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 僕は体が釘になったかのように感じ、ピラールの言葉が僕を打ち付ける槌のように感じた。一瞬彼女があの図書館にいて、僕の読んでいた本を盗み見ていて、僕を吃驚させるという目的のためにそんなことを言ったのかもしれない突拍子もないことを訝ったが、彼女の軽蔑したような口調と、件の男に向けられた川底の小石でも見るかのようにつまらなそうな視線からそれが恣意性のない言葉であると知れた。

 それにもしかしたら何でもない一般人で、ピラールの思い違いかも知れないじゃないか。そう簡単に結論を出すのは早すぎるし、しかも僕はあまり聞いたことがないけれど、響きとしてはそう珍しい名前でもない。

「君の思い違いってことはないかい?」

 今ではピラールは僕から離れて酔っ払いに対して咎めるような視線を向けていた。彼女は僕がそういうときっとこっちを振り向いて、やすりのようにざらざらとした声で言った。

「このあたしが人違いをしたとそう言いたいわけか! あんたみたいなひょろっとした洗濯竿に吊るされた布みたいな男があたしのいったい何を知ってるっていうんだい? あたし周りでは人が確かに巨大なスーパーの食品棚みたいに溢れているけれどね、自慢じゃないが誰一人忘れたことはないんだよ。たしかに幾つかの名前は思い出すのに時間がかかるけれどね(あたしだって人の名前覚えるために生まれてきたわけじゃないんだ)、けれど日が暮れるまで悩んでいることは一度だってなかったし、これからもないに違いないよ。あたしの頭は広い平野みたいなもので、所々窪んでいることはあるかもしれない(それは確実にあるだろう)けれど、あたしには隅々まで見渡せるんだ。あたしがさっき言った名前に相違ないよ、お坊ちゃん」

 ピラールはぷりぷりと怒りながらまるで教科書に書いてあることを暗唱するみたいにすらすらと文章を吐いた。彼女に少しの想像力と堪え性さえあれば良い小説家になるに違いないと僕は思った。

「ともかく、それは正しいんだね?」

「あたりまえよ! 私の記憶は朝日を受けた山頂みたいにはっきりしてんのよ。酒だってあたしゃほとんど飲まないし(飲んだとしても、ここにいるごろつきみたいに正体なく酔っぱらうまでは飲まないよ。一度その領域に足を踏み入れたら雪の積もった丘の上から雪玉を転がすみたいにどんどん悪い方向に行っちまう気がするからね)、頭がぶっ壊れるほど退屈な毎日を送ってるが、まだ何とか正常を保ててるんだ。あたしとしちゃ、あんたみたいな若さに物言わせている輩の方がよっぽど記憶力に自信がないんじゃないかと思うけれどね。あんたたちは覚えようとしないで、ただ受け身になって物事を記憶しているだけに過ぎないからね。あたしゃ毎日起こることをできるだけ詳しく、はっきりした輪郭を与えて記憶するようにしているんだ。ああ、もう、鬱陶しんだよこの馬糞野郎!」

 そう言って彼女は腰の周りに抱きつこうとする踏み潰された雑草のように惨めに酔った白髪混じりの、浅黒い肌の、誰かが潰していったみたいに真っ平らな顔をした中年の男をまるで蚊を潰すように苛立ちながら、しかし易々と振り落とした。その後も聞くに堪えない暴言を何回か吐いて、客を詰っていたが、ふと気づいたように顔を上げた。

「とにかくどっかに座りなさいな。もしあんたがよっぽどの物好きでなかったら、あそこの席はやめといたほうがいいってことよ。おいこら、汚い豚みたいな腹を見せて店の床で寝そべるんじゃないよ!」

 彼女は僕にはもう気も払わずにずかずかと豚よりも醜悪な肉が垂れ下がって黒ずんだ皺をつくっている腹をだらしなく光に晒している男の方へと歩いっていった。そして箒で塵でも払うようにその男を蹴っ飛ばし、豪快にその男を持ち上げて僕を押し退けて外へ放り出した。そして唾でも吐くように「みっともないったらありゃしない」と呟いた。

