3章 アイ情に飢えた者
私はこんなんで終わっていいのだろうか。
生まれた時は小さな箱からスタートして、小さな檻に入れられて、馬車の荷台の麻袋に押し込まれた。
最初は裸で、布だけ与えられて、また剥ぎ取られて私は人間のように扱われていたのだろうか。
麻袋から解放された後、最初に連れていかれたのはお金持ちの家で、不自由なく暮らせるという胡散臭い台詞を何回も聞かされ幼くして従者になった。
たぶん箱に居たときで十に満たないくらいだったから幼女扱いされる年齢だったと思う。
同業者には可愛がられた。
なんせ幼女が自分達と同じ服を着せられ、覚束ない動作で仕事をしているのだ。同性からすれば可愛らしい少女にしか見えなかったのだろう。
雇う側には別の意味で可愛がられた。
そんなのは愛情じゃない。
私はすぐに厨房へと走り、果物専用の小さなナイフを手に取った。
どうせ力なんてない。刺せっこない。
私に対して向けられた感情は、何一つ私を考えていない無神経なものばかりで、存在意義を謗られた私にはひどくどうでもいいことに思えた。
お別れなんて寂しくない。
初めから私には味方がいない。
助けてくれる人がいない。
愛してくれる人がいない。
なら、今さら孤独になることなんて些細なことであり、手に握られたナイフを私に手を出そうとした大人に突き刺すのなんて難しいとは思わなかった。
どうせ死にやしない。
私の力なんて彼らにとっては子猫のようなもので、私の刺したナイフなんて、爪や牙のようなもの。
そうして私は過去の自分と離別した。
弱いことを嫌い、強く生きるために殺す側になった。
1
試すのは悪いことじゃない。
シオンが俺に言ったことを事実か確かめるのは必要なことだ。
あいつに誰かの死を看取る役割があるんだって言うなら、過去に何があったのかも分からない残念な俺にはどんな役割があるのか、どんな意味があるのか知ることに意味がある。
そう思った俺は一日、森で暴れた。
騎士団にも言ってある。誰も森に入れるなって。
「ハァ………………ハァ………………これで、十体目」
数えてる余裕はほとんどなかった。
わざと月に向かって大きく吠えて、それを聞き取った魔物の相手をしていたのだ。一匹一匹の実力は雑魚でも夜には力が強まっていて危険だった。
そう、本来はやってはいけないことである。
こうして危険を冒して何を見出だせるのか不安だったが、俺はいくつか知ることができた。
一つ、俺は魔法を使えなかったんじゃなくて人間に化け物呼ばわりされることを恐れていたから抑えていただけだったこと。
二つ、俺は魔法を使っても疲れないほど残量に余裕があったこと。
三つ、きっと俺の役割に繋がる重要な事柄が発生していること、だ。
最初の二つはシオンを助けた時に薄々感じていたことだが、いつもは使えなかった魔法があの時だけ使えたのは何故だろうと思っていた。
答えは簡単だ。
自分の魔力容量を知らなかったし、使った場合に魔物と勘違いされる可能性を恐れていたんだ。
だから、人間のいない森では魔法は使える。
それに戦うために前回のような創造の魔法の他にも炎を作り出したり水分を凍らせてみたりしたが動きながらでも運動以上の消耗は感じられない。
つまり、魔力自体はまったく枯渇していないという意味だ。
そして、最後の一つ………………俺の役割は何なのか、だ。
「ガルルッ!」
動いたから、と言われれば普通かもしれない。
しかし、俺は自分の理性を失うほどに目の前の血肉を貪ることを欲していて、言葉を忘れた獣のように倒れた魔物の肉を食い散らかしていたのだ。
旨いとか、不味いとかどうでもいい。口に入るものなら何でもいい。
相手が雄の個体だろうが雌の個体だろうが、柔らかい肉だろうが硬い肉だろうが関係なく貪る。喜んで食うだろう部位でも、普段なら吐き気を催すような場所でも関係ない。
そう、異常な食欲が明らかな答えだった。
一分と使わず十体もの大きな魔物を食い尽くした俺は自らの腹を擦りながら恍惚の表情をしていた。
「なんだ、この満ち足りた感じ。男としての欲求を晴らした時よりも快楽を感じる。そもそも女抱いたことないだけかもしれないけど、実際に気分がいい」
単に食うことで満たされたのは違う。
言うなれば困難な目標を成し遂げた時の達成感にも近しい気分だったのだ。
つまり、俺の役割はそれに通じるものということだ。
「食うだけが役割か? いや、詳しくはシオンに聞こう。シオンだって魔力を回収するだけが役割じゃない。回収した魔力を何かのために使うのが役割だ」
とりあえず獣のように理性を飛ばして食うのがこんなに気持ちいいなんて思わなかった。
俺は服を着る前に血塗れになった身体を洗い流してしまおうと音を頼りに近くを流れる川を探す。
あん? 裸だよ、決まってるだろ?
さすがに服が血塗れになってたら町に入る前に騎士団に捕まるし、汚れたら洗うのが面倒だから月に吠える前に全部脱いで野生そのままの姿になってたんだよ。
裸で月に吠えてたらダメか?
って、俺は誰に文句を言ってるんだか。さっさと血を流して帰らないと愛しのペットが心配する。
まあ、実際は一日中拘束するのはよろしくないと思って自由にさせている。
俺がこうして色々と試している間だけでも、とエルに言ってあるんだ。常に俺の目が届く範囲に居ないとダメなんて制約はないし、そんなことしたらエルがストレスで暴れるからな。
「こっちの方角だな」
音が近づいてきた。
綺麗な水が流れていることを期待しつつ耳を澄ませた方向へと足を進めると森が拓けてきて、眼前に大きな川が現れる。
幸いにも綺麗な水だ。入水しても問題ないだろう。
なんて考えてたら先客を見逃していた。
川の中で何をしているのか水中をじっと見つめている者がいて、そいつはしばらくすると目で追うのが難しい速度で水を弾き飛ばしては溜め息を吐いていた。
結論から言うと何をしてるのか全然分からない。
でも、よく見れば俺のよく見知った顔のように見えなくも…………。
「やっぱり、難しい」
完全にエルだ。下着姿のエルだ。
その様子を見るに魚でも捕まえようとしているのだろうが気配を上手く消せていないから手を水中に入れた時点で魚が散ってるんだ。
まあ、失敗して落ち込んでる姿もまた可愛いんだけどな。
耳が垂れていかにもという態度なのだ。
もう少し見ていたい気がしないでもなかったが愛しのペットが泣き出してしまうとあれだし、今の姿は紛れもないレアなので俺は一目散に突っ込んでいく。
「ガウッ!」
「っにゃ!? ご、ご主人」
驚いてはいたけど反応が薄いな。
痛くないように背中側に手は添えてやったとはいえ、川の中に押し倒したのだからもう少し怒るとか、怒らないにしてもそれなりのリアクションが欲しかった。
「ほんとエルは可愛い奴だな」
「ご主人、エル裸だから、恥ずかしい」
「水に濡れちゃ下着も意味ないな。それは兎も角俺も裸だから気にするな」
「にゃっ!? むしろダメ! ご主人、エルから離れる!」
「なに照れてるんだ? いつも水が怖いから~、ってにゃんにゃん喚いて俺に身体洗ってもらってるやつの台詞か?」
そう、エルは過去にトラウマでもあるのか一人でお湯に浸かりたがらない。
その際、こいつは裸だ。一糸纏わぬ純潔だ。
今さらのように照れているようだがほぼ毎日俺はその姿を目撃しているわけで、それはつまり一糸纏わぬ天使の身体を毎日洗っているというわけだ。
珍しいと言ったのは下着姿でいることの方なのだ。
とりあえず水に浸かりっぱなしは風邪の原因になるし、エルはそれなりに我慢していたらしく震え始めてしまったので川から引っ張り出して川辺に転がす。
「一体何をしてたんだ?」
「最近のエル役立たず。ご主人になにもしてない。何も、頼まれない」
「愛玩動物として役立ってるぞ」
「ううん、ご主人ちがう。ご主人、エルに足りないものあるから、シオンに欲情してる」
いや、欲情してるというか普通にシオンはいい女だからじゃないか?
