第六章 過去から連なる陰謀
第六章⑴
数日後、コンスタンティアはメッシーナ市に到着した。三角形を成すシチリア島の、ちょうど北東の頂点に位置する都市である。
パレルモ市、カターニア市に次いで、シチリアで三番目の大きさを誇る湾口都市だ。イタリア本島であるカラブリア半島からシチリアへ渡るための、海の玄関口ともなっている。
ここメッシーナ市の丘の上には、タンクレーディが私的な静養や狩りで用いる別荘があった。別宅とはいえ、広大な敷地の中に建つ、それなりの規模の城である。
城内の奥の一室に、コンスタンティアは監禁されていた。
扱いは貴賓級だが完全に行動の自由を奪われ、時々世話に訪れる召使いともほとんど言葉を交わせない。王都がどうなっているか聞きたいが、使用人たちは目を合わせてもくれない。きっとタンクレーディから、むやみに接近したり話すなときつく禁止されているのだ。王女に同情して逃亡の手助けなどされないように。
あれから何日たったのだろう。コンスタンティアが浮かない顔で、朝から部屋の中を何度も往復していると、昼を過ぎてから珍しいことに来客だと告げられた。
案内されてきたのはパレルモ大司教だった。
タンクレーディの次に嫌いで会いたくない男。
当然ながら、コンスタンティアは不機嫌になる。
「あなたの還俗が正式に教会に認められました」
まるで我がことのように大司教は喜んでいた。
「これで晴れて、あなたはシチリアの王位を継ぐことができます。夫を娶り、子を成すことも許される。誠におめでとうございます」
何がめでたいものか。パレルモ大司教のしたり顔に、思いっきり平手を食らわせたい衝動を、どうにかコンスタンティアは堪えた。
「あなた、聖職者として恥ずかしくはないの? 私は還俗することに同意していない。それを勝手に、無理やり俗世に引き戻すなんて。同じく神に仕える身として、あなたはいったいどんな顔をして教会に上申したわけ? よく平然としていられるわね!」
「時勢の流れには逆らえません。天に坐します我らの神もきっと、戒律を破るあなたを許してくださるでしょう」
ぴくりと、コンスタンティアの目許がひくつく。
「神の許し? 戒律破りで神に許しを請うべきなのは私ではなく大司教猊下、あなたや宰相レッチェ伯のほうではなくて?」
いったいどの面下げて自分をあの男と結婚させるつもりなのか。恥を知れ、とコンスタンティアは痛烈に批判した。
「教皇庁とてこんな無体な、常識にも欠ける結婚話を知ったらどう思うか」
「そちらについては、ご心配に及びません。当然ながら今回の婚姻については教皇庁もすでに承知していることでございますから」
パレルモ大司教のしたり顔は崩れない。
たいした鉄面皮だ。教会への根回しは万全、というわけか。
「レッチェ伯爵は今後、教皇派の有力君主としてローマからも厚く信頼され重用されることになるでしょう。あなたはそのお妃様。末永くお幸せになられます」
タンクレーディは、それほどまでに深く現教皇の勢力と結びついているのか。今まで少しも気づかなかった、とコンスタンティアは歯噛みする。
「本当に、あなた様が神聖ローマ帝国の皇后になどなられなくて、ようございました」
なにげない一言だったが、コンスタンティアの気分は深く害された。状況が違えば、コンスタンティアは今頃神聖ローマ帝国の『皇太子妃』だったかもしれないのだから。
「どういう意味かしら、それは」
不信感がいっぱいの彼女の心情を見抜いたように、パレルモ大司教は口角を上げた。
視線が交差し、互いに相手の反応を探りあう。
「かの皇帝フリードリヒは、未だに自分が教皇よりも格が上、皇帝こそ世界の支配者と息巻いているが、それは大きな間違いです。皇帝は教皇の下僕。天に座する神と教会の威光あって、初めて皇帝は皇帝として君臨することができる。―その事実を、彼らは自覚せねばなりません」
「ずいぶんと不遜な物言いね」
「私は教皇に仕える身。皇帝とて恐れはしない。けれど、あなたと帝国が婚姻によって結びつくのは、あの頃非常に危険だった……。もう少し正確に言えば、シチリア王国と神聖ローマ帝国が同盟関係を結ぶことが、です。あなたはご存じないでしょうが、私は当時シュヴァーベン大公領に派遣され、輔祭を務めておりましてね」
