夫婦の末路
第六章⑶
「王女が逃げただと? すぐに追え!」
だが、彼女を断じて傷つけてはならんし、死なせてもならんぞ。未明に、コンスタンティアの不在に気づいた使用人から緊急連絡を受け、眠りから覚めたタンクレーディはすぐさま追っ手をかけた。
「どうやって逃げた。―誰が手引きした?」
あれだけ厳重に警戒していたのに、こうもたやすく逃げられるとは。解せない。
夜着から着替え、急いで自分も探索に出かけようとしていたタンクレーディの元に、招かれざる客がやってきた。
「シビッラ。なぜここにいる」
レッチェ伯の本城にいるはずの妻が立っていた。まだ離婚は成立しておらず、事実上彼女が今でもタンクレーディの配偶者だ。
「あなた。こんな夜更けに、どちらへいらっしゃるおつもりですの?」
「お前には関係ない話だ。呼ばれもせぬのに、なぜここに来た」
勝手な真似をと、不快感をあらわにする夫に正妻は言い募った。
「私はあなたの妻でしょう? 夫のそばにいるのが当然じゃありませんか」
結婚の無効を宣言し、お前とは他人になる。薄情な夫からいきなりそう告げられて、シビッラは頑なに拒んでいた。一方的に離婚するだなんて。女として、そんな不名誉な事態はとうてい承服できない。私は負け犬じゃない。
悪いのはあの女だ。シビッラはコンスタンティアを恨んだ。修道女のくせに人の夫を誘惑して。まるで淫売じゃないの。淫らな魔女は、天罰を食らえばいいのよ。
勝ち誇ったように、シビッラは笑った。
「あの女を追いかけたって無駄ですわ。もう生きてはいないはず。私が殺せと、兵士に命じました。今頃もう、王女さまの死体はメッシーナ海峡に沈んでしまったでしょう」
ばれたって構うものか。シビッラは事実を告げた。こうなればもう事後共犯だ。
「お前が手引きしたのか……?」
タンクレーディの目つきが変わった。
「ねえあなた。私たち、聖堂で永遠の愛を誓って夫婦になった仲じゃないですか。神と精霊の祝福を受けて、交わした誓いを忘れたの? あなたの子供を、私は二人も産んであげた。立派な妻でしょう。なのに、どうして今さら私を捨てようとするのです?」
シビッラは涙ながらに身を寄せて、タンクレーディの不実を詰る。
「あの女がいなくたって、あなたは自力で玉座を勝ち取れますわ。だからお願い。私と別れるなんて、もう二度と言わないで。いつまでも一緒にいて」
タンクレーディに抱きついて厚い胸に頬を埋め、シビッラは期待して待った。夫が、自分を強く抱きしめ返してくれるのを。
「あなたはこの国の王になり、私が王妃になるの……。そしたら上の子のルジェーロを王太子にしましょう。シチリアは、どこよりも強い国になるわ」
あなたが王なら、誰にも負けやしない。
素晴らしい夢を見る表情で、シビッラはうっとりと囁く。
シビッラとの間にできた長男ルジェーロの自分とよく似た精悍な顔を思い浮かべて、タンクレーディは目を細めた。
「そうだな。そうしようか」
タンクレーディの大きな手が、シビッラの頬を包み込む。
シビッラは喜んで夫に顔を寄せ、目を閉じた。やはり彼は私を選んだ。あんな行かず後家よりもずっと私を愛している。再び愛を誓う口づけが降りてくるのを待つ。
タンクレーディのぶあつい両手が、するすると下がってシビッラの細い首を掴んだ。そのまま、ぎゅっ、と指先に力を込めていく。
「ひとまずはルジェーロを王太子にするとしよう。……だが、王妃になるのはお前じゃない」
「あっ……、ぐっ……!」
首を絞められ、シビッラは両目を見開いた。窒息で眼球が飛び出そうになっている。女は空気を求めて激しく喘ぐ。開いた口からよだれを垂らし、赤い舌が覗くのが、妙に煽情的だった。
「お前は王妃になれる器じゃないんだ。それがわからんか、シビッラ」
愚かな女よ。欲深で、悪知恵だけが回るいやな女。
妻の背中を机に押し付け、体重をかけて全力で首を圧迫した。
シビッラはすでに白目を剥いていた。うっ血した顔をして、口の端から血の筋が垂れ落ちる。子供を二人も産み落とし、どことなく弛んだだらしない体つき。胸は垂れ尻は萎み、かつては確かに美しかったが、早くも老いの坂道を下降し始めた女。厚化粧でも肌の衰えは隠せない。ましてこの性悪さ。見苦しい、と男は思った。
「俺の言う通り、おとなしく離婚に応じればよかったものを……」
そうすれば、こんな風に無様に死ぬこともなかったろうに。
目を見開いたまま、すでにこと切れた『元妻』の死に顔を見つめ、タンクレーディは何の感慨も無く呟いた。
できることなら、コンスタンティアとの間にできた子を跡継ぎにするのが望ましい。だが、彼女の年齢を考えると、懐妊しない可能性もある。だから、お前が息子を産んでくれたことには、深く感謝する。
絶命し、弛緩した妻の死体をその場に放置し、タンクレーディは城内に宿泊していたパレルモ大司教を呼んだ。
「妻が死んだ」
死因をぼかして告げると、大司教は特に驚くでもなく、あっさりと応じた。
「さようで。病死と事故死、どちらがよろしいですか」
「どちらでも好きなように。葬儀は盛大にあげてやれ」
「かしこまりました」
結婚を無効にする手間が省けましたね、と大司教は笑った。
死体の後始末を大司教に任せると、タンクレーディは兵士の一団を引き連れ、コンスタンティアの捜索に向かった。
何としても生きたまま連れ戻すのだ。
第七章に続きます




