中嶋のサンドイッチ
よろしくお願いします。
しゃらん、しゃらんと鈴が鳴りましたが、主は少しも反応しません。私もそのまま控えています。
暫くするとまた、しゃらん、しゃらんと鈴が鳴りました。
主は几帳面に一つに結われた髪を揺らしてこちらを見ました。
「少し、見てきてくれないか」
「かしこまりました」
私は襖を開き、部屋を出ます。鈴は玄関に付いています。
「どちら様でしょうか」
玄関は締め切られていて、私は外に向かって声を出しました。
「私が誰か、それは大した問題ではない。珍しいものを売りに来た」
「お約束のない来客はお断りしております。それでは」
一方的に断りを入れると、玄関戸の外にぼんやりあった人影は消えていきました。私は急ぎ、主の部屋に戻ります。
「どなたかは名乗りませんでした。それは大した問題ではないとおっしゃって。珍しいものを売りに来たと言っていたのですが、お約束のない来客はお断りしておりますと伝えましたら、お帰りになったようです」
主は一つ頷くと、座椅子から立ち上がってお部屋を出ました。このお屋敷は和洋折衷とでも言ったら良いのでしょうか、和室も洋室もあります。主はこの和室で過ごすことが多いのですが、仕事をする時には洋室に行くのです。
洋室に和服で入るのは何だか気が引けます。この洋室で主は外国の方や、洋服を着た客人をもてなすこともありますので、着古した和服を着た私はこの部屋に不釣り合いだと思ってしまうのです。しかし、主が和服でこの部屋に居ても、少しも違和感がありません。やはり、人としての素質が違うのでしょう。
「軽食を用意してくれ。報告書を書かねばならないから」
「はい。すぐにお持ちします」
私は居心地の悪さから開放されて、台所に行きました。まだ晩御飯まで時間があるので、料理人は買い出しに行っているのか姿が見えません。
私は割烹着をして主の軽食を作ります。
主は書類を書くようでしたから、軽食と言っても手が汚れるものは良くないでしょう。それに、何と言ってもあの部屋です。
「サンドイッチ、というものが良いかしら」
軽食と言ったらおにぎりでしょうけれど、あのお部屋には合いませんし、何より手が汚れてしまいます。
私は、西洋料理には詳しくありませんが、日本で言うところのおにぎりがサンドイッチなのだと、聞いたことがあります。パンで具を挟むのだそうです。
「ようし。やってみるしかないわね。中嶋文、二十八歳、使用人歴十一年、頑張るわ」
気合いを入れて、いざ、調理を始めます。
まずは肝心のパン。主のご友人が、ホテルというお宿の経営をしていて、そこの食堂で出しているパンを頂いたと聞いています。料理人も、野菜煮込みに付けるかなと思案していたので、まだ残っているようでした。
食材置き場に行ってパンを発見しました。
まな板の上で切ってみましたが、なかなか上手に切れません。コツがあるようです。硬い部分があるので切り落とそうかと思いましたが、この部分が無ければ切るより先に潰れてしまいそうです。少し歪ですが、小皿に入るくらいの大きさにはなりました。中に具を挟むので、中心に切り込みを入れます。
さて、次は中に入れる具を選びましょう。おにぎりなら梅干しや昆布ですが、パンに合うのでしょうか。料理人は野菜煮込みに付けると言っていたので、野菜が合うのでしょう。
残暑で採れ続けているのだというきゅうりを切ります。そこへ、味噌を軽く付けて、パンに入れた切り込みの中へ。どうかしら。切ったパンの欠片と、味噌を付けたきゅうりを少し食べます。これは毒見でもあるので許されるのです、きっと。
「美味しいじゃないの」
私はサンドイッチをお皿に慎重に乗せて、主のいる洋室に行きます。
「軽食をご用意いたしました。ここへお茶と一緒に置いておきますね」
お盆からお皿とお茶、おしぼりをいつもの様に並べます。
「それでは、失礼いたします」
そのまま流れるように私は退室します。主の仕事の邪魔は使用人が一番してはならないことです。
「中嶋、それは何だ」
それは何だとは何でしょう。振り返ると、主はお皿を指差しているではありませんか。
「洋風のおにぎりという、サンドイッチを作ってみたのです。おにぎりよりも手が汚れませんので、軽食に丁度良いと考えたのですが」
