薄明に煙る
死について考えるようになったのは、いつからだっただろう。そう自問するたびに、沙羅は決まって答えを見失った。死にたいわけではない。けれど、生きることに強い執着も持てない。
大学へ行き、講義を受け、レポートを書き、友人と話し、眠る。その繰り返しのどこかで、自分だけが少し遅れて歩いているような感覚があった。ゼミナールには十八人の学生がいて、そこに颯良はいた。特別目立つ人ではない。発言は少ないが、発表の時だけ不意に鋭い言葉を置く。文章の中に潜んでいるものを、他人より少しだけ深い場所から掬い上げる。そんな話し方をする人だった。彼には恋人がいた。沙羅はそのことを知っていた。だから安心していた。恋愛はいつも苦手だった。誰かを好きになるより先に、拒まれる未来を想像してしまう。手を伸ばす前に諦める。その繰り返しだった。だから恋人のいる颯良は安全だった。最初は。少なくとも、その夜までは。
十一月の飲み会だった。居酒屋の座敷には酒と熱気が満ちていた。誰かが就活の話をしている。誰かが恋人との旅行について話している。笑い声が絶えない。その輪の中にいながら、沙羅は少し離れた場所にいるような気がしていた。酔っているのに、どこか冷めている。冷めているのに、どこか沈んでいる。そんな曖昧な感覚だった。颯良が席を立った。しばらくして、沙羅も立ち上がる。理由はなかった。あるいは、理由になるほどのものではなかった。ただ、あの騒がしさから少しだけ離れたかった。店の奥にある喫煙所は狭かった。灰色の壁。換気扇の低い唸り。煙が薄く滞留している。大人二、三人が入れば窮屈になる程度の空間だった。颯良は奥の壁にもたれて煙草を吸っていた。煙が換気扇へ吸い込まれていく。その様子を沙羅はしばらく眺めていた。煙は不思議だった。形を持ったかと思えば、すぐに失われる。その頼りなさが少し羨ましかった。
「吸う?」
颯良が言った。沙羅は首を振る。
「吸ったことない」
颯良は少しだけ目を見開いた。
「一回も?」
「うん」
彼は煙を吐く。白い煙が二人の間を漂った。
「興味あるなら」
そう言って煙草の箱を差し出す。沙羅は少し迷ったあとで一本抜き取った。紙巻煙草は思ったより軽かった。空っぽの鳥の骨みたいだと思った。
「ライター、使ったことないんだよね」
ボソッとつぶやくと、颯良は少し微笑み一歩近づく。狭い喫煙所だった。一歩近づくだけで距離はほとんどなくなる。颯良の煙草の先端が近づいてくる。
「吸って」
煙草同士の接吻。先端が触れる。赤い火種が移る。小さな熱が二人の間で瞬いた。その一瞬だけ、呼吸が交差する。沙羅は息を吸い込む。次の瞬間、激しく咳き込んだ。肺の奥が焼ける。喉がひりつく。目尻に涙が滲む。颯良が笑った。
「向いてないかもね」
その声はからかうというより、どこか優しかった。煙草は苦かった。想像していたよりずっと。苦味の奥に乾いた匂いがある。古い紙の匂い。誰にも開かれない書庫の匂い。そんなものが舌の上に残る。二人は黙ったまま煙を吐いた。換気扇が回り続けている。狭い空間に沈黙だけが満ちる。不思議と居心地は悪くなかった。むしろ言葉を交わしている時よりも近い場所にいる気がした。煙草はゆっくり短くなる。燃えながら、自分を失っていく。それを見ていると、死も案外こんなものかもしれないと思う。突然訪れるのではなく。静かな消耗の果てにあるもの。ただ少しずつ、自分でなくなっていくこと。
「ねえ」
颯良が言った。
「なに」
「今、口の中どんな味する」
沙羅は少し考える。
「苦い」
「煙草?」
「たぶん」
颯良は笑わなかった。ただ見ていた。狭い喫煙所の中で、その視線だけが妙に鮮明だった。換気扇の音が遠くなる。店内の笑い声も聞こえなくなる。世界がこの小さな箱の中だけになる。彼が一歩近づく。けれど沙羅は動かなかった。動きたくなかった。理由は分からない。分からないままでいたかった。「確かめてもいい?」颯良が小さく言う。沙羅は答えなかった。答えなかったことが答えになった。唇が触れる。本当に一瞬だった。煙草の味を確かめるためだけの接触みたいに。けれど離れたあとも、どちらも動かなかった。互いの呼吸が届く。アルコールの匂いがする。煙草の匂いもする。それなのに、どちらも曖昧だった。
「どう?」
沙羅が訊く。颯良は少し考えてから笑った。
「苦い」
その答えが可笑しくて、沙羅も笑う。笑った拍子に距離が崩れる。もう一度唇が触れる。今度は自然だった。理由を探す方が不自然なくらいに。狭い喫煙所の中で。煙の匂いに満たされた空間の中で。唇が重なる。互いの孤独を確かめるように。言葉にならないものを探るように。沙羅は目を閉じた。恋ではないと思った。少なくとも、この時は。恋よりもっと曖昧で。友情よりもっと不健全で。そして死への憧れに少し似ていた。触れれば消えてしまうものを、それでも確かめたくなる衝動。ただ、それだけだった。換気扇は回り続けていた。煙は絶えず消えていく。けれど、その夜だけは。二人の間に残った何かだけが、どこにも流れていかなかった。
