結婚式前夜。婚約者は愛人を抱き、土砂降りの雨の中に私を置き去りにして死なせた
プロローグ
深夜まで残業し、事務所で最後まで残っていた女性同僚二人には、それぞれ迎えに来た恋人がいた。二人に別れを告げ、オフィスビルの前で怜司にメッセージを送った。
「迎えに来てくれる? 会いたい」
三十分ほどして、ようやく返信が来た。
「今夜中に出す書類がまだ残ってる。どうしても手が離せないんだ。落ち着いたら、ちゃんと時間を作るから」
怜司とは六年付き合い、四年前から一緒に暮らしている。二か月前に婚約し、明後日には市役所へ婚姻届を出す予定だった。私が会いたいと言っても、依頼者との打ち合わせか、公判の準備か。私はいつも仕事なら仕方がないと自分に言い聞かせてきた。
タクシーを呼ぼうとバッグを肩に掛けた、そのときだった。道路の向こう側に、見慣れた二人の姿があった。怜司はコンビニの前で片膝をつき、相沢莉奈の足首を支えながら腫れたところを見ている。莉奈はそんな彼を見下ろし、うれしそうに目を細めていた。怜司が着ているのは、私が贈ったお揃いのコートだった。
1.事務所の女性同僚
私が怜司と暮らしているマンションへ戻ると、なぜか二人もそこにいた。玄関を開けた私を見ても、二人は慌てる様子すらない。まるで突然帰ってきた私のほうが招かれざる客のようだった。黙って靴を脱ぎ、奥へ進もうとすると、怜司が腕をつかんで引き戻した。
「どうしたんだよ。迎えに行けなかったくらいで、そんな顔する必要ある?」
「家に人を連れてくるなら、一言くらい連絡してくれてもいいでしょう」
ここ数日、私は連日の残業でまともに休めていなかった。そのうえ帰り道では見知らぬ男に尾行され、逃げる途中で転んでいる。空腹と膝の擦り傷で視界が揺れていたのに、怜司は気づきもしなかった。
「神谷先生、私のせいで喧嘩しないでください」
莉奈がソファにつかまって立ち上がる。けれど一歩踏み出した途端、足を取られて倒れかけた。怜司はすぐに支え、そのまま彼女を抱き上げた。
「こんなに腫れてるのに無理するな。少し横になってろ」
「私は嫌」
怜司の足が止まった。振り返った顔に、うっすら苛立ちが浮かんでいる。
「美緒、いつからそんな細かいことを気にするようになったんだ?」
「私がどうしてこんな時間に帰ってきたのか、気にならないの?」
「残業したのは自分の判断だろ。仕事の苛立ちを家に持ち込むなよ」
莉奈を抱いたまま、怜司は冷えた目を向けてきた。
「佐伯真奈さんの不同意性交等事件だって、君が自分で担当すると言い張ったんだろ。主任担当を俺に替えたほうがいいって、何度も言ったはずだ」
私は寝室の前に立った。
「帰り道で、男にずっとつけられてた」
怜司の視線が、私のスカートとむき出しになった脚をなぞった。
「だから言っただろ。夜に一人で帰るなら、そんな目立つ格好はするなって」
身体の芯が冷えた。
「莉奈は今、一人で歩けない。近くのホテルまで送ってくる。先に寝てて」
怜司は莉奈を抱いたまま出ていった。怖くなかったかと、最後まで一度も聞かなかった。
私は一人でソファに座り、消毒液で膝の傷を処置した。沁みる痛みに耐えながら、弁護士法人青葉総合法律事務所に入ったばかりのころを思い出す。司法修習を終えて弁護士登録をし、怜司が担当するチームに配属されて、今年で五年目になる。初めて一人で依頼者と面談した日も、初めて公判資料をまとめた日も、初めて法廷に立った日も、彼は私のすぐ後ろにいた。
それが変わったのは、莉奈が事務所に入ってからだ。彼女は司法修習を終えたばかりの新人弁護士だった。最初のころ、怜司は彼女の書面に一か所でも誤りがあれば最初から作り直させるほど厳しく、私は何度か「新人にそこまで言わなくても」と止めたことがある。ところが、いつの間にか彼は莉奈を露骨にかばうようになった。事件会議には必ず連れていき、彼女のミスまで長谷川代表の前で引き受け、依頼者から届いたお中元の菓子折りまで渡していた。
深夜まで残業した弁護士には、帰宅時のタクシー代を事務所負担にできないかと提案したのも私だった。けれど夜になると、怜司はいつも先に莉奈の帰りを気にして、自分で送っていった。
「莉奈は地方から桐原に出てきたばかりで、近くに頼れる人がいない。美緒には俺がいるだろ。それとは違うよ」
けれど、彼が私を待ってくれたことはない。私はずっと、莉奈が新人のころの自分に似ているから気にかけているのだと思っていた。今ならわかる。扱いの差は、ずっと前から小さな選択の中に積み重なっていた。
