第100話 府中動乱⑯
「はぁ、はぁ。良い運動にはなったけど、2度とごめんだ」
神原奈津緒は川崎駅から館舟駅まで徒歩で移動していた。
南武線が全線で運行停止になっているためだ。
どこかのバカッターもどきが車で線路に侵入したとのことだが、馬鹿すぎて馬鹿すぎて。
(何で馬鹿なことやんのかね?…まぁ馬鹿だから馬鹿なことしか出来ないんだろうね)
常識を知らなければやることなすことが非常識になる。
学校は面倒の産物だが、社会不適合者になるくらいならまだマシというものだ。
電車だったら10分程度。約7.5キロの線路だが、高校生が徒歩となると1時間以上は歩きっぱなしになってしまった。
「最近は雨も降らずずっと快晴だからな…。あぁ、喉乾いた。もう時間は2時くらいか。なんか昼飯食う気力がないな」
腹は減っている。だがこの時間に飯を食う気分になれない。だが腹は減って力が出ない。力が出ないから食べる気力がない。悪循環だ。
「…商店街で買い食いして腹を満たすか」
豊橋刑事には商店街を探索すると伝えている。成果報告などはしなくて良いが、自分で行くと言っておきながら腹が減ったんで行きませんでしたなんて言い訳は神原奈津緒としては絶対にない選択肢だ。商店街には行く、これは絶対だ。
(あの日から大分経ってる。豊橋刑事達も調べてるから何も新しい物証は出て来ないだろう)
病院には近付けない。その代わり麦島が護衛をしてくれている。
自分だけ何もしないのはカッコ悪い。
(地道だな。警察官…というか刑事にはなりたくないな。ゴールがはっきりしている方が取っ掛かりやすくて良いんだけどな…)
将来の夢などない神原の職業選択肢から警察が消えた瞬間だった。
「さて、南武線はまだ運休なのか……」
黙々と歩いていた神原は移動中スマホを見ていなかった。
1時間ぶりにスマホを使う。
「………は?」
南武線の運行情報を調べると、バカッターもどき共が可愛く思える内容が書かれていた。
「電車が暴走して停止中の電車と衝突した!?」
時は数十分前に遡る。
8月6日
東京競馬場西門前
「ここが東京競馬場。中坊は中入れないよな」
そもそも今日はイベントをやっているのかも分からない。ゲーセンの競馬のゲームだとしょっちゅうレースしているように感じるが、流石にコンビニスタイルではないだろう。
平日は馬の調整とかのレース以外の用途で使われているかもしれない。
(ネットで調べると仮面が暴れた以外に隕石の話が挙がっている。けど、ニュースになっていないし隕石が落ちた痕跡がどこにもなかった。幻覚の能力者がいたのか?)
さらに、今いる府中から少し離れた場所、南武線の線路で電車同士が衝突したらしい。こっちはニュースにもなっていて南武線は昨日日中は電車が走れず大混乱になっていたと書かれていた。
(電車は別件?けど府中のそばだぞ?無関係とも思えない。となると、府中の件とは関わりがあるけど謎の力には関係がないってことか?)
情報操作されてる物とされていない物の違いは何だ?
仮面を握る力が強くなる。
(何か、いやーな予感がする。とりあえずどうにかして中に入るか…)
「…………」
神坂が東京競馬場に入れないかと考えている後ろで、何者かがじっと神坂を見続けていた。
神坂はそのことに気付いていない。
「…………」
♢♢♢
鬼束実録が気付いたのは偶然と言っていい。
コンビニで男女が戦っている中で、市丸と丹愛が気になって彼等が向かった南に目を向けた。
ただそれだけだった。
目を向けた方向から何かが飛んで来た。
自分達が走っていた西側の歩道を真っ直ぐ地面に平行に凄いスピードで進んでいた。
反対側の歩道にいたから直撃はない。さらに離れていたため何かの飛行をじっと観察することが出来た。
(鏡……球体…?…いや、半月型…………車のサイドミラーか!?)
全体はシルバーで半月の切り出し面は鏡になっていて回転によってキラキラして見えた。
(市丸兄の『色鬼』か?俺への合図?いや、俺に当たっていたかもしれないことはしないだろう。何よりコンビニに女がいるんだからこれでは能力を見せびらかすような物だ。『色鬼』じゃない。別の人間が飛ばした)
ここから南の方を見ても遠すぎて見えない。市丸や丹愛すら見えなくなっている。
(市丸兄達に向けられたもの。府中側から2人を狙ったんだ。ここまで飛び続けるパワー)
サイドミラーがどれほどの重量があるかは知らないがあのスピードだ。当たればひとたまりもないはずだ。
(これは早く合流しないとヤバい。さっさとこっちを片付けないと!)
「ガッ!!!」
ののが吹き飛ばされる。
催眠人間の攻撃力は一切衰えていない。しかしガードをするののの防御力は攻撃を受けるごとに減衰していく。疲れを感じずリミッターもない男は常に全力。
(踏ん張る力もない。全身がだるいわ。スタンガンを抜くタイミングもない)
真っ直ぐ立ち上がることすら困難だ。
府中に小鹿がいるようだ。
プルプルと膝を振るわせながら何とか倒れないようにするのが精一杯だ。
ザッ、ザッ、ザッ
後ろから誰かが近づいてきた。
(誰?正義感バカ?)
の割には歩幅に急ぎの様子がない。
襲われている女性を助けるのにのんびり歩いて来ないだろう。
(神岐ではない。となると、追ってた3人組ね。足音的に1人か…)
襲いかかる男と襲いかかろうとした男。
2vs1ではないが、ここからの打破は絶望的だ。
男は襲って来ない。第三者の登場でどう動いていいのか判断しかねるのだろうか。
足音が鳴り止んだ。
最初に口を開いたのは実録の方だった。
「あんたのそれは…、『超常の扉』なのか?」
早く合流したい実録だったがそれよりも聞いておきたいことが見つかった。
ののの腰に挿してあったのは白い棒だった。
形状はスタンガン。形は違うが、『超常の扉』の色違いのようだった。
「……違うわ。ただのスタンガンよ。私の仲間に電気能力者がいるからその子の電気を貯めて使うの。そこの男にも使ってるわ。丸一日寝てないからただのスタンガンの証明になるわ」
嘘をつく余裕もないののは正直に話した。
「……なるほど」
丸一日眠る。
『超常の扉』の電流を浴びた者は約1日眠り続ける。
電気を流されたショックによるものという意見もあれば脳の構造が変化するのに1日かかるからその間は活動させない防衛機能として眠っている等、明確な答えは見つかっていないが、1日の眠りを経て、超能力者になることは事実だ。
実録は超能力者になる際にインフォームドコンセントでこの話をドクターから聞いている。
よって白いスタンガンは『超常の扉』ではないのは間違いない。
「随分な姿だな。ドクターの敵」
「…えぇ、美意識は高い方ではないけど鏡で今の自分を見たら悲鳴を上げそうね」
ののの顔はカラーボールでオレンジ色になっており腕はガードによって内出血、服装はアスファルトによって所々がほつれたり破れかけたりしている。
「ドクターのためにお前を捕らえる。神岐にも渡さない」
「……ふん、随分と信頼されてるみたいね。……残念ながら私はもう終わりを待つ身。後は若い2人でやりなさいな」
ののはそう言うと、パタリと力の抜けたように倒れた。震えていた膝は止まった。
実録が来たことで意識を飛ばさまいとしていた緊張の糸が途切れたようだ。
(女は倒れた。だが………)
男は実録をじっと見つめていた。どうやら次の標的は実録に決まったらしい。
(神岐の『認識誘導』によって強化された人間。俺は触れれば勝てる。神岐は『氷鬼』の能力をまだ知らないはず。零兄に吐かせたとしても伝聞とリアルは変わる)
身体能力では勝ち目がない。しかし自分は超能力者。向こうの攻撃を手で受け止めるだけで能力が発動する。向こうが搦手を使わない限りは負ける要素は限りなく低い。
(最短で決める!)
