王都パレルモ
第二章 ⑶
そこは、長大な石の壁で囲まれた城塞都市。
パレルモは、民族と宗教が異なる複雑な人種で溢れる坩堝だ。
行きかう人の肌の色も様々だ。白、淡黄色、褐色、黒など、異邦の出身者が大通りをすれ違うが、違和感は少しもない。
街中で話されている言語も多様だ。王侯貴族や聖職者など、上流の知識階級が用いる言葉はラテン語やフランス語が主流だが、都内の庶民は、基本的には母国語であるイタリア語を話す。シチリア地方独特の方言は、北イタリアよりも早口でアクセントが少しきつい。
人口が密集する都市パレルモで暮らしているのは、ノルマン系のシチリア人だけではない。彼らが渡来してくるよりもずっと前から暮らしていたギリシア系のシチリア人がいるし、アラブ系のシチリア人もいる。当然、同じ単語でもギリシア語やアラビア語の訛りがあって、若干聞こえ方が違う。そこへ、ヴェネツィアから商売をしに来た商人や北アフリカの船員が大声で取引し始めたりすると、かしましいことこの上ない。
言葉が違えば、風俗も信じる宗教もまったく違う。パレルモには、カトリック教会のすぐ近くにモスクがあり、アザーンの鐘が鳴る。イスラム教の集会所の裏手にギリシア正教の礼拝堂があったりもする。灰白色の石造りの聖堂の上に、特徴的な赤い丸屋根が乗っている。キリスト教会か、イスラム教のモスクなのか、一見するだけでは判別できない様式の建物も多い。目立たない裏通りにある小さな教会の中に足を踏み入れれば、ギリシア正教様式の素晴らしい黄金のモザイクが燦然と輝いていたりして驚かされる。
こんな小さな教会でもこれだけ見事な装飾ができるほど喜捨が集まるのは、一般庶民の暮らしにゆとりがある証拠でもある。
今もこうして歩いていると、どこからともなく、聖典を詠唱する抑揚の効いた導師の声が聞こえてきたりする。
そういえば、とコンスタンティアは思い出す。何年前だったか、パレルモ市を地震が襲ったことがあった。シチリアは活火山がある島国なので、地震自体はそんなに珍しい現象ではない。それでもあの時は大きな揺れで、市内も相当の被害を受けた。
その時、宮殿の中で突然の地震に焦って逃げまどい右往左往するイスラム系の宦官や女官、ギリシア人の官僚や、ノルマン系の護衛官やキリスト教の聖職者らを前にして、宮廷の主人グリエルモ二世は冷静にこう言ったそうだ。
「皆、それぞれが信ずる神に祈るがよい」
いかにもウィルらしい。当時、たまたま宮廷にいてその現場に立ち会ったという老師サウロ司祭から話を聞いて、コンスタンティアは感心したのだ。
パレルモとは、あらゆる宗教と文化、オリエンタルな異国情緒が混然一体となった、摩訶不思議な場所なのである。
青く澄み切った空の下、強い日差しが照り付ける石畳の路に、南国らしい棕櫚の木の影がくっきりと落ちていた。広場には朝市が立ち、売り物の新鮮なオレンジやレモンの香りが風に乗ってほのかに漂う。
街路樹の夾竹桃が、華やかな桃色や可憐な白い花を咲かせている。
コンスタンティアが王都パレルモの城門を通過したのは、ちょうど朝市が盛況になる時間帯だった。大勢の人が街路を往来している。
広場には、新鮮な野菜や魚介類を売る屋台が天幕を連ねていた。
見るもの全てが懐かしい。この雑多な人種と様々な言語が入り混じる、独特の乾いた空気感。風の香りさえ、幼い頃の記憶をくすぐる。
コンスタンティアにとって、王都パレルモは生まれ故郷だ。十七歳になるまでここで暮らした。宮殿を抜け出し、一人で街へ遊びにきたことだってある。
彼女が首都を訪れたのは、グリエルモ二世とジョーン王妃の婚礼式が執り行われた時以来、六年ぶりとなる。
あの時は、国王の成婚式を祝おうと各地から訪れた地方の大貴族や外国からの賓客、彼らを目当てとする商人たち、祝宴のごちそうのおこぼれにあずかろうとする市民らが街中に押しかけ、もっと大勢の群衆で広場や通りの至るところが埋め尽くされていた。
人込みのあまりの多さに、息がきれる程の熱気で包まれていた。