主は右手の人差し指を少し曲げて、顎に当てています。主が考える時の癖ですが、何故今考えているのでしょうか。もしかして、サンドイッチという物はもっと違った料理なのかもしれません。
「申し訳ありません。下げましょう」
全然違った物なら主に相応しくもありませんから、ここは下げてしまって、大人しくおにぎりを作るべきです。
「いや、いい。このサンドイッチを食べる。パンを食べると口が渇くから、茶のお代わりが要る」
「かしこまりました」
なるほど。料理人が野菜煮込みを合わせようとしたのも、パンを食べると口が渇くからだったのでしょうね。一口食べたくらいではあまり分かりませんでした。
私は急いで台所に戻ります。
「中嶋さん、何を作っていたんです?」
既に、料理人の岡秀一さんが居ました。やはり買い出しだったようで、食材をそれぞれの場所に片付けたりしています。
「御主人様の軽食に、サンドイッチという物を作ってみたのです」
「それで、これがその残骸かな」
残骸、とは嫌な言葉を選びます。岡さんは少し嫌味っぽいところがありますが、腕は確かなのだと主もおっしゃっていました。主の言うように、賄いで頂くご飯はとても美味しいです。元々勤めていた料理人の息子らしく、幼い頃からの仲だとか。まだ二十三歳、父親は主の経営しているお店で料理長をしているそうです。
「それで、きゅうりを入れたの?他の具材は?」
「きゅうりにお味噌を付けて入れましたよ」
「え?それだけ?まあ、軽食だし、合わないこと無いか」
なんと、料理人からすると具は一つだけではないようです。おにぎりは大抵一つしか具を入れないので、それだけでいいと思っていました。
「パン切るの、大変だったろ?パンは専用の包丁があるんだよ」
目から鱗とはこのことでしょうか。専用の包丁だなんて、そんな発想はありませんでした。
「少し歪になってしまいました」
だろうね、と岡さんは呟いています。
そうそう、私は急いで湯を沸かします。火は岡さんが起こしてくれていたので、すぐに準備出来ました。
急須に茶葉を入れて、お茶を出します。そして、茶葉を取り除いておき、主の居る部屋へ持っていきます。
「失礼いたします」
小声でそう言ってから、部屋に入ります。いつもは、こちらを見ることもなく、机に向かって書き物を進めているのですが、どうしてか顔を上げていました。
「中嶋、サンドイッチ、美味しかった。また頼む」
「ありがとうございます。またお勉強しておきます」
新しいことに挑戦した私を褒めてくださいました。サンドイッチも完食されていて、私はお皿を下げ、台所に戻ります。
「美味しかったと言って頂けたわ」
早速、岡さんに自慢します。主は中々、感情や考えも伝えてくださらないので、こういったことはよく共有して喜ぶのです。
「へえ。俺も洋食を習って来ようか。好みなら良いな」
私はお皿を洗って、夕食を食べる部屋の掃除に行きます。
しゃらん、しゃらんと、また鈴が鳴りました。この鈴は来客を知らせる物で、どういう仕組みなのか分かりませんが、玄関の戸の前に人が立ったら鳴るようです。
今日の来客は予定されていません。私は急いで主の部屋へ行きます。
「中嶋、少し見てきてくれないか」
「かしこまりました」
私は玄関に行きます。
「どなたでしょうか」
人影はありますが、答えません。
「お約束のない来客はお断りしております。それでは」
殆どの場合はこの言葉でお帰りになるのですが、この人はしつこいようで、じっと、戸の前に立っているようです。
「そちらにずっといらっしゃっても困りますから、どうぞお帰り下さい。先にお約束をしてからお訪ねください」
「そう言わないで、少しくらい上がらせてくれてもいいじゃないか」
少ししゃがれた、男性の声です。
「どなたでしょうか。お約束もなくて、名乗られない方を上げる訳にはいきません」
「名乗る必要のない身分だ。ここを開けなさい」
何だか怖くなってきました。私は返事もせず、主の部屋へ行こうと思いましたが、振り返ると既に主が向かってきていました。
「中嶋、仕事に戻ったら良い」
そう言われましたので、私はお部屋の掃除に戻りました。主は戸の近くに立って、外にいる人影とお話しているようでした。
掃除を終え、台所に行きます。岡さんに夕食の出来上がりを訊ねて、主に伝えるのです。