 僕はどうすればいいか迷った。しかし結局僕はさっきから目をつけていたあの男のいるテーブルに向かって、頼りなげな足取りで進んだ。一つには僕は他の席の見境なく酔った人たちとうまく付き合える気がしなかったというのと、憧れではないにしろ興味深い人物と同じ席で向かい合えるという状況が魅力的に思えたこと、最後にピラールの言葉が僕の意志を反発させ(僕が彼女に対して好意をもっていないとか、嫌っているというわけではない。しかし良い印象は持っていなかったというのは事実だ)、行動を起こす原動力となったことがあった。

 席やテーブルはもはや探し物をして家中を漁ったように乱雑に通路を塞いでおり、僕の背中を慣れなれしく叩いて「よう兄弟! 一つ飲んでいきな!」と威勢良く言う巨漢が何人もいたので、僕が最終的にそこにたどり着いたときにはいささか疲れていて(それでなくても旅を終えて激動の一日が終わりかけているときだったので、体を組成する核なり軸なりからくるような深い疲労が僕を苦しめていたのだ)、運ばれてきたウイスキーもすぐには飲まずにしばらくぼうっとしていた。僕にウイスキーを運んできた娘は赤毛のひどくにきびの多い女の子ではあったが、瞳はいじらしく輝き、口許には微笑が浮かんでいて、善良そうに見えた。その娘が僕の耳に顔を近づけて「ピラールが難しい顔をしてるわよ。お気の毒にねえ」とくすくす笑いながら呟いたのもほとんど頭に入ってこなかった。頭の中は収穫を終えたばかりの田のように空っぽで、目は機能しているが、何も見ていなかった。腰を落ち着けて自分を通過されるだけの存在にするような機会は今日一日ほとんどなかったから、それは僕にとって貴重で重要であるように思えたし、実際に悪い気はしなかった。しかし繋ぎ止めていた手を離されたように唐突にその浅い無心状態から解放され、僕は目の前にいる男が僕をまじまじと見つめていることに気がついた。それはまるで規格の合わない椅子に座っているように僕の座り心地を悪くさせたが、彼の瞳には夢見る冒険家のように純粋な興味と野心が認められ、僕もすぐに平静を取り戻して相手を見返した。

 彼の着ているスーツは高いものではなかったが、その荒削りな安っぽさが彼の俊敏な高い鼻やきりっとした目元の精悍な顔立ちによく合い、峻険な崖の如く厳しいが揺るぎない魅力に繋がっていた。スーツのボタンは外され、少し黄色くなったシャツは首元が開けられていた。口髭を丁寧に蓄え、黒々とした頰髯は剃られていた。癖のある黒髪は左右に別れていて、造形として完成の域に達したような美しい広い額を見せていた。

 彼と僕はしばらく見つめあった後、どちらから何を言ったわけでもないのに、初対面の人に対して行う儀礼的な挨拶や相槌などが全く不要なほど心が通じ合っていると思った。それはまるで国境を徒歩で超えるほど呆気なく、当然のことのように感じられるが、僕は人付き合いがうまいとは決して言えないし、彼も人と交際するには何か揉め事や厄介を起こさないではいられないような人物に見えたので、これはとても稀有なことに違いなかった。あるいはそれは僕だけかもしれなかったが、彼も満足したような鼻息をしてウイスキーの水割りを口に含んで味わうように飲み下したので、きっと彼も僕と同様の感覚を味わっているのだろうと推測した(もしかしたら彼は僕が飲みの相手に相応しいと、あるいは少なくとも不快でないと認めただけかもしれなかったが、それにしても僕にとっては嬉しいことであった)。

 僕は喋るきっかけを掴もうとして、ウイスキーを飲んで、その味の感想でも言おうとした。だが思いの外普通の味で、相手の興味を引くようなことは何一つ言えそうになかったので、やめにした。グラスの中で爽やかな音を立てた氷が動くたびに反射する光の輝きや特徴が変わり、踊る小麦色の透明なウイスキーは美しかった。体の中に鼠が巣くったみたいに血が駆け巡り、体が温まってきた。

