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 僕は隣に座っている彼女のことを自分でも赤面したくなるくらいに意識しながら、何事もないような風を装ってできるだけ冷静になろうと努めた。でも僕が必死になって抑え込もうとすればするほど、感情はより一層烈しさを増し、より僕という存在に密接に結びついていった。僕がこれは僕の感情ではないんだ、僕の意思ではないんだと声を上げるその行為を糧にしているように、それは時間の経過とともに大きさと密度を増していった。そのことは内面だけにとどまるものでなく、僕はチラチラと横目で彼女の姿をさりげなく、けれどしっかりとその姿を確実に視界に収めるようにして窺っていた。

 一方の彼女はそんなまるで公の場で叱りつけられた子供のように居心地の悪い思いをしている僕とは対照的に、悠然としてすらりと長い脚を組んで、景色を隅々まで味わうかのように眺めていた。それは実際人と砂埃と煙で埋め尽くされた大通りと比べれば感動を覚えるほどの広々とした公園だった。道は一面を見渡せるほど平坦で、その地面の大部分は太陽の光を存分に吸収して満足そうに艶やかな緑を輝かしている芝生の間を縫うように砂利道が通っていた。道の両側に植えられた木々は活発そうに背を伸ばし、その葉は砂利道に等高線のような影を落としていた。僕らは木々の幹近くに設えられたベンチに腰を下ろしていて、涼しい日陰の中で沸騰しそうだった頭を冷ましていたが、僕は彼女のせいで本来の目的からさらに離れてしまった。

 僕を落ちつかなくさせるのは彼女の陽光のように眩しい美しさや揺らぐことのない強さ(あるいは僕はそこに何か決意のようなものを感じた)を内に秘めた細くしなやかな体の線もあるけれど、一番の理由は彼女が何も喋り出そうとしないことだった。彼女はあるいは言語に囚われない会話を楽しんでいるのかもしれなかったし、沈黙の共有ーというよりは交換ーに心を落ち着かせているのかもしれなかった。彼女の意に適う答えを聞き届けたみたいな満足気な表情からはそういった突飛な発想しか許されなかった。そこには現実的な解決はあまりにも無粋すぎたし、またどれをもってしても十全な答えとは言い難かった。彼女の表情はまるで僕が何かを言おうとしているのを知っていて、その反応を楽しんでいるかのようだった。いたずらっぽいけれどもそれは無礼に落ちることなく、魅力的で、なんというか彼女にとてもよく似合っていた。それは彼女にしか許されない、あるいは適合しない表情であるように僕には映った。

 彼女は袖のない黒色のタンクトップと色の褪せたデニムのショートパンツ以外には首に掛けた高価なネックレスと緑青のサングラスしか身につけていなかった。それら一つ一つは趣味は良いが平凡なものであったが、彼女にはとてもよく調和していて、埋まっていた本来の価値を引き出されたように生き生きして見えた。海岸沿いでもないのに露出の多い大胆な服装ではあったが、活発でありながらも自制を失っていない奇妙に均衡のとれたその様は、彼女の不思議な沈黙と相まって僕を緊張させた。

 僕が何度目かの無意識的だけれど宿命的な首の動きで彼女のことを観察しようとしたときに、彼女と目が合った。彼女のサングラスの奥で何を見ているのか、何を感じているのか僕にはわからなかったが、僕は心臓が掴まれたのを感じたし、それをぐいっとまるで雑巾のように絞られるのを感じた。それは僕の意思が干渉しない体内環境の中で手にとって眺められるほどリアルな感覚だった。僕はそれと同時に呼吸が気を変えて逆流したかのように息が詰まったし、丸ごと他人の体に移し替えたみたいにあらゆる体の組織が強張ったのを感じた。けれども、それはわずか一瞬のことで、僕は僕という器にぴたっと収まった。

「それで、変態さん。私に何か言うことはあるかしら?」

 彼女の口調は丁寧であったが新しい玩具を手に入れたかのような喜悦が紛れもなくーそしてそれを隠そうともせずー混じっていた。むしろそれらが中心となって言葉を構成していると言っても過言ではなかった。

