第91話 府中動乱⑦
「静かでいいわね」
………
「駅の中は人気があるけど、外は静かね。私の育った街は田舎で都会の喧騒とは無縁で木々の揺らぎや動物の鳴き声がね、よく聞こえたの。子供の頃はそんな何もない街が嫌で東京で暮らすんだーなんて言って実際に住んでるけど…、こう年を重ねるとあの何もない街が恋しくなったりするのよね」
………
「東京は……そりゃ楽しかったけど辛いことの方が多かったし、この10年だって楽じゃなかったから。あなたにもそういうノスタルジーな話はないの?」
………
「………」
………
(もう、息が詰まりそう)
「私達は待機要員よ。何かあればののさんや真澄さんから連絡があるから私達はそれまでここで街に徹しつつ業君を府中から出さないようにする。そうでしょ?雑談ぐらいしてても問題ないしそうピリピリさせるとこっちがやりづらくなってしまうのよ」
「……はい、分かってます」
(その言い方が分かってないわね。まあオーラだけで貧乏ゆすりではないから気にしなければギリ耐えられるけど)
久留間紗穂と能登八散は府中駅で待機要員としてのの達が任務を遂行するのを待っていた。
改札には目を向けて白衣の男、彼女達が言う『業君』が府中から出ないように見張も兼ねている。
「私達は……」
少しは鳴りを潜めた八散が話し始める。
「私達はどこに向かうんでしょうか」
(行き先、ではなく方針って意味かしら?)
「…そうね、お嬢様はどうにかして所長を目覚めさせたいみたいだけど、それでその後はどうなるのかしらね。目的のために私達は人間を人間以下にして超能力の強化のために色んなモルモットに自分の能力を使ってきた。私の日帰り旅行やあなたの治癒活性もだしののさんや真澄さん、那由多に千羽ちゃんもね。もう、私達は引き返せない。そもそも超能力者になった私達は既に人間の枠の外側にいるわ」
どうしようもないこと、どうしようもないから主君にただ従って生きている。
お嬢様がいなくなった時、目的を失った時、私達はどこに行くんだろう。
あの頃のような屈辱に塗れた生活を送るのかしら…
♢♢♢
府中駅北西部、甲州街道歩道沿い
「はあ、はあ、あーいやいや。汗はかきたくないわね。自業自得とはいえこんなに暑いと何も出来なくなっちゃうわ」
羽原ののは鬼束兄弟を飴奴隷と共に追っていた。
甲州街道に出たことで車通りが多くなったが、タクシーはそう簡単には捕まりそうにない。
(私がよしんばタクシーで先回り出来たとしても、私じゃ彼等を拘束出来そうにないわね)
逃げている連中は未だ超能力を使ってくる気配がない。
こちらを敵と認識しているのは間違いなく超能力者のはずであるのだが。
(いいわいいわ。大通りに出て車も多くなってきたから色々やりようはありそうね。全く、人混みに紛れてとか思っちゃってるのかしら?浅い考えね)
ののの足がゆっくりになる。
「あなた達、私の言うとおりにしなさい。そうすれば格別なキャンディが手に入りやすくなるわよ」
(手に入るとは言ってない、ってね?)
最後尾を走っている実録が後ろを見やる。
こちら側の走る速さは変わっていないが、飴奴隷と距離が離れている気がする。気のせいか、追っている人数も減っているような…
(二手に分かれたか?けどこちらは直線上に逃げてるから別ルートはそのまま遠回りになるぞ)
北府中を目指している以上、どこかで甲州街道の向こう側に行かなければならないが相手はそんなことを知らないはず。このまま真っ直ぐ進むと考えるはずだが、奇妙だ。
(なんだろう。ただの追いかけっこで済まないような、簡単なケアレスミスをしているような)
ドクターからの事前情報で彼等が薬漬けにされた廃人であることは知っている。
実際に相対した時もその悍ましい姿に喉がキュッと締まったのを感じたくらいだ。
だが、廃人だから与えられた命令に従う以外の全てを喪失しているはずだ。
だから問題ない、と。
そう結論付けるのも無理はない。
普通であればそうだろう。
だが、彼等はただの廃人ではない。
喪失したのは人間らしさである。
人間らしい知性や五感の話ではない。思考、倫理観の問題である。
逐一後ろを確認しながら逃走を続けている鬼束一行であるが、再度見るまでのラグが空いていたために発覚が遅れてしまった。
乗用車が1台、こちらに向かって速度を上げながら近づいていた。
(嘘だろ!?)