ジョーンは人懐っこい性格のおしゃまな王女で、人見知りをせずおしゃべり好きで、コンスタンティアともすぐに打ち解けた。結婚後も、時々は静養と銘打って姑の王太后マルゲリータと共に、聖アガタ修道院まで足を運んできた。
つい三年前にも、病のせいで宮廷を下がるマルゲリータの転地療養につき添い、シチリア島の北西部にあるエーリチェの街で、コンスタンティアとジョーンは合流した。
その後も時折、二人はパレルモ以外の場所で会うことがあった。グリエルモ二世とは手紙のやりとりだけで終始してしまっているが、二人とも元気にしているだろうか。
「あと少しの辛抱よ。王宮につけば、冷たいソルベでもてなしてもらえるでしょう」
レモンやオレンジの果汁にたっぷりのシロップ。甘いソルベは、長旅で疲れた身体に染み渡るだろう。
護衛として同行する三人の修道騎士を笑顔で励まし、コンスタンティアは王宮へ続く道を進んだ。
********
「国王陛下は、あいにくご不在でございます」
突然の王女の帰還を王宮側は歓迎してもてなすどころか、むしろ迷惑そうに出迎え、素っ気ない態度で王の不在を告げるのだった。
「陛下はどちらへお出かけに?」
出家したとはいえ、仮にも初代国王の息女を応接間に通しもせず、宮殿の玄関ホールまで対応に出てきたのは、漆黒の僧衣をまとった若い聖職者だった。
一度見たらそう簡単には忘れそうにないぐらい整った容貌の高位聖職者だが、コンスタンティアには見覚えが無い。
「七日ほど前から、マドニエの森へ夏の静養を兼ねまして狩猟に。お戻りになるのは、今月末頃の予定です」
なんとまあ。マドニエ山地ならコンスタンティアが旅の途中で通過して来た場所だ。まさかそんなところですれ違いになるなんて。午後には戻るとかいう話ではない。半月以上も王宮を留守にするとは。
全く予想していなかった事態に、コンスタンティアは困惑する。
訪問者を対応する側も戸惑いを隠さない。
「王女様がカターニアからご来訪される旨は、書簡を受け取っておりましたが、報せが届きましたのは陛下がすでに宮殿をご出立された後でして。こちらとしては陛下の夏のご予定について、すぐに返信いたしたのですが……。どうやら、ご覧にならなかったのですね」
手紙が行き違ったのでしょう。聖職者はそう説明するが、さして申し訳なさそうではない。
事情は分かった。この場合、訪問先からの返事も待たずに急いで出立したこちらにも落ち度がある。百歩譲って非は認める。
それにしたってこの聖職者、いやに物言いが引っかかる。口調や物腰は丁寧ながら、慇懃無礼な雰囲気をあえて隠そうともしない。
彼もきっと国王の不在を自分の夏の休暇と見立てて気楽に都で過ごしたかったのだ。そこへ予定外の訪問者がやってきた。余分な仕事が増えたわけだ。迷惑がられるのは、わからないでもない。
だからといって、こうもあからさまに「早く帰れ」という態度はないだろう。口調は丁寧でも本音が見え透いている。
こっちだって事情があるのだ。このまますごすごと帰るわけにはいかない。
「ところで、あなたは? 私はまだ、あなたの名を知りません」
コンスタンティアは旅の道中は肩に落としていたショールを、今は修道女らしく頭に巻いて、髪を隠してしまっている。装いも普段好んで身にまとう男物の上衣と脚衣ではなく、地味な灰色の修道衣だ。動きやすいように、裾の両脇には切れ目が入り、中では七分丈のブレーに革の長靴を履いているが、大股に歩かなければ、出家した女性らしい長めのローブ姿に見える。
この格好で宮殿の門を訪れても、門衛は当初、彼らをそっけなく追い払おうとした。寄付を求める巡礼者の一行だと間違われたのだ。
王家の紋章を刻んだ指輪を見せて、ようやく門衛たちは彼女が王族の一員と気づき、居丈高な態度から一変した。
本来ならこの場で王女を出迎えるのは王宮侍従長か女官長。国王が不在なら不在で、それなりの礼遇を示すべきだ。それなのに何だ、この男は。名乗りもせず宮殿の中にも通さずに、いきなり事情説明から始まり、早く帰ってくれと言わんばかりの口ぶりだ。このまま門前払いを食わせる気か。
王女から不信感を示された聖職者は、途端に態度を軟化させた。