「酒というものは女に似ている」とザック・カルーソは言った。古典を語るに相応しいような強靭ながら奥深い味わいのある声だった。

「一目見たら脱がしたくなる。脱がしたら最後までやり通したくなる。だが後には絶望的な無感覚が残されるだけだ。そしてそれを承知でまた繰り返すことになる」

 僕は呆然としていたが、オン・ザ・ロックのウイスキーのような刻々と味わいの変わる声質は断固としたもので、相手に強引に納得させる力を持っていた。

「あなたが、ザック・カルーソさんで間違いないでしょうか?」

 珍しく僕は頭の中で組み立てられた文章を強張らずに言えた。これまで僕は、言おうとした瞬間に新しいことを思いついたみたいに詰まってしまうか、変な抑揚をつけてしまったものだが、今は冷静とは言えないまでも穏やかな調子に保つことはできた。

「ああ、私がそうだ。世界で最も偉大かつ華麗な作家だ。いや、作家という言葉は正しくない。なぜなら私の活動や私の活動の中で描かれる営みは言葉という枠組みを超えて共有されるべきものであり、正当に評価されるべきものであるからだ。正しくは芸術家だ。私は小説というジャンルで活動しているだけにすぎない。ところで、君は誰だね?」

 当然その質問が帰ってくるだろうと予想はしていたが、実際にそうなると多少まごついてしまった。

「僕は、その…なんて言っていいのか分からないんですけど、大学を卒業したばかりの旅行者みたいなもんです」

「そんなことは君の顔を見ればわかる」

「え」

 僕は驚いて彼の顔をまじまじと見たが、彼の経歴や素性はどこにも書いていなかった。

「僕にはあなたについてのことがあなたの顔に書かれているようには見えないのですが」

「私と君を一緒くたにしてもらっては困る。いや実際には困るというよりも不快だ。君は物事を見ているだけだが、私は物事を観察し、客観的に分析し、検討し、答えを導き出す。私は世界を描くために、世界についてもっと深く広く知る必要があるからして、その技を身につけたのだ。君のような平凡極まりない人間の能力と並行的に評価されるのはひどく不愉快だ」

「でも、どうやったらいいんでしょうか?」

「それはパンにバターを塗るよりも簡単なことだ。だが君たちの正確な算術でさえ誤謬を犯す潜在的な危険性に忠告しておくが、それは想像することではない。想像というのは足がかりにすぎない。それをどこまでも発展させ、あるいは洗練したところでその梯子はどこにも掛かっていないし、君をどこにも連れていかない。論理もだめだ。論理というものは本来的に物事の本質をまるで水を様々な形をしたコップで掬い上げるように説明するものだ。それ故にそこには一定数の内容と少なくとも印象がなければならない。重要なことを教えてやろう。解放するんだ。首輪を杭に縛り付けられて地の底から湧き上がってくるような憎悪の唸り声をあげる犬を放すように、それを元いた場所へ、あるいはいるべき場所へと解き放ち、追い立てる。語らせるのだよ。そうすればあとは勝手に完成するパズルのように自動的に浮かび上がってくるものさ。非常に簡単なことなのに、誰も理解も実践もしようとしない。それはなぜか分かるかね?」

「いや、分かりません」

「考えろ。君の頭は墓ではあるまい。君の想像力は棺ではあるまい。もしそうだとしたら、土に埋れたそれらを、あるいはそれらの残骸を掘り当てろ。君はその過程で何かを学びとることもできよう。だが、今はそれは置こう。君にはいうべきことが印刷所の紙屑ほど沢山あるが、それらを一つ一つ絵画に見識のある人が美術館で鑑賞するように注意深く拾っていたら、いくつ酒があっても足らんからな」