耳栓をしていたために音で気付くことが出来なかった。
市丸と丹愛はまだ気付いていない。
ここから急いで肩でも叩いて後ろを見てもらって現状を認識してもらって横でも上でも退避する、なんてとてもじゃないが間に合わない。
(クソが!なりふり構わずかよ)
神岐対策で耳を塞げば、仮面の集団の奇襲への対応に遅れる。仮面の集団に気を割き過ぎると神岐がハメてくる。
クソゲーだ。
(こっちも手を汚すくらいなりふり構わなくならなきゃ逃げきれそうにないな)
向こうが大通りで車の往来が激しいから車を使った特攻が出来る。
ならばこちらも大通りで人の往来が激しいから出来ることがあるのだ。
鬼束兄弟が逃げているが、周りには普通に人もいるし車も走っている。
何で同じ顔をしている人達が走ってるんだろう。うわ、なんだあの変な仮面の集団!
と、ちゃんと第三者は存在している。
(神岐も周囲の人間を操って丹愛兄と戦ったみたいだし、命の保証はないが、すまない)
男子高校生だろうか?幼顔でスクールバックを肩に提げている制服の男子の肩をすれ違い様手で触れる。
男子高校生も突然肩を触られたため何事かと後ろを振り向こうとしたが、実録の氷鬼によって体も首を動かすことが出来なくなったため後ろを振り向くことが出来なかった。
そしてすぐ気付く。
こちらに目掛けて突っ込んでくる車に。
(うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ)
声すらも出ない。いや出せない。
目の前から来る車を、何も出来ずただ受け入れるしかない。こんな、こんな残酷なことがあるだろうか?
生きられたとして、この残酷さは少年の心に永遠に残ることになるだろう。
ズガァァァァァァァァァァン
車は少年と正面衝突した。
激痛が少年の全身を襲う。この痛みにより少年の意識は既になくなっている。
そして一方の自動車だ。轢き逃げでもなく少年の手前で停止した。
エンジンやアクセルが故障したわけではない。
目の前の少年を動かすことが出来ないのだ。
だが、一旦バックして少年を避けて鬼束達を追うなんてまともな思考を持たない飴奴隷はひたすらアクセルをふかし続けている。
(氷鬼で動きを止められている間は動くことが出来ない。それと同時に誰にも動かすことが出来ない)
物理的な力では固定されている対象は動かせない。この仕様が今回は功を奏した。
車は一度止まらざるを得ない。そして思考がないやつならひたすらアクセルを踏み続けて実録が瞬きをするまでその場で足止めすることが出来る。
(この方法なら周辺のものを固定させれば特攻には十分対応が出来る。あくまで俺が対応出来る後ろ側だけだが……)
こんな非人道的な特攻を仕掛けて来るような連中だ。こんな簡単には終わらないだろう。
まずは市丸兄と丹愛兄に伝えなくては…
ズガァァァァァァァァァァン
強烈な音。
(やったのかしら?)
飴奴隷をコントロールして車で特攻させるようにしたが、この音は衝突した音で間違いないだろう。
ののは飴奴隷に車を強奪させてようやく涼んだ空間で過ごすことが出来るようになった。
今は自分自身で運転しながら鬼束達を追っている。
飴奴隷なんぞに運転を任せたら命がいくつあっても足りない。
(AIの自動運転が主流になったとしても、結局はハンドルを握る方が安全だって思えちゃうのよねぇ)
結局、他人に身を委ねるってのは相当の覚悟がいるようだ。
(車が凹んでいる。当たったのは…向こうで体が変な方向に曲がっている彼ね。死んではいないみたいだけどあれじゃあそう長くはないわね。八散の治癒活性なら何とかなるだろうけど…。まぁいいわ、大事なのは現象について)
人の容態より車の状態の方が今のののには大事なのだ。
(ここまでの凹み…、人を轢いたにしては不自然な凹み。重く、固い物を轢かないと出来ない状態。けど、この車はあの肉塊にしかぶつかっていない)
細長い電柱にぶつかりでもしなければ発生しない現象。
これだけの事象があれば今自分達から逃走している3人組が超能力者と結論付けても批判は出ない。
というか一々無能力者であることを仮定する必要性が皆無だ。
上げすぎも考えものだが低く見積もると手痛い目に遭ってしまう。
(人間を重くする能力、動きを止める能力。こんなところかしら。どちらにしても飴奴隷や私の動きを封じることが出来るわね。重くする能力なら筋肉が千切れてでも力づくで動かすことは出来るけど後者なら力技では抗いようがないわね)
車にぶつかっても不動を貫く拘束力。ののの超能力では対抗出来ないだろう。
だからと言ってじゃあ諦めましょうなんてことにはならない。
(結局のところ吹っ飛んでいる。拘束のキャパが衝突の勢いでオーバーした…ってならここまで凹んでいないはず。ぶつかってそれでも固まって、そして吹っ飛んでいる。この時間差が攻略の糸口になる)
