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 目測二百メートルほどはありそうなヴァリー大橋には今にも堅固な橋が崩れ落ちそうなほど人が密集していて、まるで強力な何かの意志の力によって動かされているみたいに、遠くから眺めるとそれら一つ一つは生気を失って機械的に見えた。それもそれで興味深いことだが、僕は一歩引いて見ることの全体的な流れがーもちろん多少の誤差やばらつきはあれどー理解できるという利点に注目していた。明確な流れがあるとは思っていなかったが、少なくとも総体的に見たときにはそこに何かしらの規則的な動き方があるものだと思っていた。そしてその一般的な推測が僕を当惑し、足を踏み出すべきかどうか悩ませているものだった。

 そこにはおよそ流れというものはなかった。あるいはその流れは一方向的ではなかった。それは一種のブラックボックスで、出入りに秩序はなく、個々人はどこまでも機械の部品のように見えるのにそれを流れとして捉えるとそれはどこまでも混沌とした人、行商人、馬車の無尽蔵の交通だった。無作為に一つをその中から取り出してみるとそこには確固とした比喩的な意味での血と肉と流れがあるのだが、全体が見えるように一歩引くとそれらは記号的で置換可能なものに見えた。あるいはそれは僕の理解を超えた法則に従っているのかもしれなかったし、刹那的に秩序を変える無意識的な流れなのかもしれなかった。

 僕はため息を吐いた。部屋の借料は後払いであるから当分気にする必要はないし、それ以外のことを考えても夕食以外に切迫した事情はない。けれども知らない土地で何が起こるか分からないなか一文無しで生活するには僕はあまりにも狭心だったし、あらゆる点においても緊急時に役に立つのはお金に違いなかった。それに借料はのし棒を使っていつまでも引き伸ばしておくことのできないのでいつかはこの橋を超えなくてはならないことを僕は承知していたし、できるなら早くその用事を済ませてしまいたいとも思った。

 僕の意志はすでに決定に判子を押し、体を強制的に動かす権利を持っていたが、体の潜在的な拒否があらゆる箇所から湧き起こって、僕をがんじがらめにしていた。けれども二度目のため息を吐いたことには両者の決定は一致し、賛成の声を挙げて僕を押し出すものだから、僕は仕方なく橋の方へ歩みだした。

 僕は橋の中途でまるで顔のない集合的な悪意にあちこちから押し出されるようにして、後退と前進を繰り返していた。それらは無言のうちに突然手を伸ばして僕の顔を突き飛ばしたり、蛇のようにゆっくりと機会を狙うようにして的確に僕の肩を突き放したりした。それが偶然なのかはたまた僕に対して深い怨恨を抱く個人から為されるのかは分からなかったし、そんなことを考えてもいられないほど熱気と湿気に頭が飽和してきていた。まるで僕の体の所有権が僕から他の誰かに移ったように体はまるで自由が利かなかったし、考えも筋道立てて考えようとすると急に道の先が真っ暗になるように途切れてしまった。橋の欄干近くでは猿を操って劇をしたり、趣味の悪い服を格安の値段で売りさばいている人たちがいて、それらは魅力的ではあったが、窓から漏れる光のように僕には何ら干渉をしなかった。あるいはそれもこの橋の上の暑さのせいかもしれなかった。服はそれだけで洗濯ができそうなくらいの汗を吸い込んでいた。額にくっついた髪が鬱陶しかった。まるで幾つもの戦場を潜り抜けてきたように、橋を渡りきると自我という意識の殻を剥がされた原始的な僕(というよりは本来的な人の姿)をそこに発見できた。様々なイメージと観念が視界を横切って、僕は少なからぬ吐き気を感じた。

 人々はそれぞれに行き場所を了解しているように確然とした足取りで散開していた。橋の袂にはまるで今しがた土から出てきたかのように日に焼けて黒色の肌の馭者が何人かで屯していた。僕はお金を替えたら次に通る時は必ず馬車を利用しようと心に決めた。僕は何の思い出もなく離れるべきであることは理解しているけれど、妙に後ろ髪を引かれるように橋の方に寄ってしまう視線を平行移動させて、帰りのことは気にするべきでないと自分に言い聞かせた。そしてそのときに街の方から心地よい微風が僕の頬を撫でて、風邪を引いてはいけないと諭すように僕の意識をもう一度纏わせ、籠から落ちた林檎を拾うように優しげに僕の中の燻った不満と余熱を取り払っていった。

 僕は快活とは言わないまでも随分と気力を取り戻して、これから足を踏み入れるヴァリー城管轄地域首都「ペンシル・バイタ」をあらゆる先入観や独断を慎重に避けた視線で見つめた。その景観は川を挟んで望んだときよりも遥かに圧倒的な規模と近代的造形の洗練された美をもって僕を疎外した。赤い夕陽の中でそれらはどこまでも無機質な外面でありながら、脈々と営まれる進歩ーもしくは革命ーへの精力を奔流させるように林立していた。線は流麗で麗しく、外観は端然として抜かりなかった。それは自然とは対照をなす美しさでありながら、幅の広い道路に植えられた街路樹の穏やかな緑色とよく調和していて、どちらも相手を貶めることなく、またどちらも相手を高めすぎることなく、共存していた。道路の中央には一定の間隔をおいて街路灯が置かれていた。僕は感嘆混じりのため息を吐いて、ひとしきり眺めてから為替市場を探しにその建築物が送る異物を排除するような無言の圧力を身にひしひしと感じて、肩身の狭い思いを抱きながら足を進めた。