「岡さん、どうでしょうか」
「もうすぐ出来る。御主人様に、いつでもお出し出来ると伝えておいて大丈夫」
主は熱い物を好む為、温かい物は座ってから椀に注ぐようになっています。既に、お膳は用意されているようでした。
私は主を呼びに行こうと思いましたが、どこにいらっしゃるでしょうか。先程玄関で来客の対応をしましたが、そのままあそこに居るでしょうか、それとも、洋室で仕事の続きをしているでしょうか、はたまた、仕事を終えて和室で寛いでいるかもしれません。
「湯呑みを下げなくてはならないから、洋室に行ってみましょうか」
誰に言うでも無いのですが、思わず独り言を言ってしまいます。この家専属の使用人は、私と岡さんしかいません。年に数回、庭師が剪定に来たり、年末の大掃除に主のご実家である本邸から掃除夫が来ることはありますが、それ以外は主と二人の使用人です。独り言を聞く人もいませんから、悪い癖ですがそのままになっています。そうそう、主の前ではもちろん独り言は控えています。
「失礼いたします」
洋室の扉を開きましたら、やはりここにいらっしゃいました。少し難しいお顔をして、書き物をしていますがいつもの事です。
「岡が、夕食の準備が出来たと」
主は顔を上げ、直ぐに行くとだけ言いました。扉を開けておくと、主が椅子から立ち上がって、お食事をする部屋へと向かいます。私は扉を音を立てないように閉めて、後を追います。
主が座りましたら、私は急いで台所に行き、岡さんへ主が来たことを伝えます。
「はいはい、これで大丈夫。酢の物に果物の汁を使っているから、伝えておいて」
私はお膳を持って主の待つ部屋へと向かいます。
主の前にお膳をお出しして、お茶を淹れました。その時です。
しゃらん、しゃらんと鈴の音が聞こえました。
「中嶋、少し見てきてくれないか」
「かしこまりました」
今日は来客が多い日のようです。
私は玄関に行きました。しかし、しゃらん、と音がするのは玄関ではありませんでした。
主は、玄関にとは言っていませんでしたから、音がする場所を見に行くべきでしょう。私は音がする場所は何処だろうかと、耳を澄まします。
しゃらん、しゃらんと鈴が鳴り続けています。
主が普段居る和室の方からのようです。
「失礼いたします」
主は食事をしているので、そこには居ないことが分かってはいますが、一言声を掛けました。
もちろん、部屋には誰も居ません。
外に面している障子から鈴の音が聞こえてきます。
「どちら様でしょう。お約束のない来客はお断りさせていただいています」
「……おかあさん?どうして会いに来てくれないの」
障子には人影がありません。子供の声がします。きっと障子の位置より背が低いのでしょう。
「あなたのお母さんじゃありませんよ。どちらの子?」
子供が迷い込んだのでしょうか。
「知らないよ!でもおかあさんでしょ?」
「ちょっと、そこで待っていなさい」
もし、主の隠し子が来ていた、なんて事があっても大変ですから、主を呼びに行きます。
主は食事中でしょうか、熱い物が冷めてしまったら、岡さんにもう一度出してもらいましょう。賄いと言って残りに箸をつけていないと良いのですが。
「失礼します。御主人様、私室の障子の外に子供が来ているのです。お母さんと言って来るのですが、私の子ではありません」
主は、分かったと言って立ち上がりました。鈴の音が聞こえていたからか、急いで食事をしたようで、お膳は空になっています。
「中嶋、そのままで良いから付いておいで」
「かしこまりました」
普段は来てくれと言うのに、付いておいでなんて子供に言うように言われて驚きました。
子供が来ていると聞いて、親心が出てきたのでしょうか。
主は部屋の前に着くと、ここで待っているようにと、手で合図をしました。私は頷いて、立ち止まります。
主は、子供と話しているようです。内容までは分かりませんが、子供は泣いているようです。主が宥めているのでしょうか。
「中嶋、終わったよ。ありがとう」
何に対してのお礼なのか、よく分かりませんが、主は少し微笑んでいるようです。主が良いのなら、きっと良いのでしょう。私は一礼して、主の後を歩きます。
「この後はいかがなさいますか」
食事のお代わりをすることもありますので、一応尋ねます。
