神の花嫁
第三章⑶
街の時計塔が、午後二時を知らせる鐘を鳴らし始めた。
「おっといかん。実はこれからもう一件、大事な商談があるんだ。俺もう行かなきゃ。楽しい昼食だったよ、修道女さん」
カルロスはコンスタンティアに礼を言うと、先に立ち上がった。
彼は共に席を立とうと腰を浮かせたフレデリックに片手を振って制止した。茶目っ気たっぷりに右目をつぶって言う。
「お前はいいぞ。もうちょっと修道女さんにつき合って休んでろ。食事がすんだら先に宿へ戻っててくれ。じゃあまたな」
そう言って相棒の肩を叩き、意味深な顔で耳元に口を寄せると「うまくやれよ?」と笑った。
「うまくやれって、何を」
軽い歩調で食堂を出て行くカルロスの背中を呆れた表情で見るコンスタンティアに、フレデリックは苦笑した。
「あいつ、あほだからな。あんまり気にしないでくれ」
「まあ、悪気はないんでしょうから、いいけど」
「確かに。悪い奴じゃないんだが。ちょっと癖があって困る」
「仲がいいのね」
「そうでもない。気があったり、合わなかったりの腐れ縁だ」
「でも、こうしてつるんでる」
「確かにな。なんでだろう」
フレデリックは空になった白ワインのカップを卓上に置いた。
すぐに女給が寄ってきて、おかわりは? と訊く。
「酒はもういい。それよりもお茶が欲しいな。アップルミントの香茶はあるか?」
「もちろんだとも。そちらの修道女さまは?」
コンスタンティアも頷いて、
「私も同じで、ローズマリーを少し混ぜてもらえる?」
「お湯はあそこの暖炉で沸かしてるよ。茶葉やハーブはそっちの棚にあるのをどれでも使って構わないから、ご自由にどうぞ」
食後のお茶はセルフサービスらしい。
昼食を済ませた客が少しずつ去り、食堂の中は空いた席が目立つようになってきた。
ロレンツォたち修道騎士も、おのおのが好きに食後の飲み物を淹れている。
「ご用意しましょうか」
ロレンツォがコンスタンティア好みの茶を淹れようとしてくれるのを、女主人は微笑して断った。
「いいわ、自分でやるから、あなたたちは休んでいて」
暖炉の太いフックに、大きな鉄制の薬缶が吊られて湯気を立てている。取っ手に手を伸ばそうとするコンスタンティアを、フレデリックがさりげなく止めた。
「熱いだろ、危ないから俺がやる」
フレデリックが布巾を添えて取っ手を掴み、脇の作業台に薬缶を置いた。
「あなたはアップルミントね」
コンスタンティアは棚からハーブの入った瓶を取り、蓋を開けて匂いを確認してからポットに刻まれたフレッシュハーブを入れる。そこへフレデリックが湯を注いだ。少し待ち、茶こしで余分な葉が入らないようカップにお茶を淹れる。
コンスタンティアはポットの中にローズマリーを加えた。林檎に似た甘い香りを放つミントに、スパイシーな香りが加味される。
フレデリックが薬缶を傾け、さらに湯を足してくれた。頃合いを見て、抽出した茶をカップに注ぐ。
「俺が運ぶ。座って待っててくれ」
薬缶を片付け、トレイに二人分の茶のカップを乗せると、器用な手つきで片手に盆を乗せたフレデリックがテーブルへ戻ってきた。
「どうぞ、院長さま」
「どうもありがと、給仕さん」
親しみを込めてコンスタンティアは彼に礼を言い、木製の簡素なカップに淹れられたお茶の香りを吸い込んで、ほっと息をつく。
「いい匂いがする」
「ああ。いい匂いだ」
それから二人はしばらく黙って茶の風味を味わった。涼しい香りのハーブティーが、口の中をさっぱりさせてくれる。
(アップルミントのお茶は、フリードリヒも好きだと言ってた)
シチリアからシュヴァーベン大公領へ運ばれる嫁入り道具の中には、可愛い茶器類とハーブのセットがあって、アップルミントやカモミール、ローズマリーといった香草を瓶にたくさん詰めていた。お茶としても良く、薬種や虫よけとしても効果がある様々な種類のハーブは、コンスタンティアが嫁入りの日に備え、王宮の庭で摘んで揃えたものだった。
(これから毎日、私がお茶を淹れてあげると言ったら。彼、とても喜んでいたっけ)