 行けども行けども同じような建築の建物が群れをなし、僕は目的地に辿り着くことができなかった。現在地がどこなのかすでに僕は自分の座標を見失っていたし、ここが進んでいるのかどうかにも実感が持てなかった。そこには実に多くの人が通っていたが、橋を渡る前のメインストリートで見た雑多人々とはまた違った趣を見せていた。あちらが特命的な集団で個性が没しているのに対して、こちらはしっかりした足取りの身なりのがよく品の良い人も服の褪せた色や皺が目立つ平凡な人も足を引きずるようにして時々まるで鯨のように大きな口を開けて欠伸をする老人も個性のない人はいなかった。あるいは個性がある人のみがここを通ることができるのかもしれなかった。僕はとぼとぼと心細さを募らせながら歩いていた。そしてそうするうちにまたわからない通りに出て、僕はさらに孤独が足の先からずるずる上がってくるのを感じるのだ。

 だが僕はそのうち大陸図でも書かれていそうなほど大きく詳細な地図を発見した。それは見上げると首が痛くなるほどの高さと、歩き切るまでに足が痛くなるほどの敷地を持つビルの一角にあった。そこからは貧民街の子供全員を寝かせられそうなほどの大きさのガラス張りのロビーが見え、スーツを着た多くの人が行き交っていた。それもそれで面白い眺めだったが、僕にとっては地図の方がなによりも大事な発見だった。

 地図によれば、僕は現在銀行、証券、外貨取引所などが密集している金融街「エルヴィス通り」から図らずしも一本離れたところの通りにいた。それはこの都市の中心に位置していて、都市を横切るように長く走った通りの真ん中辺りには、様々な金融機関が立地していた。それは地図からでも分かるほど大きく、まさにこの都市の経済の心臓であることを感じさせ、エルヴィス通りはさながら大動脈のようだった。僕はついでに現在地の周辺の法人や組織を調べてみたが、日が暮れてはいけないと思い、すぐにその場を離れた。

 外貨取引所は今日の取引が終了する間際であったので、僕は文字通り駆け込み客となった。整然としているが清潔ではないソファーが壁に沿って続いており、受付もそれと並行して走っていた。受付の奥には倉庫ほどもありそうなほどの空間があり、机を並べて忙しげに事務をこなしていた。僕が所有していたリルという外貨とヴァリー城域で広く使用されているヴィトの為替相場は現在、ヴィト高であり、僕はとりあえず一週間は飲み食いに(もちろん節約すればだが)困らないほどの外貨を交換した。受付で僕を応対してくれた人は頭頂部が禿げ上がり、頭の横に擦り切れた絨毯みたいな髪の毛が残っていて、眉が厚く、頬が蝋燭のように垂れ下がっていた。彼は僕の風体から僕という人間の価値を一瞬のうちに推し量ると、丁寧ではあるが親切ではない極めて事務的な口調で、尊大でありながら顧客を大事にする物腰で取引をした。

 僕は取引所の玄関の前にまるで何かを考えているうちにその姿勢から動けなくなったかのように立ち止まって、まるで何かの印みたいな朱色の空を見つめていた。そうしていると、まるで地面と接した足から吸い上げられたかのような自分はここにいるという実感を感じた。僕は故郷を離れ、自分を知る者など一人もいない世間に身を投げ込んでいる。誰も知らないというのはそれだけで耐え難い寂しさと孤独を感じさせるけれど、僕にとっては鎖のない新鮮な社会のなかで生活をする事ができる喜びが勝っていた。何でもできるとは思わない。けれど、出来ることをうまくこなせるだろうという気がする。自信はないけれど、強引に状況をつくりだす好奇心と確かな手応えがある。僕は深呼吸ではなく、それが体に馴染むかどうか試すようにゆっくりと息を吸ってみた。そこにはどんな反応もなかったし、どんな効果も僕に及ぼしはしなかった。けれど、微弱ながらはっきりと新しい生活を祝福するような暖かさが込められていた。

 僕はあまり長く居ても仕方がないと思い、どこかへ行くべきだろうと思った。けれど行くべきところも、僕を迎えてくれそうなところも僕は知らなかった。僕としては橋の交通が減ってからあそこを渡りたかったけれど、この周辺の土地には詳しくないので、散歩してさらに迷うのは得策ではないと思った。とは言っても橋の近くで何もせずにただ待っているだけはあまりにも退屈に違いなかった。理想的な時間の潰し方は橋の近くで、なおかつ効率的で効果的な作業を行うことだった。僕は地図のあった場所まで戻って、手当たり次第に書き散らしたように書き込みがされている地図の中で、橋の近くに情報を絞り、一つひとつまるでそこにあるはずの設計的欠陥を探すように丹念に名前を確認していった。そこには百貨店があり、僕の所持しているヴィトが一回の食事で全て消えそうなほどの豪華な料理を提供するレストランや、新聞社などが太字で記されていたが、字を追っていくうちに私立の図書館に行き当たった。僕は疑念を抱いた。全国規模の経済と商業を席巻しているヴァリー城管轄地域の首都の立ち並ぶ企業の本部や大型の百貨店の間におそよ俗世とはかけ離れた存在である知的財産を貯蓄する図書館があるのはどうも奇妙に思えたのだ。もしかしたらこんなことは欠伸の出るくらい平凡で尋常なことなのかもしれないが、僕にとってはそれは靴の中に入った小石のように気にかかる存在だった。やがてその疑念は、図書館に行くのもありかもしれないという思いつきに代わり、地図を眺めるにつれてその考えが至極もっともらしい提案に思えてきた。