 そこで彼はぐいっと一杯ウイスキーを飲んだ。まるで決闘を前に勇気を振り絞るかのように。

「奴らは盲目だからだよ。自分に見えないものはそもそも存在しないと思っているんだ。自分に分からないことはそもそも理解に努めるべきものではないと、考察に値しないと思っているんだ。光の当てられた部分だけが物事の真実で、輪郭もぼやけ、色彩も不明瞭な影の部分など取るに足らない部分だと思い込んでいるんだ。単純化された論理と自己反復に甘んじることになる。だがね、私から言わせればそれは大いなる間違いというものだ。溜飲を起こしそうなほど独善的で、さらに悪いことには彼らはそれらの正当性と絶対性を揺るぎないものに仕立て上げようと私たちに押し付けるのだよ。それが意識的か無意識的は分からないがね。確かに私も自分自身の高慢さや自信を時に非難されることがある。だが少なくとも私は自分に見えないものを、あるいはその区別が判然としないものを、構造から否定したり消去したりはしない。自分が嫌っている連中の思想や考え方の傾向を批判したりはするが、無視はしない。夜の靄の出た海上の景色を見たことがあるかね?」

「そんなに数は多くないけれど、あることにはあります」

「そうか。ではここで実にシンプルな質問だ。靄が出ているからといってその先にはどんな景色も存在しないのか?」

「その先には僕らには知覚されないけれど、確かに世界が広がっていると思います」

「そういうことだ。真理というものはいつもシンプルなものなのだよ。しかしそれを論理やら整合性やらに結びつけて考えようとするから、物事は一層複雑になり、多くの重要だが細かい部分を取りこぼすことになるのだよ。無論私にも物事を取捨選択し、その認識される限られた物の中でもさらに自分の常識や傾向に合わせて整理や分節を行ったりしていることを否定するつもりは毛頭ない。だがね、彼らは自分が感じたことだけに安住するのに対して、私はどこまでもストイックに突き進む。闇の部分を暴き立てようとか、暗礁に光を当てようとかしようとしているのではなく、そこにあるという事実を説明し、理解させる。それが私の芸術家としての根幹に当たる信条だよ」

「僕はあなたの本をいくつか読んだことがあります」

「なるほど。して題名は?」

 僕は図書館で今日読んだ本の名前を挙げた。

「あれは世界の中でも類を見ないほど高尚な作品だ。どうだったかね?」

「僕は初めて読んだ時、随分出鱈目なことを書いているなと思いました。もはや小説ではなくて、文章を書き連ねているだけの代物ではないかと」

 僕は怒られるか、少なくても彼が憮然とした態度を示すだろうとして内心言ったことを後悔し始めていたが、彼はそんなことは気にも留めないどころか、賛意を表明するように頷いていた。

「それは一面の真実を突いているよ。私は小説家というよりも文筆家だ。私は何か伝えたいものがあるから書くのではなくて、書かなくてはいられないから、文章というものを媒体に主張を織り交ぜるのだ。例えば私は何かについて考察したり、あるいは何かに共通する傾向や性質を抜き出したり、ただ単に思考するだけでも文字に起こしてみる。そこに適当な紙がなければ本の裏表紙にでも、そこにペンがなかったら血を使ってでも書いてみる。実際には私は書かなくてはいられないというよりも、書かないという行為にうまく馴染むことができないのだよ。形を付与し、土台を作らなければ累積的でもなければ、弁証法的にもなれない。つまり、想像とは飛躍するものなんだ。というよりもそうでなければいけないんだ。そこには論理はあるかもしれないが、纏まりはない」

 そこで彼はまるでそれが言葉の源泉であるかのようにグラスを空にした。先ほどの娘がやってきて、同じものを出してくれた。彼はそれに手をつけずに話を続けた。

「私は芸術家だとさっき言った。それは私の作品全般に言えることではあるが、また作品の制作過程でも言える。私は作品を作っていると、ある時には彫刻家になり、ある時には画家になる。それはわかるかね?」

「いえ、今ひとつわかりません」

「考えろ。それが君の課題であり、敵だ。君の思考は他人の言葉や思想の奴隷ではあるまい? 共感することは間違いではない。むしろ自分一人の考えに篭ってしまうことはなんら成長も進歩も君に及ぼしはしない。なぜなら君の考えることはどれだけ広がろうと、どれだけ深かろうと君一人の考え方であり、言い方を変えれば君一人分の考えでしかないからだ。またどれだけ注意深く考えを運んでいっても、そこには必ず君の予想もしなかった視点があるからだ。だが、共感なり感激したものに自分なりの何かを学び取らなければ、それは餌を食うだけの豚だ。その場の快感が緊張だけを経験することは脈々と流れる血液の一部を吸い取る蚊と同じだ」