傷の手当てを終え、怜司とのトーク画面を開いた。
「別れよう」
送信しても、返信は来なかった。ソファで丸くなったまま眠り、目を覚ますと、怜司が床に膝をついて私の傷に新しいガーゼを当てていた。
「美緒が気にすると思って、莉奈の家には行かなかった。ホテルに泊まらせただけだ。あいつ、二時間も泣いてたよ。俺たちの関係を壊したかもしれない、仕事も辞めたほうがいいって」
「昨日送ったメッセージ、見た?」
「メッセージ?」
怜司が眉を寄せてスマートフォンを取り出した。画面の上部に固定されていたのは、私、莉奈、長谷川代表の三人だった。けれど、通知が切られていたのは私だけだった。だから私の連絡には、いつも気づかなかったのだ。
「こんなことで別れるって?」
怜司は軽く笑い、私に顔を寄せた。私は顔を背け、唇は頬をかすめただけだった。
「明後日には婚姻届を出すんだぞ。式だって二か月後だ。長谷川代表には話してある。結婚式の前に数日、事務所の特別休暇を取れるようにしてもらう。真奈さんの事件も俺が分担する」
「必要ない」
「じゃあ、式の準備は誰がするんだよ」
「二人の結婚式でしょう。私にも事件があるし、依頼者がいる。どうして私だけ仕事を止める前提なの?」
怜司が何か言い返しかけたとき、スマートフォンが鳴った。莉奈だった。
電話の向こうで、ホテルの部屋のドアノブを何度も触る人がいる気がすると訴えているらしい。怜司は短く声をかけながら、コートを手に取った。
「一人でホテルにいるんだ。様子だけ見てくる。すぐ戻る」
「私だって、怖いものは怖いよ」
その背中を見つめた。
「怜司。今、あなたにとって婚約者は誰? このドアから出ていくなら、私たちは本当に終わりだから」
怜司は数秒だけ立ち止まった。けれど莉奈からもう一度電話が入り、桐原には頼れる相手がいないと泣きつかれると、迷いは消えた。
「鍵はちゃんとかけろよ。早く寝て」
また一人にされた。眠る気にはなれず、パソコンを開いて真奈さんの事件資料を整理する。朝になってからスーツケースを一つ出し、身の回りの物と必要な書類だけを詰めた。
私たちは桐原駅近くの2LDKの賃貸マンションで四年間暮らしてきた。少し前、オーナーが売却を考えていると聞き、怜司は結婚後にこの部屋を買ってもいいと言っていた。私はまだ彼に話していなかったが、両親は近くの高層マンションに約九十五平方メートルの3LDKを用意してくれていた。本当は新居にするつもりだった。
もう、その必要はない。
2.彼は私の事件を奪った
スーツケースを引いて一階へ降りると、ちょうど怜司と莉奈が戻ってきた。莉奈は松葉杖をつき、身体のほとんどを彼に預けている。
「その荷物、どこへ行くつもりだ?」
怜司が手を伸ばした。私は触れられる前に一歩下がる。
「昨夜は別の部屋を取った。何もしてない。疑うならホテルに確認してもいい」
「そう」
「莉奈が美緒のことを気にして、どうしても様子を見たいって言うから連れてきた。それと、長谷川代表が昨日の動画を見た。事務所は当面、真奈さんの事件の対外対応から美緒を外す。主任担当は俺が引き継ぐ。給料は出すから、騒ぎが収まるまで自宅待機してくれ」
「何の動画?」
莉奈が視線を落とした。
「桐谷先生、昨夜つけられていたときの動画がネットに上がってるんです。今、先生の状態についていろいろ言われていて……代表も、このまま担当を続けると事件に影響が出るんじゃないかって心配しているみたいで」
スマートフォンを開くと、Xのトレンドに関連ワードが上がっていた。見出しは「著名な女性弁護士、深夜に尾行される 精神状態に不安か」。動画の中で私は夜道を早足で歩き、帽子とマスクをつけた男がずっと後を追っている。転んだ私を、男は助けるどころかスマートフォンで撮影していた。最後には、泥だらけの私が地面に座り込んでいた。
心配する声もあった。けれど「夜にそんな服で歩くほうも危機意識が足りない」「あれほど取り乱す弁護士に性暴力被害者の支援ができるのか」といった書き込みも並んでいる。
怜司が私の手からスマートフォンを取った。
「だから、無理して全部抱える必要はないって言ってるんだ。この事件は俺が最後まで見る」
声だけは優しかった。その優しさの奥に、私を見下す気配が透けていた。