どくん、とコンスタンティアの心臓が嫌な感覚で鼓動を打った。
あの時期に、彼がシュヴァーベンにいた? 偶然だろうか。
動揺した彼女を見て、パレルモ大司教は笑みを深める。
「あなたの婚礼式でも、儀式の補佐を務める予定だったのですよ。ところが大公殿下が急死され、結局、中止になりましたが」と大司教は言い、不吉な微笑みで唇を歪めた。
「まさか。あなた―」
「シュヴァーベン大公殿下とは、親しくしておりました。家庭教師として、お傍近くに上がっておりましたので」
だから、彼が寝室で口にする飲み物に毒を盛るのは簡単だった。
無論、そこまで重大な事実を大司教は自白しないが、彼の狂気を孕んだ目が、如実に真相を語っていた。
まさか、まさか本当にこの男が、毒を。
当時まだ二十代の若い輔祭が一気に司祭へ、司祭から司教へ、司教から大司教へと。この年代にしては異例の速度で叙階を駆け昇っていった本当の理由は、教会の指示で、シュヴァーベン大公を暗殺したから。それ以外に考えられない。
「まあ、最初の結婚話は不幸な形で破談に終わってしまいましたが。それも神の運命。今度こそ、あなたの花嫁姿が見られるのを嬉しく思いますよ、本当に」
「なんてこと―、なんてことをしてくれたの。お前がフリードリヒを殺したせいで、私の人生は狂ったのよ!」
素敵な花嫁になるはずだった。嫁ぎ先では皇太子妃と呼ばれ敬愛を受け、素晴らしい未来が約束されていたはずだったのに。何もかも全て、こいつがぶち壊した。
パレルモ大司教は、困ったように首をかしげて微笑している。
シュヴァーベン大公フリードリヒを暗殺した真犯人。許さない、お前だけは絶対に、私がこの手で殺してやる!
しらじらしい顔つきで、パレルモ大司教は首を横に振った。
「いったい何をお怒りになっているのか分かりませんが。あなたも今後は、よく覚えておられるといい。そして、決して忘れてはなりません。教皇の権威こそが、この世界の全てなのだ。この世の支配者は、王でも皇帝でもない。神と教会だということを」
教会に逆らう者には、生きている資格などない。
それを思い知らせるため、あえて暗示的な表現で十三年前の事件を語ったのだろう。しかも言質は取らせずに。どこまでも卑劣で、醜悪な男。
「お前は悪魔よ。タンクレーディと揃って地獄へ堕ちるがいい!」
鏡台の上に置いてあった手鏡を掴み、投げつける。大司教は身をかわし、手鏡は壁にぶつかって割れた。
パレルモ大司教は、怖い怖い、と笑いながら部屋を出て行った。
その扉に向かって、コンスタンティアは両手で花瓶を投げつけた。
高価そうな陶器が粉々に割れ、花が散らばり水が床を濡らした。
コンスタンティアは獣のように床にうずくまった。床に手をつき、低く呻きながら、絶え間なくこみあげてくる嗚咽を必死にこらえていた。
夜半に、タンクレーディが王都からやってきた。
コンスタンティアがいる部屋へ直行し、扉の鍵を開けさせる。
「ご機嫌斜めのご様子で。召使いが、掃除を怠りましたか」
荒れた室内の惨状と、コンスタンティアの憤った様子を見ても、タンクレーディは余裕の笑みを崩さない。
ただ彼女の装いを見て、少しばかり落胆したふうに眉間を寄せる。
「相変わらずそんな男物の服を着こんで。当世流行りのドレスは、お気に召しませんでしたか」
たたまれたまま、一度も手をつけられない華やかな色柄の布地を、タンクレーディは指先でちょいと摘んだ。
「あなたのために、都で一番評判という仕立て屋にあつらえさせたものです。どうですか、この色のものなど。あなたに似合うと思うのだが」
ふてくされた顔で寝台の片端に座り、行儀悪くあぐらをかいたコンスタンティアは、長持から溢れるほどに積み重ねられた華美なドレスになど見向きもしない。
戸口にいたタンクレーディは気配もなく近づき、いきなりコンスタンティアの頤に指をかけて強引に顔を上げさせた。
「髪を伸ばし、唇に紅を引いて化粧をし、豪華な衣装で着飾れば、どれほど美しくなることか。今のままでも充分に美しいが―」