 彼は二杯目(もしかしたらそれ以上に飲んでいるかもしれない)の酒を飲み干した後でも顔を赤らめず、全くの素面だった。その声も目も意識があり、一切の陰りを見せていなかった。もしかしたら外面に影響の出ない酔い方をしているのかもしれなかったが(実際彼の語気は荒んではいないにしろ、強まってはいった。それに平野を突き進む竜巻のような饒舌、留まる事を知らない思考を考慮に入れれば、酒の力が入っていないとはどう控えめに考えても言えなかった)、僕も酒が回ってきたので、判別できなかったがそんなことはどうだっていいだろうと思った。

 僕は少し考えてみた。グラスを傾けて、ウイスキーを口の中に含んだ。鈍い重量感のある液体が舌の上で婉然と踊り、飲み干した後にはじわじわと熱が広がった。

「彫刻家も画家も共に芸術を表現するものとして本質的には一致しています。両者を分かつのは表現方法に他なりません。つまり、その表現方法を踏襲して小説を書いているということですよね?」

「然り。だがそれは結局のところ表現方法がどう違うのかの説明にはなっていない。私が彼らになるからには、そこに歴然とした差異がなくてはならない」

「画家の表現というのはどれだけ丁寧に風景やら人物やらの特徴や輪郭を描写するか、どれだけその中に自分の視点を含めることができるかということであると思います。つまりそれは小説の中では舞台の設定、人物の性格の奥行き、それらの世界をどのようにして切り取っていくか、それをどのように咀嚼するかということに帰結すると思います。彫刻家の場合、作品というものは初めはどんな形も象っていませんから、どれだけ綿密な計画を立てて準備していたとしてもそれを製作する途中において、偉大なる寄り道か崇高なる付け足しとでも言いましょうか、創造的な発見や時には誤謬がありうるものだと思います。つまりそれは小説であれば、書き進めていくうちに創造的な転換や発展が見つかるということです。もしくは潜在的に内在していた種がある瞬間において萌芽するということです。どうですか?」

 ザック・カルーソはあくまでも泰然としていたが、僕の話を真剣に聞いていた。机の上に組まれた指はあくまでも柔らかだったが、そこには想像すらできないほどの大きなものを掴みうるだけの力が込もっていた。

「面白い。君は時々見かけによらずに知的になることができるようだ。それは時には文学的ではないかもしれないが、皮相的な言葉と骨組みで自分たちを囲って、その中で踊るなり酔うなりしているような連中とは違う生的な言葉だ。私は高級紙にくだらん三文小説を投稿して生計をたてているような連中には憎悪に近いほどの感情を持っている。土踏まずの痛みよりも厄介できいきいと紋切り型の悲劇やロマンスを恥ずかしげもなく堂々と発表する。君は彼らの作品をどう思うね?」

「職業的な意味合いにおいて言えば、彼らはあなたのように彼らのことを批評する人間などを見下せるほどの収入と地位を得ていることは認めなければなりません。それに僕はその中でも何冊かお気に入りの本があるし、定期的に購読していたものもあります。くだらないと言うことは簡単ですが、まずまず商業的評価を受けているというのは、そしてそれを維持するのは、この流行も興味も移り変わりやすい社会の中では容易なことではないと思いますよ」

「そうだろうな。私は彼らのことがコーヒーが零れて文字の滲んだ新聞よりも嫌いだが、彼らの世間からの評価やその瞠目に値する執筆速度は素直に褒めなければならない。たとえそれが登場人物を変えただけの同じ物語であったとしても、なんの捻りもない陳腐な言い回しと一週間前の昼食を吐き出しそうになるほどの鮮烈なまでの気持ち悪い描写が惜しげもなく提供されていたとしても、それは確かに価値あることであろう。だがね、彼らの作品の中で最も軽蔑すべき要素はな、人物がどこまでも薄っぺらいということだ。彼らの描く人物というのはどこまでも型にはまっていて、それだけならばまだしも平均的な退屈と平凡とを掛け合わせている点で救いようが無い。型や、時には退屈までも極めたならばそれなりに興が乗るがね」