エルが不足しているとは言ってない。
「べ、別に欲情してほしいとか、そんなんじゃない。でも、エル弱いから、何か役に立ちたかった」
「へえ? それで苦手な水の中に入ってまで魚を取ろうと?」
「でも失敗した。ご主人、エル役立たずでごめんなさい。ご主人好きなようにしていい」
それは煮るなり焼くなり、脱がせるなり襲うなりしていいと? そういう意味ですか?
そもそも襲うつもりはないけどな。
俺はエルの話を聞くのを一旦、中止して川の方へずかずかと進んでいくと川の中を泳いでいる魚を探す。
それを叩き出すようにして川から追い出すと川辺に落ちるように打ち上げて何匹か打ち上げると満足したようにエルの場所へと戻っていく。
「お前は焼いた方が好きだったよな」
木材は簡単に調達できるし火を起こすのも先ほど調整済みで魚を刺すための棒なんてイメージを創造するだけだから難しいものではない。
すっかり準備を済ませてしまった俺はエルが風邪をひかないようにと前に抱き抱えるようにして暖めてやる。
焚き火と体温があればまず大丈夫だろう。
ちなみに血は先ほど魚を取りながら洗っているし裸のままでは絵面的に問題なので下だけはちゃんと穿いた。そこは理性を残してるから安心してほしい。
「ご主人、そんな簡単に…………」
「気にすることじゃない。何で役立たずなんて言うんだ?」
エルは俺に抱えられて逃げ場がないことを理解しているからか大人しく言葉を探す。
どんな答えでも怒るつもりはない。
「エル必要なのかな、って。ご主人もシオンも自分で何でもできる。から、エルはいるのか怖くなった」
「そういえば前のご主人様の所でも同じようなことを言ってたよな」
「ん。最初は捨てられた。何してたか記憶にない。次は逃げ出した。従者だったけど、ただ性奴隷と同じ扱いされるところだった。今度は最後だと思った。殺し屋として役に立たなかったら殺される。もう居場所はない、って」
意外と過酷な人生……いや、にゃん生だったんだな。
最初は捨て猫で、それ以前の記憶なんか残ってなくて、見た目がいいからと弄ばれるだけの存在として雇われて、そこから逃げ出したら選ぶ権利もない。
俺と同じようで、俺よりも地獄を見てる。
そんな猫だったら誰かを信用したいなんて思わないし、気安く考えられるのが嫌なのも分かる。人間不信というか、この世界に絶望すら覚えたんだろうな。
だから、その地獄でやっと見つけた新しい飼い主に見捨てられたくなかった、と。
なんとも健気な話だ。そういう奴、控えめに言って大好きだ。
でもな、一つだけ間違ってることがある。
「今のお前の立場って、何だっけ?」
「! ご主人のペット?」
「そ、ペットだ。ペットがどんな存在か分かるか?」
しばらく唸って答えをひねり出そうとしていたが思い付かなかったのか諦めたようにエルは俺に視線を向ける。
「ペットっていうのは飼い主に無条件に優しくされる権利を得た幸せ者で、悪いことして飼い主と喧嘩することがあっても仲直りして、ただ可愛く、いつも癒してくれる存在であれば十分な存在だ。今のお前は俺からしたら十分に可愛いし、お前がいることで少なからず癒されてる。それ以上は望んでないんだぞ?」
ある種の家族なのだから以上を望まず、それだけは約束してほしかった。
「お前が俺のにゃんこでいる限りは居場所がなくなることなんて無いさ。ただもう少し俺だけじゃなく、シオンとか、レクセルとか、皆に愛想良くしてくれた方が俺としては自慢して回れるんだけどな」
「ご主人、エル泣いてもいい?」
許可なんて取らなくていいのに。
俺はエルが気の済むまで撫で続けた。
悔しさに溢れた涙じゃなくて嬉しさで止まらなくなった涙なら、少しはエルの苦しくなった心を楽にしてやれるだろう。
──side??。
森が騒がしい。
いつも見回っている時はそれなりに騒がしかったが、一ヶ所からここまでの喧騒を聞くのは初めてかもしれない。
せっかく守ってきた秩序が崩れかけている。
先日は見知らぬ男と魔女が暴れていたせいで魔力の残滓に森が苦しんでいた。
今日とて荒らされては困る。
血の臭いが濃くなっている騒がしかった場所へと急ぐが、それは向かっている最中に静かに、何事も無かったかのように大人しくなった。
どういうことかは分からない。
現場に到着するとそこは一面の赤だった。
何が争ったのかも確かめられない。ただ、何かが無数の生物を貪った後の血だけが残っていて骨の一本や肉片の一つすら転がっているわけではない。
不気味である。
この森には大食らいは居ても跡形もなく食べる綺麗好きはいない。
新しい種族が生まれてしまったのか、それとも原種が狂気に呑まれて変異したのかもしれない。
「まだ遠くへは言ってないようだな。私だけで対処できるような存在ならばいいが…………」
せめて狂暴ではないことを祈るしかない。
血の色をした足跡は一直線に森の奥にある川へと向かっているように見える。
水分を欲しているにしては十分すぎる血液を接種しているし、気まぐれで向かっているにしては足取りが真っ直ぐすぎるような気がした。
他に可能性があるとすれば身体に付着した血液を洗い落とすため…………。
「あれだけの血の池を作れる力を持っている上に知識もあるのか。これが魔物だとしたら著しい進化だ」
危険だと判断したら即消さなければ。
視界に川が見え始めた。先ほどの場所からそんなに離れていないが生き物の気配はする。
草影から存在を確認するために少しだけ顔を出した。
「ご主人、エル泣いてもいい?」
「……………………っ!」
どういう状況か分からない。
とにかく視界に移っているのは一匹の魔物が一人の少女を飼い慣らしているという状態。
この異常事態をどう捉えるべきか…………。
いや、結論を出すには早計だ。あれが魔物かどうかも判別できていないのに早とちりをすると痛い目を見るのは間違いないのだからもう少し考えよう。
「よし、明日直接問い質そう。何も恐れる必要はないな」
あの様子を見る限りは帰る家があるはずだ。
分からぬままではなく、直接当人に問えばいい。
この森を守る守護者として、長い時間を生きてきた者として変化は見過ごさず、正しきは助長し過ちは絶たなければ…………。
2
「すまない、誰か居ないか?」
正直に言うといい気分はしない。
昨日の状況はと言えば自分の役割を認識したらすぐに帰るつもりだったわけで、その帰りにエルを偶然にも見つけたのは言うまでもない。
しかも、俺としてはエルとの信頼度を上げられたから文句はないが泣き止むまで待ってから焼いた魚も食って、とかれこれ一時間以上はあの場所にいたわけで、そこから家に戻って寝るとなっても一瞬で死んだように眠れる訳じゃない。
つまり短時間しか寝てないんだよ。
その状況で来客ともあれば不機嫌にもなる俺の心中を察してほしい。
「朝から誰だよ」
「お休みになられていたのか。これは申し訳ないことをした」
ほう、意外に綺麗な女が来たもんだ。
身体としては小柄だが外套の影から見える顔は凛々しく見える。シオンのような男が好く理想像でも、エルのように愛らしさが一番でもなく、それとして確立された存在。
さぞや身分の高い方なのだろうな。
なんて、まじまじと見つめたら失礼だと思い、それなりに礼儀というものを重んじている様子だった女に軽く会釈して次にどう出るかを伺う。
昨日の今日だ。俺が森で暴れていたから苦情が来たのかもしれない。
それにしては女が一人で、というのも不思議ではある。
どちらにしても朝一で俺の家に来たのだから快くもてなしてやる気にはなれない。
「私はエト。ここラプト近辺を守護しているものだ。今日は貴方に確認したいことがあり足を運ばせてもらったのだ」
「確認したいこと? 守護者様が俺に何のようだ?」
「さ、さすがに入れてはくれまいか? これでも私は目立つといけない身分なのでこうして外で立たされているだけでも不安でならない」
身分、ねえ?