 そこで僕は僕が犯した過ちを痛感した。僕は彼女の生まれたてのような可愛らしいお尻に突っ込むだけでなく、その行為を謝りもせず、彼女の言うがままに並んで座っていたのだ。だが彼女の声には非難よりも僕という存在をあらゆる角度から突っついてみたいというような好奇心と意地悪な気持ちの方が色濃く感じられた。しかし僕は自分が果たすべき行為を果たさなかったことへの恥ずかしさと責任を意識していたので、彼女の言葉の真意を計ることはできなかった(謝罪は彼女に対して為されるべきなのに僕は彼女の存在を行為の先においてはいなかったのだ。僕は自分の恥を少しでも和らげるためにそれをしたに過ぎなかったことを後から発見し、僕は穴を掘って逃げ込みたく思った)。

 僕は席を立って、少しも体勢を変えていない彼女の前に立った。

「ご、ごめんなさい! 謝って済むような問題じゃないし、僕が謝るタイミングが本来ならばもっと前にあって、僕はその時期を逃してしまって、今したところでそれは本来の価値も意味もないことは重々承知しているけれども、本当にごめんなさい!」

「あなたって謝っているわりにはよく喋るのね」

「な、なんと言ったらいいかわからないのです。僕の頭の中には言わなければいけないことがたくさんあるのに、そのどれ一つをとってみても明確な形をとっていないのです。僕が言いたいことは、許して欲しいとは思わないので僕の中にあなたに無礼を働くつもりは毛頭なかったということと、起こってしまったことを言い訳せずに謝罪する気持ちがあることを知って欲しかったのです」

「ふーん。あなたの気持ちは多少なりとも理解できたかもしれない。正直言って私は言葉だけで相手を信じるほど純粋ではないし、頭を下げられただけではいそうですかと納得するほど理解の早い人ではないの。あなたの気持ちは結局謝罪が遅れたことに対するなんの説明にもなっていないわ」

 それを言われると僕はたじろいだ。だが彼女の声には依然面白がるような声音が混じっていて、僕を本気で叱責するというよりは僕という叢の中からどんな蛇が飛び出てくるか楽しんでいるようだった。

「な、なんと説明したらいいか分からなかったのです。けれど確実に言えることは僕はそれを遠回しにしようとか、あわよくば忘れてくれるのではないかということを考えていたのではないことです」

「あなたには分からないことが随分多いのね」

 彼女はよく焼けた小麦色の脚を組み替えて、僕の瞳を覗き込んだ。僕は日陰にいるのに身体中が火照っていたし、おそらく顔も赤くなっていたことだろう。

「まあいいわ。それについては後で話し合えばいいのよ。ともかくここではっきりさせたいことは、私たちはつい先ほどまでお互いの不可侵の領域をー意識的にせよ無意識的にせよー設定した他人という存在であった。その均衡をあなたはまるで自分の家の玄関のようにずかずかと私の領域に入ってきた。あなたの謝罪は越境する際の検問みたいなものなの。いずれにせよその不均衡は何かで取り戻さなければいけないわけよ」

「は、はい! 僕にできることならばなんでもやります!」

 実際僕は物質的なことにしろ精神的なことにしろ自分ができる限りで均衡を取り戻すために彼女の期待に添えられる何かをするつもりでいた。僕はそれを恐れもしなかったし、なるようになるだろうと考えていたわけではないがなるようにしかならないだろうとは考えていた。だからこそ彼女の次なる言葉は寝耳に水ではなく滝を流し込まれたかのように僕を吃驚させ、僕の正常な思考を一時的に麻痺させた。

「じゃあ散歩しましょう」

「へ?」

「だから散歩よ。あなただいぶ教育がありそうな人に見えたけれど散歩という単語を知らないのかしら?」

「いや、そういうわけでは…」

「じゃあ行くわよ」

 彼女はベンチから立ち上がって日陰を出て砂利道を踏みしめて先に歩いていった。僕は自分が言葉をうまく分節できなかったのか、情報として一部欠如したところがあるだとか、彼女の言葉を捉える僕の方に何かしらの不具合があったのだとばかり思っていたが、彼女は本当に散歩をするつもりなのだ。僕はそれまで読んでいた本が途中で印刷の失敗か意図的な編集かは分からないが突然白紙の頁になったかのようなどこに持ち運んだらいいのか分からない感情が腹に燻っていた。女の子のお尻に偶然で害意はないとはいえ許されざる飛び込みをしたその罰がその女の子と一緒になって散歩するなどということでいいのだろうか。それならばいくらでも飛び込めるではないか。実際、前を行く彼女の後ろ姿は飛び込んでくださいと主張しているようにも思えた。

