第四章 嵐の予感
第四章⑴
兄との記憶
日が暮れて涼しくなってきた頃を見計らい、修道院の宿を出たコンスタンティアは、徒歩で一人とある教会を訪れていた。
この付近は、アルバニア系の住民が多い区画だった。夏場のパレルモは日没が遅く、午後八時を過ぎているのに空はまだ明るかった。夜歩きしているという感覚は無い。
ここは、地元市民から海軍提督の聖母マリア教会と呼ばれている。教会の創設者は、ルジェーロ二世の時代に主席大臣を務めた海軍大将アンティオキアのゲオルギウスだ。彼はギリシア人ながらも王の信任厚く、ビザンツ帝国遠征の際にも艦隊の指揮を取った有能な軍人だった。
教会の名の由来ともなった海軍大将ゲオルギウスは今、妻と一緒にこの教会の墓所で永遠の眠りについている。
コンスタンティアは亡き父の重臣だった軍人の墓を詣でると、身廊の向かって右側の壁の前に立った。
そこには、壁一面に見事な黄金のモザイク画が施されている。
描かれたのは初代国王ルジェーロ二世が戴冠される場面だった。それも教皇からではなく、キリストの手から直接王の証である冠を頂いている。
普通だったら、神は人間よりもずっと大きな比率で描かれる。だがこのモザイク画のルジェーロ二世は、キリストより低い位置に立ってはいるものの、頭身はほぼイエスと同じ大きさで表現されていた。
王は高位聖職者を思わせる装束を身に纏い、肩から幅広の帯を全身にまといつかせて腕へと垂らしている。代理教皇特使という、他には例のない権威と国王の威風を示す、圧巻のモザイク画だった。
ふと、遠慮がちに空気が流れて、手前の蝋燭の火が揺れた。
「お懐かしいでしょう。お父上ですものね」
背後から控えめな声がかかる。振り向くと、コンスタンティアの幼い頃を知る中年の修道女がいて、静かに微笑んでいた。
コンスタンティアは寂しげに首を振った。
「私は、父の顔を知りません」
話をしたことさえ一度も無い。
コンスタンティアはもう一度モザイク画を見上げた。幼い頃、ここにはよく通った。兄グリエルモ一世の御代、宮廷は開放的で、コンスタンティアは意外と自由に宮殿から出られ、城下の街を歩き回った。もちろん侍女や護衛たちは大勢ついてくるが、王女はしょっちゅう彼らを振り切って市内を走り回り、町の子たちとも活発に遊んだものだ。
商店通りを横切れば、姫さまどうぞ、と方々(ほうぼう)から声を掛けられ、菓子や飲み物が振る舞われた。
そういう意味でもここは思い出が深い。懐かしい場所に違いないが、この古めかしいモザイク画を見て父の面影を偲ぶには、彼女は実の父を知らなさすぎた。
「よかったらお一ついかが? 昨日できあがったばかりですの」
幼いころに父親をうしなった哀れな子供をいたわるように、修道女は手に持っていた小皿を差し出した。お供え用に作られたマジパンが形よく盛られている。
アーモンドの粉末と砂糖から作る伝統菓子は、この教会に付属している女子修道院が考案したものだ。本来は祖先の魂を迎える秋の祭り『死者の日』の時期にしか食べない特別なものだが、発案したこの教会だけは例外で、祭壇のお供え物としていつも作っている。
「ありがとう。いただきます」
コンスタンティアは一つ摘まんで口に入れた。柔らかな食感で、小さな子どもが好む甘さである。昔はここへ遊びに来る度、司祭や修道女たちに無理にねだって食べさせてもらった。そんな当時を覚えていて、わざわざ持ってきてくれたのだろう。
色とりどりの果物の形を模した郷土菓子は、今でも変わらず美味しいけれど、大人になったコンスタンティアの味覚には、少し甘みが強く感じられた。
「遠慮せずにもっと召し上がって? とてもお好きだったでしょう。姫様がここへよく遊びにいらしていた頃に、私はまだ見習いの修道女でしたけれど。亡くなられた先代の院長様に、姫様がしょっちゅうこのお菓子をねだっていらしたの、覚えていますよ」
勧められ、せっかくだからもう一つだけ頂いて、頭を下げる。
「あの頃は、ご迷惑をおかけしましたね。恥ずかしい」
「いいえ、とっても可愛らしかったわ。当時の院長様も、いつ姫様が遊びにいらしてもいいようにと、このお菓子を切らしたことはありませんでした」
コンスタンティアは赤面した。無邪気な子供時代の話とは言え、改めて聞くとやはり恥ずかしい。お供え用のお菓子をねだるなんて。
「パレルモには、しばらく滞在されますの?」
「そのつもりでしたが、少し予定が変わりそうです」