「これは、大変な失礼をいたしました。わたくしは先日ローマ教皇聖下より推挙され、こちらに着任したばかりでして。無作法をお詫びいたします。パレルモ大司教、イオ・サルヴァートと申します」
コンスタンティアは胡乱げに目を細めた。
年の頃は、せいぜい三十代前半。色白の痩身で柔和な顔立ちは誰もが美男子と言って通る。二十代半ばと言われても違和感はない若さである。
彼の柔らかく波打つ髪は金色で、目の色は吸い込まれそうに青い。睫毛も驚くほど長く、甘い顔立ちは、凛々しさよりも女性的な色気すら醸し出す雰囲気である。実に恵まれた容姿の持ち主だった。
高位聖職者の装束を着ていなければ、若手の貴族か、美貌の小姓だと思っただろう。それも、宮中のご婦人方が放っておかない類の青年貴族だ。
「お若いのに、もう大司教とは。とても優秀でいらっしゃるのね」
どういう手管をつくしたら、こんな若さで大司教に抜擢されるのだろう。
あからさまな嫌味だったが、イオ・サルヴァート大司教は柔和な笑顔でさらりと受け流した。
「滅相もありません。それよりも、わたしのほうこそ驚きました。王女殿下には初めてお目にかかりますが、なんとお美しいことか! それにお若い。とても三十歳とは思えません」
「まだ二十九歳です」
今年中には三十になるけれど、今はまだ二十九歳だ。冷ややかな笑みでそう返すと、大司教はわざとらしく咳ばらいした。
「これはまた、とんだ失礼を……」
「いいえ。それより、王妃さまも今回の狩りに同行なさっているのですか」
「王妃さまは暑気あたりでしょうか、ご気分がすぐれぬと仰せで。巻き狩りにはついて往かれずに、王宮で静養なさっておられます」
「あら、そうだったの。それは良かった。でしたら、王妃様にはご挨拶してもよろしいですわね」
返事も聞かずに、コンスタンティアは大司教の横をすっと通り抜けて宮殿の中へ歩き出した。ロレンツォを初めとする護衛の修道騎士が無言で後に続く。
それを見るや、慌てた大司教が追ってきた。
「お待ちください、先ほども申し上げましたが、王妃様は本日も朝からご気分がすぐれませんので」
「お忙しいのでしょう、大司教様。案内なら結構ですよ。王妃様の部屋ぐらいどこだか分かりますから」
いくらか改築されているとはいえ、勝手知ったる我が家なのだ。
コンスタンティアは広い玄関ホールを通り抜け、先にある扉を自分で開けて、精緻なモザイク模様が美しい回廊の奥へすたすたと進んでいく。
「どうかお待ちを、王妃様がお会いになられる状態かどうか、すぐに確認してまいりますので。ああ、これ、そこの君。王妃様付きの女官に、ご来客だと急ぎ知らせるのだ」
回廊の脇に控えていた侍従を捕まえて、大司教は伝達を頼む。
小走りに先を行く侍従の背中を見つめながら、コンスタンティアは、王宮はずいぶん変わってしまった、と改めて実感していた。
ジョーンが使っている部屋は、かつてはコンスタンティアの母が過ごし、次にはマルゲリータ王太后のものとなった、代々の王妃の居室だ。宮殿の中でも最も可憐な意匠を凝らした個室と言える。
お待ちください、いま取次ぎを、と押しとめる侍女を無視して、コンスタンティアが扉を押し開け奥まで進むと、青白い顔色をしたジョーンが窓辺の椅子から腰を上げるところだった。
「コンスタンス姉さま?」
複数の三つ編みにした茶色の髪を、二つのシニヨンにして結い上げた十八歳の美しい王妃は、宮廷最高の貴婦人として遇され、輝くばかりの女の花盛りを満喫しているはずだった。
なのに今、その表情は浮かない。
「久しぶりね、ジョーン。どうしたの、顔色があまり良くないわ」
ジョーン王妃は、戸口に控えている数人の侍女を見ると、片手を振って下がるように命じた。年かさの女官たちは仕方なくといった様子で引き下がる。コンスタンティアの護衛の騎士三人は、隣りの控えの間で待機している。
「まさかパレルモに来ていたなんて! 嬉しい、とても嬉しいわ。私、ずっと姉さまに会いたかったのよ」
「来ると手紙を送ったのに。話を聞いていなかったの?」
ジョーンは驚いて首を横に振った。
「知らなかったわ。そんなこと、誰も教えてくれなかった。私もずっとあなたに手紙を出したかったのだけど、なかなかそうもできなくて」