「外れない。真奈さんは青葉と委任契約を結ぶとき、私を主任担当弁護士に指定してる。本人が担当変更に同意していないのに、事務所の都合だけで勝手に替えられる話じゃない」
「美緒」
怜司が、命令するような声で私の名を呼んだ。
「俺は婚約者だ。俺の意見すら聞けないなら、この先やっていく意味があるのか?」
「じゃあ、終わりでいい」
尾行動画はさらに拡散した。長谷川代表から電話があり、何度か気遣う言葉を挟んだあと、正式に出勤停止を告げられた。給与は支給するが、当面は自宅待機。事務所の事件管理システムへのアクセスも停止するという。
荷物を移したあと、私はすぐ真奈さんが入院している病院へ向かった。報道陣が病院の周囲に集まり、病院側は本人が事前に認めた面会者以外の入室を制限していた。警察も周辺の警戒を強めている。真奈さんはまだ治療中で、私は青葉のシステムにも対外連絡にもアクセスできない。看護師に個人用の連絡先だけを預け、その場を離れるしかなかった。
いったん青葉へ戻り、長谷川代表の部屋の前を通ったとき、中から怜司の声が聞こえた。私は廊下で立ち止まり、念のためスマートフォンの録音を起動した。
「こんなことして、美緒に知られたらどうする?」
「知られませんよ」
「明後日には婚姻届を出す予定だったんだろ。結婚したら、早めに家庭を優先させればいい。妊娠でもしたら、企業顧問や書面のチェック中心に回せば済む」
「この数年で美緒は前に出すぎた。犯罪被害者支援の主導権まで、女一人に握らせるわけにはいかない」
しばらく沈黙が続いたあと、長谷川代表が声を落とした。
「城戸家からの三千万円は入ったのか?」
「はい。真奈さんの主任担当を外せれば、あとは時間をかけて止められます」
「使ってるPR会社にはやりすぎるなと言っておけ。匿名アカウントが美緒の私生活まで掘り始めてる」
「大丈夫ですよ。こういうのは数日なだめれば、そのうち収まります」
どうやってその廊下を離れたのか、自分でも覚えていない。
真奈さんの事件を受任したばかりのころ、城戸家は仲介人を通じて私に接触してきた。真奈さんに示談へ応じさせ、SNSや報道への発信をやめさせ、検察にも厳罰を望まない意思を伝えさせる。その見返りとして、私個人に三千万円を「顧問料」名目で支払うという話だった。
私は断った。怜司が最近になって私の能力を繰り返し否定するのは、私が弁護士として彼に近づいてきたことが面白くないからだと思っていた。違った。彼が欲しかったのは、城戸家の金だった。
真奈さんはキャバクラで働いていた。事件が報じられると、その職業だけで彼女を侮辱する人が現れた。けれど、どんな仕事をしているかと、性行為に同意したかどうかは別の話だ。
ここで引くわけにはいかない。
私まで退けば、真奈さんの周りには、責任を彼女自身へ押し戻そうとする声しか残らない。
滞在先に戻ってInstagramを開くと、最初に莉奈のストーリーズが表示された。怜司の車の助手席に座り、大きなアイスクリームを抱えている。
「神谷先生の言うとおり、短いスカートはやめました。自分でできることから気をつけないと」
怜司はその投稿に「いいね」を付け、コメントまで残していた。
「一人ひとりが少し意識するだけで、防げるトラブルはあると思う」
数秒だけ画面を見つめ、そのまま長谷川代表へ退職の意思をメールで伝えた。あわせて、事件の引継ぎと守秘資料の返却方法について連絡する。
後日、私物を取りに青葉へ行った。持ち出したのは自分の法律書と文房具、それから依頼者情報を含まない個人的なメモだけだった。怜司は入口近くの壁にもたれ、冷たい目で私を見ていた。
「美緒がここまで来られたのは、最初の何年か俺が後ろ盾になってきたからだ。青葉を辞めて、どこの事務所が拾ってくれると思ってる?」
「桐谷先生、神谷先生は婚約指輪も式の準備もしていたんですよ」
莉奈が私の段ボール箱をつかんだ。
「一つの事件のために、そこまで全部捨てる必要がありますか?」
引っ張られた拍子に箱が床へ落ち、法律書と書類が散らばった。莉奈はしゃがみ込み、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「ずっと、先生がいなくなるのを待ってました。先生が辞めれば、神谷先生はもう私以外を見ないから」
反射的に彼女を押しのけた。怜司はすぐ莉奈を支え、そのまま私の頬を平手で打った。
「今まで甘やかしすぎたんだな。少しくらい痛い目を見たほうがいい」
