね。ま、それも気が向いてからでええから、まずはここに慣れんといけんよ。」
と何とも淡々とした口調で言った。