 僕はしばらくまるで隠された秘密の場所を探るように地図を睨んでいたけれど、腹の中では図書館に行くことにしようと決まっていた。ただその考えを転がしてみて、何か不都合な点がないかどうかを探していたのだ。しかしその考えはもはや独立した意識をもって、僕に訴えかけてきていた。僕は彼が利点をつらつらと述べていくのに時々相槌を打ちながら、納得したように地図から目を離して図書館の方向へ向かった。

 地図のあった場所から橋の近くまで戻るにはそれなりに距離があり時間がかかった。この都市の半径でさえこの距離なのだから、全体としては相当な面積を有しているのだろうと思った。しかもその土地のほとんどが、大陸を跨いで活躍する企業や大学で占められているのだから並みのことではない。

 道路では馬車に取って代わって自動車が運行しており、その重量感とそれに見合わない速さはどこかしら不吉な印象を僕に与えた。ただ自動車はまだ普及が十分ではない(あるいは時間帯の影響かもしれなかったが)ようで、走り去っていく数は大して多くはなかった。しかしその画期的な移動手段は少数でもかなりの重々しさを僕の中に残していった。

 そんな発見や驚きなどを重ねていたからか、僕が単純に不注意になっていただけかは判然としないが、ちょうど運良く頭を上げなければ図書館の前を通り過ぎてしまうところだった。僕はまるで透明な手に押し返されるように急な制動をして、その建物を振り仰いだ。それは地図の上では文字が小さく書かれていたので、実物も大きくはないだろうと勝手に思い込んでいたのだが(もちろんそれは周囲の建物と比べたら小さいには違いないけれど)、それはこの世の書物の三分の一位は収納できそうなほど奥行きと幅と高さと、私立の図書館とは思えないほどの大きさだった。それは適度にくたびれた臙脂色の煉瓦で造られた丈夫そうな質感で、つい今しがた産まれてきたように綺麗に拭かれた窓が三階建の壁に規則的に並んでおり、内側に開いていた。玄関の前の石畳の緩やかな階段を登ると、ガラス扉は開いており、そこから玄関左手の受付とその奥に見える定規のように並んだ背の高い書架とそれに寄りかかっている梯子。腰を曲げ、眼鏡に手をやり本の表紙を眺めている知的な老人や熱心そうに頁を捲っている少女や、何冊もの分厚い書物を天井に届くかと思われるほど積み上げている青年などが時間帯もあってまばらになって本に取り組んでいた。あるいはここから見えないところにある閲覧室には多くの人がいるのかもしれなかった。

 僕はテラスの端に記念碑というよりは墓のように立っている黒光りする石板が目に留まり、近寄って見ると、それは何年も前に掘り出されたように、あるいは歴戦の強者の背中の傷のように所々が欠け落ちていて年季を感じさせた。しかしそれは石版の価値を損なうどころかより味のあるものに変えており、独特の渋みと苦味を醸し出していた。表面は平らになっており、そこには文字が刻みつけられていた。それは古めかしい文章であったが、格調高さと気品を窺える古文であり、意味が掴めないほどではなかった。まるで嫁の泣き言のようにつらつらと長々しい文章が続いていたが、要約すると以下の通りになる。


『この門は意志と気概ある何人にも開かれている。矮小な島嶼にも、巨大な大陸にも。欠けた一塊りにも大いなる山脈にも。充たされざるものにも、満ち満ちたものにも。およそ己の無知を自覚し、あるいは己の欠陥を補おうと奮闘する何人のために、時の流れの概念は停滞も淀みもしないが、我らは隔絶され、乖離して存在する。だがそれは我らが完全であることを意味するものではなく、絶対的な視点と不動の知識を提供する存在であることをも意味しない。流動的に絶えずその姿を変化させる世界に柔軟に対応し、著される書物を収集し、記録し記憶する。そして求める者に与え、充たされざるものを満たし、可能な限り膨大なあらゆる思想と視点を与え、成長を促し拡大させる。我らは特定の見方や考え方を強要するわけでも、植え付けるわけでもなく、望まれるままに与える。故にこの門をくぐるものよー求めよ、さすれば与えられん。ゆめゆめ常に精進し、自らの無知を忘れることなきことを』


 石版の文章の下には小さく署名が彫られていたが、それは後の方が欠け落ちていて名字しか分からなかった。僕は少しその石版を見つめてから、図書館の中に入った。

 室内は古書の匂いとよそよそしい静けさに包まれていて、靴越しにも感じる柔らかい絨毯と整理された受付のデスクの上の清潔さから掃除や手入れが行き届いていることが知れた。僕は受付に近づいて静かに本を読んでいる女の子に声をかけた。

「あの、すいません。この図書館を利用したいんですけど」

 女の子は顔を上げ、しばらく焦点を合わせるように僕の顔をまじまじと見つめてそれから抑揚を欠いた声で言った。ペンシル系の発音であり、文節がはっきりしていたので、より機械的に聞こえた。

「現時点からですと、後二時間しかご利用できませんが、よろしいでしょうか?」

「あ、はい」

「それではこちらにお名前をご記入ください」

 そう言って彼女は名簿帳と鉛筆を差し出した。僕はそこにできるだけ丁寧に自分の名前を書き、まるで賄賂を渡すかのようにそっと返した。彼女はそれを一瞥し、すぐに僕の顔に視線を戻した。まるでその紙には初めから何の意味もなかったかのように。