「でもそれはどれだけ慎重に書き連ねて言ったとしてもある程度誰にでも起こりうることだと思うのですが」

「そうした書き方をしているからそうしたことが起こるだけの話だ。然るべき方法を用いれば、そうしたことは可能性から排除できる。彼らの書き方は、思考と行動を無理に一致させようとする。また一定の傾向を持つ人物を書く際に、その人物が持つであろうと類推できる要素を平面的に挙げることによって奥行きを演出しようとする。あるいはその人物が取るべき行動を継ぎ接ぎ、連続した行動の総体としての自己を想定することで一貫性を演出しようとする。だが、私から言わせればそれは塊を質量を変えずに広げただけのことに過ぎない。私であれば、彼らとは全く異なった書き方をする。どうするか分かるかね?」

 僕は僕なりの考えを彼に話そうとしたのだが、彼の重厚な声に遮られた。

「私は人物に語らせる。ある時には辛抱強く待ち、ある時には存外呆気なく。根本的には彼らは自分のことをある時には他人の言に仮託して、ある時には内容を損なうほど婉曲的に、しかし必ず世界に向けて発信したがるものだ。だがそうしたセンテンスは無意味に陥る危険がある。故に私が進むべき方向を定め、そこに追い立てる。彼らはその限られた領域の中で大胆に舞い、熱烈に自己を語る」

 ザック・カルーソはそこでふと言葉を切ると、そばに侍ってグラスを変えようとした給仕の娘をちらと見やって、手をふった。その娘はそれで了承したらしく、グラスを片付けて、以後は姿を現さな買った。

「これはそれなりに有意義な特徴だと思うがね」

 彼は闖入者の介在を物ともせず続けた。

「私は自分の感情と思考とを分離させることができるのだよ。というよりは根本的にその二つが別々に存在していると言ったほうがいいかもしれないな。それら二つはお互いに何ら作用し合わないが、意見が一致することはあるということだ。そのどちらが現実であるかということは決めることは不可能に近いし、おそらくその二つが混じり合ったもの、あるいはそれによって分割されたものが私にとっての現実なのだろう。ある女を抱きながら、他の女を想像するようなものだよ」

「情熱的な恋愛をしたことがないんですか?」

「この世の至上のものは最高の女と最低の安酒だ。前者は現実に経験するあらゆる感情や恐怖を一時的に忘れさせてくれる。本物の愛とはそういうことだ。彼女と交わるとき、君のなかで部品を組み立てるようにして自己が構築され、同時に現実というものが崩壊していくのが感じられる。そこで君は悟ることができる、彼女こそが世界なのだと。後者についていえば、極めて端的かつ分かりやすい。ほんの数杯で頭を酒に浸したように酔うことができるからな」

 そこで彼は席を立った。その姿をみると彼は長身で、適度な肉は付いているが、それが美的な装飾となって彼の体を魅力的にしていた。カーキ色の膝の部分がほつれたようなズボンを穿いていて、岩をくりぬいたように角張った靴は薄汚れていた。

「君と過ごせてそれなりに楽しかったよ。酒の肴には少し不味かったがね」

 歩き去っていく背中は大柄な肩幅によってたくましく、毅然として見えた。僕は彼が外の通りに出ていくのを視界の隅でぼんやりと見ながら残りのグラスを空けた。間髪入れずに給仕の娘がやってきて、ご注文はありますかと愛想よく尋ねた。僕はいらないと言って目をつむり高ぶった神経を鎮まらせようと努力したが、視線を感じて、少し苛立ちながらも目を開けると先ほどの娘が悪戯な笑みを浮かべて立っていた。