「そうだな。少し腹が減ったから、またあのサンドイッチを作ってくれ」
「かしこまりました」
私は機嫌良く台所に行き、岡さんにサンドイッチを作ると言いました。
「ゆで卵があるから、潰したのを入れたら良いよ」
どうやら岡さんは私よりもサンドイッチに詳しいようです。言われた通りに作って、主の所へ持っていきます。
「具が変わったな」
「岡の助言ですので、間違いないと思います」
私は膳も下げなければならないので、部屋の隅に控えます。この家は大きく、部屋もそれぞれとても広いので離れていたら気になりません。いや、主はそういった環境に慣れているからかもしれませんが。
「ご馳走様。美味しかったよ」
主はこれから風呂に行きます。風呂炊きは岡さんの仕事です。脱衣所には寝間着等を昼の内に用意しているので、私はこのお膳を下げて、寝床の用意をするだけです。
「よいしょっと」
押し入れから布団を出して、主の私室に敷きます。
しゃん、しゃん、しゃん。
鈴の音が聞こえました。主が不在の時は無視したら良いと言われていますから、そのようにしましょう。
しゃんしゃんしゃん。
普段聞く音よりも、激しく鳴っています。急いでいるのでしょうか。
「おかあさん、いるんでしょ?」
夕食の時間に来た声と同じです。また、迷い込んだのでしょうか。
「ねえ、おかあさん」
困りました。一言お断りをして、入浴中の主に声を掛けてみましょうか。もしかしたら、鈴の音が聞こえているかもしれません。
「お待ち下さいね」
外に聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう言って、お風呂場に行きます。
主は入浴を終えて着物を整えているのでしょう。脱衣所から衣擦れの音が聞こえます。
「申し訳ありません、御主人様。私室にまたあの子の声がします。いかがいたしましょう」
脱衣所の音が止みました。主は動きを止めて考えているようです。
「直ぐに行く。中嶋、一緒においで」
寝間着姿の主が脱衣所から出てきました。まだ髪は濡れています。
主に続いて私室に向かいます。
「中嶋、近くに」
今回は、主の近くに居なければならないそうです。
しゃん しゃん しゃん
鈴の音は鳴り続けています。
「そこに居るのは誰かな」
主が低めの声でそう言いました。
「おかあさん、いるんでしょ?」
「君のお母さんは居ないよ。もう遠くへ行ってしまっただろう」
主はどうやら、声の主である子供の母親に覚えがあるようです。
「うそだ!おかあさんがここにいるんだって、今日おしえてもらったんだ」
主は少しだけため息をつきました。
「それは、その人の嘘だよ。君のお母さんはここに居ない。君だって本当は分かっているんだろう」
話が見えませんが、どうやらこの子供も誰かに嘘を教えられたようです。
「おかあさんの声だった!ぜったいに!」
「ああ、声を聞いたのか。中嶋、この子の声に覚えは無いだろう?」
急に話し掛けられて、少し驚きました。
「はい。知らない子供の声です」
「ほらね?よく聞いてみたら分かるだろう。年頃が近くて似ているのかもしれないけど、この人は別人、中嶋文という人で、私の屋敷の使用人だ。彼女も困っているから、帰りなさい」
しばらく沈黙した後、鈴が一度だけしゃん、と鳴りました。
「子供に話し掛けられたら、いつでも私を呼びなさい」
主はやれやれといった様子でそう言いました。私は小声で、かしこまりましたとだけ言って、出しただけになっている布団を広げました。
「髪を拭くものをお持ちいたしましょうか」
主の髪が濡れたままになっているのが気になります。
「いや、このくらいならその内乾くだろう。仕事に戻りなさい」
私は一礼して、脱衣所の片付けに向かいました。
風呂掃除は岡さんがしています。
「今日は多かったな」
岡さんが掃除の手を止めずに、そんなことを言い始めました。来客のことでしょう。
「そうですね」
「どうしてこう、ここに集まってくるんだろうな」
私は少し考えました。ふと、主の姿を思い浮かべます。
「御主人様が魅力的だからでしょうか」
岡さんはそれを聞いて、ブブッと吹き出しています。
「そうかそうか。確かにそうだ」
