呪われた花嫁
第二章 ⑵
祈りの声だけが響く静かな礼拝堂の奥に、白い棺が一つ、置かれていた。
棺の蓋は開いている。中を覗き込むと、たくさんの百合の花で身を覆われた若者が、眠るように横たわっていた。癖の無い金色の髪。閉じられた瞼の奥にある瞳の色は薄い水色であるはずだった。薔薇色に輝いていた頬は、今では陶器の人形めいた青白さで、唇には全く血の気が無い。
ああ、フリードリヒ。可哀想に……。
コンスタンティアは、強く目眩を起こした。世界がぐるぐると回りはじめる。とても立ってはいられない。
周囲から、ひそひそと囁く声がする。悪意のこもった冷たい声が言う。
あの娘が来たせいで、大公殿下は殺されたのだ。なんという不幸か!
シチリア女が、帝国に不運を運んできたのだ。呪われた花嫁!
コンスタンティアは両手で強く耳をふさぐと、逃げるようにして告別式の場を離れ、迎えの馬車へ乗り込んだ。シチリアへ、急ぎ帰るのだ。私なんかが嫁いできたせいで、フリードリヒは無惨に死んだ。あんなに若く、美しい人だったのに。彼の代わりに私が死んでしまえば良かったのに。
大公の城を出ていく馬車の中で、コンスタンティアが咽び泣いていると、どこかから必死に呼びかけてくる声が聞こえた。
「行かないで! コンスタンティア、行かないで! お願いだから戻ってきて!」
驚いて馬車の窓から外を見れば、城門から転ぶようにして走ってくる男の子がいた。くしゃくしゃの赤毛のあの子は。
「ハインリヒ!」
コンスタンティアも窓から顔を出し、泣きながら大声で叫んでいた。
彼は、小さな可愛いハインリヒ。私の義弟になるはずだった坊や。これからは仲良くしようね、と二人であんなに約束したのに。
「コンスタンティア! コンスタンティア!」
つまづいて、ついに転んだ。それでもハインリヒは立ち上がり、後を追いかけようと走った。城から追ってきた騎士達に捕まって、無理やり抱え上げられるまで。
「行っちゃいやだ! いやだ! いやだ!」
擦りむけた膝を血で汚し、ハインリヒは屈強な騎士の腕の中で、じたばたと足を揺らしていた。その姿が、ぐんぐんと遠ざかる。
「さようなら! さようなら、ハインリヒ!」
涙で頬を濡らしながら、コンスタンティアも声を限りに叫んだ。胸が張り裂けそうに痛かった。何かに締めつけられているようで呼吸がうまくできない。苦しい。本当に、重石か何かが胸の上に乗せられているみたい。強く圧迫されて息が吸えない。苦しい。
コンスタンティアは、大きく喘いだ。
すると、胸の上に乗った何か重たくて柔らかいものが、黄色く光る眼をしてこちらをのぞき込んでいた。
「にゃあ」
暗がりの中、コンスタンティアが両目を開けてよく見ると、胸の上にどっしりとした体つきの大きな黒猫が乗っていた。
確か夕方に挨拶した時、ここの院長が「うちには猫が多いのですよ」と言っていた。鼠を駆除するのに飼っているのです、部屋に入ってきてもお気になさらず、と。
コンスタンティアは苦笑する。ここは巡礼者用の宿舎だった。彼女は王都パレルモに向かう旅の途中で、道中は宿泊地として会派を同じくする修道院や教会の宿舎を借りているのだ。ここも、そんな修道院の一つだ。同行する護衛の修道騎士らは相部屋だが、彼女は特別に個室を与えられ、ひとりで休んでいたのである。
「変な夢を見たわ。おまえのせいね」
頭を軽く一撫でしてやると、黒猫はころりと寝返りを打って胸の上から降り、枕元でまた身体を丸くして寝始めた。
多分、窓の格子の隙間から入って来たのだろう。暑いのでずっと鎧戸を開けていた。何せ古い修道院の宿舎である。手製の網戸は、あちこちほつれたり破れたりしている。虫避けに窓辺で焚いていた蚊連草の香の匂いが、まだうっすらと漂っていた。
寝汗の浮いた額を手の甲で拭い、コンスタンティアは枕へと頬を落とした。くぅくぅいびきをかき始めた黒猫の横で深く息をついて、さっき見た夢を反芻する。
変な夢というよりも、ずいぶん昔に実際にあった出来事だった。何年も、あえて思い出すまいと記憶の奥にしまい込んでいたのだが。
(ハインリヒは、元気にしているのかしら?)
あの日、泣きながら必死に追いかけてきてくれた、七歳の少年。兄の死に関しても、彼は決してコンスタンティアを責めはしなかった。行かないで、傍にいてと。最期まで別れを惜しんでくれたのだ。
風の噂で、彼がマインツで開かれた帝国会議で騎士に叙任され、正式に皇位継承者として公認されたことは知っていた。
そこでは華々しい馬上槍試合と宴が同時に開催され、ハインリヒも試合でなかなかの好成績を収めたという。
試合で優勝したのは、イングランドから招待されていたリチャード王子であったが、二人は決勝戦でほぼ相打ちとなり、勝敗がつかなかったらしい。槍試合の主催者である赤髭王は、来賓のリチャード王子の方を優勢として花を持たせたが、才気煥発な跡継ぎ息子の活躍ぶりを見て、満面の笑みだったとか。
(立派な若者になっただろう。妃を娶るのも、きっと近々……)
私のことなんか、もうすっかり忘れてしまっただろうな。
ちょっぴり寂しいけれども、それでいいような気がする。
どうか、幸せになっていてね。小さなかわいいハインリヒ。私の大切な義弟。
悲しい夢を見た後だったが、ハインリヒのこれからの幸せを天に願うと、胸の痛みが薄れていく気がした。死んでしまった兄上の分まで、彼には幸せになってほしい。
さあ、もう一度眠ろう。きっともう昔の夢は見ない。
明日の昼にはパレルモ市内に到着する予定だ。ウィルに会えたら、海賊対策の案件を直談判する。
聖アガタ修道院があるカターニア地方から、王都パレルモまでは健脚の大人が徒歩で旅すれば五日ほどの距離だ。足腰の頑丈でない老人や女が歩けば一週間ほどか。
コンスタンティアは、その道を騎馬で行く。旅程は三日目に入っていた。
順調に行ければ明日、午前の早い時間帯に、王都の門をくぐることができるだろう。
第二章 ⑶に続きます