♢♢♢
超能力とは、特殊な電流を脳に流し込み活性化することで得られる異能である。
しかし、異能といえど全能になるわけでもなく、全知になるわけでもない。
超能力者になって脳が活性化されていても昨日の夜ご飯は忘れるしコタツの電源をOFFにしたかどうか分からなくなることはある。
万能ではないから必ず穴がある。
無敵の超能力は存在しない。
知恵と工夫で無敵に近付けても、決して100点になることはない。
♢♢♢
「はぁ、はぁ」
ヒールじゃなくて良かった。
ヒールではとてもじゃないがここまで走れなかっただろう。
戸瀬奏音は現在小国魂神社を走っていた。
目的地である黒煙発生源に行くには何も神社を通る必要はない。
府中街道を北上してその後右折すれば問題ないが、遠回りになってしまう。
罰当たりかもしれないがここは神社を通ってショートカットした方が早いと戸瀬は考えた。
何よりも……
(暁美は絶対、ぜーったいこっちを通ってるはず)
神岐のこととなると周りが見えなくなる彼女のことだ。
罰なんて1ミリも考えていないだろう。
自己の目的のために周りを一切顧みない。
神岐と出会ってから、親友は何かおかしくなってしまったようだ。
(だからって神岐を恨むのは筋違いだけどさ。どっちかって言うと暁美よね。言い方は悪いけど私が今こんな危険な状況にいるのは暁美のせいなんだから)
じゃあ助けに行かなければいいじゃん。と言うやつはおそらく頭が馬鹿である。
そういうことを言っているのではない、ということは分かるはずだが。それこそ直線的な危険な思考である。
(護衛の人によれば神岐がこちらに向かってるらしいけど。全く、王子なんだからさっさと助けに来なさいよね)
そんな悪態を心の中で吐きながら、神社の中を走っていく。
「これは、一体……」
そう小言が出るのも無理はない。
護衛の男にとっては暁美が襲われているとでも想像していたのだろう。
そもそも神岐は暁美と奏音に詳細なことは何も伝えていない。ただ府中は危険だからすぐに脱出してほしいとしか知らされていない。
だからイメージは出来ていないが、おそらく今ここで倒れている悍ましい醜い表情をした集団が危険を指しているのだろう。
問題は、その危険人物達が倒れていることなのだが…。
「誰が、こっちに仲間は来ていないはずだが…いや、しかしそれでは…」
まさか平原暁美がやったとでも言うのか。
護衛は認識誘導で神岐の支配下にあるが、自分の意思を全て掌握されているわけではない。神岐の指示に従わされているのではなく従うことが当たり前であると、洗脳のように刷り込まれている。
茹でたとうもろこしは手掴みで食べるだろう。
それが当たり前。
しかし、親が箸を使って一粒一粒食べるような自然を大事にし過ぎている家庭で育ったのならば、大人になってとうもろこしを食べる時、何の疑問も持たず箸を使うだろう。
護衛の男はその当たり前に侵されていた。
赤ん坊の頃からの習慣として、人間が夜眠るように、体に刷り込まれ、頭は通常の電気信号を発していた。
だからこうして物を考えることが出来る。
そこら辺が甘魅了との違いなのだろう。
「おそらく暁美ね」
自分の仮説が正であったと隣の女性は言っている。
「私も含めてだけど、護身術は最低限仕込まれているわ。淑女の嗜みとしてね。殴る蹴るなんてのは無理だけど。だからこそ……」
奏音は倒れ伏している集団から少し離れた、木の陰に見えにくいように隠されている男を指差す。
男も指差す先を見るが、そこには身なりが整えられた男性が血だらけで倒れ伏していた。
「こいつは!?駅員。暁美様を追っていた駅員か!?」
改札を強引に突破した暁美を捕まえるために暁美を追った若い駅員がいた。
今倒れている男で間違い無いだろう。
うっすらだが手が白く見える。
駅員が付けている白手袋と同じだ。
倒れている仮面の集団と駅員、ここにはいない暁美。
「いや、それではおかしい」
男は気付く。
「暁美様がこの男達を倒したのが事実だとして、ではあの駅員を倒したのは誰なんだ!?」
「時系列的に仮面の人達ではない。後から神社に来た駅員が倒されている。倒した人間は暁美でも仮面の人達でもないのなら……」
駅員を倒した人物がどこかにいる。
咄嗟に奏音の前に体を出す。
360度警戒しなければならないが、とにかく後ろに控えさせなくてはならない。最早反射であった。意味がないと分かっていても。
「どうするの?」
「このまま奏音様が府中本町駅に戻っていただくのは「却下」…ですよね」
関わった時間は短いがこんな会話が出来るまでには打ち解けてしまった。不本意だが。
ある種の吊り橋効果に近い物を感じる。
