先生と書生とアゲハチョウ
肺を患って二年が経った。
晴れた日。空気も澄んでいて、呼吸がしやすかった。
軒先に座って庭の花を眺めていた。アゲハチョウだろう。翅が美しく、ひらひらと舞う姿は、この世が平和であることを象徴しているようだった。
しかし平和がそうであるように、アゲハチョウの寿命は短い。私の残された寿命よりもさらに短い。
なんて儚い生物だろう。なんて脆い生物だろう。
けれど刹那に生きるからこそ、あれほど麗しく思うのだろうか。
なんだか、とても、羨ましく思った。
「吉岡先生、顔色が良いですね」
物思いに耽っていると、書生の河村くんが薬と水差しとコップを乗せたお盆を持ってきていた。そういえば、妻は友人と一緒に名画座へ出かけると言ってたような。だから世話を河村くんに任せたのだろう。
「河村くん、気休めは止してくれ」
「気休めなんて言ってませんよ。血色の良い顔をしてます」
「君は医者ではないだろう」
「素人目にも良いのですから、医者も同じことを言いますよ」
そういうものだろうか。判然としない気持ちで一杯だけど、討論するつもりはなかった。
「先生、僕が書いた小説を読んでくださりましたか?」
子どものようにきらきらと顔を輝かせる河村くん。今年で二十五になろう男だが童顔のために学生のように見られてしまう。まあ書生に変わりないので、問題はなかろう。
「雑誌に掲載されたものだろう。読んだよ、素晴らしかった」
「珍しい。先生が僕の小説を褒めてくださるとは」
驚きのあまり、目を見開かす河村くん。私は苦笑した。
「褒めるべきものは褒めてきたつもりだよ」
「でもその後批判するじゃないですか」
「ああ。してほしいならするが?」
「うへえ。勘弁してください」
まるで予定調和のような会話。私は少し咳払いをして、河村くんに言う。
「これで思い残すことは無くなったよ」
ざあっと木々が揺れる。葉が落ちてきて私の膝の上に乗った。
手に取って確かめる。こんなに若いのに、もげてしまうのは可哀想だった。
「なに弱気なことを言うのですか。先生らしくない」
「先生、か。私は君に何も教えてあげられなかった気がするな」
唯一後悔しているのは、それだった。
「私の持つ技術を君に伝え切れなかった。それが残念だ」
「……そんなことはないですよ」
河村くんは私に訴えるように言う。
「先生の作品は僕みたいな凡才に希望をくださりました。加えて弟子にしていただいた御恩は決して忘れません」
「……そう言ってくれるか」
河村くんは嘘を吐けない人間だ。だから本心で言っていることは分かる。
私は目を切って、再び庭を見る。庭師に手入れさせているので、とても美しい。池には蛙やイモリがいる。そこら中に蝶々が飛んでいる。名も知らない花々のかぐわしい香り。
「それで、君はいつ行くんだい?」
私が訊ねると河村くんは「明後日には」と短く答えた。
「そうか。淋しくなるな」
「そうですね。僕も淋しくなります」
私は河村くんを見た。そして言う。
「戦争とはいえ、君のような素晴らしい才能の持ち主が兵役に就くとは、残念なことだ」
もしも世界が平和であるのなら、彼は後世に名を残していただろう。
世界は残酷で悲しい。私みたいな役立たずが生き残って、未来ある彼が死地に赴くとは。
「先生、僕は後悔してません。先生の弟子になれたことを誇りに思います」
河村くんは笑顔だった。笑顔のまま、私と接してくれた。
だが、私はどうしても笑顔になれなかった。
「満州はここより寒い。防寒の対策はするように」
「ありがとうございます」
私は行かないでほしいと思った。でもそれは叶わないと知っていた。
国のために戦わないものは非国民だ。
「先生、奥様が帰られる時刻なので、僕は帰ります」
「そうか。気をつけてな」
名残惜しいが、引き止めるわけにはいかない。
私は最後に河村くんに言う。
「君の創りだした小説は素晴らしい。だから生き残って帰ってくれ」
私の言葉に河村くんは驚いて、それから笑顔で「はい! 先生もお元気で」と応じた。
私は庭の花々を眺めたアゲハチョウはどこかへ行ってしまった。
どこかで卵を産んで、その子どもが廻り巡ってこの庭に来るがいい。
それはとても愉快な話だろう。
結局、私と河村くんは再会することはなかった。
けれど私が存命の間は彼のことを忘れなかった。
彼もまた同じであることを願うばかりだ。