それなりに高い地位があるなら気にせず威張ればいいだけの話で、逆に堕ちるところまで堕ちた身分だというなら俺の場所に来る以前に捕まる。
嘘を吐いているというより、言葉を間違えたな。
こういう場合は身分じゃなくて立場だ。
立場、というのが自分の予想できる範囲内ならばいいが、許嫁から逃げている最中とかワケわからん人間なら即帰宅願いたいところである。
せっかくエルと気持ちよく寝てたのに起こされた身にもなってほしい。
「そ、そうか。出会い頭にそのようなことを言われても困るのは当然だよな。家に上げるのが不安であれば場所を変えてもいい」
「入るなら覚悟しろよ。ペットがいるだけの男の家に上がろうって言うなら分かるよな?」
「構わないよ、私は」
は?
「冗談だ。貴方に見合う価値があるとは思えない」
どこかで何かが切れるような音が聞こえた。
まだ冗談だというなら可愛いものだが俺に見合う価値がない?
この女の価値基準はどこにある。そもそも俺が人間ではないから却下だというなら論外。俺にだってお前以外に候補がいるんだと言ってしまえば終わり。
けど、そうじゃない。
既にそれを言ってはいけないと感じてしまった時点で俺はこいつに何かで負けているんだ。
冷静にならないと揚げ足を掬われる。
「茶は出さねえぞ」
「ああ、構わない」
「ちっ、客人のくせに偉そうなお嬢様だな」
俺は仕方なく家に入れると基本的に食事以外じゃ使ったこともない机を挟んで座る。
それにしてもこの女はいつまで外套を羽織ってるつもりだ?
「単刀直入に聞きたい。昨日、貴方は森に居たはずだ。何をしていた?」
「……………………」
「散歩か? 訓練か? それとも八つ当たり、それとも情愛に咽いでいたか?」
「おいてめぇ! 人のプライバシー覗き見してなんのつもりだ! 事と次第によっては穏やかじゃないぞ!」
散歩や訓練という言葉が出てきたということは俺が魔物を殺った現場を目撃した女ということで、情愛とか難しい言葉を出してきたが、要するに女関連の話をしてきたってことはエルと居るところも見られた。
いや、見られただけならいい。
こいつは覗き見て楽しんでる変態だ。
事故じゃなくて故意で見て、こうして確認に来てるのだから真性の変態で間違いない。
綺麗な女だからと油断していた。
こいつが何を考えているのか想像するのは難しくない。化け物が若い娘を森に拐って襲っていたと言えば騎士団が俺を討伐する正当な理由になるし、それを脅しに揺さぶることもできる。
人間の性格は、本当に計り知れない。良い方にも悪い方にも賢くて困る。
さあ、どうする。エルを呼んで正直に答えるか。黙らせるか。
と、俺が思案していると後ろの扉からガチャリと音が聞こえ、嫌な予感に背筋を伸ばした俺は後ろを勢いよく仰ぎ見る。
「エ、エル…………!」
「確認するまでもなかったな」
いや、待てちがう。これは真実じゃない。
確かに俺と女の前に現れたエルは少し問題のある格好かもしれないがこの世界において女が下着姿で寝ていること自体は珍しくもないはずだ。
まあ、男の家の寝室からはありえないけど。
「お、お前だってこんな格好で歩くことくらいあるだろ!?」
「あるわけがないだろう戯け者! 貴方が情欲にまみれた危険な男だということは十二分に理解した。消える準備をしてもらおうか」
おいおいおい、何様だよ。
この世界に理不尽を迫られた俺にお前はそんな口を叩くのか?
「勝手に決めるなぁ!」
「なっ!」
伸ばした手が何とか女の外套を掴んだ。
転ばせても首を絞めても何でもいい。少しでもこの場に留まらせて何をしたいのかはっきりさせないと俺が納得できずに終わってしまう。
それを避けるために伸ばされた手で掴んだ外套を俺は引っ張った。それだけの行動だった。
しかし、プチッと女の胸元で外套を固定していた留め具が外れた音が聞こえ、はらりと外套が落ちる。今まで見えなかった女の首より下が見えた瞬間だ。
「し、尻尾?」
「返せ! 破廉恥な雄はその場で殺処分するぞ!?」
あー、なるほどね。
赤く太い尻尾。ただ者じゃないのは事実らしい。
「随分と立派な尻尾をお持ちのようで。さぞ恥ずかしいんでしょうね」
「わ、私の尻尾を侮辱したな!? 本当に貴方は罪ばかり重ねる雄のようだな!」
よし、相手のペースが崩れた。
エトだか何だか知らないがお前の好きにはさせない。
「最初に喧嘩を売ったのはお前だ。俺のプライドに傷をつけておいて帰ろうなんて卑怯なんじゃないか?」
「私の管理する森で暴れたのは貴方の方だ!」
「暴れたのはお前の尻尾だろ。今だって怒りに任せて振り回してるから大変なことになってるんじゃないか?」
主にパンツとか。
そんな太くて逞しい尻尾をぶん回してしたらスカートとか持ち上げたりして大変なことになるよな。
「…………っ! 分かった、話は聞く。聞いてやるが私の尻尾に謝ってからだ」
本当に図々しいな。
最初から喧嘩売っておいて自分には謝罪がほしいけど俺に謝罪するつもりは丸っきりない。
なら、話は簡単だ。
「お前の尻に向かって謝ればいいのか?」
──ラプトの町。
「あー、可愛げのない女に捕まったもんだな~」
俺が文句の込められた言葉を口にすると横を歩いているエトは鋭い爪のある手で俺の腰辺りをつねった。
反則だろ、と思ったのはエトの身体である。
ちなみに彼女は一言で言うなら金髪ツインテールの竜の女の子である。
それで、俺は完全にケモノの姿で爪や牙もそのものだが、毛皮が守ってくれる限界ってものはある。寒さやある程度の熱は通さなくても騎士団が使ってるような剣は簡単に通るんだ。
エトは防御力で言えば比にならない。
尻尾は表面上だけ鱗が並んでいたので裏側は簡単に攻撃が通ると考えられたが腕や足は完全な鱗で作られた防具を身に付けているような状態。金属は通さないだろうし俺と違ってパワーが段違いなんだ。
つまり、絶対防御な上に火力がドラゴン。
そもそも尻尾を見た時に気がついたがエトは竜のような見た目をしているのだ。
まあ、外でひけらかしたくないとかで絶賛外套女だけどな。
「貴方が悪い。女性の尻を眺めながら謝罪する馬鹿がどこにいるんだ?」
「尻尾に謝れって言ったから従ったんだよ。あと、可愛いパンツ穿いてるな」
もうちょっとお高いものをお召しになってるものだと思ったから白に猫はイメージしてなかったんだ。
「あまり口数が減らないなら貴方の尻尾を二本とも切るぞ」
二本、ってどういう意味ですか?