「ここで警戒するよりも暁美様と合流された方が幾分かマシです。大事なのはあなた方に駅に戻っていただくことですから」
こんな爆心地にいたらどこでどうなるか分からない。中心に行くというのなら、行かせてやろうではないか。
「府中本町駅には戻れそうにないけど、暁美が」
電車に乗らずに出たわけだから無賃乗車ではないが、入場料を払っていないのは事実。駅員に捕まれば警察も出てくるだろう。
「…」
護衛の男も何も言えない。おそらく戻る行為は自首と同等だろう。
「電車は難しいから別の手段を使うことにするわ」
「別のなんて無理ですよ。陸路はこいつらが虫のように湧き続けています。電車が唯一まだ平気な交通手段なんですよ」
「陸路は、ね。神岐から聞いているかは知らないけど、戸瀬不動産と平原家はヘリコプターを所有しているの。さっき暁美が家の人間に連絡してたから間違いなくヘリで救援に来るわ。時間はかかるでしょうけど」
ヘリコプター、空路だ。
空は、人間には届かない。
頑張って歩けば調布飛行場があるだろうがそこに辿り着くためには陸路を使わなくてはならない。だめだ。使えない。
ヘリコプターならどこかしら大きい平地があれば離着陸が出来る。
電話をしていない奏音には推測の域を出ないがほぼ100%来るだろう。
あいつらマジで過保護だから。引くほどに。
「まだヘリコプターが来るまで時間がある。さっさと暁美を回収して私達は優雅に去るわ。神岐もそれで納得するでしょうよ」
奏音は再び走り始める。
後ろに下げさせたのにまた前へ飛び出していく。
「早くしなさいな。暁美がどうなってもいいの?神岐が殺しにくるわよ」
なんとまあ洒落にならない脅しだこと。
「…えぇまあ、そうですね。急がねば。暁美様がいくら護身術に優れていようと、数の暴力と倫理観の欠如には太刀打ち出来ないでしょうから」
♢♢♢
府中の町は飴奴隷と催眠人間しかいないわけではない。
競馬場はレースを見るために沢山の来場者がいるし、コンビニなどの商業施設にも人はまだまだいる。
行動を起こしているから目立っているのであって実際の数字は圧倒的に少数なのだ。
東京競馬場の入り口と甲州街道で猛威を振い始めている飴奴隷だが、それ以外の場所ではどうだろうか?
指示は受けているが、現場の指揮官がいない。
微調整が出来ない。そして、獣以下には微調整を行う頭などとうに失われている。
それが目的でもあるが。
となるとだ。
微調整が行われない獣達はどう動く?
ひたすら真っ直ぐ進むかもしれない。
曲がり角を見つけるたびに右折して同じところをぐるぐる回るかもしれない。
あみだくじのようにジグザグに進んであらぬところに行くかもしれない。
4足歩行になるかもしれない。
その場でのたうち回るかもしれない。
予測不能。
故に厄介。
「ぅぅぅぅぅぅ…」
「あわあわあわあわあわあわ」
「diejsjwjsicchshanqpdlccnxbdhwjfktjdjwq」
ギコーナ府中店の1階には明らかに異様な集団が来店していた。
ホームレスが全く来ないわけではない。ホームレスといえど年がら年中0円生活をしているわけではない。
ホームレスでもない異質さ。それはその集団が付けている仮面が異質さを際立たせている。
客は怯えている。
お店の人としては周りが怖がっているから早々に帰ってほしいが、何もしていない以上追い返すわけにもいかない。
これがとんでもなく異臭を放っているだとか、ドレスコードにそぐわないだとか、競合他社の息がかかった者だとかであればマニュアル対応で事足りるが、そのどれにも属さない。
分類不可、マニュアル社会の天敵。
分類不可が出るとそれを新しく定義しなくてはならない。分類不可用の対応を上司に仰がなくてはならない。即興で対応しなくてはならない。
面倒だ、と心の中で思っているのはギコーナ府中店の今店にいる従業員の中で1番偉い溝端だ。
インカムで状況は聞き及んでいるが、正直応対したくない。
1階にいる人間に指示を出しても誰もやりたがらない。
誰が好き好んでやべー奴と追い返すなんてことをする。
(偉くなるのはマイナスだ)
出世すればするほどそれを実感する。
倹約、子なし、安いアパートであれば新卒の給料でも生活出来る。あとは年功序列的に上がっていった分は後期高齢者医療保険に振り分ければいよいよ困るものはない。あるとすれば友人の冠婚葬祭、親戚の子供からのお年玉くらいだろう。これもまた人間関係を狭めれば対処可能だ。
そんなことを考えながら表情には出さずに、努めて仕事人としての、役職持ちとしての責務を果たす。
「いらっしゃいませ、ご来店誠にありがとうございます」
先制のジャブ。接客業的に言うのならファーストコンタクトとでも言うべきだろうか?
