第百八話「極上の枕(前編)」
洗い物が終わって、ソファで二人――リラックスタイム。
先程、背中にくっついていた和栞さんが明るく離れていったことに名残惜しさを感じてしまったが、彼女が晴れやかにしているのであれば良かった。
「うーん」
横から唸ってはちらちらと視線を感じる。
「どうしたの、和栞さん?」
「うん。……うーん」
険しい顔でこちらを見てきている。
簡単に済ませよう?と提案したのがいけなかったのか、はたまた何か仕掛けられているのか、インスタントコーヒーを味わってみても、彼女の顔は渋いままだ。
「うーん。やっぱりそうだよね……私ばっかりじゃぁね……」
考え事をしていたのか、小声が漏れてきている。
「?」
はて、と伊織は和栞の顔を眺める。
「やっぱり、伊織くんもいちゃいちゃしてくるべきですっ!」
何を思い立ったか、真剣な眼差しで和栞さんは言ってくる。
「え?」
「何を遠慮する必要があるんですか? 唯依さんや冬川くんはもういないのですよ? 和栞ちゃんを好き放題できるのですよ? 今がチャンスですよ?」
彼女の口からとんでもない言葉が出てきた。
「好き放題……」
「疲れてませんか? いくらでも癒してあげますけども」
和栞さんは、両手を広げてアピールしてくる。
この胸に飛び込めとでもいうのか。
抱きしめたい気持ちがないと言えば嘘になるが、彼女の身体は儀式的かつ雰囲気もないまま、飛び込んでいい代物なのだろうか。
なんだか今、抱きしめちゃいけない気がしているのだ。
そんなことしたら、夕方も近いのに彼女から離れたくなくなってしまいそうだし、その後の自制が効くかなんて自信も無くてわからなかった。
できる事なら自分は受け身で過ごしておいた方が、彼女と自分の身の為なような気がするのだ。
「どうしても?」
「伊織くんが嫌じゃなければ……?」
確かに、自分と和栞さんの視線を気にせず、司カップルに仲睦まじさを見せつけられたような思いをしている手前、和栞さんの言いたいこともわかるような気がする。
だが、自分から恥ずかしげもなく、彼女に何かをねだるのは心がむず痒い。
もちろん、清らかな交際をさせていただいてはいる。
だが、男からおいそれと「甘える行為」にはまだ全く慣れていないことは事実だし、触れてしまえば傷つけてしまいそうな繊細な女の子の身体なのだ。触れるなんておこがましいような気もしているくらいに大切にしたいのだ。
そしてどちらかと言えば、自分は和栞さんを甘やかしたい人間なのだなぁと感じながらも、ご不満な様子の彼女を放っておくわけにはいかない。
「じ、じゃあ……ひざ……使わせてもらっていい?」
無防備に肌をさらけ出している彼女の脚。
以前、どうですか?と勧められたのを咄嗟に思い出した。
その時は、恥ずかしくて逃げ出してしまったが、この前彼女が自分の膝を枕にして眠ったとき、「されている側」だけではなく「している側」にも幸せが溢れたことを覚えている。
そこまで言ってくれるのであれば味わってみようじゃないか、膝枕――伊織は生唾を飲んだ。
「嬉しいよっ。ふふっ」
そういうと和栞さんは自分の膝をぽんぽんと叩いて「寝転がってこい」と示す。
「し、……失礼します……」
ソファの隣で穏やかな顔を浮かべている和栞さんに言われるまま倒れ込んでいく。
視界がローテーブルの高さになる。
首に負担はない。
高さは申し分ない……だが。
(…………これは、マズい……)
側頭部に彼女の腿が密着している。
頬に張りと柔らかみ、安心を覚える人肌の温もり。
彼女の脚には綿でも詰まっているのかと錯覚してしまうほど。
でも、作り物ではなく、血が通った和栞さんの体温を感じる。
少し冷たかった触れ始め。
伊織は首筋に力が入って頭を思い切り乗せず、気を遣って触れさせていると――
「遠慮しなくていいですからねぇ……力抜いてぇ……?」
和栞さんは顔に手を寄せて、あやすように声を掛けてくる。
「重いよ?」
「リラックスしてくれないと意味がないのでっ……ねっ?」
伊織は和栞に促されるまま、身体の力を抜いて、和栞の腿に沈んでいく――
「ふぅ……」
「どうですか?」
彼女が優しい口調で聞いてくる。
文句のつけようがない、あるはずがない――
「極上……」
「良かったっ」
顔は見えないけど、笑ってくれているような気がした。
「幸せ」
「今日は頑張ってくれましたからね。休憩ですっ……」
彼女と肌と肌とを触れさせて、静寂を過ごす――
先ほどまで賑やかだった一室。
今は嘘のように静まって、パーティーの跡形もない、いつもの安心できる和栞さんの家。
彼女との穏やかな時の流れに変わり、今は彼女に溺れ溶けていきそうだった。
温め合う肌と肌の境目はやがて柔らかな感触のみを残すように、しっとりと熱が混ざっていく――落ち着く。
「男の夢っていう意味がやっとわかったよ……」
「えっ?」
「柔らかいし、あったかい……」
「堪能してくれてるねっ」
和栞さんは頭に手を添えて、撫で始めてくる。
「えぇ……」
「どうしたんですか?」
「ずるい、それ」
「ふふっ……この前のお返しっ」
顔を覗くように和栞は伊織の顔を見る。
頬を和栞さんの綺麗な髪が垂れてきて悪戯に擽ってきた。
さっき、邪な気持ちに支配されてしまった双丘を顔の近くに感じてしまう。
「近い近い」と逃げることはできない。
彼女だって自分を信頼して、この時を過ごしてくれているのだから――