実録は男に突っ込んだ。受け身では女のようにジリジリと削られた先にこちらに限界が来る。
こちらから攻める。
(いくら『認識誘導』で強化していても意識ではどうにも出来ないようにすればどうってことはない!)
♢♢♢
「ふふん、ふんふん、ふふふふん」
陽気な鼻歌。昼休憩を前にして浮かれているOLか?それとも今日発売のゲームをプレイするのが待ち遠しいのか?
そのどれにも当てはまらない。
浮かれているし待ち遠しい。それは正しいが、やってることが浮かれだとか待ち遠しいとかから程遠いのだ。
「ふ、ふんふー、ふんふんふん〜」
パキョ
鼻歌混じりに男は車のサイドミラーを蹴り飛ばしていた。
実録の見立て通り、雪走が投げ飛ばしていたのは車のサイドミラーだった。
雪走の『我が道を行く』は人の力で頑張れば出来るであろうことは容易く実現出来る。
車のスクラップならば雪走でも時間がかかるだろうし分解した金属片が刺さって逆にダメージを受ける可能性もある。
だがサイドミラーほどの接合部が細い形状ならば、力を込めれば破壊出来る。
直接サイドミラーを鷲掴みにして強引に捻じ切ったが、足で蹴り飛ばしたのは月董の超能力の受け売りだった。足技を駆使する月董には尊敬の念すら抱いているバトルジャンキー。強い奴が大好き。
牧村のような広範囲の超能力も自分ではどうしようもないから逆に燃えるようだ。
(あの距離で避けられないようなら話にならん。挨拶の2発を避けて隠れた……。ひとまずは合格だ。さぁ、次は何をしてくる)
府中街道にはもう出て来ないだろう。となると府中街道を迂回する道を選ばなくてはならない。
(けどもぉ、どっちを選んでもここの大通りを通らなくちゃならない)
隕石によって車が走っていない甲州街道は徒歩での通り抜けが可能となった。しかしそれは見晴らしが良くなったということでもあり、プラマイで言えばむしろマイナスになったと言っていいだろう。
(サイドミラーをぶつけ続けるのも良いけど、もっとおもろい武器はないかねぇ?)
すずかけ通り
鬼束市丸と鬼束丹愛は雪走からの攻撃を回避するためにこの横道に逃げ込んでいた。
「…100均、ホームセンター、電気屋か」
左右には2人の超能力の真価を発揮できそうなアイテムが売ってそうなお店が勢揃いしている。
「こんな騒ぎなら人はいないだろうからな。プロ意識に忠実でこんな非常時でもいらっしゃいませが聞けるかはかなり微妙なところではあるが…」
「だがあの攻撃を回避するために限りなく西に進んで攻撃を回避では時雨ちゃんのところに戻るのに時間がかかる」
よってすぐ進んだところにあるT字路を左折して甲州街道にでなくてはならない。
「時間はかけられない。ささっと自分の超能力が使えそうな道具を買おう。俺はホームセンターに行くが市丸兄はどうすんの?」
「そうさな〜。100均では小物ばっかりだし電気屋では単色の商品は少ないだろう。…俺もホームセンターに行くよ。木材やネジであっても単色なら『色鬼』で操作出来るしな」
偶然だろうがホームセンターがあって良かった。
道具を媒体にする能力者が手ぶらで逃げているのがそもそもおかしな話だったのだ。
「煙玉はどうする?まだ1個残ってるよな?」
府中駅前で1つ、甲州街道で1つ。残り1つ。
向こうはこちらを見た上で的確に攻撃してきた。ならば煙玉で見えないようにすれば甲州街道は渡れると思われる。
「…いや、ここでは使えない。神岐と接敵した時に残しておこう」
ここで使っても攻撃は止まない。固定砲台ならば甲州街道さえ突破すれば勝ちだが敵は超能力者、追っかけてくるに決まってるし誰かが囮になるという作戦上誰かが足止めしなければ時雨は助けに行けない。
敵を引っぱって来たら時雨の身が危ぶまれる。
「行くぞ。俺達がもたもたして実録が先に攻撃を受けたら大変だ」
「…そうだな」
謎の攻撃を止められるのは実録の『氷鬼』しかない。
市丸が引き付けて丹愛を先に行かせて、市丸は実録が来るまで時間を稼いで実録合流後2vs1で追い詰める。
そういう作戦だ。
作戦成功の鍵はどんなアイテムを使うか、だ……
♢♢♢
『今はどこを走っている?』
「今は三鷹市上空です。もう間も無く府中市に入ります……というか一々連絡しないでください」
『暁美様の緊急事態だ』
「だとしても迷惑です。状況はこちらから連絡します。府中が危険な状態だと言うのなら現場の判断に任せてください」
『だが、多々良君の報告では隕石が落下したと』
「それも含めてこちらで確認します!」
平原家の執事、樺倉克都といえど気持ちに焦りが生まれたのか。現場に怒られてしまった。
平原暁美は都内でも界隈では知らない人はいないほどの大地主の一人娘。平原家を継ぐ者。
その一人娘にもしものことがあれば、平原家は大混乱必至だ。
さらに暁美と共にいるのは戸瀬不動産の令嬢、戸瀬奏音だ。どちらか1人でも失うことがあれば大惨事となる。
現在府中へと向かっているヘリコプターは平原家が所有しているものだ。戸瀬不動産所有のヘリコプターもあるが、整備に時間がかかっているため先に平原家のヘリを飛ばすこととなった。
今運転しているのは平原家のヘリコプターの整備士兼操縦士の津空という男だ。
津空は休日で家でゆっくりしていた中で突然電話で呼び出されて急遽整備、そして操縦をさせられており仕事とは言え内心穏やかではなかった。そして執事の樺倉が一々口を挟んでくるのも我慢ならなかった。
確かにお嬢様の身に危険が及んでいると聞いた時は焦ったし早く助けなければならないが、人は自分よりも慌てている人を見ると途端に冷静になってしまうようで、珍しく狼狽している樺倉を見て焦りは消えてしまっていた。
(あの樺倉さんでもああなってしまうくらいの非常事態か…)
もうすぐ府中市に入る。東京競馬場は平地で広い。ヘリコプターが離着陸出来るスペースは十分確保されているだろう。
(暁美様はギャンブルなど嗜んでいるはずがない。樺倉さんや旦那様が許すはずがない。なのに競馬場で待っている。誰かが競馬場に行くように指示したと考えていいだろう。そして我々使用人達で噂になっている暁美様が誰かに恋をしているという話…)
とても良い恋愛をしているようで涙が出そうだ。立場上裏方で暁美と会う機会は少ないがそれでも小さい頃から彼女を知っている。色を知る年になったという事実に感動と寂しさを感じてしまう。
おっと、これ以上の感傷は仕事に差し支える。
(多々良さんが言っていた隕石ってのが気になるな)
ニュースでも隕石についての情報はない。