「あの女性とはどういう関係だ? 嫁か? それにしては若いから彼女か? もし貴方が年上なら娘だったりするのか?」
聞ける流れじゃないな。
俺は先ほどのことをいい例に暴れられないように順を追って説明することにした。
一つでも飛ぶと暴れるからな、このドラゴン女は。
「くそ野郎の所で雇われてた殺し屋だけど女のする仕事じゃないからって俺がもらって飼ってるペットだ」
「ペット?」
「奴隷は働かせたり夜の相手させるけどペットは単に家族みたいに側にいる存在だ。だから縛りもないし、一応俺の命令は聞くけどそういう命令は一回もしてない」
なるほどね、とエトは頷く。
間違ってはいないしペットという概念が奴隷と違うことは説明した。これでも勘違いするようならエルを呼んできて直接話してもらった方が早いかもしれない。
「じゃあ昨夜は何をしていた。彼女は下着姿だったし、貴方も上半身が裸だった。それに彼女は貴方の上に座っていたし行為の真っ最中だったのではないか?」
「あんなどっから見られてるかも分からない場所でするほど恥じらいを忘れちゃいねえよ。どうせなら誰も来れないような丘の上に行ってやるね」
「では何を?」
「あの格好で川に入ってたんだ。風邪をひかないように温めてた。俺が上半身裸だったのはお前も見た景色が原因だ。訓練とか言ってたし見たんだろ?」
全て食い尽くしたはずだが血痕だけはどうしても残ってしまい諦めざるを得なかった。
もしそれを見たなら分かるはずだ。
それだけの状況を作り出しておいて返血を浴びていないわけがない。やった本人も真っ赤な血みどろに染まっていなければおかしい、と。
「ふふ、本当に貴方は頭がおかしいんだな」
「あん?」
「どれもこれも口実に使えば情欲を満たすことが可能だったのに否定したのだろう? 私からすれば貴方が雄の本能に忠実な獣だったなら所詮は魔物だ、と処分できたのにと悔いてしまうよ」
「俺を、殺す気だったのか?」
「さっきまでは、な」
それは笑えない冗談にもほどがある。
エトの防御力では俺の爪や牙は通らない。攻撃が通らなければ逆にエトの攻撃を俺がもろに受けることになる。
そんな女が俺を殺すつもりできていたんだぞ?
今は笑っているが本物の笑みかどうかは分からない。間違っても俺のことを微塵も信じていないなら、どのタイミング、どの場所で消されてもおかしくはない。
何で、笑っていられる?
俺は急にエトが怖く感じているんだぞ?
「エト? お前は、本音を話してるのか?」
「本音だ。私は嘘を嫌い、馬鹿でもクズでもあなたのように真実で語る者が好きだ。初めに言っていた見合わない、というのは昨夜の事が私の考えた通りならば、という話だ」
「昨夜の?」
「貴方は強い部類に含まれるのだろう? 私は強い雄との交尾でしか種を保てないんだ」
申し訳ありませんが何を言ってるのか分かりません。
「あの猫は貴方の番ではないんだろう? よければ私の番として生きてはもらえないか?」
「お断りします」
「何故だ?」
「な、何かの不意に殺されそうで怖いんだよ!」
「絶対にないと真実を愛する私が言おう。君の役割が何かは知らないが強い雄には変わりないだろう? 私には悠久の時を見守る役割がある。しかし、一人で見届けるのも酷なものだ。貴方と、そして貴方との間に産まれるであろう命に囲まれていれば寂しくはないだろう?」
それはそれで怖いんですが?
悠久の時を見守る竜、ってのはかっこいいと思ったが番になって延々にこいつのために子供を作らされるのは、な。
そもそも俺百年すら生きられないかもしれませんし?
ちがう、もっと根本的な話だ。
「お前も役割があるってことは呼ばれ方があったりするのか?」
「私は【昏睡を誘う翼】と呼ばれていたな。どうしてか分からないが私の体液は生物を昏睡させる神経毒が含まれているらしく、故に森の管理者などと名ばかりのことを言って一人でいる寂しさをまぎらわしていたんだ」
生物を昏睡させる神経毒が体液に含まれている?
体液っていうのは身体の中で生成される液体のほとんどを指してる言葉だから、汗や唾液、血液にとどまらずエトから分泌されたありとあらゆる水分が該当するってことだろ?
まあ、唾液は必要以上に分泌してなくて、汗は竜だから出ないとしたら平気か。
ん、体液だろ?
「おまっ、俺が番になってたら二度と目覚めくなるだろうが!」
「もう私との子作りを想像したのか? さすがは欲求不満に陥った獣だな」
「してねえよ!」
想像も何も軽く身体に触れた時点でアウトで現実に帰ってきたんだよ!
なんてことは言わず、とりあえずエトの冗談を無視して冗談じゃ済まないことの事実を確認する。
「兎に角、お前の体液が神経毒なら触るも何も、何もできないまま昏睡するのが普通じゃねえか?」
「その通りだ。故に強き雄が必要なんだ」
「詳しく。一言で終わらせるな」
「豪気な雄かと思っていたが自分の命のこととなると小心者になるのか。でも、私は貴方のそういうところも嫌いではない」
いっそのこと嫌われるように振る舞ってもいいか?
答える気がないなら、と俺が踵を返そうとするとエトは例の馬鹿力で腕を掴んで止めてきた。
「大抵の者では私に触れた時点で昏睡する。何か遮るものを身に付けていようと問答無用で倒れていくから私に毒があるのだと理解してそれ以来は気安く誰も触れないようにしていたのだ」
「この腕が気安くないか?」
その時俺の頭に疑問符が浮かぶ。
体液が問題だと言うなら俺は既に手を掴まれ、脇腹をつままれ、家では尻尾に触れたしその根本もちょこっとだけ触ってたりする。
もう昏睡してるはずなんだ。大抵の者に含まれるなら。
なるほどな、と俺は自分の頭で理解してエトの口にしようとしていた言葉を奪う。
「強い奴なら昏睡する神経毒だろうが効かないってことか?」
その通りだ、と返事が来る。
最初の頃と今の態度もどうかとは思うし話が本当だったとしても俺なんかじゃなくて他に、もっとこいつのことを理解してくれるような奴がいるような気がするというのが本音だ。
俺だって何人も女を拐かしてもいい気分はしない。
でもエトのずっと一人だったという言い分は前にもどこかで聞いたし、その時は俺も同情したのに差別するかのように他の奴ならダメなんて言えないよな。
それに悠久の時を生きたと言うなら俺のことも少しは分かるかもしれない。知らなくても繋がる何かはあるはずだ。
決心がついた。
「分かった」
「わ、私の番になってくれるのか?」
「条件付きだ。お前が呑めないって言うなら俺は番になってやれない」
別に難しい提案ではない。
むしろエトの方がエルというペットとシオンという仲がいい女がいるのに声をかけてきたのだ。諦めてもらうとしたら後者のエトである。
「今すぐに子作りとか考えるな。俺だって生き物なんだから何も考えずにほいほい竜の女の相手して子供を作るだけの道具になりたくない」
「それは勿論だ。道具などと考えてはいない」
分かってるさ。エトはそういう女じゃない。
「なら話は早い。お互いに親睦を深めてよく理解した頃でいいだろ?」
「それもそうだな。貴方の言う通りだ」
「もう一つが独占はできないって理解してるか?」
「…………分かっているとも。貴方は強い雄だ。他の女性が惹かれないという保証はないし、私には貴方を縛る権利などないからな」
意外と素直なんだな。
おかげでさらりと条件を言い終えたが本当に文句はないということでいいのだろうか。
再度確認という意味でエトの顔に視線を向けると強気な笑顔が返ってくる。
「なら問題ない。お前が寂しいっていうのはこれで少しは解決したことになるか?」
「その、私の気持ちを汲んでくれたこと、感謝する」
「お前の隠してることに比べたら些細なことさ。本当は森での所業を見て殺すかどうか迷ってたんだろ」
「な、何故そのことを?」
分かりやすいんだよな、エトって。
わざわざ俺の家に来たのは優しさというか自分の絶対的な強さに自信があったからだろうけど、その理由はもっとエトの役割的な部分にあるんだ。
悠久の時を見守る。
つまり荒らされることを拒んでる存在だ。俺が昨日、馬鹿みたいに魔物を呼び寄せた上で倒して血の池なんか作ったから危機感を覚えたんだろうな。
間違ったことなしてないしエトの性格は正しいものを好く。
それを説明するとエトは感心したような顔をして胸元を押さえると安堵の息を吐いた。
「正しいと言ってもらえて素直に嬉しい。感謝する」
「気にするな。その代わりっちゃ代わりなんだが、うちのペットが森に遊びに行くことがあったら多少でも気にしてやってほしい。元殺し屋なんて言ってるけど、力量を簡単に覆すような奴がいるかもしれないからな」
「ふむ、その程度であれば構わない」
「たぶん友達が増えたって喜ぶはずだ」
あいつも寂しがり屋の一人だからな。
「……………………っ」
「どうかしたか?」
「いや、なにも。貴方は本当に優しい方だから報われてほしいと感じただけだ」
今日初めて会った男に言う台詞か?