「当館では本の貸し出しは行っていませんので、ご承知の上ご利用ください」

 僕は分かったと言ってその場を離れた。彼女は僕が何者でもなかったかのように本に視線を落とした。僕はずかずかと進むのは気が引けたので、できるだけ音を立てないように慎重に歩いて回った。幸い絨毯の弾力性は音を片端から吸い込んでいったので僕はそこまで過度に慎重になる必要はなかった。書架は分類別に整頓されており、点々と取り出されたことによって空いた空間はあったが、他の部分はある種不気味さを覚えるほど整っていた。きっとここの司書は相当神経質な人間に違いない。司書というよりも清掃業者を務めた方が成功しそうな傾向のある人間だろう。僕はそんなことを考えながら、小説の棚を抜け、文化・風土、伝記の棚を抜けた。小説は突き当りの壁一面に広がっているものとそれと垂直に並んでいる書架に収まっているものとがあった。僕は本を手に取るわけでもなく、まるで散歩道でも歩くように書架の間を縫っていった。

 玄関から見えた老人は戯曲を読んでいて、少女は古典文学を読み耽っていた。僕はそんな光景がどこか微笑ましくて、僕も何か読もうかなとその時になって初めて思った。だけれど、僕は一体どこから初めていいのか分からなかった。本は膨大にあるけれど、それはいずれも皆一定の水準を保っていたし(言い換えればはじめに手に取るような本ではなかった)、ジャンルも量も僕にとっては頭が痛くなるほど規格外だった。僕は故郷の図書館で小説を読み漁っていたからある程度の知識を持っていると自負していたのだが、壁一面知らない作家や本があるのを見せつけられると僕は途端に萎縮してしまった。だがーと僕は思ったー今まで読んだ本を読み返すのも面白いかもしれない。物語の筋を覚えていても細部が抜け落ちていたり、逆にはっきりと覚えているところでも読み返してみることによって感じ方の違いや何か新しい発見があるかもしれないからだ。僕は思いつく限り作家の名前を頭に浮かべてみた。いくつかはとても気に入っていたし、いくつかはもう二度と読みたくもなかった。少し迷ってから後者の方の作家をもう一度読んでみることにした。

 小説の書架に入り、その中から一つ取り出してから僕は閲覧室を探したが、そういえばその場所を一階では見ていないということに思い至った。立って読むのは嫌だったし、受付の横の階段から二階に上がった。二階は半分が書架でもう半分が閲覧室となっており、僕は奥へ進んで閲覧室へ入った。テーブルとそれを囲うようにしてある四つの椅子がまるで製氷器のように規則正しく配置されていた。ほとんどの席は閉められており、黙然として本を読んでいる様はまるで無数のきのこのように見えた。僕は一つだけ空いていた右の奥のテーブルの席に腰を下ろした。

 窓から差し込む日差しは弱くなり、室内は薄暗かったが文字を判読できるほどには明るかった。胎内にいた頃を思い出させるのか、その暗さは人を安心させるような暗さで、本を読むのに誂え向きではなかったが、本の世界観に浸るにはもってこいだった。椅子のクッションは僕に合わせて拵えたように気持ちよく、何頁か読み進めて、目を閉じると眠気が波のように押し寄せてきた。だがそれは僕の背中を押すような押し付けがましい眠気ではなくて、少し先で待っていてくれるような寛大な眠気であった。

 僕はいま読んでいる作家ー名前をザック・カルーソといったーの本はあまり好きではなかったが、それは偏に突拍子もない物語の展開のせいであった。そこには必然性も合理性もなく、まるでマジシャンが帽子の中から平和的な白い鳩を取り出すようにぽんぽんと話が飛躍していくのだ。加えてそれは何らかの象徴ではなく、ただそういうことが()()()()()()ということを書いているだけなのだ。文体はまるで厳密な検査をパスした言葉だけで構成されているように的を射ていたし、文法的にも正確であり、まるで小川のせせらぎのようにすらすらと読めた。当時の印象は気取った文体であり何ら意味性のない物語を言葉で構成しただけの内容の薄い本であったが、初めて読んでからしばらくの時間をおいて読み返してみると、文体よりも嫌っていたその物語性に僕は興味を覚えた。個々にはそれらは一見何ら繋がりも合理性もない。かといって全体としてみれば何かが浮かび上がってくるのかというとそういうわけでもない。だが、それはまるで掛け時計の針のようにこつこつと僕の中にある何かを叩く。けれどそれは教訓とか学びとかいう類のものではないのだ。それは僕の個人的な次元の話なのか、普遍的無意識に存在するものなのかは分からないが、はっきりとした意図を持って作者はそれを訴え、光を当てようとしていた(しかしそのスポットライトゆえに盲目になる人もいるのだー当時の僕のように)。

 僕は本を読むのは決して早い方ではないが、気がつくと読み終えていた。読後感は何とも言えなかった。まるで泡のなかに閉じ込められて、浮かんでいるかのような感覚だった。僕は本を閉じ、顔をあげて目を閉じた。本の中に登場した様々な情景が浮かび上がり、様々な人々が愉快そうに、憂鬱そうに話し合っていた。物語の決して気分のいいとは言えない余韻に浸りながら、内容は難解(僕としては二度読んだ感想として意味や論理のないという言葉は使いたくなかった)だったが、伝えようとしている一貫した主張そのものは簡単だ、と僕は思った。ただそれは僕たちの現行の言語では捉えきれない真理であるだけなのだ。

 目を開けると閲覧室の人の数は少なくなり、もう閉館が近いことを感じさせた。僕は本を手に取り、壁に掛かった丸い時計を見てここに来てから一時間と五十分が経っていることを確認した。受付の女の子は二時間しか利用できないと言ったから、もうぎりぎりだった。