NASAやJAXA等のスペシャリストですら観測出来ないレベルなのか。
暁美が助けを求めたのと府中に落ちたとされる隕石。
(時間的に隕石より前に助けを求めたらしい。隕石以外の何かが今府中で起こっている…)
さぁ、もうすぐ府中市に入る。
「………………………はははっ」
引き攣った笑いが津空の口から出てきた。
多々良の報告が虚偽であったとは思わない。平原家の運転手を任せられる人物だ。樺倉や旦那様、そして暁美からの信頼も厚い。だから眉唾染みているが本当のことなのだろうと津空は思っていた。
しかし、いざ目の当たりにすると、嘘であって欲しかったと願ってしまう。
「……リアルで隕石を見られるなんてな」
今日の出来事は一生忘れないだろう。
今ヘリコプターを操縦していなかったらこの光景をスマホに収めてツイスターで拡散していること間違いなしだ。
(府中に入るまで気付かなかった。三鷹にいる時から見えているはずなのに)
近付かないと見えないのか…それならばNASAやJAXAが気付かないわけだ。
原理は分からない。
ただある程度近づかないと視認出来ないことは分かった。だからニュースでも報じられていないのだろう。または情報操作の可能性も……
「こちら津空。府中市内に降り注ぐ隕石を確認。その数は3。東京競馬場への被害は不明」
『こちら樺倉。隕石落下までに間に合うか?』
「おそらく間に合いません。最短ルート上に隕石があります。少し迂回する必要があります」
『……くそ!』
また樺倉のらしくないところを見てしまった。
「全速力で向かいます」
『…頼んだ』
隕石が3つ。
多々良が車で向かっても間に合わないだろう。府中市内にいる人間には隕石が見えているはず。人でごった返して車道も歩道もお構い無しになっているに違いない。
(空からが一番最速か)
この距離、速度。直撃はしない。
隕石の墜落は避けられない。東京競馬場はセーフと祈って向かうしかない。
♢♢♢
催眠人間は命令に忠実だった。
「…起きろ、敵がそばにいる。排除しろ!」
この命令はまだ有効だ。
標的は羽原ののから鬼束実録へ変わった。
鬼束実録も臨戦態勢だ。元々は女から催眠人間という順番だったら都合良く女が気絶してくれたおかげで手間が省けた。
ドクターの敵である女を止めるため、女を利用しかねない神岐を止めるためという名目だったが、もう一つ目的が出来た。
(女が気絶する瞬間まで耳に当て続けていたスマホ……)
誰かと通話中だったことは明白。
女の仲間と通話中だったことになる。
あのスマートフォンを手に入れて情報を手に入れたらドクターに有利に働くのではないか?
(あのスマホを手に入れる。神岐には絶対に渡せない)
だからこそ早く終わらせなければならない。サイドミラーをぶん投げた輩は間違いなく市丸と丹愛を狙っている。
実録のいる場所まで届くパワー。
市丸と丹愛は道具を使用するタイプの超能力者。
突然神岐が来るということで慌てて臨時拠点を放棄したため万全の準備が出来なかった。
そんな都合よく戦いに使えそうな道具が転がっているとは思えない。
(どこかで道具を揃えるはずだ)
だが既に攻撃を受けているということは居場所が掴まれている。
悠長に待ってくれるとも思えない。
(挟み撃ちだな)
流石は三つ子。考えが似通っている。
催眠人間、倒れたのの、実録の並びになっている。
丁度ののがセンターラインのようになっている。
お互いがそのセンターラインにジリジリと近づく。
我武者羅に突っ込んで来ないことに練度の高さが伺える。
『氷鬼』で動きを止めれば良い。向こうの拳を受け止めるだけでも発動条件を満たす。
相手はそれを神岐から聞いているのか、突っ込んで来ない。長期戦は実録にはない。
こっちから攻めざるを得ない。
実録がセンターラインを超えた。催眠人間も構える。女の時はガンガン行こうぜだったが攻められた時は待ちの姿勢のようだ。
実録が催眠人間に殴り掛かる。
催眠人間はじっと実録の拳を観察すると、体をクルッと捻って躱す。
そしてその回転の勢いをそのまま突っ込んできた実録に裏拳を仕掛けた。
(ちっ、マジでどんな動きだよ!)
ただのパワー馬鹿になったわけではない。
五感を含めて体全体が研ぎ澄まされている。スポーツ選手のゾーン状態のように僅かな動きも見逃さない。
『氷鬼』は手のひらで触れないと発動しない。しかしこの裏拳を手のひらでは触れられない。
右手で殴って右側から裏拳が飛んできているから関節がグニャグニャにでもならないと手のひらで受け止められない。
右腕で止めるしかない。
バドンッ
「ぐぉ!」
裏拳の回転のパワーが乗っかった一撃。女の場合は攻めに転じて来なかったから使わなかったようだ。
神岐の『認識誘導』の強化も相まってとてつもない威力となった。
吹き飛ばされはしなかったが4歩ほど後ろに下げられてしまった。
「…ちっ、迂闊に手のひら受けると骨は犠牲にしないといけないか…」
攻撃を受け止めた瞬間に固定しても直前までの勢いは残っている。慣性が働くのだ。
動きは止まるが衝撃は受けるだろう。実録はその衝撃だけで肉体に甚大なダメージを与えると直感した。
(そしてそれだけの攻撃だ。奴自身も無傷じゃ済まない。いずれは限界が来るが女の攻撃の後でも躊躇や硬直はなかった)
痛覚のないロボット。
催眠人間はそのまま実録に向かって走る。
今の裏拳一つでも腕にダメージがあるはずなのになんという考える猪突猛進。
ジンジンと受け止めた腕が痛む。受け止める場所を誤るとアウトだ。足を狙われたらここで男を倒しても走れなくて合流に時間がかかってしまう。
(あぁ、ホント。神坂の時みたいに丁寧な準備をしないとこんなにキツイのかよ)
そう考えると当然襲われたのに勝利した神原、神岐、神坂はやはり強いということなのだろう。
どんな状況でも勝ちを掴む力。
ドクターの求める強さとはそういう物が含まれているのかもしれない。
(今俺が利用出来るのはコンビニと倒れた女…と、白いスタンガン………)
さっき女は白いスタンガンで気絶したと言っていた。
結局は起き上がっているが、電撃が催眠人間にも有利ということになる。
軽く飛ばされたせいで並びは女、男、実録となっている。
攻撃を避けて白いスタンガンを手に入れて電気を浴びせる。
(『氷鬼』で動きを止めて月城の時のように顎にキツいのをぶち込んでも気絶しないかもしれない)
スタンガンしか短時間で終わらせる方法がない。
(スタンガンしかない…)
向こうが突っ込んできたのをスルーして女のところまで向かう?