それを言うならエトも十分、優しい女だと思う。怒るべきところを心を殺して不問にしていてくれてることくらい、分からないで頼み事をしたんじゃないさ。
俺の知り合う奴は報われないといけない奴等ばかりだ。
「貴方のことは信じている」
あれ、俺は何か忘れてるような気がする。
そうだ! エトが普段はどこにいるのか聞いておかないと会いたい時にも会えなくなるんじゃ…………!
大丈夫かもしれない。
「竜の匂いなんてさせてるのはあいつだけだもんな」
探せば見つかる。そんな気がしたんだ。
だから今は深追いしなくても、長い時間を生きたエトは長い時間をかけて信頼を言葉じゃなくて形にしてくれる。
──sideシオン。
「あはは、そんなことがあったのかい?」
笑い事じゃないんだけどな、と思いつつ赤ちゃんの転がらなかった知ってる顔だから不躾なことは言わない。
レクセルは私がラプトに定住するようになった頃、一般家庭に生まれた幸せな子で、その両親とは薬を送っていたから仲がよかった。
故に彼の最初の友達は私だ。
こんなお婆ちゃん嫌でしょ、と聞いたこともあったけどレクセルは朗らかに笑ってくれた。
誰でもいつかはお爺ちゃんお婆ちゃんになるんだから早いか遅いかの差だよ、と。
そんなことを言ってくれた彼だから二十年以上が経った今でも同じように振る舞ってくれているのかもしれない。
「あの人、思わせ振りなこと言ったのに最近は目が合うと顔を逸らすんだよ! ひどいと思わない!?」
「シオンさんは好きな人、見つけられたんだね」
「むう…………からかってるんでしょ? 私が八百以上も年上なの気にして誰とも付き合わなかったこと」
本当に引け目を感じたのだ。
相手は若くて、未来がどうなってるのかも分からなくても何かを成し遂げる可能性のある命だとしても、私は永遠に変わることのない存在。
自分は歳を取らないのに相手だけが歳を取って、たぶん私より先に老いて最後を迎える。
怖いんだ、目の前で愛した人を見送ることが。
家族は、仕方ないと理解していた。
魔女が不老でも不死じゃないことは知っている。人間と同じで簡単に死んでしまう存在だってことをしっていたから、自分が見送ることもできた。
でも、訳が違う。
理解した上で仕方ない場合と、理解していても何故と考えてしまうこともある。
最初から選ばなきゃ悲しまなくて済むから。
確かにからかわれても仕方ないかもしれない。
私はそんなことを恐れてばかりで人間とは仲良くしていても、付き合ったりとか異性として考えたことのある人間は一人もいない。
「可愛くないよね、愚痴なんて」
「僕でよければいつでも聞くよ。シオンさんは両親が亡くなった後も僕がこうして独り立ちできるまで面倒を見てくれたんだから迷惑なんて思わないから」
「ありがとね。せっかく優しくしてくれてるのに好きにならなくてごめんね」
「何を言ってるんだか」
レクセルは、本当に人間なのか疑いたいくらいお人好しで、こんな人こそ報われるべきだと思うよ。
そう、私は何千、何万じゃ利かないだけの人間を見てきたから分かるんだよ。
「ファングも分からない男だな~。ほぼ毎日ご飯作りに来てくれたりこんな面倒見のいい女性なんてお嫁さんにもらったらどれだけ幸せなことか」
「しし、仕方ないよ! あの人は今まで苦労したんだろうし、今はエルちゃんが可愛いんだよ」
それで納得していいの、とレクセルが聞きたくない質問をしてくる。
納得なんてしてない。後から来たエルという女の子に全て持っていかれたら卑怯だって、どうしてそうなるの、って泣いて叫びたい気持ちもある。
でもね、レクセル。
私が好きなあの人は…………そういう自分と同じような境遇の人に共感して、助けてあげたいと思ってあげられる、そういう人だから好きなんだよ。
「そういえば危険を冒してまで取りに行かせた『獣狩りの剣』はどこに行ったの? 売るんじゃなかったの?」
「ああ、それなら裏に…………! 待って、シオンさん、少しだけ警戒してもらえる?」
「同感。盗み聞きしてる訳じゃないなら泥棒でしょ? レクセル、私が先導するから後ろからお願い。初級魔法なら攻撃系統も使えるから」
生活に役立つ魔法だけじゃ、誰かを助けるための魔法だけじゃ守れないと知ったから。
ファングに教えたらビックリしてくれるかな。
自分の後ろをレクセルがついてきているのを確認しながら後ろの倉庫のようになっている場所へと向かう。
何かが動いている音がする。
「と、止まりなさい!」
「………………………………」
「動かないでって言ってるでしょ!《連装小砲》」
命令を聞かないのなら攻撃するしかない。
レクセルは武器を持っていないし私だって強力な攻撃魔法は使えない。倉庫という場所もあって破壊力の高い魔法だと商品を破壊しかねないのもある。
後手後手になるくらいなら先手必勝だ。
「へえ? もう三つも同時に使えるようになったんだ。やっぱり【死者を囲う夜会 】なんだね」
「だ、だれ!」
「残念だけど今は教えられない。ノルン、適当に相手してやって」
「はい、マスター」
何故だろう、ノルンという名前を聞いたことはないのに懐かしく感じてしまう。
いいや、今はそんなことよりも逃げようとしてる青年を止めることが先だ!
「《遡及》からの《追撃》」
先ほど放った魔力を物理変換した弾丸が同じ位置に出現し方向のみ変化した状態で射出される。
しかし、青年に当たる前にノルンと言われた少女が鉤爪のような武器で魔力の弾丸を掻き消した。
こうなったら多少無理してでも…………!
