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第五章  漂着

第五章⑴


 真っ暗な岸辺に、生クリームのように白く泡立った波が繰り返し打ち寄せている。

 (なぎさ)の白い泡を踏みしめ、しっかりとした足取りで歩く若者がいた。フレデリックだ。

 赤みがかった金髪から多量の水滴を垂らしつつ、彼は気を失ったコンスタンティアを両腕に抱いていた。雨はすでにやんでいる。荒ぶる風と高い波だけが、岸壁を繰り返し叩き続けていた。

 波の届かない岩場までどうにかたどり着くと、フレデリックは風よけとなる岩の影にコンスタンティアを下ろし、横たえた。ぐったりしている彼女の胸に耳を当て、鼓動を確かめる。それから鳩尾(みぞおち)に両手を当てて強く圧迫した。

 こふっ、とコンスタンティアは少量の水を吐く。まだ気を失っているが、微かに胸が上下して自力で呼吸をしはじめる。


「息を吸え。そうだ、ゆっくりと呼吸するんだ」

 安堵の表情を浮かべ、フレデリックは彼女を励ました。

 目を閉じたままで、コンスタンティアは辛そうに呼吸を繰り返した。

 これならもう心配ない。フレデリックは大きく息をついた。彼女の濡れた髪を撫で、無事に救い出せたことを神に感謝する。

「もう大丈夫だ。俺がついてる」


 改めて周囲を見回すと、海岸沿いに密生している防風林の近くに、地元の漁師たちが使っていると(おぼ)しき古ぼけた(いさり)小屋が建っているのを見つけた。今は無人のようだ。

 コンスタンティアを軽々と横抱きにし、フレデリックは明かりが灯らぬ木造の小屋に向かって歩いて行った。



 パチパチ、と(たきぎ)がはぜる音がする。

 コンスタンティアが薄く(まぶた)を開けると、古ぼけた木造の天井が見えた。まだぼうっとしたまま視線を横に流せば、囲炉裏(いろり)で焚かれた炎が揺れている。

 焚火の向こう側に、上半身裸のフレデリックがあぐらをかいて火の番をしている姿が見えた。次第に意識が鮮明になる。そういう自分は、大きな投網と、乾いた(わら)を重ねて作った即席の寝床に横たわっている。

「ここは……?」

「コンスタンティア。気がついたのか」

 頭が痛くて、若干視界がくらくらする。口の中が妙に塩辛い。囲炉裏の向こうから、こちらへ回り込んできたフレデリックが片膝をつき、顔を覗き込んだ。

「気分はどうだ。どこか痛んだりは?」

「それはない。……大丈夫みたい。でも、ここはどこ?」

「俺にも分からん。明るくなったら確認しよう」

 まだ夜は明けていなかった。コンスタンティアは深く息を吐くと、片肘をついて起き上がろうとした。フレデリックが脇から支えて、上体を起こすのを手伝ってくれる。

 コンスタンティアの衣服はまだ濡れた状態だった。湿った布地が素肌にまとわりつく感触が気持ち悪い。

 上衣の端を摘まんで見つめていたら、ためらいがちに言われた。

「その、やっぱり勝手に脱がすのは、まずいと思って」

 冬場なら凍えて命に関わるから不躾だろうがとにかく脱がすが。幸い今は気温が高い季節だ。傍らで火も焚いたことだし、ひとまず本人が目覚めるまではと、あえて彼女の衣類には触れなかったフレデリックである。

 コンスタンティアは、その心遣いに安堵した。

「よかった。目覚めた時に、もし勝手に服を脱がされた状態だったら、きっとあなたを引っぱたいてた」

 本気が何割か混じった冗談にフレデリックは苦笑を返した。炉の傍らに置いた椅子の背凭れに引っ掛けていた、自分の黒い上衣を彼女に差し出す。

「俺のはもう乾いてる。良かったらこれに着替えろ。俺はその間、外に出てるから」

「……ありがとう」

 嵐はいくらか収まった様子だが、小屋の外で鳴り響く風の勢いはまだ強かった。彼が扉を開けた瞬間、ゴオッと吹き込んだ風が囲炉裏の炎を揺らしたが、すぐ静かになる。閉じられた扉が、微かにカタカタと揺れた。

 コンスタンティアは濡れたチュニックとブレーを脱ぎ、さらに下着も脱いでしまうとフレデリックの黒いシャツに着替えた。さらりと乾いた感触が、肌に心地よい。焚火に長いこと(かざ)され、少し温まっている布地が、冷え切った身体に優しかった。


「もういいわよ」

 扉を薄く開けて顔を出し、忠犬よろしく窓辺の壁にもたれていたフレデリックを中へ呼び寄せた。彼女の細い肢体に、大柄な青年の服はサイズがかなり大きくて、だぼだぼだった。上衣の裾は太股辺りまで覆い隠しているが、膝や(すね)は丸見えだ。足首の細さにフレデリックは一瞬だけ目を(みは)ったが、すぐに視線を反らした。

 あえて彼女の腰から下を見るまいと、不自然に顔を背けて歩くフレデリックの律儀な様子が微笑ましい。

 若者は改めて炉端に座り、なにげない調子で口を開いた。

「俺の服で悪いな……。臭かったら、すまん」

「そんなことない」

 申し訳なさそうに言われて、思わず笑ってしまう。嵐の海に平然と飛び込むような、大胆不敵な豪傑かと思えば、変なところで照れ屋なのね。

 フレデリックのシャツにはむしろ、嫌みのない清々しい匂いがほのかに残っていた。温かくて、彼の体温に包まれているような錯覚をする。

「もう少し眠れ。朝まで俺が見張ってるから」

「なら、ここは安全ね」

 あなたが守ってくれるから―と、心の中で呟き、コンスタンティアは素直に寝床で横になると、何の不安もなく(まぶた)を閉じた。

 この男は信じてもいい。そんな気がする。

 眠りはすぐに、安らかに訪れた。 


第五章⑵に続きます

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