身体能力の全てで負けている。
(一旦コンビニに退いて追っかけっこしたいがコンビニに向かうまでに追いつかれる。何よりコンビニの入口も男の方が近い)
選択肢が狭まっている。だが実録にとっては願ったりだ。選択肢が増えると気の迷いが生じる。正面から戦うしかない。それだけで集中出来るってものだ。
♢♢♢
まただ。
冷静にクールに努めようとしていた萩原時雨だが、恐怖が押し寄せてくる。
「隕石が、また……」
2度目の隕石。数はまた3つ。スマホを確認しても隕石のニュースはやっていない。地震ですら速報が流れるのに視覚的に分かる隕石の速報が流れないのがおかしいことは子供の時雨にも分かった。
超能力者にしか見えないとかの話でもなさそうだ。時雨がいる5号車より前は混沌の極みとなっていた。彼らも隕石を見たのだろう。より一層前方へ前方へと向かっていく。
あれだけ押し寄せて鮨詰めになっていれば酸素不足、高密度の圧迫で最悪死人が出かねない。前に向かうことを諦めたのか。何かが割れる音が聞こえてきた。
窓をぶち割ってとにかく隕石から少しでも離れようということだろう。割れた穴に向かってもまた人が押し寄せる。
別の穴を作ろうと窓を叩きまくる人が増加する。
これが平成を生きる日本人のやることなのだろうか?
醜いことこの上ない。
(けどまずいわね…)
下手に外に出ても逃げ切れる保証はない。だからここに籠ってという話だった。
しかし窓ガラスが割られてしまった以上、外から電車内に侵入することも出来るということだ。
と、隕石に意識を取られていた。
前の車両の悲鳴や慟哭で何も聞こえていなかったのが災いした。
そもそも電車が止まっている理由は何だ?
線路内に車が侵入したからだろう。
ならば、6号車まで行かずとも後ろ側からの何かを警戒するべきだった。
もっとも、電車の中から出られない時雨に何か出来たわけではないが、背後から拳銃で撃たれるのと前方から拳銃で撃たれるのでは覚悟も発射されるまでに取れる行動も大きく変わる。
隕石が落ちる様をじっと見ていた時雨にとっては、突然大きな衝撃と共に体が横に吹き飛ばされたようなものだった。
電車が後ろから玉突きしたことに時雨は気付かなかった。
急に体が横に飛ばされた。
窓を見ていた時雨は手すりを掴んでいなかった。そのため慣性のまま真横に飛んだ。
電車のドアと座席の仕切りとシルバーの手すり。
それらに体と頭を思い切りぶつけてしまった。
「んぐっ!」
当たりどころが悪かったのだろう。
時雨は突然のことでゆっくり消えて行く意識の中、何が起こったのかを知ることなく…
(な、に…、急に………。ドク、ター………)
そのまま座席のシートに突っ伏すように気を失ってしまった。
1〜4号車でも同様に電車の衝突によって皆が前に吹き飛ばされた。
これによる圧死者が10名以上。窓から脱出しようとしていた人物は体が飛ばされたことで割れたガラスが体に刺さって真っ二つになった。さながらマジックショーの切断トリックのようだった。
衝撃で地面に倒れ伏した人物を人が、人が踏みつけていく。人が倒れていることに気付いていない。下を見る余裕もない。
乗車率は300%オーバー。自分の靴の色すら確認できない。
死者はどんどん増えていく。
♢♢♢
そもそも何故電車が玉突きなどを起こしたのか?
鬼束零との戦闘で萩原時雨が多摩川を越えて南武線で逃げようとしている可能性を考えた神岐は鬼束零を欺いて反対車線に車を走らせることで川越えを果たした。
与えた指令は『神奈川県に入ったら線路内に侵入しろ。電車を見つけたら車内にいる小中学生の女を捕えろ』というものだった。
催眠人間達はその指令を完璧にこなした。
線路内に侵入したことで南武線のすべての電車は停止せざるを得ず、萩原時雨の足止めに成功した。
しかし、それでは不十分。より追い討ちをかけた方がいいと考えた神岐は府中本町駅に着いたことでとある作戦を思い付く。
暁美と奏音はヘリコプターで逃げるんだから電車が完全に使えなくなっても良いよな。だったら電車そのものを破損させて走れなくさせよう、と。
線路内に車が入ったことも電車を止める十分な理由になるが、それでも車を全部片付けて安全確認が済めば運行再開する可能性があった。そうなれば電車を止めて萩原時雨を閉じ込めた意味がない。萩原時雨に手が回るまでどれだけ時間がかかるか分からない。
可能ならば自分が向かうまでは絶対に運行再開できないようにさせたかった。
そこで考えたのが電車をぶっ壊して走れなくすることだった。
電車のレッカーは車の比ではないだろう。
府中から逃げるのなら橋を渡ってすぐにある駅から東に向かうことは容易に想像が付いた。
神岐は府中本町駅の川崎行きの電車の運転手を『認識誘導』で操った。
『電車を全速力で走らせろ』と。
操られた運転手は運行停止の中、電車を暴走させその結果この惨劇が生まれた。
それと同時に府中本町駅にいる駅員に『認識誘導』を使って暁美の無賃下車の記憶を削除した。
これで暁美が警察のお世話になることはないだろう。
♢♢♢
これが顛末。
電車の破壊。そして萩原時雨の気絶。気絶を狙ったわけではないが、これで時雨に逃げられる心配がなくなった。
後は線路に入った車の運転手と突っ込ませた電車の乗客を使って小中学生くらいの女を手当たり次第捕らえれば終了だ。
牧村の『頭上注意』によって暁美達のところに向かうことすら難しくなっている今、運転再開の芽を摘んだ神岐の策は必要不可欠だった。
だが、神岐はこの命令によって何人の人間が死亡したのか、命を奪ったことの重大さに気付いていない。
たった1人の女の子を捕まえるだけのためにこの行い。
いや、神岐は考えていないだろう。自己の目的が最優先でその過程でどんな悲劇が起ころうと目的を達せられればそれで満足なのだろう。
神岐は気付いていない。
強力な超能力によって道徳が失われていることに。
能力頼りにならないように無闇矢鱈に使わないように心掛けているようだが、それでも能力によって自分の何かが欠落していることに。
♢♢♢
難しいな、と市丸と丹愛はホームセンターの店内で思っていた。
軽い小さいでは武器にならないが重い大きいでは能力が使えない。
能力に使えて武器として使える物。パラメータで言う中間あたりを絶妙に狙わなければならない。
市丸にはさらに単色という条件が付く。
単色、ホームセンターで最初に思い付いたのは角材とネジだ。茶色と銀色で交互に使えば『色鬼』の条件は満たす。
ただこれではただの日曜大工ではないか!と心の中で突っ込む。
ただひたすらに時間がない。
目に付いた物の中からピンと来た物。インスピレーションや直感頼りになってしまうが幸いホームセンターの入口側に工具や材料系の商品が集まっているおかげで店の奥まで入る必要はなさそうだ。
「とりあえずネジか?」
