第百八話「極上の枕(後編)」
和栞さんの柔らかい腿に沈んで静寂を過ごす――なんて良い一日だったんだろうか。
世界がふたりだけで切り取られてしまったような、もし本当にそうならば寂しいけど、この人となら大丈夫だ。そんな気分。
左耳の鼓膜を優しく揺らしてくるのは和栞さんの穏やかで包み込まれそうな声。
「よし、よぉ~しぃぃ~……ふふっ」
彼女はもう、楽しみ始めてしまっているのか、慈愛に満ちている。
幼児退行なんて言葉があったなと、ぼんやり最近覚えた変な言葉を想像した。
「……」
撫でる手は一層優しくて心地が良い。
リズムは一定で……でも機械的でなくて――彼女が作る周波数は次の波に揺るぎない。
待っていれば、期待を埋めるように撫でてくれている。
「いいこ、いいこぉ……」
「……」
自分はいい子らしい――嬉しい。
褒められた。
「よくがんばったねぇ……」
「……」
少し緊張したけど、司と千夏さんが祝福してくれて良かった。
何より、和栞さんが自分の彼女になってくれて嬉しい。
こんなに尊敬出来て、お茶目で可愛らしい人が、自分にだけ見せてくれる姿をただの一つもこれからは見逃したくない。
「えらいっ、えらいぃぃ~~ふふっ」
「……」
鈴を転がすような笑いに吐息。
静かだと彼女の呼吸のリズムまで感じてくる。位相を合わせるように、近くに感じる彼女の呼吸の浮き沈みに合流する。
集中し過ぎたのか、次の「撫で」へ意識が遠のいて、途端に自分は今、和栞さんから撫でてもらっていることを忘れていたから、胸がぴょこと跳ねる。
「な~でなで」
「……」
許すことならこのまま今日を終えてしまいたい。
何もする気が湧かないまでに、意志を削がれてしまうまでに、彼女の膝枕は心地いい。
「ダメになる」
「いいよっ? 今くらいはっ……」
「?……??」
もう自分の考えなんて湧いてこない。和栞さんが言うなら……いいんだろうか――
いいのかぁ、ダメになってしまっても。
今くらいは味わってもいいのかぁと思ってしまう。
「こうやっていちゃいちゃするんですよぉ~」
これがイチャイチャかぁ、覚えておこうと思った。幸せの摂り過ぎ注意……。
「何回も使うと駄目な枕だ……」
「いつだって、どこだって、膝枕してあげま~す。よしよしぃ~」
「どこだってはマズいでしょ」
「えへへ」
「……」
人前でこんな目に遭うのは御免だ。
少し冷静になって彼女の間違いを正すと、彼女から笑みがこぼれた。
「幸せそうですね」
「これで幸せじゃないはずないでしょ……?」
しみじみと思う。
幸せだ。
「ふふっ」
「……重くない?」
「ぜーんぜん。心配しなくていいからねぇ……」
なおも優しくその手は撫でてくれる。
「……」
きっとそんなことを言ってくれながらも、少しくらいは和栞さんは大変な思いをしてくれているはずなのだ。
だが、和栞さんが自分を犠牲にしてまで癒してくれるこの瞬間はきっと特別でかけがえのないものだ。
自分にだってそのような気持ちが最近わかってきた気がしているのだ。
例え、少し自分は我慢したって、この人に喜んでもらいたい――そういう気持ちに。
「でも、お顔が見えないのは寂しいかなぁ……」
寂しそうに和栞さんは小さな声で言ってくる。
「そっかぁ……」
そればっかりはどうしようもない……と思ったが――
「次は右側ぁ……どうですか?」
「えっ?」
「こっち向いて寝転んでくださいっ?」
さも当たり前のように和栞さんは言ってくる。
このまま、寝返りを打つと色々マズいのではないか?と思えてきた。
まず、無防備な自分を晒してしまう――いや、それはいいや、この際。
彼女の方を向いて寝転がると、彼女のお腹に視線が向く。
少し下を見れば、いくらパンツスタイルをしているとはいえ、際どい画角が目に飛び込んできてしまうことを伊織は危惧した。
視線を少し上方に向けるだけで、まじまじと見つめるには勇気のいる彼女の女性特有の膨らみ。
恥ずかしがってさらに逃げていくと、容姿端麗な顔が優しく覗いているはず。
逃げ道がない。でも、彼女は寂しいんだもんな、しょうがないよな――と、伊織は寝返りを打つ。
「これでお顔まで見えますっ、ふふっ」
「はずかしっ」
「何をいまさら……、恥ずかしがるところだって私は眺めていたいんですよ?」
左頬が和栞さんの腿に沈んでいく。
「ふう……」
さっきより温かい。いや、温めておいたとでもいうべきか。
居心地……寝心地のいい場所を探す。ふわふわなこの感触の上ではどこでも至高だが……。
すると和栞は――
「ひやぁっ! くすぐったいですっ」
身震いさせて、くすくすと笑いだす。
何これ、楽しい。
頬だけで彼女の腿の張りとぶつかって遊ぶ。もちもちしていて弾みがある。
すりすりと頬を滑らせると、肌触りが癖になりそう。
ちょっと余裕のない声を出した彼女が愛おしい。
「あははっ、くすぐったいですって……だぁめ」
和栞はそういうと、伊織に覆いかぶさり、胸で抱えるように抱きかかえる。
「あの、何も見えないのですが……」
彼女の運んでくる匂いがとびきり強くなる。
普段、認識している甘い香りじゃない。
爽やかで軽やかな香り。上品で優しい、心落ち着く香り。
彼女は一度ならず、二度三度くらい美味しいらしい。
そして、頭に乗る重量感が心をかどわかす。
なんとも直接的に言葉にするには憚られるが、これはきっと「当たってしまっている」はず……。
「おしおきです……」
「お仕置かぁ、仕方なぃ……」
彼女の作り出す、閉じた空間。
こんな守りたくなる幼気な彼女に包まれることは、今後あまりないかもしれない。
自分の両手や身体で抱けばすっぽりとおさまるくらいの華奢な身体、きっと包み込む未来の方が多いはずだ。
でも、この保護にも似た感覚は心が満たされていく。
今、和栞さんに守られている――そんな気がした。
「……」
「……」
ふわっと世界が明るくなると、満足そうな顔をした和栞さんが優しく微笑んでいた。
(なんて悪い顔をしているんだ……)
この顔を素直に眺めると、もうすべてがどうでも良くなる。
「この枕には睡眠作用があるらしい……」
「起こしてあげますよ、わたしの気が済んだら」
和栞の顔を物乞う顔で見つめる伊織。
「それって何分後なの……?」
「一生……?」
これは現実なのか夢なのか、曖昧になってきた。
「永眠かぁ……」
これが自分の死に際か。悪くない……。
次第に安心して満たされた心はぼんやりとしてくる。
雲に触れるような、青空と水平線との境目を探すような、海に深く沈んでいくような――
「ね~ん……ね~ん」
「……」
「おやすみなさい」
和栞さんはそう言い、撫でていた手を頭に添えると、指先でテンポの遅いリズムを刻む。
髪に優しく波が寄せる。
ジワリと温かく伝わる彼女の体温に包まれながら――
遠のく意識で彼女の言葉に挨拶したい。
「おやすみ」
諦めて目を閉じた。
全身の力はソファを透過する。
彼女が受け止めてくれる暗闇に落ちていく――
魅惑へ堕ちていく伊織を、和栞は穏やかな視線で温かに見守ったのであった。