散らばった物を拾い、私は事務所を出た。外は激しい雨だった。頬の熱が、雨に打たれるうちに冷えていった。
3.豪雨のあと、私は戦う場所を変えた
一人で青葉と城戸家の両方を相手にするのは無理がある。ホテルへ戻ると、東京の黒川綾乃先生にメールを送った。真奈さんの事件、廊下で録った音声、それから私自身に起きたことを、できる限り整理して書いた。黒川先生は性暴力や犯罪被害者支援を専門的に扱う弁護士として知られている。研修会で一度挨拶しただけの相手だったから、返事は期待していなかった。
三十分後、スマートフォンが光った。
「今夜、時間を取れますか。元データはこれ以上転送しないでください。いちばん早い新幹線で、事務所の弁護士とそちらへ向かいます」
黒川先生に会ったあと、廊下で録った音声は警察と弁護士会へ提出するための資料として保全することになった。報道にそのまま流すことはしない。黒川先生は、まず銀行の送金記録、PR会社との契約や支払記録、そして青葉内部の告発者が提供したメールを一つずつ確認していった。
真奈さんの事件は全国的に報じられるようになっていた。捜査が続くなか、弁護士法人青葉総合法律事務所は担当変更と一連のネット上の騒動について説明するとして記者会見を開いた。怜司が事務所を代表して出席し、その様子は生配信された。
記者から、婚約者として私の退職と尾行事件をどう受け止めているのかと問われる。怜司はカメラの前で深く頭を下げた。
「美緒は新人のころから私が見てきた弁護士です。行動力があり、依頼者思いでもある。ただ、尾行事件のあと心身ともに不安定な状態が続き、最終的には突然退職しました。依頼者に対する責任という意味では、残念に思っています」
何一つ嘘だと言い切れない言い方で、すべての原因を私へ押しつけていた。
会見の途中、出席していた記者たちの端末に、黒川法律事務所から提供された資料が一斉に届いた。真奈さんを特定できる情報は一切含まれていない。そこにあるのは、個人情報を伏せた送金記録、PR会社とのやり取り、内部告発者から提供されたメール、そしてそれぞれの真正性を確認した説明書だった。
最前列の記者が手を挙げた。
「神谷弁護士、城戸グループの関連口座から三千万円を受け取った事実はありますか」
怜司の表情が固まった。テレビ局は確認済みの送金記録を配信画面に映し、続いてPR会社への支払記録と内部メールの内容を紹介した。私を事件から外すこと、匿名アカウントを使って信用を落とすこと、三千万円の入金を確認したこと。そのつながりが、全国に向けて示されていく。
会見場は一気にざわめいた。
SNS上の反応も一変した。
「尾行動画まで仕組まれてたってこと?」
「桐谷弁護士は城戸家の金を断ったのに、婚約者が受け取ったの?」
「尾行されて動揺した女性を『仕事に向かない』って追い込むの、おかしくない?」
「送金とネット工作が本当なら、もう恋愛のもつれで済む話じゃない」
報道各社は取材を続け、怜司と莉奈が以前から必要以上に親密だったことを示す写真も出回った。けれど、二人がどこまでの関係だったのかは、もうどうでもよかった。私にとって大切なのは、真奈さんの事件を本来の手続と被害者支援の流れに戻すことだった。
黒川先生と私は桐原弁護士会へ懲戒請求を出し、犯罪に関わる可能性のある資料は警察と検察へ提出した。青葉は怜司の事件担当権限を停止し、弁護士会も懲戒手続に入った。
刑事事件の捜査を担うのは、あくまで警察と桐原地方検察庁だ。弁護士会が刑事事件を「引き継ぐ」ことはない。そして、真奈さんが今後誰に依頼するのかを決められるのも、彼女自身だけだった。
もう一度病院を訪れた。黒川先生は病院側に無理を通そうとはせず、私の名刺と短い手紙を看護師に預けた。数時間後、真奈さんが面会に同意したと連絡が入った。
顔の傷はまだ消えていなかった。上体を起こす動きもゆっくりだった。私を見ると、真奈さんはそっと手を握った。
「桐谷先生、まだ私のことを助けてくれますか」
「あなたが私を選んでくれるなら」
「みんな、お金を受け取って終わりにしたほうがいいって言います。キャバクラで働いてた女の話なんて信用されないって」
真奈さんはまっすぐ私を見た。
「先生だけは、あの日どうしてあの服を着てたのかとか、どうしてあの仕事をしてるのかって、一度も聞かなかった」
その後、真奈さんは青葉との委任契約を解除し、弁護士法人黒川法律事務所と新たに委任契約を結んだ。私は引き続き被害者代理人を務め、起訴後に裁判が始まれば、被害者参加制度を利用して被害者参加弁護士として付き添う準備を進めることになった。