ウィルが王宮にいない以上、パレルモに何日滞在しても意味が無い。マドニエ山地にある王家の狩りの館を訪ねるべきなのか、彼女は考えあぐねていた。行ったところで、容易に会わせてもらえるとは思えなかったし、ウィルが本当にそこに居るのかどうかも疑わしい。
「カターニアへお帰りになるまでに、院長様がぜひまたお立ち寄りくださいと、申しておりましたわ」
修道院側の気遣いに感謝しつつ、コンスタンティアは微笑んだ。
「ええ、それはぜひとも。―私、礼拝堂でもう少しお祈りしてから宿舎へ戻ることにしますわ。どうぞお気遣いなさいませんよう」
「わかりました。何かご用があれば、気軽にお声をかけて下さいませ」
腰をかがめて一礼すると、修道女は静かな足取りで、礼拝堂から出て行った。
こんな時刻だから、拝観に訪れている信者の姿は一人もいない。礼拝堂に残るのは、コンスタンティアだけになった。
扉が閉まってもしばらくの間、彼女は内陣で祈る素振りをした。
人の気配が完全に無くなるのを確認してから、素早く行動を開始する。
壁に吊られている銅製の筒から灯のたいまつを一本抜き出し、地下聖堂へ続く階段を降りていった。教会の地下には古い霊廟があり、大昔の貴族や聖職者の墓が広々とした空間に幾つも置かれている。
むき出しの石窟には、無数の人骨が無造作に積まれた棚もある。
燃える松明の光だけが頼りとなる心細い空間に立つと、コンスタンティアはそれらの遺構には目もくれず、暗闇の中を何の迷いもなく進んでいった。
足早に、しかし物音を立てぬよう慎重に。
クリプタの中は一本道ではない。奥へ行くほど複雑に枝分かれし、徐々に道幅が狭くなっていく。
ろくに舗装されていない坑道は、ほとんど洞窟といった雰囲気だ。
さらに地下への階段を降りると、どこかから水の音が聞こえてきた。
教会の地下には、ローマ帝国時代に築かれた無数の水路がいまでも残っているのだ。足元を見れば、通路脇の細い窪みを、ちょろちょろと水が流れていく。
コンスタンティアは昔、この地下通路でかくれんぼしていて、迷ったことがあった。
子供のくせに、別に怖いとは思わなかった。大きな巣を張る不気味な蜘蛛や、蝙蝠に出くわし、崩れた古い石棺の穴から白骨死体が散乱している様子を見ても、幼い王女は悲鳴など上げない。宝探しの冒険をしているんだと、逆に面白がっていた。
好奇心が赴くままに、彼女はいろんな穴ぐらを覗いて回った。
そうやって地下をぐるぐる回って遊んでいると、いつの間にか侍女たちともはぐれ、帰り道がわからなくなってしまう。
それでもコンスタンティアは泣かなかった。
多分この教会で暮らす修道士だって誰も入ったことのない、奥までたどり着いた時、コンスタンティアは彼女を探しに来た兄によって発見された。
兄王グリエルモ一世は、王女様を見失ったと半狂乱になり宮殿へ駆け戻った侍女達に泣きつかれ、自ら捜索の指揮にあたっていたのだ。
迷子のコンスタンティアを捕まえた時、兄は一人で、カンテラを掲げていた。
「しようのない子だ。侍女を泣かすとは」
裳の裾を泥もつれにした小さな王女を片手で軽々と抱き上げ、兄王は妹を叱った。だが、その目は楽しげに笑っていた。
「どうしてここにいるってわかったの?」
不思議に思って聞く妹に、兄は謎を明かした。
「なぜだと思う? 俺もずいぶん前に、ここで迷ったことがあるからさ」
そうして、親父どのにこっぴどく叱られた。おしおきで、尻を何度も叩かれたんだ、痛かったぞ。と懐かしそうに笑う。
「おまえは、俺と似ているんだな。いや、親父どのに似てるのか。俺よりよっぽど頭の出来がいいもんな」
コンスタンティアの頭を片手でくしゃくしゃと撫でながら笑う。
三十歳以上年下の妹は、グリエルモ一世にとって妹というよりも娘に等しい存在で、彼はとことん末の妹に甘かった。
妹を片腕で抱いたまま、兄王は来た道を引き返した。
「この教会が立つ前に、ここには大昔の聖堂があったそうだ。パレルモ市の地下には、古代のローマ人やアラブ人が作った遺跡が、ごろごろしている。俺たちが暮らしているノルマンニ宮殿も、もともとはアラブ人が作った要塞だったのだ」
「へえー、おもしろいね!」
「そうだ。ついでに、もっとおもしろいことを教えてやろうか」
グリエルモ一世は悪戯っ子のように笑うと、そこで重大な秘密を打ち明けた。
「王宮からこのあたりまでは、地下で繋がっている秘密の抜け道があるのだ。今では、俺しか知らない特別な通路だ。いい機会だから、おまえには教えといてやる」
しっかり覚えて、道順を忘れないようにするんだぞ。それから、通路のことは誰にも絶対に言わないこと、俺とお前だけの秘密だ。約束できるか?