「あれ、僕はいらないと言わなかったっけ?」

 彼女は僕の言うことを誰か他の人間に対して向けられた言葉であると解釈したみたいに無視して言った。

「どうでした、あのえせ小説家と話をしたのは? 麦酒の泡よりも儚い空想と虚言でも腹の足しにはなりましたか?」

「確かに彼は無茶苦茶だったし、少し行きすぎたり強情だったりしたところがあるのは否定できないけれど、少なくとも嘘を言うような人間には見えなかったよ」

「一目見たばかりの人の何を知っていると言うんですか? ピラールがかんかんですよ、まるで石炭でもくべられたみたいに。可哀想にねえ!」

 そう言われた時僕は、彼女の忠告を思い出して胸がひやりとした。振り返ると、ピラールは今にも蒸気をあげて、突進するのではないだろうかと心配させるほど赤くなっていた。

「どうしたらいいと思う?」

「すぐに逃げ道を探すのはよくないですよ、お兄さん。結果が見えていた上で選んだことなんだからせめて向き合う努力をしなくちゃ」

「それにしても、あれは少し度がすぎると言うか、僕が当初想定していたものとはだいぶ違った様相を見せているんだ。責任は取るつもりだけれど、それだけでは一歩も前に進めないような気がするんだな。なんと言うか、彼女はもはや怒りすぎて自分が何に対して怒っているのかも判断できなくなっているように見えるんだ」

「まあ、あなたったらあの偽小説家の妄言に酔わされっちゃってるんじゃない?」

 僕は目をぎゅっと押さえて、思い切った深呼吸をしてみた。酒の効果かザック・カルーソの言葉の影響か、僕は自分という存在が宙にふらりふらりと漂っているだけの連続性も有機性もない無方向の意識を持つくらげのような存在に思われた。

「かもね。とりあえず勘定を払うときにはチップを多めに弾むよ」

 彼女は営業的な笑顔をちらと見せて他の客の注文を取りにテーブル間を縫って歩いた。僕は少なからぬ酒の匂いの混じった、厭世的なため息を吐いて、ピラールの元へと向かった。彼女は顔を真っ赤にしてはいたが、僕が彼女の真正面に来るまでは一言も喋らなかったし、動かなかった。僕はもしかしたら彼女は脳に血がいきすぎて死んでしまったのかもしれないと途中で考えたが、地を踏み鳴らす闘牛のような鼻息を聞いて安心すると同時に絶望が戻ってきた。

「へいお兄さん、どうせどこも行くところなんかないだろうからそう急ぐこともないじゃないか」

「あの、僕は…」

「お前に言ってるんじゃないんだよ、テーブルクロスみたいな薄っぺらない図体をさっさと退けな」

「へ?」

 僕の隣で縮こまっていた青年は顔を締め上げられたみたいに赤くして手をぶるぶる震わせながらもごもごと何事かを口にしていた。僕は両方の顔を一巡して、視界の端に映った意地の悪そうな笑みを浮かべた給仕の娘の顔を見て、ほっと胸を撫で下ろした。同時にその青年は古びた城の地下にある涸れた井戸の奥底から聞こえてきそうな怨念のこもった声で怒鳴った。

「この淫売の倅が! 寄生虫みてえに人から金をむしりとることしか知らないような奴に払う金なんか一銭たりとも持ってはいねえんだよ」

「よく言うね! 素直に酒の代わりに金を飲み込んじまいましたとでも白状したらどうだね」

 僕はただでさえ少し酔っていたので、彼らの言葉の一つ一つが割れたガラス片みたいに頭に突き刺さって、僕は早くこの場を立ち去ってしまいたかった。だけど、退けと言ったピラールの巨体が邪魔をして、僕はそこを通ることができなかった。その間も啄木鳥のように青年は同じ暴言を繰り返していて、ピラールは素人と対決するときの格闘家のように細かいところを投げ返したり、思いがけない足払いをしたりと、自分への当たりを軽くかわしながらも、相手の癇癪を砂時計のようにこつこつと叩いていた。

 僕は迷ったが、早く外に出たかったので、「その人の勘定は僕が払いますから」と間に入った。二人は互いを荒々しく見つめていて、僕が解決策を提案した後も、鎮火後の煙のように納得いかないような様子で立っていた。ピラールが初めに動き、その後青年が感謝の言葉の代わりに僕の肩を押して出て行った。