 僕はすっかり人気のなくなった階下におりて、本を所定の位置に戻そうとした。僕は自分の足元を見ながら、それを先ほど読んだ深遠ともナンセンスとも言える物語についての考察を頭の中で繰り広げながら行ったものだから、周りの景色が目に入っていなかった。いや、不注意と呼べないほどには目に入っていたがそれを情報として正しく処理していなかったのだ。また閉館近い時間なので人が少ないだろうという思い込みー実際に少なかったわけだがーによってさらに僕の視界を見えないベールで掩蔽していた。その結果僕は目の前に立っていた女の子の存在に気がつかず、その隣にくるぶしより少し高い位置まで積まれた本の存在にも気がつかず、それに足を取られて女の子を押し倒してしまうことになった。

 霧が晴れるように視界が現実に背丈を合わせ、目の前の光景を認識できるようになった頃にはすでに事は為されていた。しかし僕はそれを先ほどの考察の飛躍した続きくらいに考えていたので、呆然となった。その行為が僕から始まったということもすぐには呑み込めなかった。さらに僕は相手の特徴も容易に理解できなくて、ただ体の細くしなやかな線から女の子だろうという推測をしたに過ぎない。彼女は驚いたように口をぽかんと開けて寝そべっていた。まるで思いがけないところで宿敵に出会ったように。彼女は一体何をしているのだろうか。というよりそれ以前に僕は一体何をしているのだろうか。僕は何をしたのだろうか。彼女は何をされたのだろうか。僕の思考が徐々に冷静さを取り戻していき、現実の光景から意味や因果関係を読み取れるようになると、僕は背筋に汗が滴るような絶望感と後悔を感じた。

 視界の端には僕が読んでいた適当に拾い読みされたみたいに頁を広げた本が転がっていたし、足先には何冊かの本の重みを感じた。近くにごろりと寝そべっていた猫は頓狂な声をあげて走り去っていった。膝は絨毯は柔らかかったが、地面との予期せぬ衝突で叩かれたように痛みを感じた。そして目の前にまるで涸れた井戸のように思考停止の様子を見せる色白の女の子。それら全てはある一つの事を雄弁に物語っていて、絶望と後悔よりも諦めが蓄積されていった。やれやれ、どうやら今日は女の子に謝罪をすることが僕の使命であるかのように次々とよからぬことを引き起こすじゃないか、お前。

 溺れた人が正常な呼吸をし始めるように唐突に彼女の目は目まぐるしく動き回り、口は真一文字に結ばれ、状況を理解した(そしておそらく掌握した)。彼女の目はやがて僕の顔の上に止まると、軽蔑したように目を細めて、しばらく僕の顔色を読むように黙っていた。それからまるで全世界の悪意に向けて警告するようによく通る声で言った。

「そこを離れなさい、変態!」

 僕はおどおどと立ち上がり、彼女が潔癖そうに服の埃を払う様子を複雑な気持ちで見つめていた。僕はここにいるべきなのだろうか。早く離れたほうがいいのではないか。彼女の行った言葉は至極完結だったが、具体的な指針を何ももたらしてはくれなかった。彼女はまるで僕がいないかのように自分の作業に没頭しているし、もしかしたらこの間にどこへ行けという遠回しな表現なのかもしれない。けれど僕はここに残ることにした。僕は彼女に対して謝罪をしなければならなかったし、彼女は目を離せないほど綺麗だった(僕はこの期に及んでもこんなことを考えている不届きものではある自覚しているが、僕が彼女を選んだわけではないのだから仕方がないと自分を納得させた)。

 胸元がのボタンが開けられ、金色の鎖で留められている透き通るような神秘的な空色のペンダントが控えめに覗く白色のシャツと灰色のカーディガンは柔らかな印象を与え、高潔さを象徴したような白色のレースのロングスカートと光沢のある黒色のロウファーで品良い清楚さを演出していた。それらはいずれも気品高そうな白い肌に合っていて、全体的に老成した瀟洒な、けれど毅然とした冷徹さを秘めた雰囲気を感じさせた。それらはそうした雰囲気を目標として意図されたのではなく、彼女が身に纏うことによって初めてその意味を獲得したように思えた。さっぱりしているのにどこか奥深く、単純であるのに惹かれる姿だった。

 液体のように滑らかな腕は細く華奢であったが、それらは脆い細さではなく近寄りがたい清廉さを感じさせた。顔のパーツはどれも小ぶりであったが、それらはどれ一つとして隙と弱さのない閉じた円環のような完全性で、見る者を惹きつけはするが寄せつけはしない特性を備えていた。目は夏の高い空のように澄んだ青色で、そこには曇りも波も何一つなかった。動揺したことないと誇るような瞳だった。まつ毛は長く、薄かった。鼻は小さく尖っており、口元は薄い桃色の唇が気難しげに結ばれていた。公園で会ったあの女の子が奔放さと快活さを象徴するならば、こちらは流麗さと高潔さを象徴していた。しかし他のどんなものよりも特筆すべきなのはその薄い金髪だった。それは例えるものを持たない金髪であり、分類することが難しく、比較されることを認めない金髪だった。僕の故郷にも金髪はたくさんというほどではないにしろ一定数いたが、彼女のような金髪は見たことがなかった。それはまるで大陸の果てに形成された山の中の洞窟で、観察されることが永遠にない氷の柱の中に幽閉された神秘的な幻想のような金髪だった。

 僕は自分が何をするつもりでこの場所にいるのかも忘れて、その輝きに見惚れていた。一目惚れのように情熱的ではなかったが、その輝きは僕の意識を隅に追いやるほど美しかった。そんな僕には構いもせずに、彼女は服の皺を伸ばしたりして整えると、積み重なっていた本を一冊ずつ棚に戻していった。僕は閉館時間が近づいていることも忘れて、彼女に話しかけたいと思った。話しかけなければならないと思った。