とにかく挨拶から始める、何事においてもまずはそこからだ。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
仮面の反応は変わらない。
ジャブを与えている間も声が途切れることはなかったからそもそも聞いていないのだろう。
仮面の奥は見えない。こちらを見ているのか?見ていないのか?見えていないのか?
クソガキの黒歴史ぐらいなら大人の対応という名の警察を召喚すればいいが、聞こえてないなら警察という単語が脅しにならない。聞こえていないほどのやつはそもそも警察という単語を理解しているのだろうか?
よって残されるのは強制的に引き摺ってでも施設から追い出すこと。追い返すではない。
(下手をするとスマホで動画や写真がばら撒かれて一気に店の評判が下がってしまう。かと言って放置していれば『見て見ぬ振りをした』と叩かれる。つまり、この役職に就いた時点で詰んでいると……。全くもって冗談じゃない)
どう動こうが必ずマイナスになることをしなくてはならない。
(この仮面の人達が襲って来て俺を一撃で気絶でもさせてくんねーかなー。そうすりゃどっちの対応もしなくていいのに…)
ヤケではない。相手に手を出させて被害者面をする。理に適っているだろう。『あいつ弱!』ぐらいのレッテルなんざ屁でもない。弱いことはクビには繋がらない。
逃げたら一族郎党ハラキリだが勇敢に戦えば負けても評価が上がる。
「大丈夫ですか?お身体が優れていないようですが?」
二発目のジャブ。既に会話が成立出来ないことは分かった。ならばこちらのペースで物事を進めるだけだ。
返事が出来ない=体調不良と結び付けて警備員に救護室まで運んでもらう。担架でも肩を使ってもいい。とりあえずここからどかして『もう心配はございません』と通常の客に宣言しなくてはならない。
下手な抵抗な発言をされたら話が拗れそうだったが、これなら問題なく事が運ぶだろう。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
やはり変わらない。聞こえてすらいない。
面倒だと内心舌打ちをしたい気分だがあとは警備員を呼ぶだけだ。
溝端は左耳に取り付けているインカムの先、マイクの位置を調整する。
「こちら溝端、1階にて体調不良の方10名。担架を持って来てください。数が足らない場合は誰か一緒に救護室まで運んでくれる方を連れて来てください」
会話の宛先は警備員も含めたこの施設に働いている人全員。
自ら率先してやりたがらないが命令とあれば動かざるを得ない。
名指ししてもいいが、ここで名指しすると遺恨が残る。仕事上しょうがないなんて理由は意味ない。『なんで私、俺が』とぶつぶつ文句を言い出すに決まっている。
(んでもってお前がやれよってか)
警備員はすぐに来るだろう。
(さっきより野次馬が増えたな)
店側がどう対処するのかを見たいのだろう。
そんなのどうでもいいから早く買い物して金を落とせこの野郎。
どうにも悪態が止まらない。それだけイライラしているということか。
(今日は珍しく酒でも買って帰るか。なんか近くで煙が出たとかなんとかで客足が遠のきそうだし、今日は厄日だなこりゃ)
煙の発生場所はここからそこまで離れているわけではないが元々の煙の勢いが大きくはないため避難の必要はなかった。しかし近くでそんな騒ぎが起こっているのに呑気に買い物をする奴はいないだろう。煙の火がこっちにも来るんじゃないだろうか?なんてありもしない話に踊らされて今日はもう帰りましょうか、なんて判断をする人が少なくはないだろう。
何より府中駅からここに来るには黒煙を通らなければならない。わざわざ遠回りしてまで来るとは思えない。
(酒だけじゃなくツマミも一緒に買うか)
ストレス発散は何も大金を使うだとか旅行に行くだとかの目新しさとかはいらない。
日常が小さければ小さいほど、贅沢は反比例のように膨らんでいく。
酒を飲むのは大人なら至極普通であり珍しくもないだろう。飲酒は飲まない方が少数だ。だから大多数は酒を飲むことを贅沢に出来ない。
酒を飲む以上の刺激を求めてしまうのだ。
というのがこの男のデフレ理論だ。楽しさのインフレは行き過ぎると日常を灰色にしてしまう。慎ましく生きるだとかミニマリズムとかに近い考え方だろう。
「溝端さん」