4.去った私は、もう戻らない
記者会見のあと、青葉はすぐに怜司をすべての事件から外し、数日後には退所を求めた。七年間通った事務所を段ボール箱一つ抱えて出ていく彼を、見送りに来る同僚はいなかった。莉奈の姿もなかった。弁護士会の懲戒手続も警察の捜査も、結論が出るまでには時間がかかる。それでも、以前と同じように弁護士として働き続けることは、もうできなかった。
元同僚から聞いた話では、それでも怜司は、私が一時的に怒っているだけだと思っていたらしい。
私が自分から離れるはずがないと、最後まで信じていた。
真奈さんの委任を受け直したあと、スマートフォンを開くと、怜司から何十件ものメッセージが届いていた。
「美緒、青葉は辞めた」
「ずっと沖縄に行きたいって言ってただろ。二人分の航空券を取った。明後日出よう」
「今回のことは、俺の考えが足りなかった。謝る」
「式の日まで決まってるのに、本当にこれだけで六年を全部捨てるのか?」
私はそのアカウントをブロックした。すると別の連絡手段から、またメッセージが来た。
「もう別れています。これ以上、連絡しないでください」
それだけ送ってスマートフォンを伏せ、黒川法律事務所の弁護士たちと事件資料の整理に戻った。
怜司は、もう過去の人だった。
それでも彼は、私がいつか戻ってくると思っていたらしい。青葉を去ったあと、スーパーで食材を買い、私がよく食卓に飾っていた花まで買ってマンションへ帰った。
けれど、部屋に入って初めて気づいた。私の物は何一つ残っていない。玄関のキートレイも、靴箱の靴も、寝室の化粧台に並んでいたボトルも消えていた。洗面所に二本並んでいた電動歯ブラシも、一つだけになっていた。
怜司は部屋中を探し、最後にダイニングテーブルの上で婚約指輪を見つけた。二か月前、彼がこの指輪を私の指にはめたころ、私たちは本気で結婚式とその先の生活について話していた。あのころ莉奈は、まだ青葉に入ったばかりだった。
思えば、彼の優しさが二つに分かれ始めたのも、そのころだった。
一か月後、玄関のチャイムが鳴った。私が戻ってきたと思った怜司がドアを開けると、そこにいたのは管理会社の担当者と内見に来た人だった。
「神谷様、まだお荷物が残っているのでしょうか」
「荷物?」
「桐谷様から一か月前に、契約どおり解約のお申し出をいただいております。本日が契約最終日ですので、すでに退去済みだと思い、内見を入れておりました」
「結婚する予定だったんです。この部屋を買う話までしてた。いつ解約したんですか」
担当者が戸惑ったように目を瞬いた。
「桐谷様からは、婚約を解消したとうかがっております。ご存じなかったんですか?」
そのとき初めて、怜司は理解した。
私は、本当にもう戻らない。
5.盗まれた証拠
ネット上の騒動がさらに大きくなり、事情を知った両親は、その日のうちに白嶺地方から新幹線で桐原へ来た。従兄と従姉まで一緒だった。自分ではもう平気だと思っていたのに、駅で家族の顔を見た瞬間、涙がこぼれた。
従兄は怜司のところへ乗り込むと言ったが、私は止めた。
「必要ないよ。法律で処理すべきことは、法律に任せるから」
それより大事なのは、真奈さんがもう一度私を選んでくれたことだった。彼女は性暴力を受けた際に激しく抵抗し、身体にも重い傷を負っている。入院中も報道を気にしていたらしい。再び会ったとき、真奈さんは私の手を握った。
「桐谷先生、諦めたほうがいいって何度も言われました。お金を受け取って示談にしろって。でも、先生だけは私を見下さなかった」
城戸家は地元で長く事業を続け、企業や有力者とのつながりも広かった。捜査が進むにつれ、警察や検察にはさまざまな働きかけや苦情が寄せられ、報道陣も連日取材を続けた。それでも、事件の行方を決めるのは証拠だ。
真奈さんの診療記録や負傷時の写真、ホテル廊下の防犯カメラ映像、タクシーの利用記録、スマートフォンの位置情報、メッセージ履歴が改めて整理された。さらに警察は、城戸翔真が事件当夜に拘束具や清掃用品を購入していたことを確認した。決済記録と周辺の防犯カメラ映像は、彼の行動経路とも一致していた。
同じころ、Xでは「キャバクラで働いていたら同意したことになるのか」という話題が広がった。多くの女性が自分の経験や意見を発信し、議論はSNSから全国ニュースへ波及していった。