「いや、ネジより釘の方が尖っててダメージもデカいだろう」
以前神岐と戦った丹愛も裁縫針で攻撃していた。先端が尖っている武器は有効だ。
とある風紀委員のように衣服を地面に縫い付けて拘束する行為も可能かもしれない。
「釘も黒?赤銅色?とにかく単色だから俺も市丸兄どっちでもござれだろ?」
「そうだな。尖ってるってんなら俺は桐やアイスピックにしようかな。持ち手が木製じゃないのもあるかもしれん。あと武器になりそうなのは…」
「これとかいいんじゃないか?武器ではないけど」
丹愛がある物を指差す。
「あー、確かに単色だな。目眩しくらいにはなるか」
「パワー系が相手なら攻撃系ではなく動きを封じる道具の方がいいかもな」
その点では丹愛セレクトのこれは拘束は出来ないが多少の時間稼ぎは出来そうだ。
「それと向こうの投擲をガードするのも欲しいが…」
防御アイテムとなると面積を必要とするし軽い素材だとあのパワーでは貫通されるためそれなりに厚みのある道具となり、不適な重い大きいに該当してしまう。
「可能ならばこういうのでうまーく防げればいいが……」
「…あの武器のストック次第だな。もっと大きい武器を使われたらこれでは何も出来ない。いや、むしろこっちを使えば市丸兄の『色鬼』は真価を発揮するんじゃないか?操作対象を変形させられることは実証済みだろ?」
「…なるほどな。あのパワーをどれだけ封じ込められるかだな」
「これだけあればお前を行かせる時間は作れそうだ」
「俺もこれだけあれば戦えるはずだ。『認識誘導』で操られた人間もかなり強かったが、まぁあのパワー系よりは強くないだろ」
姿すら見えないところから攻撃をしてくる相手だ。
かつて丹愛は『認識誘導』で操られた警備員に拘束されたことがある。
体格差だけでは説明が付かないパワーだった。それでもあの時の警備員が物を投げ飛ばせたかを考えると、やはり今の敵はそれ以上だと窺える。
少し嵩張ってしまったが重さはそれほどでもない。
「『色鬼』、白」
一番嵩張る物に『色鬼』を使用する。
白いそれは市丸の手を離れてプカプカと空中で浮遊している。
「もう使っていいのかよ?」
「他が持てないからな。それに最初の攻撃に白は使わない。青だからな」
「んじゃ、俺も」
丹愛は束で売られていた大量の釘を空中に散布する。
釘もまた、白く大きな物体と共に空中で浮遊している。
「にしてもこんな時でも店員はいるんだな」
「スタッフへの教育がしっかりしてるんだろ。俺達も火事場泥棒のようなことをせずに済んで良かったじゃんか」
すずかけ通りから顔を少しだけ出して甲州街道を確認する。
遠くて顔ははっきりと見えないが男が何か車に細工のようなことをしていることは分かった。
「……あいつがおそらく超能力者」
「…こっちに気付いてなさそうだが?」
「遠くからでも俺達を捕捉できる視力の持ち主だ。道路に出たらほぼ確で見つかるよ絶対」
「やっぱ避けられないか」
「手筈通りだ。俺が先制攻撃をする。丹愛はその間に道路を超えて南に向かえ」
「分かった」
「『色鬼』、青」
かなり対象から距離が離れているが操作は出来る。
市丸は甲州街道に飛び出した。
♢♢♢
やることは変わらないが難易度が上がった。避けるのは問題ないだろう。避けて向こう側に行く、たったそれだけだがそれが厄介。
相手は攻撃を見極めて最小限の動きでカウンターを決めてきた。
仮に向こう側に行くことを見越した動きをすれば即座に見破られるだろう。
正面の敵を倒すことに集中し、向こう側に行くことに集中しなければならない。
同時に2つのことに集中するなどマルチタスクが苦手とされている男性の実録には難しいものだった。
(ってのをやらされるんだよなぁ)
時間さえあればやりようはあったかもしれない。
「…ふぅ」
息を整える。ここからは集中力を……
ズダッ
催眠人間が突っ込んで来た。
おそらくエンジンがかかる前に潰しておこうという判断か。こちらから攻めるつもりだった実録にとっては完全にタイミングを外されてしまう結果となった。
(ヤベッ、いや、これはチャンス。向こうから来たなら奴をいなせば順番は女、俺、男になってスタンガンが手に入りやすくなる)
馬鹿みたいに突っ込んでブレーキもかけずに進み続けることはないだろうが、催眠人間はこちらの行動に合わせて動きを変えてくるはずだ。
(避けてから殴ってみるか…)
先程の逆パターン。さっきの奴のように最小限の動きで躱すのは不可能だが予め横にステップを取れば良い。躱すというより横に逃げるような形だ。
(近くで避ければ足技が来るかもしれん。射程から離れてどう来るか…)
こっちに向かって来る男に対して左斜め前に走る。
男からすれば避けたように見える。
男も即座に進路を横に変える。
(ちっ、やっぱ早いな。避け続けて辿り着くのはむずいな。しかも速度を一切落とさずに進路を変えた。足首への負担がやばそうだが、『認識誘導』の賜物か…)
さっきはスタート前の弛緩に付け入れられてしまったがもう意識も体のスイッチも切り替わった。
一瞬の気の緩みすら逃さないとは厄介なロボット人間だ。
(…ナイフがありゃ試したいことがあったのにな)
神坂との戦いで使用したナイフは神坂に取り上げられてしまった。現在そのナイフがどこにあるかは分からない。
煙玉も使ってしまっている。今の実録は生身だ。
男はどんどん近付く。
「一か八か!」
実録は女の方に向かって走り出す。男から見たら自分を横切ろうとしているように見える。
男も走っているのだからこのままではただただ集団行動の交差になる。進路を塞いでも正面衝突だ。流石に『認識誘導』で無敵に近くなっていても正面衝突する頭にはなっていない。『認識誘導』で指示されていれば行うがあくまでも意識の誘導、実施するのは本人によるものだ。この男は正面からぶつかりそうになった場合は避けるだろう。しかし『認識誘導』で攻撃しろと命じられているから取れる選択肢は折衷案、向かいながら攻撃になる。
(強制力が強いのも考えものだな。手に取るように、とまではいかないが次に何をするかは大雑把には分かっちまう)
ここまでは予想通り。後は度胸と覚悟だけだ。
お互い走っている。距離はどんどん狭まっていく。
やがて次の踏み込みで攻撃が届くところまで近付いた。
男も間合いを把握していたようだ。
踏み込み様右足の蹴りが実録を襲う。
右腕を突き出すより足の方がリーチは長い。
体格差的に実録の拳が届く前に蹴りが襲う。
実録も走っているため急な進路変更は出来ない。
顔面への回し蹴りなら走りながらではあるがしゃがめれば何とかなっただろう。
しかし男の蹴りはボールを蹴飛ばすような下から上へ向けた軌道になっている。しゃがみでも食らってしまう。
絶妙に下からで防御が難しい。しかし直撃すれば脇腹を持っていかれるコースだ。
(蹴りが来るのは予想通り。角度が悪いが、行ける!)