「あ、あの」

 僕は話の切り口を探るようにそう声に出してみたが、それは彼女に何ら反応を及ぼしはしなかった。あるいはそれは井戸に小石を放り込むようにしばらく経ってから効果が現れるものであるのかもしれなかったが、僕にはそんな時間はなかったし、興味もなかった。ただ彼女と話をしなければならないという思いがあるだけだった。

 僕は錆びた滑車を動かすように苦労しながら、喉の所で滞っていた言葉を絞り出した。

「先ほどは本当に申し訳ございませんでした!」

 彼女は眉ひとつ動かさなかった。瞬きもしなかった。ただ淡々と本を棚に戻していくだけだった。彼女にとって僕の立っている空間が歪み、窪んでいて、僕という個人を認識できないかのようにこちらを振り向くこともなかった。僕は借金を残した友達に死なれたような妙にやりきれない気持ちになって、どうすればいいかわからなかった。僕が次に何をするべきか思い悩んでいる間に彼女は本を全て返しきり、初めて目に留まったかのように僕の読んでいたザック・カルーソの小説を手に取った。

「あ、それは」

 彼女はピアニストのように細い指で慈しむように頁を何枚か捲り、表紙を長い間押し入れにしまってあった服を広げるように穏やかな目で眺め、それを僕に返した。僕はそれらの一連の流れが機械的でとても滑らかに行われたのと、その本のことを忘れていたので、一瞬どうしていいか分からなかった。僕はそれを受け取ると、彼女の方を見つめた。僕には(それは彼女をどこまでも好意的に捉えていた僕の視線による誤謬なのかもしれなかったが)彼女の唇が緩やかに微笑むようになったように見えた。それは行く手を阻む全てのものを理不尽に薙ぎ倒す竜巻きのように僕を打ちのめしてしまった。

「あ、あの」

「もういいから、私をこれ以上煩わせないで」

 彼女の言葉は意図を簡潔にーその先鋭さで聞くものの血が噴き出るほどー表現していた。

「いや、でも」

「それじゃ」

 彼女はそう言って真っ直ぐ玄関の方へと進んでいった。後に残された僕は津波に洗い流された後の残骸のように惨めな気分だったが、すぐに手に持っていた本を所定の位置に返し、できるだけゆっくりとした歩調で受付へ向かった。受付の後ろの壁に掛けられてあった時計は閉館五分前を示していて、玄関の前には頬に傷痕のある仏頂面の夜間警備員が僕を睨め回すようにして見ていた。受付は最初の女の子ではなくて、中年の白髪の混じった女だった。その女は僕の名前を確認すると、義務的な笑顔でご利用頂きありがとうございますと言った。

 街路灯はすでに闇と鬩ぎ合うように頭上高くに明かりを灯しており、帰りを急ぐ人々の顔を青白く照らしていた。空には蓋をしたように闇が広がり、見上げる際の首の痛みさえなければ、まるで地下を覗き込んでいるかのような錯覚を覚える。長いこと見つめていると距離感や遠近感が失せてきて、自分まで絡め取られそうなほど生き生きした闇だった。それは実際に生贄を待っているようにも見えた。

 僕は交換したヴィトを使って、色が黒く不健康そうに痩せ細り、頰骨の浮き出た老人の馬車を雇い、言い値で橋を快適とは言えないまでも比較的楽に向こうまで運んでもらった。老人は宿まで運んでいこうかと提案したが、僕はここからは歩いていくから結構だと断り、老人がタバコの吸殻を間違って飲み込んだように不満そうに引き上げていく様を眺めた。僕は今日一日に起きたことをざっと振り返り、新鮮とは言えない空気を肺いっぱいに取り込んで、宿に向けて歩き出そうとした。けれども、そこで僕は自分が宿がどこにあったかを忘れていることに気がついた。あの時は休むことに必死で、場所はどこでもいいと思って歩き回ったものだから、その道筋を覚えていなかった。似たような通りに出れば分かるだろうが、今から街中を歩き回るのは気が引けた。埃っぽい道で、うらぶれた建物が並んでいたのは覚えているが、そこに至る道順が僕の中からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

 どうすればいいだろうか。どうするべきだろうか。幸い室外でも蒸し暑いため冷えることはないだろうが、安心して眠れる場所(もっとも、あの寝床が安心だとは到底形容できないが)がないのは由々しき事だった。僕の意識は覚醒しているけれど、体はそれなりに疲労を蓄積しているだろう。そのうちに眠気を腐臭のように漂わせるかもしれない。だが、一番いけないのはここでこうして何もしないでただ考えているだけのことだ。何もしないということは時に人を駄目にする脅威になるのだから。

「君は動かなくてはならない」

 僕は口に出してそう言ってみて、実際にどこに向かう当てもなく歩き出した。そうして歩き始めると瀑布へと向かう川の流れに乗ったボートのように淀みなく進むことができた。進むべき先はなくても、進める場所はたくさんある。僕は今日ここに来たばかりなのだし、ごく限定的な場所しか知らないのだから、時間帯を多少間違えているとはいえ、観光して見るのも悪くないように思えた。

 メインストリートは未だにその活気を失っていなかった(加えて馬車をそう何度も雇う余裕はなかった)ので、僕はできるだけ裏通りを通るように心掛けた。しかし、奥には行き過ぎないということを念頭においていた。常に視界の隅に知っている場所を残しておくこと。僕は故郷の街で夏の長い休みが取れた時にはよく郊外の森の中で伯父に猟を教えてもらっていたからその基本的な心がけだけは忘れていなかった。ここも煉瓦と漆喰でできた森なのだ。