「そんなこと気にしないでいいのよ」
二人は互いに肩を抱くようにして、近くで顔を見合わせた。
「最近どう? 何か変わったことはない?」
何気ない質問だったが、ジョーンは声を潜め、小声で囁いた
「私、見張られているの。最近では、自由に手紙も出せないのよ」
コンスタンティアは眉をひそめた。王妃が自由を奪われるとは、由々しき事態だ。
「ウィルがそんなことを命じたの?」
問いかけの声が、自然低くなる。
「いいえ、それは違うと思うわ。でも、よくわからないの……。だって私、ウィルともずっと会えていないのだもの。私、なんだかとても怖いのよ。以前は、こんなふうじゃなかった。なのに近ごろは気楽に中庭へ散歩にすら行けないし、侍女たちも新しい人と交代させられて。私を見張っているみたい。いつからか、王宮の様子がおかしいのよ」
そこへパレルモ大司教が断りもなく入ってきて、言った。
「王妃様、レッチェ伯爵がご機嫌伺いに参られました」
明らかにジョーンの顔色が変わった。怯えた様子で口を閉ざし、助けを求める表情をしてコンスタンティアにすがりつく。
数名の部下を背後に伴い王妃の部屋に入って来たのは、長身でがっしりとした体格をした無骨な印象の貴族だった。もともとは金髪だったが白髪が増えたのか、短い頭髪がほぼ銀色になっている。壮年だが引き締まった筋肉質な体つきをしており、甲冑を身に纏えばよく似合いそうな、武人然とした人物である。
「ジョヴァンナ陛下。このレッチェ伯、王妃さまが体調を崩されたと聞き及びまして、疲労回復に良いという果物を幾つか献上しに伺いました。お口にあえば、幸いでございます」
うやうやしく一礼してそう述べると、銀の丸盆に山と盛りつけた新鮮な果物を複数の部下に運ばせる。プラム、りんご、メロンに葡萄、柘榴などだ。
「どうもありがとう、レッチェ伯」
やや引きつった笑みでジョーンは応えた。レッチェ伯爵は次に、コンスタンティアのほうを向いて笑みかけ、宮廷貴族らしく姿勢を正した。
「コンスタンティア様。長らくご無沙汰しております。私を覚えておいででしょうか、タンクレーディでございます」
「ええ、もちろん。久しいですね。お元気でしたか」
レッチェ伯爵タンクレーディは、コンスタンティアが生前に一度も会うことなく早世してしまったルジェーロ二世の第一王子、プッリャ・カラブリア公爵の庶子だ。彼は、コンスタンティアの年上の甥にあたる。
年齢は四十四歳になるはずだ。プッリャ公、並びにカラブリア公の称号は、シチリア王の推定相続人(つまり王太子)に与えられる地位なので、庶子のタンクレーディは、この称号を父から継承することができなかった。
その代わりに、グリエルモ一世の御代、レッチェ伯に叙せられている。
タンクレーディが、コンスタンティアの前に右手を差し出した。あなたの手に挨拶の口づけをさせてほしいという意思表示だ。
コンスタンティアは許し、右手を与えた。手の甲に触れるか触れないかという絶妙な距離で、タンクレーディはそっと唇を寄せた。なれなれしすぎず嫌らしくもない口づけだった。宮廷貴族らしく、修道女への礼節をわきまえている。
二人が最後に会ったのは、グリエルモ二世とジョーン王妃の婚礼披露宴の席だった。タンクレーディは宮中貴族の長卓に座して、上位の王族に対しても各国からの招待客に対しても、如才なく振る舞っていたのを覚えている。王族の席にいたコンスタンティアとは簡単な挨拶を交わす程度で、一応は身内とはいえ、両者はそれほど親しく話をする間柄ではなかった。
「あなたは、テール・ドートラントにあるレッチェ伯領にいらっしゃるものだとばかり思っていました。いつからパレルモへ?」
テール・ドートラントとは、ブーツの形をしたイタリア半島の、ちょうど踵の部分にあたる、サレント半島のことを指して言う。
レッチェ伯領はシチリア島内でなく、サレント半島にあるのだ。パレルモへ来るには船に乗り、海峡を渡らなければならない。
「そうか。貴女はまだ、ご存知であられなかったのですね」
タンクレーディは鷹揚に微笑み、厚みのある胸を張った。