警備員が何名かやってきた。
何人かが担架を背負っている。
警備員達も仮面の集団を見た途端思わず苦い顔をしていた。はずれくじを引いたと気づいたらしい。
「意思疎通が困難だ。とにかく安静出来る場所まで運びます」
安静とはこいつらではなくその他の客のこと。
「承知しました。おい、施設中から運搬出来るものを片っ端から持ってこい。数が多い」
今ここにある担架では全員を運ぶことが出来ない。最悪台車でもショッピングカートでも運べそうだが非人道だと言われるかもしれない。
「大丈夫ですよ。さぁ、掴まってください」
担架に乗せるために溝端、警備員は仮面の集団の肩に手を回す。
言語機能がぶっ壊れている人間に近付くわけだから異次元の言葉を間近で聞くことになる。それは聞くに耐えないが、今だけの我慢だ。
肩に手を回すには自然と触れてしまう。異臭はしない、それについては何ら問題ない。抵抗はあるが触れる。だがそれはこちら側の話だ。
触られる側はどうなのだろうか?
「ぅぅぅぅぅぅ!っ!!」
ワンパターンに呻き声を上げていた男が初めて反応らしい反応を起こした。それは警備員が肩を回すために体と体が脇下で接触した時だった。
触覚でようやく人の存在を認知したのか?と溝端は思っていたが、どうも違う。静電気のパリッとした衝撃で思わず体を反射的に震えたように感じた。
驚きと不快感
触られることを良しとしない反応だった。
「ぅぅぅぅぅぅぅ」
今までの呻き声とは違う。怒りが噴き出す前のような堪えるような声だった。我慢しているのか、怒りの発露の助走期間なのか。声は少しずつクレッシェンドに大きさを上げていた。
(触られたくない系か?そんなナリで潔癖症?知ったとこか。親切に飯振る舞われといて「アレルギーあるんですけど」なんて後から言われるイラつきかオォ?)
小さな幸福を満たすネット掲示板のノリが思わず出てしまう。
コミュニケーションを取れないことにより一層擦り付ける。悪意と伝わらない範囲でだ。しっかりと密着されて連れ立っている。たかが30センチメートルも離れていない担架だが、スルリと抜け出て頭でも打って障害が残ればこちらが悪者になってしまう。頭を打つ前から意思疎通は困難だったかなんて証明のしようがない。弁護士あたりに突っつかれそうだ。冤罪事件に巻き込まれた気分だ。やってないのにやってないことの証明をしろという。逆ではないのか?推定無罪の原則があるのならやったことの証明がなければそれは無条件にやってないことになるのではないのか?まさか「この人痴漢です。触られました」だけでやった証明になるなんて馬鹿なことはないだろうな?
警備員が既に持ってきた担架を展開したようだ。
後は肩に預けさせている男を担架に寝かしつけるだけ。
後は、それだけだった。
悪意を持っても緊急事態だ。30センチ。分もかからない。
ドスリ
と、何かに突き刺したような音が聞こえる。
異変に気付いたのは溝端だった。
腹部に違和感を覚えた。
ドスリ
まただ。
別のところからか?
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ、ゔゔゔゔゔゔゔゔゔ」
声なき叫び、慟哭。
限界だったのだろう。触れられるだけでも我慢ならないのにさらに引きづられるように運ばれるなど。他者からの干渉への絶対の拒絶。
全て、全て…
魅惑のキャンディ以外からの刺激は全て地獄の業火へと変わる。
溝端は気付いた。
一つは別の仮面の人間を運んでいた警備員からだった。
警備員が突然全身の骨が急になくなったかのような、デロンと体が崩れていく。
警備員が肩を貸していた仮面の人間の右手にはハサミが握られていた。
コンビニなどどこにでも売られている大量生産品だった。
刃は赤く染まっていた。原料は分かりきっている。
仮面の人間が警備員をハサミで刺したであろうことには。
そしてそれは自分にも同じことが言えるだろう。
腹部に目を向けたくない。
だが、もう意識は途切れかかっている。
見たくない。注射ですら目を背けるというのに、分かりきっている。見たくない。見たらその瞬間にショックで死んでしまいそうだ。
だが……
(何も分からず事切れるってのは安楽死的で幸せなんだろうが、気付いちゃってんだよなぁ〜。死ぬかもしれないなら、モヤモヤを抱えたまんまじゃ、地獄に行けやしないよなぁ?)