まだ使いなれてない中級の攻撃魔法を使おうとするとノルンという少女は首から垂らされた小さな時計を向けてきた。
何かの攻撃かもしれない。
私は先ほどの《遡及》の魔法と同じような攻撃をしてくると考え、一度発動しかかった魔法を即行で解除して自分とレクセルの周囲に盾をイメージする。
しかし、
「じかん。おうちかえる。がう」
何のことかとすぐに確認すると時計が輝いて少女は間もなく転送されてしまい、後を追うことができなくなった。
「くっ、慣れない魔法を掛け合わせるのでも限界だったのに簡単に防がれた!」
「シオンさん、まずいよ! ファングが持ってきた『獣狩りの剣』が消えてる」
最初からそれが目的だったのか。
ファングが教われないようにするために回収したはずの『獣狩りの剣』がもう一度盗まれた。使うためだと考えなくて他に何の理由があるだろう。
「レクセル! 私は今すぐファングに伝えてくる!」
「まだ狙っているかもしれないから気を付けて」
その必要はない。
あの子は時計の時間を示して帰る時間だと言っていた。ここへ乗り込む前から設定されていた、彼女の帰宅する時間。
つまり、私たちが来ることまで含めて計算されていた。
──side????。
僕が転送して、魔力の痕跡が消える頃合いを予測して設置していた魔法は無事に発動した。
狼の少女はそうして戻ってきたのだ。
「よくやった。失敗作と違って君は優秀だね」
「がぅぅ…………なでなで、きもちいい」
「この後も少しだけ仕事があるからね。また無事に終わらせたなら頭を撫でてやるくらいやぶさかではないよ」
僕が見た【死者を囲う夜会】は既に覚醒の兆しを見せていた。
僕へ攻撃してきた際は部屋を明るくする魔法と後ろに居た男を守る防衛魔法、僕に向けて放ってきた《連装小砲》だって魔力を弾丸として作り出す魔法とそれを撃ち込むための魔法に命中精度を上げるための風魔法も補助もしていて使われていた。
同時に五つの現象を起こした時点で他の魔女を圧倒しているんだ。
その全てを捌ききったノルンを優秀と言わずしてなんと呼べばいい。
誇り高き狼というよりは従順に犬に近い。
頭を撫でてやっただけなのに目を閉じて微かに涙を浮かべながら恍惚とした表情で喘いでいるのだ。尻尾なんか左右に振れている。
つまり、それだけで興奮していて、その行為だけで彼女は僕に付き従っている。
ある意味、諸刃の剣。
「さて、次は【悪夢の魔猫】の相手をしておいで? 無理は禁物だよ」
ノルンはこくりと頷き、再び設置していた転送魔法が力を発動する。
この時計は便利だ。魔法を使えない彼女の代わりに一定の時間を設定しておけば転送に限れば四回まで魔法を自動発動させることができる。
視覚は僕の右目に共有しているからノルンの仕事の様子も把握できる。
さて、今回はどこまでいけるだろう。
あの【悪夢の魔猫】相手に互角に立ち回れれば上等、怪我をさせられたなら褒美を与えなければいけないほどだ。
結果が楽しみだ。
3
どうして自分はここまで同じような境遇の者に出会いやすいのか疑問には思った。
でも悪い出会いではなかったと、そう思えるだけの理由があった。
そうだろ、エル。
「帰ったぞ。留守番させて悪かっ…………た………………………?」
「あ、ご主人…………お帰りなさい」
お前、何で怪我なんかしてるんだ?
ただ留守番を頼んで、家事をしろとも仕事をしろとも頼んだ覚えはないのに、何で怪我をしてるんだ?
「おい、何があった! 誰がこんなこと!」
「ごめん、なさい。また、エル何もできなかった」
「そんなこと気にするな! お前を怪我させたのは誰だ! そいつが何をしたかどうかなんてどうでもいい。お前を怪我させたことが許せないんだ!」
「ファング! エルちゃん!」
扉を蹴破るような勢いでシオンが入ってくる。
腕から出血しているエルを抱えた俺の姿を見てエルへと駆け寄ると治癒魔法を使い始める。
そして手当てをしながらシオンは飛び込んできた用件を話した。
「レクセルの店から『獣狩りの剣』が盗まれた。私が応戦したんだけど優秀な用心棒がいるせいで何もできなかったの。店からはすぐに逃げたけど、ここに来たってことじゃないかな」
「エル、見た目を教えてくれ。シオンの見た奴と同じなら間違いなく俺らを狙ってるからな」
「耳、あった。ご主人と同じ耳が」
「狼か」
「レクセルの店に入り込んだのも狼だったよ。見た目はエルちゃんくらいの女の子なのに雰囲気は最初の頃のファングみたいだった」
つまり刺がある状態。
要するに魔法を扱えるシオンを難なく退けて、その足で俺の家に入ってきて元は殺し屋として仕事をしていたエルさえ怪我をさせられるほどの手練れ。
役割持ちが互いを認識し始めた頃にこれだ。無関係ではないだろう。
何より『獣狩りの剣』だ。また盗みに来たのが引っかかる。
「ご主人、エル悪い子だ。本当に、何もできない」
「昨日も言っただろ。お前がいるだけでも十分だって。もし罰が欲しいって言うならきちんと怪我を治せ。シオンの魔法は傷を塞ぐだけで動かせるようにするのは自分だ」
「そうだよ、エルちゃん。怪我が治らないことには何をしようとしてもダメ。私も許可できないよ?」
「……………………」
「エル」
悔しいのも分かる。
何もできなかったのも分かる。
いま、どうにもならない虚無感があることも分かる。
俺だって勝てなきゃ悔しいし、役に立とうとして失敗すると落ち込むし、それで自分の無力さに嘆くこともある。
でも、得意なことは違うだろ?
シオンが魔法において抜きん出ているなら、エルには別の何かがある。知らないまま命を無駄にするのはお粗末で、俺としても腹立たしい。
「なら、戻ってきたら罰ほしい。エルが、ご主人にとってペットなら、ちゃんとペットとして罰受ける」
「よし、じゃあ楽しみに…………いや、罰なのに楽しみにはおかしいか。じゃあ、覚悟しとけよ?」
「………………うん!」
さて、エルはこのまま調子が戻るのを待つとしてシオンはどうするかな。
連れていこうにも危険な相手なら心配だ。
「私は…………エルちゃんを見てるよ。足手まといになるかもしれないし、まだファングの横で力になれると思えないから」
「気にしなくていい。お前が傷つくのも俺は嫌だからな」
シオン、お前はいつもそうだ。
俺のことを気にしているせいで自分のことを信じきれずにいる。
でも、俺はお前のそこが好きで、そういう人のことばっかで自分のことを後回しにしてるところが大嫌いなんだ。
だから少しは答えてやりたい。
「! ファング?」
俺は不安そうな顔をしてるシオンを抱きしめた。
「ありがとな。お前の想い…………本っ当に嬉しい。なんか、素直に受け入れていいのか怖かったんだ」
「えっ?」
ちょん、とシオンの鼻先に自分の鼻先をくっつける。
こっちだって恥ずかしいんだよ!
俺が記憶に残ってる時間は長くないし、そんな中でシオンとの時間は長い方だ。
だから余計に恥ずかしくて真っ直ぐ見れないし、そもそもエルが見てるから大それたことができないんだからギリギリセーフの行動で終わるしかないんだよ。
ああ、なんかもどかしい。
自分からするのってこんなに恥ずかしいのか?