だが、少しも気を緩められなかった。事件資料の一部がなくなったからだ。
黒川法律事務所では事件管理システムを暗号化し、紙の出力物にも管理番号を付けている。その日、莉奈は青葉時代の引継ぎ資料を追加で届けるという名目で事務所を訪れた。会議室で職員と資料を照合していたが、コピーを取りに職員が一時席を外した短い時間に、机上の副本一部を自分のファイルへ紛れ込ませたことが、後の調査でわかった。
不足に気づいた黒川先生は、すぐに入退室記録と会議室前の防犯カメラ映像を保全し、警察へ届け出た。管理番号と職員の証言も照合され、莉奈が捜査対象になった。なくなった資料は、彼女が当時勤めていた事務所の個人ロッカーから見つかった。
警察署へ確認に行った私を見るなり、莉奈は泣きそうな顔をした。
「盗んでません。桐谷先生が今どうやって事件を進めているのか、勉強したかっただけです」
「被害者の秘密が書かれた資料よ」
「私、そんなことする人間じゃありません。誰かが私を陥れたんです!」
言い争うつもりはなかった。彼女は学生ではなく弁護士だ。資料を複製したのか、第三者へ渡したのかは警察が調べる。職業上の責任については、所属弁護士会が判断する。
以前、莉奈は「神谷先生に、桐谷先生に似ていると言われた」と話していた。
今となっては、その比較をされること自体が不愉快だった。
莉奈は窃盗容疑で捜査を受け、その後、逮捕されないまま書類送検された。所属弁護士会も懲戒手続を開始した。
警察署を出ると、怜司が駆けてきた。一か月以上会っていない。スーツはしわだらけで、顎には無精ひげが伸びていた。以前の自信に満ちた姿はどこにもなかった。
「美緒!」
怜司がこちらへ急いでくる。
「大丈夫か?」
伸ばされた手を避けた。
「莉奈なら中にいるよ」
「俺は莉奈に会いに来たんじゃない。あいつがそっちの資料を持ち出したって聞いて、美緒に何かするんじゃないかと思った」
「新人の莉奈一人に、ここまでできると思う?」
私は怜司を見た。
「私の仕事のやり方も、依頼者の情報も知っていて、私が何を怖がるかまで知ってる。それを利用できた人は、別にいるでしょう」
怜司の顔がこわばった。
「尾行のことは悪かった。でも、あのときは一時的に事件から離れてもらいたかっただけなんだ。今はもう担当に戻っただろ? どうして元に戻れないんだよ」
「知らない男に私をつけ回させて、匿名アカウントまで使って私の信用を傷つけた」
「あなたが『大したことじゃなかった』と思えるのは、私が受けた傷を最初から数に入れてないからだよ」
背を向けようとすると、怜司が突然その場に膝をつき、私の手をつかんだ。
「美緒がいないと無理なんだ。莉奈とは本当に何もない。最初は、美緒に少し嫉妬してほしくて優しくしただけだった」
目が赤く充血していた。
「三千万円だって、美緒がもっと広い家に住みたがってると思ったからだ。結婚したら楽をさせたかった。美緒のためじゃなきゃ、あんな危ないことするわけないだろ」
「私、いつ広い家に住みたいって言った?」
怜司が言葉を失った。
「両親が近くの高層マンションに、九十五平方メートルくらいの3LDKを用意してくれてる。真奈さんの事件が落ち着いたら、一緒に引っ越そうって話すつもりだった」
膝をついたままの彼を見下ろした。
「家が欲しかっただけなら、どうしてあの普通の賃貸マンションで四年も一緒に暮らしたと思う?」
「そんな……」
「私が欲しかったのは、信頼できる人と一緒に暮らすことだけだった。婚姻届を出す前に気づけて、本当によかった」
つかまれていた手を振りほどいた。
「私たちがやり直すことは、もうないよ」
ちょうどそのとき、黒川法律事務所の若手弁護士、橘悠斗がこちらへ歩いてきた。
「桐谷先生、大丈夫ですか」
「大丈夫。行こう」
橘と並んでその場を離れた。振り返ることはなかった。
6.彼女は法廷に立った
捜査は手続に沿って進み、桐原地方検察庁は最終的に城戸翔真を不同意性交等致傷罪、殺人未遂罪などで起訴した。殺人未遂を含むため、事件は桐原地方裁判所の裁判員裁判で審理されることになった。
起訴後は公判前整理手続が進み、争点と証拠が整理された。真奈さんの回復状況も考慮され、第一回公判は約二か月後に指定された。私たちは被害者参加の申出を行い、真奈さんは被害者参加人として、私は被害者参加弁護士として公判に関わることになった。