分かりきっているが、ゆっくり自分の腹部へ頭を下げる。だんだんと痛みが効いてくる。痛みを信号としてようやく受け取ったのか、はたまた出血が今始まったのか?
やはりというか何というか…
臍の上辺りに思いっきりハサミが刺さっていた。警備員のと同じメーカー同じ色だ。
(ま、だろうな)
分かっていたことだが目にしたことでモヤモヤは消えた。
もう、立つことを維持出来ない。
見てしまった故だが、意識を保っていた何かが消えていく。
(滅多にない経験だ。生きてたらスレでも立てよう)
そんなのが最期の言葉になっていいのかと言われたら否であるが、遺言が生きた後のことありきだったら、ワンチャン生きられるかもしれないという願い。
溝端は刺した仮面の男を突き飛ばして仰向けになるように倒れた。そうしないとさらに深く突き刺さってしまうからだ。
「ゔゔゔゔえあああえいいいいいいいいいいい」
突き飛ばしたことがより一層の悲鳴が上がる。触れる力が強いほど不快感が増大するようだ。
2人やられた。それは2人触られたことになる。仮面の集団は周囲を確認する。
周囲の客はまだ状況を飲み込めていないようだ。ただ、店員と警備員が倒れたようにしか見えない。血がドバドバ出ているわけではないから遠目では何が起こっているのか判断出来ない。
仮面の集団は恐れていた。魅惑のキャンディ以外の刺激が全て毒になる彼らにとって触れられることは火で炙られているのと同義だ。ここにいる人間も自分達に触ってくるのではないか?
そうなれば、絶望的な痛みで人格が狂ってしまう。
そうなる前に……
ここにいる奴らを、全員…
殺してやる
『私達は業君の超常の扉を奪還する。そのためにお前達は業君の捜索と府中で暴虐の限りを尽くしなさい。業君の捕獲、超常の扉の奪取、その他の超能力者を殺した者には特大のキャンディを上げるわ。幸せ過ぎて死んじゃうくらいのとびきり甘いやつね』
暴虐の限りを尽くそう。
この痛みを、不快を取り除けるのは、あのキャンディにしか出来ない。早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く、キャンディにありつくために。
「ぅぅぅぅぅぅぅぅぅべべへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへヘへ」
ギコーナ府中店にいた仮面の集団が、一斉に動き出した。もう手当たり次第殺すことでしか自分を保っていられない。
まずは、すぐ近くにいる制服を着た人間からだ。
♢♢♢
東京競馬場の正門は正しく混沌であった。
突然連れて行かれた人間が戻って来たかと思えば、また誰かを連れて行く。
その繰り返し。
倍、倍、倍。何故か戻って来るのも早い。連れて戻るまでの距離がどんどん近付いている?
出て行っては大多数で戻って来る。
手当たり次第だ。次は自分かもしれない。
逃げるしかないだろう。
広場にはもう人はほとんど残っていなかった。
となると、
あとは競技場の中の人間となる。
約20万人を収容出来るこの競馬場にいる人間。満員御礼だから100%はいないだろう。だが低めに見積もっても15万人はいる。
それらが全員飴奴隷になったら、相当数の戦力を確保出来るだろう。
「到着〜」
「…元気ですね真澄さん」
東京競馬場の正門に2人の女性がやって来た。
この騒ぎの元凶という点では降臨なんて言葉の方が相応しいのか。
愉快な理由は分かる。支配欲が積み重なって気持ちよくなっているに違いない。
「警察はまだ動いてないみたいですね」
これほどの騒ぎだ。誰かが通報でもしていると思ったが、サイレンの音は聞こえない。ここ以外での飴奴隷達は暴れ始めているはずだ。しかしサイレン一つ聞こえてこない。
「交通インフラが麻痺してるのかしら?にしても近くの交番からお巡りさんが来そうなもんだけど」
「飴奴隷が警察署を攻めているのか。警察署が遠いかですかね?」
「警察なんてどうにでも出来るけど、騒ぎがまだ周知になっていないのは好都合ね。知られた頃にはここにいる何十万人の飴奴隷で警察機能をぶっ壊してその間に帰ればいいんだし」
真澄は今回作った飴奴隷を使い捨てる気満々だ。
持って帰ったところで収容する場所がない。
久留間紗穂の日帰り旅行は『ある空間内のモノを別空間に運ぶ』能力だが、その代わり運んだモノはその後元の場所に戻さなければならない。運んでから途中で能力を解除したとしても戻される力は働くため、運んでそこに留めるということが出来ないのだ。