岡さんは嬉しそうに掃除を続けています。私は主の服を籠に入れて、勝手口に置いておきます。主の服は本邸で恐らく実家の家族達の分と一緒に洗われているのでしょう。夜の間に取りに来ているらしく、朝来た時には無くなっています。
「中嶋さん、明日休みなんだっけ」
掃除道具も片付けて、帰ろうとした時に岡さんが声を掛けてきました。
「そうです。御見舞いに行く日なので」
「ああ、そうか」
使用人は台所の勝手口から出入りするので、自然と帰る時は岡さんと一緒に出るようになります。
岡さんは、これやるよ、と包みを持たせてくれました。
中を確認すると、あのパンが入っているではありませんか。
「これは、良いのですか」
「御主人様も良いって言ってた。サンドイッチの研究でもすればいいんじゃないかな」
料理の研究だなんて、それは岡さんの仕事でしょうに。
「卵を潰したのに少し塩と胡椒を入れて、薄く切ったきゅうりも一緒に入れるといい」
なるほど。良く分かりませんがアドバイスに従ってやってみましょう。
翌朝、私は朝早くから出掛けました。
私の家族に会いに行くためです。
「こんにちは」
この療養所で過ごしているのは、私の母です。父は既に亡くなっていて、母一人では寂しいだろうと、私の夫と子供の家に母も住んでいたのです。子供が小さいうちは、よく見てもらえて助かりました。しかしある日、地震で家が崩れてしまい、夫は亡くなり、母と子供は助かりましたが母は歩けなくなってしまったのです。
私は女学校を出てすぐ、主の屋敷の使用人として就職出来ました。母の世話のために仕事を休んだ際に、主にこの療養所を紹介していただきました。主の伝手だそうで、私の給金から入院の料金は引かれているはずなのですが、実は以前とあまり変わらない給金を頂いています。まだ学生をしている息子のことを考えると、お金はあるに越したことはないので有りがたくいただいているのですが、その分きちんと働かなくてはとも思うのです。
「文、来てくれたんだね」
「うん。最近はどう?」
母は歩けないので天気の話や、看護婦達の噂話を楽しみに過ごしています。回覧で回ってくる新聞もよく読んでいるみたいで、私よりも昨今の情勢に詳しいこともあるくらいです。
「文、あの子は元気にしているかい?」
あの子、とは私の息子であり、母の孫のことです。
「葉書が来ていたけど、随分楽しくしているみたい。下宿先に贈り物もしているから心配しないで」
息子はまだ十歳ですが、学校へ通う為に叔父の家へ下宿しています。学費さえ払えていれば、そのまま大学という難しい勉強や研究をする学校にも行けるそうです。しかも成績が優秀であれば、学費も免除になることがあるようなので、頑張って欲しいところです。
私は成績優秀ではありませんでしたが、亡くなった夫は町の役人をするくらいには賢かったので、その弟君の元で勉学に励んでもらいたいと思っています。
「文、あなたは辛くないの?夫はいないし、あの子も手放してしまって」
「いいの。それは私が選んだことだから」
母にとっては、きっと何歳になっても、子は子のままなのでしょう。私だって夫を亡くして寂しい気持ちもまだ整理できていませんし、息子だって近くで育てたかったのです。しかし、息子は勉強が好きだと言って、叔父の家からなら通える良い学校があって、父の居ない子に同情してくれた叔父が良ければと言ってくれたのです。寂しい気持ちに蓋をして、息子を送り出したのです。母はそれを知っているのに、こうしていつも私を心配するふりをして咎めるのです。
「お母さん、あの人が今生きていたとしても、きっと同じ選択をしたと思う。私はいつも、そうやって考えるようにしているの」
そう言うと、母は諦めたようにそう、とだけ言いました。
「そうそう、サンドイッチというのを作ってみたの」
私は鞄の中から包みを出しました。
「看護婦さんにも、許可はもらっているから食べてみて。洋風のおにぎりみたいなものよ」
「洋風の食べ物だなんて、高価なものじゃないの」
「賄いでいただいたの。御主人様の戴き物ですって」
遠慮する母に、包みを開けてあげてサンドイッチを差し出すと、珍しい物を見るように観察しています。そして一口、また一口と、恐る恐る食べ始めました。
「初めて食べる味だけど、美味しいわね」
「でしょう?御主人様も、また軽食にと言ってくれたの」