その間、黒川法律事務所の弁護士たちと真奈さんの意見陳述を準備し、検察官とも証拠や出廷方法について打ち合わせた。法廷で氏名や住所などの被害者特定事項を明らかにしない措置についても確認した。
真奈さんは、事件当日のことを話している途中で言葉が止まることがあった。私たちは急かさなかった。彼女はこれまで、あまりにも多くの人に「こうしたほうがいい」と決めつけられてきた。
今度は、自分で決めていい。いつ話すのか。どこまで話すのか。
公判初日、桐原地方裁判所の前には大勢の報道陣と傍聴希望者が集まっていた。被害者特定事項については保護措置が取られていたが、私たちは念のため帽子とマスクも用意していた。建物へ入る前、私はマスクを差し出した。
「外、人が多いよ。今からでも変えたくなったら言って」
真奈さんは受け取ったものの、顔にはつけなかった。
「ありがとうございます、桐谷先生。でも今日は、隠したくないです」
長い髪をまとめ、頬から首元に残る傷跡をそのまま見せた。
「キャバクラで働いていたからって、誰かに傷つけられていい理由にはなりません。この傷があるからって、私が隠れなきゃいけない理由にもならない」
「行こう」
私たちは並んで裁判所へ入った。
裁判員裁判は決して楽なものではなかった。検察官が証拠を示し、弁護人は真奈さんと城戸の過去のメッセージ、飲酒状況、二人が会うまでの経緯などから、合意があった可能性を主張した。
弁護人が何度か当日の服装や勤務先へ質問を広げようとすると、裁判長は同意の有無と直接関係のない侮辱的な尋問を制限した。検察官も、職業や服装だけで具体的な同意の有無を判断することはできないと明確に指摘した。
私は被害者参加弁護士として真奈さんのそばに座り、許可された範囲で意見陳述を支え、被告人質問の準備をした。最もつらい部分を尋ねられたとき、彼女の指先は震えていた。それでも、自分の言葉を手放さなかった。
この裁判は、私一人の戦いではない。捜査をした警察、立証を担う検察官、積み重なった客観証拠、そして真奈さん自身が語る言葉。そのすべてが、一つの事件を形づくっていた。
数日にわたる公判を経て、裁判官と裁判員は評議に入った。判決では、城戸が真奈さんの意思に反して性交行為に及び、その過程で重大な傷害を負わせ、さらに生命を奪いかねない行為に及んだことが認定された。不同意性交等致傷罪、殺人未遂罪などが成立すると判断された。
判決言渡しの日、法廷は紙をめくる音が聞こえるほど静かだった。
裁判長が主文を告げた。
「被告人を無期拘禁刑に処する」
裁判所の外では、すぐに報道陣の声が飛び交い始めた。けれど私が何よりうれしかったのは、真奈さんの職業やスカートの丈、「なぜもっと強く抵抗しなかったのか」といったことが、加害行為の責任を軽くする理由として扱われなかったことだった。
女性には、好きな服を着る権利がある。
危険に遭ったとき、自分を守る権利もある。
7.除名された弁護士
真奈さんの事件が終わるころ、怜司についての捜査と懲戒手続にも動きがあった。警察は尾行を実行した男とPR会社の間の金銭の流れを確認し、城戸側の関連口座から怜司へ三千万円が送られていたことも突き止めた。
桐原弁護士会は懲戒手続を終え、怜司を除名とした。長谷川代表や青葉の関係弁護士についても、利益相反、依頼者保護、事務所内の管理体制などをめぐって、それぞれ調査と処分が行われた。
怜司が弁護士として築いてきた信用は、完全に崩れた。
その後のことを、私は追わなかった。
事件の判決後、私は正式に弁護士法人黒川法律事務所へ入所した。黒川先生は、性暴力、DV、ストーカー被害に遭った人を対象にしたオンライン法律相談窓口を立ち上げようとしていた。初回相談は研修を受けた弁護士が交代で担当し、相談記録や事件資料はすべて暗号化されたシステムで管理する。
「この部分、美緒さんに任せてもいい?」
黒川先生が企画書を私の前へ滑らせた。
「大変よ。きれいに終わる事件ばかりじゃない」
「わかっています」
弁護士になって五年目。始めたころの気持ちは変わっていなかった。
真奈さんはキャバクラを辞め、その後は動画配信で商品紹介の仕事を始めた。心ないコメントは消えなかったが、少しずつ安定した収入を得られるようになり、児童養護施設や、施設を出て自立する若い女性への支援も始めた。
それからも、私たちはときどき会った。
真奈さんは前へ進んでいる。私も同じだった。