翌週のゼミで、二人は何事もなかったように同じ教室にいた。窓際の席に座る颯良。三列後ろにいる沙羅。教授の声が教室を満たしている。明治期における死生観について。誰かが発表をしている。沙羅はノートを開いたまま、一文字も書いていなかった。颯良の後頭部が見える。それだけだった。それだけなのに、喫煙所の狭さを思い出していた。煙の匂い。換気扇の音。互いの呼吸が触れるほどの距離。あれは本当にあったことだったのだろうか。夢だったような気さえする。発表が終わる。休憩時間になる。颯良が振り返る。
「レジュメ取った?」
それだけだった。沙羅も答える。
「まだ」
「じゃあ一枚あげる」
渡される。紙が一枚。指先が触れることもない。喫煙所で起きたことなど存在しなかったみたいに。それでよかった。たぶん。きっと。そう思うことにした。
二度目は十二月だった。忘年会の帰りだった。やはり酒が入っていた。やはり二人は喫煙所にいた。最初からそこへ向かったわけではない。けれど気づけば同じ場所にいた。それは偶然だったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。狭い空間。灰色の壁。換気扇。同じ景色。
「最近どう」
颯良が言う。
「別に」
「死にたくなった?」
その質問は自然だった。天気の話をするみたいに。沙羅は少し笑った。
「いつも通り」
「そっか」
颯良も笑う。死について話せる人間は少ない。本気で死にたい人間は意外と死について話さない。ただ、生と死の境界をぼんやり眺めている人間だけが、その話をする。二人はそういう種類だった。煙草に火が点く。煙が生まれる。
「彼女とは?」
なぜ訊いたのか、自分でも分からなかった。颯良は煙を吐いた。
「続いてる」
「ふうん」
「好きだよ」
その返答は妙に正直だった。沙羅は少し安心した。同時に少し傷ついた。その理由は考えないことにした。考えれば壊れる気がした。壊れたあと、元には戻らない気がした。
「でも」
颯良が続ける。
「好きだから分かり合えるわけじゃない」
換気扇が回る。その音だけが響く。
「分かる?」
訊かれる。沙羅は頷いた。分かる気がした。好きという感情は案外雑だ。それだけで人間同士の距離は埋まらない。むしろ埋まらないことの方が多い。だから人は孤独なのだろう。恋人がいても。家族がいても。友人がいても。孤独な人間はいる。そしてその孤独は、時々死に似た形をしている。気づけば唇が重なっていた。どちらからだったのか覚えていない。覚えていないことだけを覚えている。
それから半年ほど。二人の関係は続いた。酒がある夜だけ。喫煙所。居酒屋の裏。終電を逃した駅前。そういう場所でだけ。キスをする。死について話す。互いの孤独を少しだけ預ける。それ以外は何もない。連絡もしない。二人きりで会わない。昼間の大学では他人だったむしろ普通の友人より遠かった。だから続いたのかもしれない。名前をつけなかったから。恋愛でも友情でもなかったから。曖昧なものは案外長生きする。
春の終わりだった。雨が降っていた。飲み会が終わり、ほとんどが終電に乗り込む。駅前の喫煙所には誰もいなかった。透明な雨が屋根を叩いている。颯良は煙草を吸っていた。沙羅はその隣に立っていた。
「ねえ」
颯良が言った。
「なに」
「一緒に死ぬ?」
雨音のせいで聞き間違えそうな声だった。けれど確かにそう聞こえた。一緒に死ぬ?まるで映画を観に行くかのような口調だった。沙羅は驚かなかった。不思議なくらい。驚かなかった。
「いいよ」
と言った。それが自然だった。恋人になろうと言われるより。好きだと言われるより。ずっと自然だった。雨は降り続いている。煙草の先端だけが赤い。二人は黙っていた。約束をしたという実感はなかった。ただ、どこかへ向かう道筋だけが静かに定まった気がした。その道の先に何があるのか。本当に死なのか。あるいは別の何かなのか。まだ誰にも分からなかった。
「一緒に死ぬ」
その約束は、不思議なほど現実味を持たなかった。翌週もゼミはあった。教授はデリダの話をし、学生たちはノートを取る。窓の外では初夏の光が揺れていた。世界は何も変わらない。死ぬ約束をした人間たちだけが、その約束の存在を知っている。それは秘密というより、体の奥に埋め込まれた小さな異物のようだった。忘れている時もある。けれどふとした拍子に存在を主張する。颯良と沙羅は相変わらずだった。昼間は他人。酒のある夜だけ親密になる。その関係は壊れそうで壊れなかった。壊すための言葉を誰も口にしなかったからだ。