「実は、このたび私、宰相の役目を仰せつかりまして。こちらにはもう、二ヵ月前から伺候しております」
「まあ、そうでしたの」
なんとなく予想していたが、コンスタンティアは、あえて驚いた表情をして見せた。
「前の宰相閣下は、かなりのご高齢でしたのでね。以前から、もうそろそろ引退をと、国王陛下からも内々に打診されておりました」
「そうですか。カターニアにいると、都の様子などわからなくて。いろいろなことに、すっかり疎くなってしまいますわ」
「気候が良いところなのでしょう、カターニアは。貴女は六年前と、ほとんど変わっておられない。私はこんなに老けてしまいましたが、貴女は全くあの頃のままだ。美しく若々しい、時間が止まっているように見えます。私の妻よりも年上とは思えません」
「ありがとう。たとえお世辞でも嬉しいわ」
「神に仕える女性とは、こうも輝いているものなのですね」
本気で感嘆したような吐息を、タンクレーディは漏らした。
彼は不意に、品定めでもするような目をして修道女をしげしげと眺めたが、下劣な瞳のぎらつきは一瞬で消えた。
ひたすら愛想の良い笑顔で、新任の宰相は問う。
「ところで、叔母上。本日は、宮殿へお泊りになられますのか?」
「いいえ。同門筋の修道院に宿を借りるお願いをしていますので。そろそろ失礼いたしますわ。王妃さまにもご挨拶できましたから。陛下がお留守なのは残念でしたが……」
タンクレーディの背後に控えるパレルモ大司教にあえて聞かせてやるように、コンスタンティアは言った。ただの直感だが、タンクレーディを急いでこの場に呼んだのは、大司教のような気がした。
それにタンクレーディは明らかにジョーン王妃を威圧していた。優しそうな口ぶりと物腰でいながら、その切れ長の鋭い目は隙なく王妃を捉え、視線で縛りつけて、怯える彼女に無言で「余計なことを話すな」と脅迫している。
詳しい事情はよくわからないが、この場はひとまず、引き下がったほうが賢明だ、とコンスタンティアは判断した。
「では、王妃様。ごきげんよう」
心細げに佇むジョーンに両手を差し出し、別れの抱擁を求める。
おずおずと抱き返してきたジョーンの耳元に唇を寄せ、コンスタンティアは、二人にしか聞こえない小さな声でゆっくりと囁いた。
「大丈夫、また今夜来るわ。こっそり会いに来るから、待っていて」
安堵の吐息が首筋に触れた。ジョーンはぎゅっと力を込めてコンスタンティアの背を抱きしめ、ありがとう、と震える小声で答えた。
「ごきげんよう、レッチェ伯。大司教様も」
「さようなら、コンスタンティア姫」
もう来るな、という強い意志をタンクレーディの低い声から聞き取って、コンスタンティアは王妃の居室を後にした。
「氷菓で歓待されるどころの話じゃなかったわね。ごめんなさい、どこかよそで改めて休憩しましょう」
随行している修道騎士達の疲れをねぎらいながら、玄関から出て行く。
すれ違いに、王宮の車回しに停まった馬車から降りてきた身なりのいい男達が宮殿の中へ案内されていった。皆、恰幅のいい体つきをして、服装も派手で豪華である。
コンスタンティアの鼻先まで、いかにも高価そうな香水の匂いが漂った。見たところどうも、パレルモの貴族ではなさそうだ。どこかから、シチリアの海とは微妙に異なる潮の薫りがした。
「商人ですね。ヴェネツィア人っぽいな」
目敏いロレンツォが、客人の風体から出身地や職業を推測した。
彼の推測は、よく当たる。そうか、ヴェネツィア。アドリア海から来た豪商なのだ。羽振りの良さにも頷ける。
コンスタンティアは、この時はさほど商人たちを気に留めず、目線を前に戻した。
「せっかくパレルモまで来たんだから、ルイージのお店の様子を見に行きましょうか」
ルイージというのは、聖アガタ修道院が卸す絹や、特産物を頻繁に取り扱ってくれる商人だ。他にも、修道院で保護した女性達が作った香油やオリーブオイル、陶器などの工芸品を扱ってくれる馴染みの商人が何人かいる。商品の売れ行きの様子を見がてら、街まで行って適当な食堂で昼食にしよう、とコンスタンティアは決めた。