 僕はそんな風に過去の経験を拠り所とした知識を活かしていると、自分が離れてきた故郷のことを思わないわけにはいかなかった。湿っぽい日にはしたくなかったので、考えるのはよそうと思ったのだが、それは嵐の日の隙間風のように僕の意識をこじ開け、無理やり入り込んできた。まるで押し付けがましい陽気な旅行者のように僕の頭の中心部に居座り、オチもない冗長な話を長々と続けた。それは僕の気分を沈ませも陰気にもしなかったが、明るくなるのを抑制する害になった。

 僕はその思い出がさらに発展しそうだと思い、郷愁というよりは煩わしさを感じた。なぜこんな新しい人々と建物に囲まれながら色彩のない記憶に沈み込んでいかなければならないのだろうか。一日分の旅の疲れもあったのだろうが、いまでは僕は憤慨すらしていた。でもそれはどこにもぶつけようのない怒りだった。それは結局自分の中で消化するしか抜本的な解決にはなりえないのだった。でもそれは存外あっけなく終わった。終わったというよりむしろ打ち切られたのだった。

 くぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。それは世界の端で繰り広げられているように細く弱々しかったが、紛れもなく僕の目の前にある古本屋の三軒先の酒場から聞こえていた。僕はまだ思い出のさほど好ましくない余韻に浸っていたから現実に自分をうまく合わせることができなかったから、少し立って体の内と外をうまく区別できないくらい暑い夜風に当たっていた。でもそれは自分が周囲にどんどん溶け出しているような、がっちりと絡みつかれているようなそんなに気持ちの良いものではなかった。しばらくすると頭も立体感を取り戻し、霧が晴れるようにクリアーになり、実際の音はもっと大きいことが分かった。

 僕自身はあまり酒は飲まない。飲むことは飲むが、酔わない程度で嗜むと言った具合だ(さらに僕は酒に弱かったのですぐ酔ってしまい、結果的にちびちび啜るのが限界だった)。酔っている時の奇妙な浮遊感と忘我の感覚が僕はどうしても好きになれなかった。その時はそれなりに愉しく過ごせるのだが、酔いが覚めた後にまるで脱ぎ捨てられた靴下のように惨めな気分になった。僕はいまの自分でいることが好きであるとは思わなかったが(どちらかといえば僕はいまの僕がそれほど好きではない)、少なくともそれが正しいことであるような気はした。でも一番僕を酔いから遠ざけているものはその不透明性だった。それは深い霧を僕に想起させる。酔いの程度によって人はその霧の中をさらに奥深くへと進んでいく。そうして眠っている間に、元の位置に戻ってきている。けれど、それが元の位置であるとどうして証明できるだろうか。そのまま立ち止まっていたら霧が晴れただけかもしれないではないか。

 僕は迷ったが、行ってみることにした。思い出が逆に僕を後押ししてくれたのだ。地面に投げつけたはずの球が、遥かに高いところまで跳ね返るように。危険や新しいことを味あわなくてどこに新天地まで来た意味があろうか。

 両開きの木製のドアを内側に開くと、まるで堰が外れるみたいに声がずっしりした現実の大きさと質量を持って僕を吹き飛ばそうとするかのように通りに飛び出た。それは音という体裁をなしているものの情報という枠組みを超えた騒々しさで、そこに何かしらの意味や文の繋がりを捉えたり、文脈を追ったりすることは不可のように近かった。それはもはや相手を圧倒するために拵えられた演奏のようで、耳よりも頭が痛くなる響きだった。ジョッキを重ねる音、下品な大笑い、喧嘩とそれを取り巻く人々の爆笑、テーブル強度を試すかのように叩いて怒りを封じ込めようとする音ーさまざまな音が存在し、融解していた。

 僕はそこに脱皮後の抜け殻のように呆然と立っていた。その音は空気を震わせるというよりも空気の流れを著しく乱しているみたいで、僕の周りは空気が僕を拘束するように収束して固い障壁をつくっているように思えた。何か行動しなくてはと思ったが、そこには選択肢が与えられていないようにーあるいはそもそも選択肢など存在しないかのようにー僕にはどうすることもできなかった。

 すると僕の目の前に酒屋の赤ら顔の女将が立って、まるで暴風の中で伝言を伝えるように声を張り上げて言った。

「そんなところに案山子みたいに突っ立って何してるんだい? 何も飲まないんだったらさっさと帰っておくれ。ドアを開けとくと外に音が漏れるだろう? この騒音のせいで近所からは牛乳配達くらい規則正しく文句と苦情が寄せられてくるし、階上には住み着いてくれる人もいないし、本当にこっちは年々肩身が狭くなってるんだ。この酒飲みの馬鹿どもの相手だけでも私は手一杯なんだからこれ以上厄介ごとを増やさないでくれるかね。こいつらときたら白鯨みたいに酒を飲むのさ。さあ、帰った」

 女将の近くの席で馬鹿騒ぎをしていた酔っ払いたちの一人が声を彼女に声を掛けた。

「俺らを馬鹿だの牛乳配達だの散々言ってくれるじゃねえか、ピラール。俺はお前のだらしねえ脂肪と割れる直前の風船みてえな腹が大好きだぞ。寝床の枕の上の壁に貼り付けておきたいくらい見事なまでの完璧なボディじゃねえか」