「うん、わかった!」
コンスタンティアが秘密を守ると約束すると、兄は王宮の敷地内にあるパラティーナ礼拝堂に繋がっている秘密の通路―有事の際には、王族の脱出経路ともなる地下道について密かに教えてくれたのだった。
「道が突きあたり左右二手に分かれた時は、そこに天使がいれば、天使が導かぬほうへ進め。天使がおらぬ時には、道幅が狭い方を選べ。行く手が三つに分かれているなら、中央の道を進め。それだけだ。覚えたか? 忘れるでないぞ」
兄はコンスタンティアに道順を教えながら王宮へ戻った。
彼は他にも、様々なことをコンスタンティアに教えてくれた。
馬術や護身術、剣術その他の武術全般の手解きをしてくれたのも兄だった。
女が剣の扱い方など覚えてどうします、と眉を顰める王妃マルゲリータや侍女たちを尻目にしつつ、王宮の中庭に出て、自ら剣の稽古をつけてくれた。
女だからこそ自分で自分の身を守る術ぐらい、しっかり心得ておかねばならんのだ。グリエルモ一世はそう言って、コンスタンティアに本格的な剣技と武術を仕込んだ。
「俺は頭が良くないから、勉強のほうはあんまり見てやれん。その代り、剣術と喧嘩の流儀は大の得意だからな。男と互角に戦える方法を、みっちり教え込んでやる」
それに応えるコンスタンティアも、並の男よりよほど太刀筋が良かったものだから、グリエルモ一世は妹の上達ぶりを大いに喜び、さらに厳しい稽古をつけた。
彼は存外手先が器用で、鍵を使わずに針金などを用いて掛け金を外す特殊な技術まで妹に仕込んだ。ピッキングの手順など、一体どこで覚えたものだか、まるで王様らしくない人だった。きっと、傭兵や山賊稼業に手を染めていた祖父や大伯父や、ご先祖様の名残だろう。
コンスタンティアにとって父を想起させるのは常に。あの金箔の豪奢なモザイク画で描き出されたルジェーロ二世ではなく、兄王グリエルモのほうだった。
兄はしばしば執務室へ遊びに来たコンスタンティアを膝に乗せ、ラテン語で記された公文書を妹に音読させながら、嬉しげに目を細めた。
「俺はそんなにすらすらとラテン語を読めん。お前は文章を書くのも読むのも上手だ。よし決めた、おまえを俺の書記にしよう」
「兄さまの代りに、コニィがいつでも読んだり書いたりしたげる!」
「頼もしい。じゃ、早いとこ大人になって、俺を補佐してくれ。書記どころか、お前を宰相にするのもいいな!」
俺が軍を率いて敵をやっつけ、この国を守るから、お前が内政を固めるんだ。それが適材適所ってやつだ。
兄は政務を行わず、勝手気ままに暮らしたように言われているが、実像は違う。彼はシチリア王国の将来について、何も考えていないわけではなかった。いかにして敵から国と民を守るかに気を配り、常に民衆にとって最善の政策を取ろうとしていた。
兄は自分には軍事能力はあっても、政治の才能が無いことを自覚していた。俺は頭が悪いから、下手に書類仕事なんかしないほうがいいんだと言って笑っていた。けれど、本当に愚かなだけの人だったならば、自分の周囲を付和雷同するいい加減な人間だけで固め、好き勝手な方針を打ち出し、滅茶苦茶な政務をしていただろう。
兄はそうでなく、自分の得意分野と不得意分野を分かっていた。分かっているから、あえて苦手な政治の領域にはできる限り手を出さず、有能な官僚や重臣の判断に委ねていたのだ。たとえ異教徒や外国人であろうと、才能があり、信用できると認めた者なら分け隔てなく登用した。
詩を愛し、多くの芸術家を保護する懐の深いパトロンでもあった。
そんな兄が守り抜き、一人息子へと継承した王国の基本方針を、覆そうとしている連中がいる。
コンスタンティアは、そんな暴挙を許すわけにはいかなかった。
第四章⑵に続きます