母の御見舞いに行った翌日、いつものように仕事に行くと、岡さんが頭を抱えていました。
「どうしたんですか?」
主が起きて来る時間までまだ余裕があると言っても、朝はすることが多く忙しいのです。正直、声を掛けるか悩みましたがもし朝御飯が出来なかったら、それこそ主の生活に支障が出てしまいます。
「御主人様が本邸に戻るかもしれないって、昨日親父が言ってたんだ。御主人様の父親が病気になって、入院するから本邸の主が不在になるだろ?だから」
「それはそれで岡さんは早く御飯の準備をしてください」
岡さんはどうも以前から、考え事があると仕事が手に付かなくなることがあります。話も気になる所ですが、目の前の仕事をまずは進めてくれなければ困ります。
私が注意してもああだこうだと手が進まない岡さんに、仕方なくもう一言声を掛けることにしました。
「岡さん、噂話で仕事の手が止まるのでしたら、きっと本邸で雇われることも、御主人様にどこかへ紹介してもらうこともないでしょうね」
そう言うと、岡さんは目が覚めたように動き始めました。以前も、主が本邸に戻るという話は度々ありました。主の父親が事業の全権を譲った時や、主の母親が亡くなった時、大きな事業を立ち上げた時等、事ある事に、主が本邸に戻るという話が出ては、何事も無かったかのように時が経つのです。
私は掃除を始めました。ちょうど、玄関の掃き掃除をしていた時です。
しゃらん、しゃらんと鈴が鳴りました。
こんな早朝に。
「申し訳ありませんが」
普段閉められている戸は、掃除の為に開かれています。
そこには一人、和服の男性が立っています。晴れているのに傘を差していて、表情はよく見えません。ただ、背が高く、顎に髭が見えるので、男性なのでしょう。
「お約束のない来客はお断りしております」
何となく怖くなって、戸を閉めようと思ったのですが、その男性はぐいと体を玄関の内側に入れて来ました。
「あなたは掃除中でしょう。ここを閉める必要も無いはずですが」
私の思惑を見透かしたように、男性は言います。玄関に入ると、傘を下ろしました。
何処かで見たことがあるような。数少ない予定のあった来客の誰かでしょうか。
「あなたは変わりませんね」
年頃は主と同じくらいでしょうか。どうやら私に覚えがあるようです。私は思い出せませんが。
「最近、来客が多いでしょう。それも、予定していない方の。ああ、あなたからしたら私もその内の一人でしょうけど」
さて、困りました。予定していない方が勝手に入って来たことなんて一度もありませんでした。それも、主はまだ起きていません。主を起こしたこともこれまでありませんでした。
「使用人さん、早く通してくれないかな」
当たり前のように履き物を脱ごうとしています。
どうしましょう。あら、足音が。岡さんが鈴の音に気付いて来てくれているのでしょう。
「本日来客の予定は聞いてませんよ!帰った帰った!」
玄関に顔を出すなり岡さんは威勢良く言い放ちました。こういう時の勢いは私には無いものですから、頼りになります。心の中で応援します。
「仕方ないな。じゃあ山下が来たと伝えてくれよ。どうせ寝てるんだろう」
どうしましょうか。岡さんは私に目配せをしました。恐らく、ここでこの山下と名乗る男性を見ているから、主に助けを求めよとのことでしょう。私は持っていた箒を岡さんに渡して主の私室に急ぎます。
「御主人様、中嶋です。お休みのところ申し訳ありません。玄関掃除中に山下と名乗る男性が入って来てしまいました」
主を起こしたことなんてありません。少し大き目の声で言ってみましたが、大丈夫でしょうか。
するすると、衣擦れの音がしました。どうやら起きてはくれたようです。
「すぐに行く。岡が見ているか」
「はい」
「分かった。少し外に出るから、中嶋は朝食の準備に行ってくれるか」
「かしこまりました」
主の指示に従い、私は朝食の準備に向かいます。換気をして掃除をして、座布団を敷いてと、主が朝食を摂る場所を整えます。
準備を終えて台所に行くと、岡さんが大急ぎで朝食を作っています。
「岡さん、お手伝いしますよ」
「助かる。そこの梅干しの種を取って、細かく刻んでくれ」
岡さんの指示に従いながら、朝食の準備を進めます。
しゃらん、しゃらん。