実録は左下から来た蹴りに向かって飛び込んだ。
これでは攻撃に当たりに行くような暴挙だ。
しかし、蹴りが来て、なおかつ顔面狙いではないのはベストと言ってもいい。
後は、動じない覚悟だけだ。
実録は右腕を伸ばした。狙いは男の右足。
『氷鬼』
触れた人間の動きを次に瞬きをするまで固定する能力。
しかし、固定されるまでの慣性は残っている。
実録が男の足に触って動きを止めたとしても蹴りの衝撃は実録に伝わる。
しかし実録が欲しいのはこの衝撃だった。
実録の右腕が男の足に触れた。
男の動きはピタリと止まった。
そして実録は、
空を翔んだ。
木を掴むとしよう。
人がぶら下がっても平気なくらいの太くてデカいのが良い。
人は重力によって体は下側へ落ちようとする。
しかしぶら下がることによって落ちることはない。
しかし落ちなくなっても落ちようとする重力は働き続ける。ぶら下がることをやめると下は地面に落ちることになる。
今回のケースで言うと実録がぶら下がる人で男は木になる。
実録は足に触れた。正確には男の足を掴んだ。
掴んだ瞬間に『氷鬼』は発動する。
動きは止まっても衝撃は襲う。体は吹き飛ばされそうになるが男の足を掴んでいるので体は飛ばされない。足は止まっているから物理的には動かされない。
つまり衝撃にさえ耐えれば良いのだ。
男の蹴りは下から襲って来た。
最初は実録の後方斜め上へ衝撃ベクトルが向かっていたが、実録が足を掴むことによってベクトルは蹴り上げる方向、つまり上向きに変わっていく。
掴んだ足を支点にして円を描くように。
先程吹き飛ばされないとは言ったが勢いは止まっていない。
体はベクトル方向に引っ張られていく。
ベクトルが上に向かえば向かうほど実録の体は浮いていく。
裏拳だけで体を飛ばす力だ。蹴りならその威力は拳以上。
実録に求められるのは吹き飛ばされないように絶対に掴んだ足を離さないこと。そして体が浮いても恐怖せずに瞬きをしないこと。
目を瞑ったら終わりという恐怖で目を瞑りたくなる。
体が支点の真上に到達しベクトルは真上から男側に傾いたところで、実録は手を離した。
男の方へ向かったところで手を離せば、男側に体は飛ばされる。
足を掴んでから手を離すまで1秒にも満たない。
実録の度胸と覚悟がコンマのミスも許されないこの難問を解いたのだ。
(まだだ…)
手を離して空を翔んでいる間も気を抜いてはいけない。
ここで目を瞑れば男は動き出す。
スタンガンを手に入れるまでは瞬きは出来ない。
体は頭の方が地面に近い。要は半回転している状態だ。
この勢いならもう半回転出来るかもしれない。しかし、無事に着地出来る保証はない。
こんなアクロバットな動きはしたことがない。着地に失敗すれば大怪我を負うことになる。それを瞬きせずに耐えるのはいくら覚悟を決めても不可能だ。
(今、どうなってる?地面はどこだ?)
視界は、青い。灰色ではない。つまり、どっちになる?
実録は逆立ちしているような体勢だ。上下があべこべになっている。空が見えているということから自分の体と次に何をすれば良いのかが分からない。分からないから怖くなる。怖くなるから目を瞑りたくなる。
「……痛ってぇ、畜生。でも助かった…。敵だけどごめんなさい」
結果を言うと着地は失敗した。そりゃそうだろう。これで着地が決まったら実録はバスケではなく新体操の類をやっていたに違いないだろうから。
目を瞑ってしまった。ただ固いアスファルトに直撃しなかったことで悶絶することはなくすぐに立て直すことが出来た。
(『認識誘導』のパワーえぐっ、割と距離はあったがまさか女のところまで飛ばすとは……)
実録は空中から着地しようとしたがそれは無理だった。実録に出来ることは着地に失敗してもギリギリまで目を瞑らないこと。男の掛けた固定が解除されて自分のところに向かって来る前に女の持っていた白いスタンガンを手に入れること。
ただ、幸運にも男の蹴りの威力の高さが19歳男性の実録を女のところまで運んでくれたのだ。
目は瞑ってしまったので能力は解除されたが既に女のところに着いているので男が来るよりも早く、スタンガンを手に入れることが出来た。
さらに女が気絶する瞬間まで手に持っていたスマートフォンも入手することも出来た。
男が突進する。
目標は達成した。後はスタンガンを浴びせるだけ。
実録は女から少しだけ離れた。位置関係は男、女、実録となっている。
またもや女がセンターラインの役割になっている。さっきは実録から突っ込んだが今度は男の方から攻める。
自分の意識を奪うスタンガンを敵が手に入れた。敵がスタンガンを手に入れる可能性を想定していなかったわけではない。
女に近付かせないように間に割り込むように位置取りをしていた。
目の前の男が曲芸まがいのことをして上から回避するとは想定していなかった。さらに自身の数秒間動けなかった謎の現象。それも不思議だが『認識誘導』で命令を完遂させるため、説明の付かないことを深く考えるのは時間の無駄になる。
男は不意を突かれない限りはスタンガンを向けられても回避出来る自信があった。女に一杯食わせられた時も視界を奪われたことで対応が遅れたからだ。目の前の男にはこちらの動きを封じる物はない。あるならとっくに使っているしあんな成功率の低い曲芸は行わない。つまり男は丸腰になる。スタンガンとスマホ。スマホのライトを向けるとか爆音を流すとかが有効打だろうが真夏の屋外では効果は薄い。考慮しなくて良い。
だから男は突っ込んだ。
謎の現象についてもう少し考える時間を設けていれば、実録から男への攻撃など男なら十分対処出来る程度のものなのだから。実録と違って急ぐ必要などないのに、実録の覚悟に当てられたのか決着を急いでしまった。
実録はののから少しだけ離れたが逃げようとはしなかった。
男は直感した。
あの女を跨げば歩の間隔が長くなるからその隙を突いて攻撃、女のサイドに周ろうとすれば遠回りになりこれまた隙を突くつもりだろうと。
どっちを取っても隙を突かれる。
ならば、第三の選択肢を取る。
跨ぐこともせず遠回りもせずに攻撃する方法。
先程と同じようにやればいい…
男は実録に突っ込んだ。
そして、2人の間に突っ伏しているののをサッカーのシュートのように、実録というゴールポスト目掛けて蹴り飛ばし…………
「……お前の蹴ろうとしているのは人じゃない。トンでも表せない無限の質量。つまり絶対に動かせない」
『氷鬼』
実録はスタンガンとスマホを回収した時にののの身体に触れてののを固定した。
男が女を跨ごうとすれば跨ぐために必要なオーバーアクションの隙に触れる。跨ぐ時は地面に付いている足は一本だけだ。踏み込みとも違ってバランスは取りづらいだろう。拳で攻撃されても対応出来る自信はあった。
女を避けて来ようとも遠回りのために無駄な動きが必要になる。スタンガンのリーチもあればどっちに来ようとも電撃を浴びせることは可能だ。
では男は詰んでいたのか?