「な、何してるんだろうな俺は……っ! ほ、ほらエルの世話とか頼んだぞ! すぐ帰ってくるけど」
ほんとは分からなかった。
だって、エルが圧倒されるほどの実力を持ってるやつなんて俺は知らない。
ま、だからこそ、さ。
それっぽい見送りになってもいいんだ。
──罪人の遺跡。
シオンが出発前に投げ渡してきた小瓶。中には動物の毛と思われるものが入っていて、状況からどういうものかを察するのは難しくなかった。
エルを傷つけた女の毛だ。
おそらく追跡するために現場に落ちていた毛を拾っておいて持ち主の身体に回帰するように《遡及》し、小瓶の液体の中にある体毛は居場所を示すようにしたのだろう。
証拠として別の方向に進むと小瓶の中で毛の向きが変わる。
それにしても居場所が悪趣味だな。
エグリマの遺跡は俺が大嫌いな騎士団が封鎖している危険区域である。
「魔物がいない。全部殺して魔石にでもしたのか?」
ここにいた魔物は長寿で強力な個体が多かったはずだから魔法の研究には素晴らしい結果を与えたことだろう。
だが、それを狩れるだけの力を有した女?
上等だ。強い女なら自分を試すのに使えるし、それだけで終わらせてやるつもりは毛頭ない。
エルに与えた痛みを、償ってもらう。
と、俺が怒りを感じていると手元の小瓶が異様な反応を見せた。
さっきまで前方の遺跡の奥を示していたのに俺の方を示してるのだ。
そんなまさか、とは思ったがシオンの魔法に関して信頼しないのは間違ってる。あれだけの魔力を有しているのに生半可な魔法しか使ってないはずが無いのだ。
「ふっ!」
万が一を考え前方の離れた位置へと転がる。
真上から振り下ろしたら影になり、背後から突くように攻撃してきているなら距離さえ稼げば姿勢が崩れる。横からは俺の鋭敏な感覚がありえないと理解している。
選択は正しかった。
後ろから飛び掛かるように攻撃を仕掛けてきた何かは地面を滑り失速している。
「? きづかれた」
「お前が俺の大切なペットに傷を付けた狼か?」
「しらない」
そんなはずはない。
エルの腕や身体には深い切り傷があったんだ。それも感覚は一定であり、爪や牙で付けたにしては綺麗すぎる傷だ。
お前の付けてる鉤爪ならできるよな。
一直線で綺麗に深く切りつけることなんてさ。
「つぎは、ころす」
「俺の視界に入った時点で終わりだっての!」
「はやい」
見えている攻撃なら巨体で鈍い魔物よりも避けやすい。
小さければ素早く動いてもリーチや当たり範囲は狭く、大きければ逆。俺としては素早いものに追いつく方が大きくて運動量の多い魔物より戦いやすいんだ。
女もきちんと死角から攻撃しようと横に移動しながら壁や柱を蹴って立体的に仕掛けている。
それでもまだ遅い。
柱を蹴った際に砕けた破片を俺に向けて複数の方向から投げつけた上で必殺とも言える鉤爪攻撃を仕掛けようと女が土煙の中から飛び出してきた。
瞬間的な早さもあり完全に俺の虚を突いた攻撃である。
「甘いって言ってんだよ……!」
力を使うまでもない。
上側から飛び掛かってくるなら高く飛ぶか、軌道よりも下を潜るかの二択。
前者は隙が大きく後者は回避が怪しい。
しかし、俺の方が女より二倍ほど身体が大きいというところもあり、女の鉤爪が俺に届くより状態を後ろに倒して蹴りあげた足が女の身体を打ち上げる。
そのまま俺は後転して最中に身体を少し捻るようにすれば女が落ちるところも見ることができる。
「降参するか? まあ、俺を怒らせたんだからお前には地獄しか待ってねえけどな」
「それは困るな。ノルンは僕が作った中で唯一の完成品。彼女に何をするのも僕の特権だ」
真打ち…………いや、気配的には雑魚だ。
俺が女を蹴っ飛ばしたから少しでも隙を作ろうと前に出てきたのだろうか。
「こんにちは【暴食の化身なる狼】という作品くん。君の方から僕のところへ戻ってきてくれて嬉しいよ」
「フ、フェンリル? 戻るって何のことだ!」
「僕が作った作品の一つさ。数日で逃げ出すまでの知能を得たようだけどね」
作品だと?
じゃあ、俺の記憶がほとんど残ってなかったのは……。
「本当は君にたくさんの魔物を用意しておいたんだけどね。それに君が快楽に身を任せ増殖させると信じて雌もね」
「何の話を……っ!」
「分からないとは言わせないよ。僕は君に役割を与え、それは君に本能を与えた。食い物を前にした時に理性が押さえられなくならなかったかい? 雌を前にしたら身体が自然と行為を望まなかったかい? それが何よりの証拠…………、君が僕の作品である事実さ」
ふざけるな。
食い物に夢中になるのは生き物として当然で、女を前にして少しでもそんなことを考えてしまうのは雄の性だ。
誰かに作られたからじゃない。
だけど、なんで俺は焦ってるんだ?
役割を調べるために魔物を殺した時に感じた、あの感覚がこいつの言っている通りだと分かっているからか?
男は未だに苦しそうに横たえている女を示して気持ちの悪い笑みを見せる。
「ああ、そうだった。雌が欲しいならここにいるよ? この子は強いから君のものでも受け入れられるはずだ」
「だ、ま、れっ!」
頭痛がひどい。
でも俺の理性が途切れず、過去の記憶なんかより俺の頭に残ってる記憶を求めるのは、過去に戻ったところで誰かに支配されていた頃に戻ってしまうからだろう。
俺は自由がいい。
自由に生きて、自由に働いて、自由に人を愛して愛される生き方が俺の望んだ未来だ。
誰かの差し出した食い物なんかいらない。
誰かの差し出した雌なんていらない。
賞味期限切れの魔物を食うことになるくらいなら自分だ狩るし、シオンが作ってくれる料理の方が百万倍俺の胃袋を満たして幸福にしてくれる。
情もなければただ俺の欲情を受け入れるだけの入れ物を相手に盛るくらいなら俺を好きでいてくれる奴を愛して、そいつと長くてもどかしい時間を辿る方が新鮮だ。
だから与えられたものにすがりたくない。
「困ったものだね。身体は正直で理性で抑え込んでいるだけだろうに…………。ノルン、やはり【暴食の化身なる狼】は僕の手元には戻らない。殺していいよ」
「はい、マスター」
「てめぇの喉笛も喰い千切ってやる。逃げんじゃねえよ!」
「残念だけど手駒にならない作品は全て捨てると決めていたんだ。じゃあね、欲求不満の狼くん」
「っざけんな!」
攻撃が届かない。
足が前に出ない。
その場に、立っていることができない。
「ばいばい」
俺は結局のところ頭に血が昇りやすいだけで冷静に判断を下せていたわけではなく、たまたま運が良くてその場で最適な解を選択できていただけだった。
エルを怪我させた奴等に復讐する。
この目的だけが頭にあった俺は一つ、大切なことを忘れていたのだ。
レクセルの店から盗まれた『獣狩りの剣』の存在。
さっきは俺より遅くて、攻撃を当てられなかったはずの女が普通に、目で終えるはずもない一直線上を一気に駆けた俺の背中を突き刺したのだ。
力だって十分にある。
何故だろう。さっきまでと全然、別の人間と戦っているみたいだ。
「ああもう、最悪の気分だくそったれ」
俺の身体から血が抜けていく。
せっかく蓄えたのに止まる様子も見せずに、遺跡の床をどんどん赤く染めて、その部屋を真っ赤なカーペットが敷いてあるみたいに染めていく。
また、蓄えなきゃいけない。
そうだよ、また喰わなきゃいけないだろうが。
「?」
「こんな細い剣なんて…………っ!」
「おれた。まずい」
当たり前だよな。
お前のマスターはなんて言ってたんだ?
