第八十九話「片割れのハートマーク」
点数は動くことなく、五回裏の攻撃が終わり、電光掲示板には三点のみが点灯している。
試合中に小休憩を挟み、球場内はちょっとした落ち着きを取り戻した。
先ほどまでの盛り上がりとは打って変わって、我先にと観衆は客席を立ち、てんやわんや。
この隙に、トイレ休憩や買い物を済ませてくるのだろうとぼんやり眺め、彼女に聞く。
「何か食べる?」
「大丈夫! ひっくり返しちゃいそうだし!」
ふふっと笑いながら、ぬいぐるみをパタパタ叩く。
得点の喜びに乗じて、転がっていった球団マスコットのぬいぐるみのユニフォームが少し汚れてしまったのだ。
「なんか少し汚れてた方が頑張った感じが出ていいね」
「え? じゃあ、このままにしておこうかなっ」
トントンと頭を撫でられ、彼女の膝の上で落ち着いた。
願わくば、自分と代わってほしいなんて思いながら。
「みんな楽しそうですね!」
彼女がそう言いながら眺めているのはスクリーン。
休憩の合間に映し出される観客席。
気が付いた人々が、手を振ったり、アピールしたり、自作しただろうメッセージカードを掲げている。
すると、突然。
音楽とともに『スクリーンに注目!』という表示。
更に観客に『君の笑顔を見せて!』と映し出される。
なんだ?なんだ?と不思議に思っていると、映し出されるのは再度、観客席。
カメラに引き抜かれた事に気が付いた女性は、友人と観戦しているのだろうか、二人で元気よくピースをしている。
続く観客。
子供連れの家族が映し出されると、小学生くらいの男の子は元気よく手を振る。
父親の膝の上で眠そうにしている、恐らくこの男の子の妹は、父親に手を取られる。
小さな手が力なく、ぶらぶら振られ今にも泣きだしそうだ。
続く観客。
若い男女が映し出されると、女性がはしゃいでカメラに向かって投げキッス。
場内は、ひゅ~~という歓声や指笛が響く。
「うわぁ、いいなぁ~」
彼女の羨望の先が汲めなかった。
「映りたいの?」
「楽しそうじゃないですか?」
本当に映りたいらしい彼女。
「アピールしてれば映してくれるかもよ?」
「えっ? …………よしっ! やってみようかなっ!」
元気よく席を立った和栞が誰に手を振るわけでもなく、宙に向かってアピールを開始する。
「伊織くんも手伝ってくれますか?」
「え?」
「ねっ?」
手を引かれて立たされた伊織は、和栞を手本にして手を振ってみる。
続く観客。
年配の落ち着いた雰囲気の男女が映し出される。
男性が選手の名前が記載されたタオルを広げて誇らしそう。
周りに黄色のユニフォームが増えていた。
球場のアナウンスが変わる。
『カップルさーん! いらっしゃーい!!!』
続く観客。
映し出される男女はカメラに気が付くと、女性が手でハートマークを作る。
横にいる男性も彼女に合わせて、後に続くようにハートを作ると二人で笑顔で揺れている。
カメラが次を映す。
伊織が「おっ!?」と思う前に、和栞が反応した。
「伊織くん!!!! ほんとに!カメラが来ました!!!」
和栞の驚きから寸分違わず、巨大なスクリーンには、彼女の驚きの顔が映っている。
「えっと!!!えっと!!!」
和栞は、きょろきょろと周りを見渡す。
スクリーン上の和栞の視線と伊織は目が合った。
「あっちです!!!あっち!伊織くん!あっち!!!」
彼女が必死に指さす先に、カメラがあるらしい。
スクリーンとカメラの方向に視線を一往復させる。自分と目が合う。
困った。
ああ、困った。
困りました。
「伊織くん!はい!!!!」
そういうと和栞は右の片手で輪を作る。
一組前のカップルが作っていたマークの片割れ。
親指を下にして、四本の指は軽く曲がって。
「急いで!急いで!」
「……!?」
「ハートですよ!?伊織くん!ハートマークっ♡」
球場のカメラが自分たちを抜いているのだ。
(えーい……! どうにでもなれ!)
伊織は和栞の手に、自分の左手で作った同じ形をあわせる。
球場から、お隣さんから、前に座る組から……。
至る所から黄色い歓声が飛んでくる……。
『ひゅーひゅー』
『おアツイねぇ、おじょーちゃんたちぃ!!』
『はははははっっ!!!』
和栞はスクリーンに次の組が映し出されるまで小さく笑っている。
カメラが引いていくと、すとんっと席に着いた。
ご近所さんたちから祝福されながら満足げだ。
「あーっ、楽しかったねっ!!!」
「いやー……ビックリした……」
「四万人に嘘ついちゃいましたねっ! あははっ!!!」
「まったくもう……はははっ」
こんな時に、嘘ついちゃったって笑っている君に。
ちょっとだけ。
いや。ちょっとだなんて、これは嘘かもしれない。
四万人が見た彼女の笑顔。
今日一日、笑顔だけでも沢山の種類を自分は見てきた。
三振を見て、にぱっと笑う顔。
波と遊んでキラキラと笑う顔。
悪戯に波打ち際へ誘う笑顔。
次の一口を待っているときの笑顔。
撮り直しをわざとだと見破って、えへへと笑う顔。
自分の街を見せたがりな、健気な笑顔。
潮の匂いがしなかったとお茶目に笑う顔。
方言が出て、照れくさそうに笑う顔。
おめかしさんで近寄ってきた時の笑顔。
おはようの笑顔……。
どんな笑顔も見せてくれる君だけど、今、少しだけ。
四万人に見せた笑顔を、勿体ないと思ってしまった。
決して、君は、自分のものじゃないけど。
この笑顔は、自分だけのものにしたいと思ってしまった――
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本日、夏アニメ終了に伴い寂しくなった作者が、91話まで更新します!
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