いや、もう一つある。女がいなければ良い。
そうすれば跨ぐことも躱すこともいらない。女を居なくなるようにするには女を動かせば良い。
女を退かして攻撃にも転用出来る一石二鳥の一発。それがののを蹴飛ばすことだった。
実録は第三の選択肢を潰すためののを固定した。
『氷鬼』で固定された物は実録が瞬きをするまでは如何なる攻撃を受けても動かない。
つまりそれを蹴飛ばそうとした男の足は、作用反作用の法則で蹴りの威力がそのまま男の足に帰って来た。
バゴギ
鈍い音
足の骨は完膚なきまでに破壊された。そして動かない物を蹴ろうとした男はバランスを崩して前のめりに倒れ始めた。
蹴った後にそのまま走り続けるつもりだったのだろう。片足は潰され、勢いは止められず倒れるのを止められない。
実録はスタンガンを斜め下に伸ばしていた。
それは丁度スタンガンの先端に倒れている男の頭部が来るような位置だった。
男は白いスタンガンを捉えると体を捩って回避しようとした。
しかし、間に合わない。
スタンガンと頭部が接触するのと同時に、実録はスタンガンのスイッチをONにした。
♢♢♢
「はぁ、よし」
実録は額の汗を拭いながら南の方を見ていた。
スタンガンの電流を浴びた男はそのまま気を失った。
実録はコンビニに入ってロープを手に取り、レジに1000円札を置いて男をロープでグルグルに拘束した。
一度気絶したのならおそらく『認識誘導』の影響は受けていないだろうが、また動き出さないように念入りに縛った。
女の方は男からは離して日陰になる位置まで運んだ。
敵だがこの女がいなかったら催眠人間には勝てなかった。小さなお礼として女が熱中症で死なないようにロープと一緒に買っておいた水も女のそばにおいた。
親切心ではない。
その代わり女の所持品は全て回収した。
スタンガンとスマホの他にポーチのような物を発見した。カバン代わりだろうそれも取り上げた実録は女のスマホを確認し始めた。
「まだ通話中…」
スマホは通話中のままだった。
誰かは知らない。グループ通話だが電話の相手は『紗穂』という人物のみだった。
実録はスマホを耳に当てた。
「……もしもし」
「…………鬼束実録か」
「………神岐、だな」
神岐の監視もどこかにいるはずだ。
この戦いも見えているはず。自分を知れるのは神岐しかいない。
「良い戦いだった。超能力を使いこなせている」
「…敵にそんなこと言われても嬉しくはないな」
「敵とは大袈裟だな。『認識誘導』で操った人間がやられるなんて普通ありえないからな。そのスタンガン、大事にしろよな」
「………、それで、わざわざ電話に応じた理由は何なんだよ」
神岐は『認識誘導』を使って鬼束達、雪走、舟木達、平原達、府中でまだ抗おうとしている人間は全て監視している。
わざわざ会話をする必要もなく催眠人間を使って捕まえれば良い。実録が勝てたのもタイマンだったからだ。数で押し込まれたらスタンガンがあっても太刀打ち出来ない。
「んー?ただの暇つぶしだよ。隕石が落ちてくるのを待っててな。隕石が来るまで暇なんだよ」
「能力者…」
「あぁ、『頭上注意』って能力らしい。隕石を落とすんだってよ。インフレし過ぎて笑えるよな」
こんな非常時に呑気なことを言っている。本当に隕石が落ちるのを待っているのだろう。神岐は隕石能力者と戦うつもりらしい。
(神岐なら何とかするんだろうな)
奴の駒の1人にさえこれだけの労力を使ってしまっている。
奴等を使えば隕石能力者にも勝てるのかもしれない。
「暇つぶしの雑談か。生憎だが俺にはそんな時間はない」
「あぁ知ってるよ。市丸と丹愛が能力者と戦う準備をしてる。早く合流して加勢した方がいい。おそらくどちらかは囮になって雪走の注意を引くつもりだろうからな。萩原時雨を助けるためとは言え協力が出来ないなんてな…」
「チッ、元はと言えばお前が」
「差し伸べた手を拒否したのはお前達だろう」
「逆探知して言うことか!」
「だが逃げたせいで鬼束零は捕まり萩原時雨は1人で逃げる羽目になった。お前達の選択だ。俺はな、さっさとドクターとやらに会いたいだけなんだ。チケットがレアだと言うのならどんな手段でも使う。あぁ、こりゃ転売ヤーは減らんわな」
向こうは待ちで余裕があるのとこっちは焦っているため会話のテンポが合わない。ゆったりしているのが馬鹿にされているように聞こえる。
実録は通話を続けながらコンビニを離れる。
「なんだ、移動か?移動がてらもうちょっとお喋りしようや」
「黙れ!お前の言うことは聞かん」
「……はぁ、…マジアドバイスだ。タイミングを少しずらせ。このまま南下すると雪走に攻撃される。市丸か丹愛が気を引いている間に進んで不意打ちで攻撃しろ。お前の能力は未だ分からんが動きを止める能力なんだろ?」
「……」
「そのまま少し進んだところに野球場がある。雪走は球場前の交差点にいる丹愛達を視界に捉えて攻撃してたぞ。嘘だと思うがお前もサイドミラーが飛んできたのを見ているはずだが?」
(やっぱさっきのはサイドミラーだったのか…)
市民球場は一個先の交差点にあった。あそこにいる市丸達を狙って、コンビニにいた自分のところまで届いていることを考えると、神岐の言っていることは嘘ではないのだろう。
「………ふん」
「どうやら素直に聞くみたいだな。俺はお前達の敵ではあるがそこの女のグループや牧村達にお前らを盗られるぐらいなら助け船は出してやる」
「…その見返りにドクターに会いたいと」
「まぁそんなとこ。奴等の目的はドクターの『超常の扉』だ。絶対に奪われてはならん。…と、そろそろ市民球場か。建物の陰に隠れながら少しずつ進め。丹愛達も準備が整ったみたいだ」
連絡手段を持たない市丸達、敵である神岐が指示を出して連携している。
「市丸兄達には何か言ったのか?」
「いや、言ってない。まだ見定め中だ。さっきも言ったがお前と話しているのは敬意だよ。まだあの2人はその基準を満たしていない」
「自分勝手な野郎だ」
「じゃあ俺からは以上だ。そろそろ隕石に集中したい。隕石は絶対に降ってくるからそれは忘れるなよ。そのスマホは持っておけ。ドクターに渡すと喜ばれるかもな。一応位置情報サービスとキャリア回線は切っておけ。少しでも逆探知されないようにな」
プツッ
グループ通話から紗穂という女性が抜けた。
1人だけになった実録も通話を抜けた。
スマホの画面がトーク画面に切り替わる。
頻繁にやり取りをしてる。
超常の扉、業君、神原、お嬢様
業君がおそらくドクターなのだろう。業君を殺すと八散という人物が言っている。
このグループにいるのは……、
(2桁…そんだけ敵がいんのかよ…)
しかしこれだけの情報源を手に入れられたことは大収穫だ。
実録は神岐の指示通り位置情報サービスを切ってネットワークを切断する。
「よし」
実録は市民球場の交差点に着いた。
歩道上には立たず少しずつ物陰を利用しながら進んでいく。
♢♢♢
「ふぅ、あれが鬼束実録の『氷鬼』か…。あれに触れられたら俺もヤバいな。発動条件は触れることだろうがどれだけ拘束出来るかは分からんな」
そして『氷鬼』の特徴として、固定されている間の攻撃は解除後に一気に押し寄せるということだ。
男が気絶してからしばらくしてから羽原ののが急に吹っ飛んでいった。
あれは男の蹴りが遅効性のように彼女を襲ったのだろう。あの蹴りだ。腹の中は相当酷いことになっているはずだ。
死んだところで問題ないが彼女は貴重な情報源。通話の感じだと女達のまとめ役のようだから彼女しか知らない情報があるかもしれない。
(けど今からコンビニまでは遠過ぎる。さっさと牧村を止めて暁美達を逃さないと…)
直感だが、これからすぐ隕石は降って来る。
1回ではパフォーマンスとしては十分だがドクターがそんだけでノコノコ姿を出すとは向こうも思っていないだろう。
「ほら来た」
1分か2分か経った頃、3つの隕石が府中上空に現れた。
「あれほどの質量をどうやって持って来てるのか。隕石製造も能力の一つだとしたら土木で使えそうな能力だな。…まぁ更地にすることでしか使えないだろうけど」
これが別の場所の物質を掻き集めて作っていないのだとしたら、無から有を作り出していることになる。
無から有を生み出すのは超能力では可能なのだろうか?