俺は【暴食の化身なる狼】なんだろ?
「お前の腕を寄越せ」
「…………ガウッ!」
回避した所で意味がない。
俺がただ噛みつくと思ったなら少し甘い。
俺が口を開き牙を鳴らしたところから直線上にお前の左腕があるんだからな。
そんな、暴食なんて言葉が付くような名前なら、こんなに馬鹿みたいに必要ない魔力を持ってるなら何かしら使い道があるからとしか考えられない。
食うことで魔力を回復し、喰らうことで魔力を使う。
俺の役割は片っ端から世界を喰らうことだ。
「うう、いたい。もうかえる」
「! 条件付きの転送魔法……」
こればっかりは見破れないし止めようもない。へたに止めようとしてしがみついたり腕を掴んだりすると自分の身体の一部まで転送されてしまうことになる。
それはごめんだ。
結局、奴等の目的も自分が何者か確認することもできなかった…………訳でもなさそうだ。
「あの男、わざと落としたのか?」
絶望しろとでも言いたいようだ。
俺は男が立っていた場所に落ちていた紙切れを拾うとそこに書かれている文字を読んで言葉を失う。
『【暴食の化身なる狼】は人の死骸と魔物の血液に野生の狼を材料に作った。生きるために喰らい続けるものであり…………』
つまり、俺は人間でなければ魔物でもない出来損ないだ。
これが真実ならエルも、何かしらの役割を与えられてるなら同じような生い立ちになるかもしれない。
『なお、作品毎に作成方法は別であるため、敵対関係が成り立つ』
憶測だろうと悪魔の所業をしたのに違いはない。
俺は絶対にあの男を止める。目的がどこにあるとしても俺やエル、それにシオンやエトを作った本人だと言うなら俺は奴を許しはしない。
だけど、今は少しだけ眠らせてくれ…………。
食らった者の血液を代用したとはいえ、身体に流れていた血液の三割ほどを失った俺は意識が遠くなり、せっかく奴等を撃退したというのに気絶してしまった。
──sideエル。
ご主人は三日くらいで帰って来た。
私の知ってる姿とはだいぶ違った状態で。
「大丈夫?」
「あ、ああ……」
遅くなった理由を聞くと気絶してしばらくの間、目を覚まさずにいたという。
それから目を覚まして、止血して包帯を巻いたご主人は自分の足でラプトに戻ってくると真っ先に私の顔が見たいと家に戻ってきてくれたそうな。
嬉しいけど、自分が惨めに思える。
ご主人は私のためにここまでしてくれたのに、私は何もしてあげられなかったのか、と。
昔から何も変わってない。
そう思って私が耳をぺたりと伏せて落ち込んでいるのがご主人に見られてしまったらしく、ご主人は私の頭に手を置くと目を合わせただけで震えてしまいそうな怖い目をした。
「ご主人?」
「そういえば罰が欲しいんだったよな」
「…………」
約束は約束だ。
でも、まさかこんなタイミングで言われると思っていなかったから私は激しく動揺してしまい、怖い目で睨んでくるご主人が怖くて距離をおこうとした。
でも、それは間もなく止められる。
ご主人が私の肩を掴むと耳元で囁くのだ。
「怯えるなよ。悲しくなるだろ」
「だ、だってご主人ここ、怖い…………にゃっ!」
耳を掴まれた。
痛くはないけど自分の身体では一位二位を争うほど敏感な場所を乱暴に、遠慮なしに掴んできた。
「まったく、その年でヘンな声まで出してお前こそ真性の変態なんじゃないか?」
「そんにゃこと、にゃぅっ!」
「役に立ちたいって考えは合ってるぞ」
どうしてこのタイミングで?
「お前が努力する姿は可愛い。俺に耳を触られただけでにゃんにゃん鳴いてる姿も可愛いと思う。でも、どんなことがあっても不可能に手を出すのは止めておけ?」
可愛いと連呼した後でそれはずるい。
今までになく裏表のない愛情表現をしてくれるご主人を前に頑張らないなんて選択肢はないのだ。
少なくとも、私は何の役にも立てていない。
「さてと、お前は怪我もしていたことだし無理はさせたくないから今回の罰は軽めにしてやるよ」
私は何をされるのか分からないが罰を受けるのは当然のことと思い、ご主人の正面に立った。
殴られるか、蹴られるのか。
もしかしたら延々と説教を続けるのかもしれない。
それでも、我慢できる……………………そう考えていた。
「ガウッ!」
「ギニャッ!?」
突然押し倒された。
「今日の罰は俺にひたすら弄ばれる気持ちを知ることだ! お前が泣いて詫びるくらいペロペロしてスリスリしてやるから覚悟しろ!」
え、えっ?
何で私は脱がされるの?
ご主人は私の服を脱がして下着のみを残すと大きくて怖い牙の並んだ口を開くと噛みつくのではなく、舌を出して私の顔やら何やらあちこちを舐め始めた。
一言で破廉恥な行為だ。
しかもこれでもかというくらい力強く抱き締めて自分の匂いかご主人の匂いか区別がつかなくなるほどに匂いを擦り付けている。遠慮なんてしてないし躊躇もしてないから色んなところが、本当に色々な所が当たったり離れたりしていて私は恥ずかしくてパンクしそうだった。
私自身がそうしたいわけじゃないのに、ご主人に私の身体が抱き締められていると考えると余計におかしくなりそうだ。
「お前は本当に理解力に乏しいみたいだからな。罰は罰だけど今回だけは特別だぞ」
「にゃ、にゃっ! にゃんのこと?」
「大切にされてるってことを理解しろ。お前が、いなくなったら俺の心がぶっ壊れるくらいには大切なもんだってことを理解して黙ってにゃんにゃんしてろ!」
難しいことは分からない。
言葉から読み取れたことと言えば私はにゃんにゃん言っていればいいことと、私がいなくなったらご主人が心を……………………心を壊す?
それは乱心するということでいいのだろうか。
「わ、わたしにゃんかが…………大切?」
相変わらずご主人のペロペロもスリスリ激しいので声が上ずってしまうし頻繁ににゃんにゃん言葉になってしまうのが恥ずかしい。
「エル、自分なんかなんて考えを捨てろ。どんな奴にでも好くやつはいるし、お前は自分で思ってる以上に好かれる可能性は持ってるんだぞ」
そんなことを言われても信じていいのか分からない。
「今日は徹底的にペロペロして、スリスリしてマーキングしてやるから立場を理解するんだな。お前が少しでも自信を持ってくれないとお前のことを可愛いと思ってる俺の目がおかしいと思われるじゃねえか」
本当の本当にご主人は私のことをそう考えてくれているのだろうか。
いや、もはや疑う余地はない。
恥ずかしいけど罰は罰。
そう認めて私はご主人のペロペロにもスリスリにも抵抗することなく受け入れたが、ご主人はその日、日が暮れてしばらく経つまで私を解放してくれることはなかった。
身体中ベタベタで、耳も尻尾も触られたから身体が過剰に反応してしまうので何をしてもビクッと震えてしまう。
でも、今はこの染み込んでしまった匂いが好きだ。
私の役割はご主人に愛されて、ご主人に少しでも癒しを与えることができたら完結されるんだ。
「ご主人、下着返して」
「身体洗ってからな」
「!? ギ、ギニャッ!」
エスカレートしていくうちに結局下着なんかいつの間にか脱がされていたし、マーキングというから洗わないものだと思っていたのに洗われる?
そうして私はご主人に洗われながら泣き叫ぶのでした。