死ぬ場所について話したことがある。山がいい。いや、海だ。冬の方がいい。春まで待とう。そんな話を何度もした。そのたびに先延ばしになった。卒論があるから。夏は暑いから。彼女の誕生日が近いから。理由はいくらでも見つかった。不思議だった。死にたいはずなのに、死ぬための準備ばかりが増えていく。まるで本気で死ぬつもりなど最初からなかったみたいに。けれどその考えを口にすることはできなかった。口にした瞬間、この関係そのものが終わってしまう気がした。
秋になった。銀杏が色づく頃だった。飲み会の帰り。いつもの喫煙所。煙草の火が揺れている。颯良はかなり酔っていた。頬が赤い。
「彼女と別れた」
不意に言った。沙羅は何も返せなかった。換気扇の音だけが聞こえる。
「好きだったんだけどな」
颯良は笑った。笑っていたが、その声はどこか空洞だった。
「でも、ずっと一緒にいる未来が想像できなかった」
煙が吐き出される。白い煙はすぐに消える。
「最低だよね」
沙羅は首を振った。最低かどうかは分からない。ただ少しだけ悲しかった。なぜ悲しいのかも分からなかった。自分には関係のない話のはずだった。なのに。その夜のキスは長かった。互いに酔っていた。そして互いに少しだけ疲れていた。舌先が触れる。呼吸が混ざる。けれど何も満たされない。満たされないことだけが分かる。離れた時、二人とも少し息を切らしていた。
「ねえ」
颯良が言った。
「そろそろ行こうか」
「どこに」
「死ぬところ」
沙羅は頷いた。ようやく、その時が来たのだと思った。海へ行った。終電のなくなった夜。人気のない海岸。風が強かった。空は暗く、波だけが白く見える。二人は堤防に腰を下ろした。煙草を吸った。何本も。火が消えるたびに新しい一本に火を点けた。そうしているうちに箱は空になった。波の音が絶えず響いている。死ぬには良い夜だった。寒くて。暗くて。誰もいない。それなのに。なぜだか何も起こらなかった。時間だけが過ぎていく。
「ねえ」
沙羅が言った。
「なに」
「本当に死にたい?」
沈黙が落ちる。長い沈黙だった。颯良は海を見ている。波は何度も砕けていた。同じ場所で。同じように。
「分からない」
やがて彼は言った。
「ずっと死にたいと思ってた」
風が吹く。髪が揺れる。
「でも今は、死にたいのか寂しいのか分からない」
沙羅は俯いた。その言葉は、自分の中にもあった。ずっと。ずっと前から。死にたいわけじゃない。たぶん。本当は。誰かに見つけてほしかった。自分の孤独を。痛みを。空っぽな部分を。見ないふりをしないでほしかった。それだけだったのかもしれない。
「私も」
沙羅は言った。声が震えた。
「私も分からない」
涙が出た。なぜ泣いているのかも分からなかった。死ねなくて悔しいのか。死ななくて安心しているのか。そのどちらでもある気がした。颯良も泣いていた。初めて見る顔だった。酒も煙草もない。ただ疲れ切った人間の顔だった。それを見ていると、急に可笑しくなった。沙羅は笑った。涙を流しながら。颯良も笑う。二人で笑った。海の前で。死ぬつもりだった夜に。笑っていた。
朝が来た。東の空が少しずつ明るくなる。世界が輪郭を取り戻していく。黒かった海が青くなる。風は相変わらず冷たい。
「死に損なったね」
沙羅が言う。
「うん」
颯良が答える。
「最悪だ」
「本当に」
二人は笑った。それ以上の言葉はなかった。堤防から立ち上がる。砂を払う。駅へ向かって歩き出す。隣には颯良がいる。けれど、その距離は以前と少し違っていた。近くなったわけではない。遠くなったわけでもない。互いが互いの孤独を理解できないことを知った距離だった。それでも隣を歩いている。人間は案外、それだけで十分なのかもしれなかった。駅が見える。始発電車が動き始める。街は目を覚まそうとしている。生きる理由は見つからなかった。希望もなかった。未来も相変わらず曖昧だった。けれど死ぬ理由だけは、少し薄くなっていた。朝の光のせいかもしれない。
あるいは。
誰にも理解されない孤独を抱えたままでも、人は歩いていけるのだと知ってしまったせいかもしれない。改札の前で颯良が立ち止まる。そして少し迷ってから言った。
「沙羅」
それは初めてだった。酒の入っていない声で名前を呼ばれたのは。
沙羅は顔を上げる。
「なに」
颯良は少し笑った。朝日に目を細めながら。
「またね」
沙羅も笑った。
「うん」
その約束だけは、不思議と信じられる気がした。死ぬ約束よりもずっと。ずっと確かなものとして。