鈴の音が聞こえました。主でしょうか。
「間に合ったかな」
「良かったです。聞いてきますね」
私は玄関に向かいました。
「君達の御主人様は本邸に行ったよ」
玄関には先程の山下という男がそう言って立っていました。
「まあ、本邸では働けないでしょ。この離れの掃除をしてただけだろう?ああ、母親が入院してるのか。それは心配しないで良い。とりあえず掃除婦の仕事を紹介してやるから」
あれから本当に主は帰って来ませんでした。山下という男が何者かも知りませんが、私と岡さんは他の場所で働くことになるそうです。
しゃらん、しゃらん。
時々、あの鈴の音が聞こえる気がします。
そう言えば、来客があれば鈴が鳴るというのは、どういった仕組みだったのでしょうか。
「中嶋さん、パンあげる」
岡さんが家に定期的にパンを届けてくれます。彼は本邸の料理人になると思っていたのですが、近くの料亭で働いているそうです。私は家から近くにあるお医者様の自宅の掃除婦をしています。岡さんは仕事の行き来のついでに余り物の食材や食事を届けてくれます。最初は遠慮していたのですが、パンに釣られて貰うようになってしまいました。他では手に入らない物ですから、仕方ないと言い聞かせています。
「中嶋さん、明日の朝通った時にサンドイッチ作っておいてよ」
「料理人の方に出すような物では無いのですが」
「料理ってやっぱ気持ちだからさ。作ってよ」
「そこまで言うなら仕方ないですね」
岡さんは機嫌良く帰って行きました。
「御主人様、中嶋さんのサンドイッチ、持ってきましたよ」
主は仕事の手を止める。書類を机の隅に重ね、そそくさとサンドイッチを奪い取ってきて、そこに置く。
「茶がいるな」
「そうかもしれませんね」
二人の男の間に沈黙が流れるが、主の視線に負けた岡は台所に向かうことにした。
「あら岡さん。今日はサンドイッチの日だったかしら」
「そうですよ。お昼はおかずだけで十分です」
本邸の台所は主の部屋から遠く、広い。昼御飯の準備をしていた女性がそう言った。
「持ってきましたよ」
丁寧さの欠ける動作で出されたお茶を飲んだ主は湯呑みを置いてため息を出した。
「中嶋の淹れた茶が飲みたい」
「本邸で雇わなかったのは誰でしょうね」
痛い所を突かれた主は再びため息をつく。
「仕方ないだろう。ここで働くには色々条件が厳しいんだ。後見にそれなりの公的な立場を持つ親族が要るし。ああ、だから本邸になんて来たくなかったのに」
「言い訳はいいですから、さっさと食べたらどうですか」
自分だって仕事があるんです、と岡が付け加えると、主はチラリと睨むもサンドイッチを食べ始めた。
「はあ、身体に沁みる」
サンドイッチを頬張る主をよそに、岡は机の隅に重ねられた書類の束を一枚ずつ捲って読んでいく。
「あいつらは全然諦めてないんですね。呪いって怖いなあ」
岡が見ているのは、主の周りで起きた出来事を詳細に記録したものである。
「大きな事業をしていると、関係のない所からも恨みを買うものだ」
「にしても、子供使うとか本当にたちが悪いと思いますね。中嶋さんが子供と離れ離れなのを調べて、わざとでしょう?」
岡はやれやれといった動作でぱさりと書類の束を机に戻した。
「美味しい……」
サンドイッチを一口ずつ、大切に食べる主を見て、今度は岡がため息をついた。
「御主人様のサンドイッチはもうそれしかないですね。きっとこの家のサンドイッチはずっとそれなんだろうな。いいなあ、そういうの」
「どういうことだ?」
岡の言葉が理解できない主は、サンドイッチと岡を交互に見た。
「サンドイッチと言えば、一番に思い浮かぶのは中嶋さんのサンドイッチでしょう?これから洋食が普及して、色んな種類のサンドイッチを食べたとしても、あなたの中でサンドイッチの代表は変わらないでしょう。それがいいなって思うんです。その家の食の歴史に名を刻むというか、まあそんな感じのことですよ。そういう、人の記憶や舌に残るような料理を作りたいって、料理人なら思いますよ」
主は歴史か、と呟いた。少し歪な形のサンドイッチ。きっと何年、何十年先もこの味を覚えていたいと思っている。
結局あの来客達は何だったのでしょうか。
不思議な屋敷に務める中嶋と彼女の作るサンドイッチのお話でした。
ありがとうございました。