お茶の薫りが古い記憶を呼び覚まし、無意識にため息をついたのを、フレデリックは見逃さなかった。
「どうした?」
「え?」
「いまなんだか、寂しそうな顔をしたから」
「昔のことを、ちょっと思い出していたの」
気を取り直してお茶をもう一口飲み、軽く息をつく。
フレデリックは、まだこちらをじっと見つめている。
「なあに?」
「いや、なんでもない。……というか、不思議だと思って」
「何が?」
「こんなにきれいで若い女性が、まさか修道院長様だなんてな。そうなる前に、誰かと結婚しようとは思わなかったのか」
こうして見ると、フレデリックの目は翡翠にも似た緑色だった。
くしゃっとした前髪を伸ばして無造作に下ろしているのであまり目立たないが。彼はよく見れば、きれいな目をしている。
おどけた口調で、コンスタンティアは質問に答えた。
「結婚には、若い時に一度失敗しちゃったの。だからもう、絶対に死なない人を伴侶にしようって決めたのよ」
「それってつまり、神様を?」
「そういうこと」
神が伴侶ならば、先立たれる悲しみを二度と味わうことはない。
「もったいないな」
フレデリックは、心の底から言い聞かせるように繰り返した。
「本当に、すごくもったいない」
カルロスのようにちゃらけた調子でなく、真剣に言われたので、コンスタンティアは返答に困ってしまった。
見れば、お茶のカップはとうに空だった。
「そろそろ出ましょうか」
コンスタンティアは女給を呼び、勘定を頼んだ。
「奢ってもらいっぱなしはよくない。今度は俺にご馳走させてくれないか。よかったら今夜、夕食でもどう?」
別れ際、フレデリックから食事に誘われた。するとロレンツォが、怖い顔をして前に出てきた。
「おい、別に変な下心はないぜ。よければ君らも一緒にどうだ」
「ありがとう。でも、今夜は先約があるから」
無難な理由でコンスタンティアが断っても、フレデリックは食い下がった。
「じゃ、明日は?」
「明日のことなんて、まだわからないわ」
「もしかして、警戒してる?」
「してないけど。どうしてそんなに私を誘うの」
「一目惚れした。って言ったら笑うか?」
コンスタンティアは軽く噴き出した。
「カルロスみたいなこと言わないで」
「俺はあいつほど遊び人じゃない」
だから真剣ってわけ? コンスタンティアは小さく笑った。
「だったら、なおさらいけないわ。ここで気持ちよく別れましょ」
「わかった。女性にしつこくするのはよくない」
フレデリックは引き下がるかと見せかけて、一歩踏み込んだ。
「でも、お返しの食事には付き合ってほしいな。明日以降で」
「そうね、また機会があればね」
「お、その返事は、脈ありかな」
「おい、いい加減にしろ」
ロレンツォの顔がさらに険しくなる。フレデリックは両手を軽く上げると素直に一歩下がった。
「わかったって。おっかないな、君んとこの護衛隊長は」
「彼のおかげで、いつも助かってるわ」
「君に悪い虫がつかないのは、いいことだ」
そういう自分はどうなの、とコンスタンティアは内心で笑う。
「悪いけど私、年下の男には興味ないの」
「そんなに違わないだろう。それに俺は、女性の年齢にはあんまりこだわらないことにしてるんだ」
「こだわりなさいよ、私は多分、あなたより十歳は年上よ」
だから何? という風にフレデリックは首を傾げた。そんなことは全く気にならないらしい。
口説いてくる年下の男をあしらいながらも、フレデリックと話をするのが、だんだん楽しくなってきた。
でも、お遊びは終わりにしなくちゃ。
「会えて良かったわ。じゃ、さようなら」
「さようならじゃなくて、また今度、だろ?」
コンスタンティアは、もう振り返らずに肩を竦めた。
「ええ。いつかまた会う機会があれば、ね」
ロレンツォが振り返りざま、フレデリックを睨みつけた。
食堂前の大通りをお互い逆の方向に別れながら、フレデリックはコンスタンティアの背中を見送り、少し間を置いて歩き出す。
「機会は作るさ。そのうちに」
意味深長なことを呟き、彼は微笑した。
第三章⑷につづきます