(『甘魅了』も手のひらから作るらしいがあれも無から作ってんのか?体の何かを使っている可能性もある。無尽蔵ではないことを祈りたいが…、あんま超能力のことを俺は知らないんだな)
超能力も知らないし超能力者を作り出す『超常の扉』のことも神岐は何も知らない。
「3つか…、場所的に俺に車で行かせないように主要道路を片っ端から潰してるな」
だが隕石を落とせば落とすほど位置を絞ることになる。
(『頭上注意』、どこでも落とせるなら府中に来る必要がない。位置指定に条件があるから府中に来た。自分の周囲にしか落とせないことが制約に違いない)
先の3つと今の3つ。
これらの範囲内で暁美と別れた時は府中駅前のストリートにいたことを踏まえると小国魂神社周辺にいることは間違いない。
(競馬場から牧村捕獲の人員を出した。挟み撃ちにしてやる。奴自身が交通インフラを破壊してるから身動き取れないしな。ご丁寧に電車が安全なのは帰り用だな。萩原時雨のような移動能力者はいないみたいだな)
大まかな位置は分かったが車では行くことが出来ない。府中の東側にも隕石が落ちようとしているがさらに東の道を通って隕石地帯を突破する。
西よりは競馬場に近付きやすいので催眠人間に追加で指示を出しやすい。
神社と競馬場の間に入りやすくなる。
それに東側には………
「車を東回りに走らせて東京競馬場を目指せ。法定速度なんざ無視しろ、どうせ誰も走っちゃいない!」
「承知しました」
ドライバーを操って神岐は東京競馬場を目指す。
♢♢♢
府中に再度降り注いだ隕石。
それらがついに………
ズガァァァァァァァァァァァァァァンンン
ドドドドドドドドドドドド
爆音と衝撃波。
1度目の隕石よりも人的被害は少なかった。
最初の隕石で皆が府中から逃げ出したためだ。
なので地面が抉れて周辺の建物が崩壊した程度で済んだ。
(蕪はまだ抜けないか…)
牧村はこの状況を童話に準えて考えていた。
あの話はどんどん蕪を抜く人が増えていっても全然抜けないというような話だったはずだ。
幼い時に読んで以来だからそのストーリーが正しいのか曖昧だ。
(業はまだ見つからないか………)
まだまだ、なりはみつかりません。
♢♢♢
これは、偶然なのだろうか?それとも意図したものだったのだろうか?
京王線新宿駅で見知った顔を見て彼女達がいなくなるまで新宿に潜伏していた。
京王線は使えない。そう考え小田急小田原線を使って南武線に乗り換えて向かおうとした。
しかし乗車した小田急線で体調不良者の対応をしたとかでしばらく電車が走らない状況に入った。
これが代々木上原や下北沢で停車していれば地下鉄や私鉄に乗り換えて渋谷から田園都市線に乗り換えたが、停車したのが成城学園前駅だったのは運が悪いとしか言えない。
ようやく登戸駅に着いて南武線から府中本町駅に向かおうとしたが、稲城長沼駅に停車したところで線路内に車が入ったことで南武線の全線がストップした。しかし、稲城長沼駅ならば徒歩で府中に行ける。
稲城長沼駅で下車して線路伝いで府中を目指した。
最短ではなく線路伝いで進んだのは線路内に侵入した車が、超能力によるものではないかと考えたからだ。ただの目立ちたい残りの人生を墓地に捨てて強力なインフルエンスを召喚した馬鹿という可能性もあったが、もしものことを考えてその車を確認しておきたかった。
そして、丁度…
電車同士が衝突する現場に居合わせた。
タイミングが綺麗過ぎた。
これは偶然なのだろうか?それとも、自身の能力、『確実達成』による因果律操作の影響によるものなのだろうか?
白衣を着た男には知る由もない。
現在の状況
神岐義晴
東京競馬場目指して車を走らせている
鬼束市丸・丹愛
ホームセンターで対雪走戦のアイテムを集めている
鬼束実録
催眠人間を撃破
市民球場交差点で雪走に攻撃されないように移動中
牧村桃秀
追加で隕石を落としている
雪走一真
市丸達が来るのを待っている
ドクター
稲城長沼駅-南多摩駅間で電車同士の衝突現場に居合わせる
ドクターがついに登場!!!
せっかくの100話ですからね!
神原と神坂は8月5日に府中にいなかったのでちょい登場になってしまいました。
ドクターはそもそも府中にいなかった。
とんだクソ茶番ですね。
では飴奴隷が見たというドクターは誰なのでしょうか?
飴奴隷は薬漬けでまともな思考など出来ない。
おそらくドクターのそっくりさんコンテストに出てもおかしくないぐらいのそっくりさんが府中に偶然居たというオチでしょうか?
けどそれによってドクターの仲間や神岐と出会えるんだから彼女達にとってプラマイで言えば超プラスです。
茶番ながら誰も損をしていない?これが府中動乱です。
羽原ののと萩原時雨はリタイヤ。
残りは神岐、平原、戸瀬、設楽、鬼束三つ子、牧村、雪走、ヘリコプター。
そしてドクター。
けどまだ府中に入っていないからドクターはこのまま府中入りはないのかも?
さて、次回も府中動乱です。
2回目の隕石落下後前後の話です
平原達はこのままヘリコプターで逃げられるのでしょうか?
鬼束兄弟vs雪走
神岐vs牧村
動乱は収束するのでしょうか?
これ以上の登場人物は出ない…と信じたい。
あっ、知覧がいるね。
舟木と九重も浮いてるね。
操られたままの久留間と能登も残ってる。
というかこの惨劇が何故8月6日にはなかったことになっているのか?
…終わるよね府中動乱編?