長いあいだ、怜司にも莉奈にも会わなかった。元同僚から、二人はその後、本当に一緒に暮らすようになったと聞いたことがある。莉奈は機密資料の持ち出しと懲戒問題で職を失い、収入も不安定になった。怜司は除名後、弁護士登録をし直すこともなく、法曹の世界から離れた。
二人は離れるどころか、かえって互いに依存するようになったらしい。
私はそれを聞いても、少し笑っただけだった。詳しいことを尋ねる気にもならなかった。
それからしばらくして、街角で怜司を見かけた。
コンビニ脇の壁際に、身体を小さくして座り込んでいた。服は乱れ、両脚が震えている。周囲の人が遠巻きに何か話していたが、本人には聞こえていないようだった。
「やめて……触らないで……」
8.傷つけられる側になった彼
数秒迷ったあと、私は110番と119番に通報した。警察と救急隊が来るのを待つあいだ、怜司がようやく顔を上げた。私だと気づき、唇が震えた。
「美緒……俺、俺……」
「今は無理に話さなくていい。もうすぐ救急車が来るから」
怜司は唇を噛み、長い時間をかけて言葉を絞り出した。
「知らない男に、無理やり……。見つけたい。絶対に、あいつを見つけたい」
あの日、私が尾行されたとき、怜司は「なぜそんな服を着ていた」と言った。
「何を着ていたか、どこにいたかは、誰かがあなたに触れていい理由にはならないよ」
怜司が目を見開いた。
「私も、あのとき本当はその言葉が欲しかった。でもあなたは、逆のことを言った」
肩から力が抜け、怜司はうつむいたまま泣いた。
私は笑わなかった。
過去に誰かを傷つけた人間でも、自分が被害に遭ったときまで「傷つけられて当然」になるわけではない。
警察と救急隊が到着すると、私は現場を専門の人たちに任せ、莉奈にも連絡した。その後、怜司は人づてに、私へ被害者代理人を頼めないかと伝えてきた。
断った。
私たちの間には深刻な私的利害関係があり、独立した立場で法的支援をすることはできない。ただ、事務所から法テラスの犯罪被害者支援窓口と、男性の性暴力被害を扱う弁護士数名の連絡先を渡してもらった。
やがて弁護士仲間の間にも、この件は知られるようになった。怜司が過去に口にした言葉を引き合いに出して笑う人もいたが、私は加わらなかった。
被害者が法的な保護を受けられるかどうかは、その人が過去に好かれていたか、嫌われていたかで決まるものではない。
一年以上たってから、怜司と莉奈の近況を同僚から聞いた。怜司は被害後の不調を抱えたまま、継続的な治療につながれず、生活も少しずつ崩れていったという。ある日、精神的に大きく不安定になり、マンションの屋上へ上がって莉奈をつかみ、「二人で死ぬ」と繰り返した。警察と消防が駆けつけて二人を保護し、怜司はそのまま精神科医療につながれた。
莉奈は安定した仕事を失って収入が激減し、借金も抱えていた。長く続いた依存関係もあり、二人は完全には離れられなかったらしい。やがて怜司の入院中に、莉奈は家に残っていた金を持ち、地元へ帰った。
退院後、怜司は車で莉奈を追った。その途中、高速道路へつながる道路で大きな事故を起こした。命は助かったが、身体には生涯残る障害が残った。
その話を聞いても、私の心はもう動かなかった。
9.今度は、誰も下で待っていない
オンライン法律相談窓口は、予想していた以上に忙しかった。ある深夜、私は配偶者暴力等に関する保護命令の申立書と疎明資料を確認していた。橘がコーヒーを一杯、机の端に置いた。
「桐谷先生、今日まだ十数件、振り分けが終わってないですよね。少しこっちで受けましょうか」
「大丈夫。ありがとう。これだけ終わらせたら帰るから」
申し出を断った。怜司とのことを経験してから、同じ事務所の人と恋愛する気にはなれなかった。
世界は広い。私に合う人がいるなら、きっとこの先で会える。
三年後、私は桐原地域で性暴力やDVの被害者支援を扱う弁護士として、報道機関や支援団体から名前を挙げられることが増えていた。
神谷怜司の名前を覚えている人も、たまにはいる。けれど、私を紹介するとき、多くの人はただこう言う。
「こちらが、桐谷美緒弁護士です」
誰かの婚約者でもない。
誰かに育ててもらっただけの後輩でもない。
窓の外では、また雨が降っていた。私は書類を閉じ、バッグを持って事務所を出た。
今度は、下で待っている人はいない。
それでも、少しも寂しくなかった。
私はようやく、「桐谷美緒」という名前だけで、ここに立っていられる。
――完――