つまり日帰り旅行は使えない。自力で連れて帰らなければならない。なら使い捨てだろう。出先で発生したゴミまで律儀に持って帰る奴はいない。
「何だお前!離せ!下せ!」
また新しい奴隷候補が調達された。
身なりからして入場ゲートの警備員といったところか。
となるといよいよ中に入れるところまで侵攻したということか。
「下s…おぐぉぁ!?」
抱えていた飴奴隷が無造作に投げるように警備員を地面に転がす。
「うっ……。くそっ!入場券のない人の入場は認めていない。な、何だお前ら!触るんじゃない!」
抱えていた奴だけではない。周囲にいた何人もの飴奴隷が警備員の体を押さえつける。足から腕から頭まで。顔まで固定されてしまう。そして口の中に手を入れ込もうとして来る。
「やめっ!……むぐっ?……ん!んんーーー!?」
口を閉じて抵抗するが口を開けさせようとする腕が鼻の穴まで塞いでしまったため口を開けざるを得なかった。
その一瞬の隙間にスルリと指が入りこみ、口を開けさせられた。抵抗が出来なくなったわけではないが口の抵抗は歯で相手を傷つける可能性、または自分の歯が折れたりする可能性がある。口に突っ込んできてる奴らは何故か開けさせたらそのまま何もしなくなったからとりあえず行動は終わったのだろう。ここで抵抗すればまた不毛なことになる。そう考えた警備員はされるがままになってみた。されるがままになると案外何も起きなかった。
(口を開けるのがゴールだったのか?)
開きっぱなしだから声が出しづらい。
「ご苦労様」
女の声がする。
(ご苦労、ということはこれを指示した奴)
仮面の人間に押さえつけられてるせいで周りが見えない。
「はい、あーん」
女の腕とその手に収まっている飴玉が見えた。
これを食べさせるためにこうなっているのか、と警備員が納得した時には、飴玉は開きっぱなしの口の中にシュートされていた。
食べさせられた格好だ。
そして、口の中にこれまでの人生で経験したことのないような甘味な味が広がっていった。
現在の状況
・神岐義晴
是政駅で鬼束零と萩原時雨の捜索
・平原暁美
府中本町駅を飛び出して黒煙の方へ走る
現在所在地不明
・戸瀬奏音
神岐の催眠人間と共に平原暁美を追い掛ける
現在小国魂神社
・平原家、戸瀬不動産
ヘリコプターを府中へ出動中
・鬼束三つ子
仮面の集団を誘導して北府中駅を目指している
・鬼束零
是政駅近くに潜伏して脱出の機会を窺う
・萩原時雨
???
・羽原のの
飴奴隷と共に鬼束三つ子を追いかける
・舟木真澄、九重那由多
東京競馬場に到着
飴奴隷を量産中
・能登八散、久留間紗穂
府中駅で待機
・催眠人間
平原/戸瀬の援護1名
府中本町駅1是政駅7その他2
・飴奴隷
鬼束追跡1その他5東京競馬場4
・ドクター
???
溝端が書いてて楽しかったです
飴奴隷の凶暴さを見せるための舞台装置になってしまいましたが生き残れるといいですね
さあさあ、舟木と九重が東京競馬場に着きました
先に着いたのは謎の女サイドです
神岐サイドは今どうなっているのでしょうか?
神岐vs鬼束零もそろそろ決着がつきそうです
というか戦況がバラバラなのでここに書いときますか
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神岐義晴&催眠人間達vs鬼束零&萩原時雨?
鬼束兄弟vs羽原のの&飴奴隷達
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明確な戦局は上の2つですが、
平原暁美&催眠人間、そして平原暁美の2つも争いの予感があります
というか平原暁美強すぎんか?
ホントに1人で護身術使って倒したんか?
駅員を倒した謎の敵も現在不明です
次回は府中本町駅に留まっている催眠人間と府中本町駅まで進出した飴奴隷から書きますかね
後は未定です
未だ終わりが見えない府中動乱
これもう第4章に含めず第5章にすれば良かったと若干の後悔中w
神原と神坂が置いてけぼりだよぉ〜
Twitterでも言ったけど府中に巨大隕石落として強制エンドにしたろかなとも考えてます
※書いてて気付きましたが、東京競馬場と府中競馬場とごっちゃになってます。違いはないらしいので今後は東京競馬場で統一して書きます