顎を掴んで固定し、唇に顔を寄せてきたタンクレーディの頬を、コンスタンティアはぴしゃりと叩いた。体をよじって腕を振り払い、ベッドの向こう側まで飛びすさる。
「私に触れるな、汚らわしい」
噛みつく勢いでコンスタンティアは拒絶した。
「まったく。あなたとの新婚生活は、激しくて刺激的で、さぞかし面白いものになるでしょうな。今から初夜が楽しみだ」
打たれた頬を押さえもせずに、タンクレーディは凄む。大きな寝台を間に挟んで差し向かい、二人は互いに睨みあった。
「ところで、そろそろジョヴァンナ王妃がこちらへ移送されて来るころでしょう。私が王都に戻って仕事をしている間、しばらくは二人で仲良くお過ごしなさい」
「ジョーンをどうする気」
「あの方には、あなたとはまた違う意味で利用価値がある。大事な取引材料ですので、傷つけたりはしません。安心なさい」
「取り引き? いったい誰と?」、
「夫婦の間で隠し事はいけませんので教えてあげましょう。王妃の兄、イングランドのリチャード王太子が、二か月におよぶ十字軍遠征を終え、エルサレムから帰還の途上にあるのをご存知か?」
出征したと噂には聞いていたが、その後の動静は知らなかった。
目線で話の続きを促すと、タンクレーディは素直に語った。
「イングランドへ帰国の途についたリチャード王子を、シチリアにお招きしたのです。まさにいま、十字軍帰りの猛々(たけだけ)しい旅団を大勢引き連れて、リチャード王子はシチリア王国にいらっしゃる。彼は妹の身柄と引き換えに、私に兵力を貸すのを承諾しました」
イングランドの王太子と同盟を結んだのだと、彼は自慢した。
「王国内には、私が即位するのを面白く思わない貴族が多数いる。あなたが言う通り、私の出自を侮る者がいるし、ナポリ公などはそもそもシチリア王家に対する服属意識が弱い。この状況を決起の好機と見なし、反乱を起こすやもしれない。忌々しいことに、教皇ではなく神聖ローマ帝国になびこうとする勢力も少なくはない。しかし、戦上手のリチャード王子の軍勢が力を貸してくれれば、奴らも私の敵ではない」
だから、あなたがどう足掻こうが、私の即位は確定事項だ。
「全てが片付いた暁には、リチャード王子を我々の結婚式に招待するとしましょう。それまでは、あなたとの夫婦の営みはお預けだ。婚儀が済んだら、私好みのやり方で、あなたを従順な妻に仕込んでやる」
「出ていって! おまえの顔など見たくもない!」
もういっそ、この場でこいつの喉首を掻き切って殺そうか。
床に散らばった花瓶の破片にコンスタンティアは目を走らせた。あれを使えば―。
破片を掴もうか迷うコンスタンティアに、宰相は引き時と見て静かに告げた。
「では、今宵はこれで失礼します。お休みなさい、王女殿下」
コンスタンティアが発する猛烈な殺気に気づいたのだろうか。
タンクレーディは怖がりもせず、にやにやと笑いながらも、その場はおとなしく引き下がった。彼にしてみればコンスタンティアの殺意など、猫の威嚇に等しいのだ。
「後で召使いを掃除にやります」
そう言って伯爵が出ていくと、コンスタンティアは急いで寝台の隙間から飛び出て、散らばった破片の中から一番先が尖っているものを拾い、枕の下に隠した。
彼女の部屋から出た直後、タンクレーディはうす暗い通路の向こうで一人待っていたパレルモ大司教に歩み寄り、質問した。
「我が婚約者の機嫌を損じたのは、猊下か?」
「私は何も……ただ、結婚を控えたご婦人に対し、教会の存在意義を少しばかり説いてさしあげただけです」
「ふん……、まあいい。ところで、よもやリチャード王太子側に、ジョヴァンナ王妃の居所について知られてはおるまいな」
一時的にとはいえ、わが手の内から逃げられたのを知られるとまずい。
「もちろんです。ジョヴァンナ王妃はいまでも閣下に捕らわれている身だと、あちらは信じ込んでおられます」
「ならば、良い。察知される前に、急いでジョヴァンナ王妃を連れ戻せ。カターニアに派遣した兵士に急ぎそう伝えろ」
「かしこまりました」
第六章⑵に続きます