 勘定を払う際にはさっきの娘が相手をしてくれたので、話す機会が得られた。

「ひどいじゃないか、僕をからかうなんて」

「でもあなたったらからかって欲しそうな顔をしてたわよ」

 僕はため息を吐いた。僕の顔には実にいろいろなことが書かれているのだ。

「そんなことをしてたらそのうち客を失っちまうぜ」

「私の言ったことを覚えているような人はここにはいないわよ。つまりね、それくらい酔っ払っているということ」

 僕はやけに高い勘定を支払って外に出ると、深まってきた夜の闇を追い越すことのないであろう街灯の光をぼんやりと見つめた。街の中心から離れたことと夜が更けてきたこともあり、人通りはなく、地を撫でる湿気を含んだ風だけがゆっくりと僕の目の前を通り過ぎていった。引きちぎられたような薄い雲が紺の空に印象的な白色を加えていて、光を失った素っ気ない月が一つ浮かんでいた。その遥か向こうには小さな針で穴を開けたように頼りなげに光る無数の星があり、僕との間を隔てる距離の悠久さを感じさせた。

 浮遊感を伴った酔いも徐々に醒めていき、足から伝わってくる地面の硬さがリアルだった。僕は感傷的になったわけではないけれど、今日の一日に僕の周囲で起こったことを振り返り、それに対して真摯な気持ちで反省を加えた。そうしているうちに僕は突然ある実感が体を駆け巡り、呼吸を一時的に奪い去っていった。僕は筋肉が一斉に反逆を開始したかのように体がうまく制御できなくなって、へなへなと地面に座り、その衝撃が去っていくまでそのままでやり過ごした。まるでかくれんぼで鬼が目の前を通り過ぎるときのように。しばらくすると、それは満足感と臨場感に形を変え、僕を鼓舞するわけではないけれど、石を投げ込まれた湖面のように波紋を広げ、全身に心地よい痺れをもたらした。

 そうだ、僕はいまここにいる。世界の果てに、あるいは世界の中心に。夢の実現と、野心の結実とが絡み合う巨大な記号的な、匿名的な都市の最中にいる。

 家々の窓辺でゆらゆらと灯っていた蝋燭の火は消され、どこへ向かっているのか知れない風が徐々に冷たさを増していき、本格的な闇の到来を告げていた。時の過ぎ去るままに体を現実に浸し、僕はぼんやりと意識する。僕はここにいる、と。


 それからどのようにして帰ったかは記憶にない。あるいは記憶に残っていたとしても(こちらの方が正しいと確信するときがあるのだが)それは永久に取り出されることのない記憶の棚のようなものに仕舞われてしまっていると思う。気がつくと僕は死後硬直したようなベットの上に体を傾けていて、枕元の壁には大きなごきぶりが触覚をまるで何かに怯えるみたいにひくひく動かして這っていた。

 もし人の記憶が染み一つないリノリウムの床に研究室みたいに整然とした白い壁の仮想的な部屋に、薬品瓶のようなものが丁寧にラベルをこちらに向けて無窮に続くかと思われる棚に並べられていて、その中に記憶の原液のようなものが入っているとしたら、辿り着くことはない可及的遠方にある、言わば記号的で無意識な記憶が収められている薬品瓶の中には一体何が入っているのだろうか、それはどんな性質で満たされているのだろうかと真剣に悩むときがある。単なる言葉遊びに過ぎないし、それを考えたところで何がどうなるというわけでもないのだけれど、それはショーウィンドウを通り過ぎたときにふと何かを見落としたような気分になるのと似ていて、その中に光の当たらない重要な真理が隠されているのではないかと思ってしまうのだ。それを解剖して中の感触あるものを取り出してみたい興味が時々湧いてくる。それはきっと混沌ではないし、曖昧ではあるかもしれないけれど、詳細な曖昧さというか、記号性が保たれている以上それ自体で完結したものであるはずなんだ。

 そして僕はどうしてだかはうまく説明できないけれど、その無意識というものはあらゆるものにおいて共通の普遍的な性質であるように感じる。かつ固定的で絶対的なイメージであるように感じるんだ。そこにはどのような意味付けも計算もできないけれど、確かな生命力と秩序が流れているんだ。まるで永遠に見つかることのない”失われた森”のようにね。

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