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逃亡

第六章⑵

 コンコン、と控えめなノックの音がした。

「誰?」

 広い寝台に身を横たえただけで、まんじりともしていなかったコンスタンティアが、慌てて半身を起こす。タンクレーディなら、いちいち扉をノックしたりしないで勝手にずかずか入ってくる。でも、もしまたあいつが訪ねて来たのだったら。

 コンスタンティアは注意深く耳を澄ませ、身構えた。

 もしもあいつが、前言を撤回して婚儀の前に淫らな行為に及ぼうとするつもりなら。枕の下に隠した陶器の破片で、頸動脈を掻き切ってやる。

 (じょう)を外す音がして、向こう側から扉が開いた。

 暗がりで燭台を掲げているのは、豊満な体つきをした女だった。

「あなたは、確か……」

 コンスタンティアは目を(みは)った。彼女とは、宮廷で何度か会った覚えがある。タンクレーディの正妻だ。そう、彼女の名前は―。

「シビッラ夫人?」

「はい。お久しゅうございます、王女殿下」

 自分より幾つか年下のはずなのに、彼女は派手な化粧をしているせいか、コンスタンティアよりもずっと老けて見える。

 シビッラ・ディ・アチェッラは、周囲に誰もいないのを用心深く確認している。人の気配を恐れる小動物に似た臆病な足取りで、彼女はおずおずとコンスタンティアの側に近づくと、せっぱつまった表情で訴えた。

「どうかお逃げください。急いで。今なら城の外へ出られます」

 私が逃がしてさしあげます、とシビッラは迫った。

「城の使用人用の通路と階段を使えば、見張りの兵士に見つかることもなく庭の裏手に出られます。城の裏門の近くに馬を繋いでおきました。食べ物と当座のお金も。だから今すぐ逃げて。ここにいてはいけません」

 そう言いながら、シビッラはマントの中に隠し持っていた長剣を差し出した。

「ついて来て。そこまで私がご案内いたします」

 燭台を手に自ら先導すると言う。さあ早く、ぐずぐずしていたら人に気づかれます。()かすように手招きされ、コンスタンティアは言われるままに、渡された剣を腰に()いてシビッラの後について行った。

 ひとけの無い暗い道を、シビッラの持つ燭台の灯が導いていく。

 彼女が言う通り、使用人が使う狭い通路や階段には、見張りの姿がなかった。二人は足音を響かせないよう、慎重に外へ出て行った。

 城の外に出ると、うっすらと夜霧がかかっていた。草むらの影で虫が鳴いている。

 ほっ、とシビッラ夫人が息をついた。

「この霧にまぎれたら、逃げられるはず。神の思し召しだわ。夜が明ける前に、早く」

 馬を繋いである場所まで辿り着き、コンスタンティアは安堵の息をついた。ここまで案内してくれたシビッラを見て、なんと勇敢な女性だろうと思う。

「あなたの助力に感謝します。でも、私を逃がしたと知られたら、タンクレーディから(ひど)い目にあうのでは?」

「いいえ大丈夫。私のことなど心配なさらないで。王女様の無事を祈っております」

「あなたに神のご加護がありますように」 

 素早く十字を切って祈り、手綱を掴んで鞍に跨った。

「この恩は、いつかきっと返します」

 コンスタンティアは荷物と一緒に用意されていた旅装用のマントを着こみ、フードを被ると夫人に別れを告げた。馬腹を軽く蹴り、駈足(かけあし)で門へ走らせる。

 裏門に向かった騎影はすぐに、白い霧の中へ溶け込んでいった。


「おまえたち」

 シビッラ夫人は振り向くと、庭木の影に潜んでいた複数の兵士を呼んだ。

「あの女を追って、街道に出たらすぐに仕留めてちょうだい。決して逃がさず、確実に殺すのよ。死体は海にでも捨てておしまい。絶対に、何があろうと二度とあの女を私の夫に逢わせてはだめ。わかったわね。―さ、お行き!」

 コンスタンティアに向かっていた時に見せた慈母の表情とは一転した、悪女の素顔でシビッラは命じた。

 タンクレーディの正妻の座は渡さない。―コンスタンティアを逃がすふりをして、その(じつ)、刺客を差し向けたシビッラは、(はげ)しい嫉妬と憤怒で美貌を歪め、唇を震わせていた。



 海風に流れる薄靄(うすもや)の中を、コンスタンティアは馬で駆けていた。

 メッシーナ海峡を左手に見据えながら、海岸沿いの街道を一気に南へ駆け抜ける。

 ここからカターニアまで馬で駆ければ、およそ一日で行ける距離だ。

 急いでカターニアに戻ったらジョーンの安否を確認する。彼女がまだ修道騎士たちに守られて、タンクレーディの追っ手に捕まっていなければ、リチャード王太子は同盟を解消し、こちらに協力してくれるかもしれない。カターニアの周辺に在住する貴族にも呼びかけて、反タンクレーディの軍勢を起こすのだ。

 そう考えながら馬を駆けさせていると、背後から猛烈な殺気を感じた。反射的に身を伏せる。乗馬の首に抱きつく格好になったコンスタンティアの頭上を、一瞬の差で矢が飛んでいった。

 城からの追っ手だ。

 首筋にぞわっと鳥肌が立つ。背後から迫る兵士たちは明らかに、殺意を持ってコンスタンティアを追っていた。

 タンクレーディが派遣した兵士なら、彼女を生かして捕らえようとするはず。

 でも、彼らは疑念の余地なく、私を殺す気で追っている。

 いったい誰が私を殺そうと―。そこまで考えて、すぐに思い至った。

 シビッラ夫人。

 そうか、彼女は、私を助けるために善意で城から逃がしたわけではなかった。そんな甘い女ではない。むしろ殺したかったのだ。夫を奪う憎き女と見なして。

 でも、王女に夫の城の中で死なれては不自然だから、逃げた私を追うために、後から刺客を差し向けた。捕らえるつもりだったが抵抗され、結果的に死んでしまった不幸な事故だと、夫には事後報告する。そういう風に、都合のよい状況を仕立てあげたのだ。

 長年タンクレーディの妻でいただけのことはある。見かけによらずたいした悪女だ。臆病で気弱そうな素振りに、すっかり(だま)されてしまった。

 ひゅっ、と矢羽が空を斬る音がした。放たれた矢は、コンスタンティアの乗馬の尻と後ろ脚に命中した。

 痛みに甲高く(いなな)き、馬が棹立ちになる。

 コンスタンティアは振り落とされまいと、手綱を強く引き絞った。

 そこへさらに立て続けに矢を射かけられた。コンスタンティアは瞬時の判断で手綱を離し、(やじり)()けながら自らの意志で落馬すると、頭をかばって受け身を取った。落下の衝撃を殺すため、地面の上で何度も転がる。

 受け身の丸まった体制から身を開き、素早く剣を抜いて立ち上がる。

 追う兵士らも、馬上から降りて剣を構えていた。少しずつ距離を詰めてくる。

 コンスタンティアは五人の屈強な兵士に周りを囲まれながらも、隙なく長剣を構え、不敵な表情をしてみせた。

 剣術を教えてくれた、亡き兄に恥じぬ戦いを。


「かかってきなさい。受けて立つわ」


第六章⑶に続きます

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