 そういうと周囲の人々もげらげらと笑った。最も彼の言葉が直接の引き金になったのかは分からないが、まるでポップコーンが弾けるみたいに終わることなく彼らは笑っていた。彼らはおそらく酩酊状態で歪んだ視界と陽気な思考で彼女のことを評したのだろうが、完璧なボディというのは適当な言葉だった。彼女の体はまるで闘牛のように雄々しく、顔は角張って無骨で、指は弾くだけで旋風を巻き起こせそうなほど太かった。ひしゃげた鼻は平らな顔の中で小さな丘のように隆起していて、蠢き出しそうなほど血の色のよく通った唇はまつ毛のように開いていて、歯は塗られたみたいに真っ黄色だった。見事なまでの記念碑的な肉体だった。

 ピラールと呼ばれる酒屋の女将は毒々しいため息を吐いて、失望したというよりは疲れたような口調で僕に言った。

「こいつらの馬鹿なところはね、酒を飲めば自分が馬鹿でなくなると思っているところなのさ。けどね、私から言わせてもらえば(酒屋を営んでいる私がいうことではないのはもっともなんだけどね、でも人間たまには誰かにー敵意がなく、こちらも見ず知らずの相手にー本音を喋ったって罰はあたらりゃしねえよ)酒なんてものに頼れば頼るほど、こいつらの賢い部分はなくなっていくんだよ。酔いの後には使い古された雑巾みたいな殻しかなくなっている。かつて賢かった部分がまるで景色が網膜に残していく情感みたいに残滓としてあって、判断も交渉もできるけれど、それは熟達したピアニストが空で弾けるように経験が動かしてる小手先だけのことなんだ」

「…えっと」

 僕は何を言うべきか分からなかったので、それ以上先には何も言えなかった。あるいは何も言うべきではないのかもしれなかった。

「それにこいつらは自尊心を守ろうとするために酒に酔う。でもね、自分を失う過程で、あるいは結果で自尊心なんか守れるわけがないんだよ。喋りすぎたね。あたしゃ普段からあまりお喋りな方じゃないんだけれどね、本当のことだよ。どうも今日は疲れているみたいだ。別に特段変わったことは持ち上がってないのに(あるいはそのような日常の繰り返しに嫌気が刺したのかもね)、腹立たしいことばかりが諦めを伴って目につくんだ。まるでそれらはあたしに糾弾されるのを待ち望んでいるかのように思えるんだ。まあともかく、お兄さん、飲むのかいそれとも飲まないのかい? と言ってもあんな話を無理やり聞かされた後に酒なんか美味しく飲めるわけがないか」

 彼女の声は別に勧めるふうではなかったが、僕は彼女の憔悴したような姿が印象深く、断りづらかった。

「い、いや。飲みます」

「そうかい。じゃあ適当に空いてる席を探して座りな。中にはお前に寄生虫のように擦り寄ってくるタチの悪い輩もいるが、大抵のやつは馬鹿だが無害な奴らだ。安心しろとは言わないが、適度にリラックスした方がいいね。まあ兄さんみたいな弱そうな人は(悪口を言ってるんじゃないよ。あたしゃ自慢じゃないけど、初対面の人を馬鹿にするほど頭は悪くないんだ)あまりこういう場に慣れていなさそうだから緊張するかもしれないけれどね。酒は何にする?」

「ウイスキーのオン・ザ・ロックで」

 もはやそんなに飲みたいわけではなかったが、言ったことは撤回のしようがないので、仕方なく僕はそう言った。

「銘柄の注文はあるかい? 大したものはないけれどね」

 僕は故郷でよく飲んでいたウイスキーの名前を挙げた。

「それならあるよ。少ししたら娘に届けさせるから、それまでは、まあ酔っ払いどもに絡まれないように距離を開けておとなしく座ってるんだね」

 僕は周りを見回した。隅の方に置かれたテーブルには騒々しさとは無縁そうに静かにウイスキーの水割りを飲んでいる場に相応しくないスーツ姿の紳士風の男しか座っていなかったのでそちらに向かった。男は酒をあらゆる角度から楽しむように時々コップを持ち上げて、天井の光に透かして見たり、匂いを嗅いだりしていた。けれど向かう途中でピラールに関節を外せそうなほどの力で肩を掴まれた。

「おい兄さん。君が考えていることは大体わかってる。あそこの席に行こうとしているのだろう? 私は酒を一杯無料にしてやってもいいくらいあそこに座るのは薦めないね」

 彼女の声にはどこか真剣味があった。そして声を張り上げなくても済むように僕の耳に顔を近づけて、それでも十分大きい声で怒鳴った。僕はしばらく頭の中に持ち込んだ木琴を叩いたような音がしたように耳が鳴った。

「どうしてだい?」

「あそこに座ってる男は頭がおかしいんだよ。酒を飲んで素直にその酩酊の流れに従ってどんちゃん騒ぎをしているような奴らは正直で馬鹿だが、まだ救いようがある。酒を飲んで途端に寡黙になるような奴はあたしはこれまで何千回と見てきたが、碌な奴はいないって話よ。あいつを見てみろ。まるで牡蠣のように口を閉じているだろう。でもあれで、激しやすくて理想家で扱いにくくてありゃしないんだよ。大体ね、あたしゃ小説家なんてものが気に食わないんだ。たいしたことを伝えたいわけでもないのに、複雑だけど中身はすっからかんな論理なんてものを振り回して自己満足しているような奴がね。他人の自慰を見せつけられる時ほど気持ちが悪くなるときはないね」

「でもそれと、彼がどんな関係があるんだろう?」

「あいつは小説家なんだよ。なんの得にも金にもならない原稿を出してはここであんな風に鶏のように自分の中にあるアイデアを温めているのさ。こちらも報酬を貰っているから、文句は言わないけれどね、ああいう連中を見ていると虫唾が走るんだ。なんていったけな…そうそう、”ザック・カルーソ”とかいったけね」

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