 僕は頭を振ってより悪化しそうになる危険な思考を中断し、彼女の後を追った。やれやれ、と僕は思った。

 砂利を敷き詰めた道は公園を曲がりくねりながら横断しており、そこを通るだけで公園の全体的な概観が理解できるようになっていた。僕たちの右手は大通りとの間に位置していて、左手の景色よりも木々が多く、それゆえ涼しげで犬の散歩や恋人とのゆったりした会話を楽しんだりする人々が散見された。またそこでは詩の朗読会や弾き語りをしている何日分もの無精髭を生やした男や、小規模な演劇団の練習など珍しい光景が継ぎ目なく続いていた。葉の間から差し込む僅かな光明が漂う埃や砂を黄金に照らし出し、毅然として薄暗さを跳ね除けるその様は神秘的であった。

 僕は彼女に僕から何か話しかけた方がいいのだろうかということをそうした新鮮な光景を目に焼き付けながらも、それほど真剣には没頭できずにそうしたことを考えていた。彼女は散歩に行こうといった。彼女は僕から何かを言われることを望んでいないかもしれないし、自分からも何かを積極的に言いたくないのかもしれない。それでも僕にはこの奇妙な沈黙が心地よくなかったし、彼女ともっと何か話したいとさえ思った。仲良くなろうとかそういう魂胆はなかったが、少なくとも気詰まりな空気では終わりたくなかった。しかし、これは彼女が望んだことなのだし、彼女が話したがらない以上僕が何かを発言するのは間違っていることだと思った。しかし、僕がどこまでいっても前進する当てのない考えをぐるぐると持て余している時に、彼女はまるで沈黙などそもそもそこにはなかったかのように言った。

「ねえ、さっき私たちが保留にしたことについて話しましょうよ」

 僕は驚いて隣にいる彼女のことを見た。彼女はにこっと笑った。そしてその笑顔は僕を軽い衝撃を残してから、その衝撃がやがて軽い酩酊に変わった。その中から僕はなんとか言葉を選び出した。

「ぼ、僕の謝罪がどうして遅れたのかということについてですか?」

「それ以外に私たちにどのような共通点があるというのよ」

「そ、そうですよね」

 僕はそれについて考えた。それは一般論で解釈すべきなのか、僕個人の中にその時に起こっていたであろう現象をできるだけ僕自身の言葉を使って解釈すべきなのかわからなかった。けれども彼女は一般的な論理よりも僕個人に対して好奇心を起こしていると僕は思ったので、後者の方に絞って言葉を選んで言った。

「僕はある種の思考停止状態にあったんです。あるいは思考の断絶か停滞状態と言った方がこの場合正しいかもしれません。僕にはどちらも真実のような気がするし、どちらも大きく本質からそれているように感じるので、僕の言い分を聞いてからあなたが後でそれに形を与えてください。もちろん僕はその間も景色や触覚の処理をしたりすることは止まっていませんでしたし、僕自身の思考も落ち着きがなかったとはいえ随分働いていました。ただそれらは衝撃の余波に過ぎなかったと僕は思うのです。つまり、僕があなたに酷いことをしたという事実が僕を煽り立て、怯えさえ、そのことを必死に考えないようにするために僕の記憶か思考か感覚かに影のようなもの、あるいは避けて通らなければいけないような壁を作り出して僕がそれを意識することを遠ざけていたのではないのかと」

「あなたの話はまるで自分は悪くないと言っているように聞こえるけれど?」

「そうは言っていません。僕の中で無意識的に起こっていた危機に対する処置を僕自身が意識下に置こうとしているのですからそれはある程度の厳密な客観性を持っていなくてはならないと思っていたのでそういう風にも取れる言葉遣いになってしまったのです。それについては申し訳なく思っていますし、僕の原因分析はそれが僕から生み出される以上、僕の非を免れようとする気持ちがある程度そこに介在していることは否めないともわかっています。僕は謝るべきであったし、あなたは謝られるべき権利を持っていました。それは覆しようのない事実です」

 僕は立ち止まって彼女の顔を覗き込んだ。そのことに気づいたのか彼女も立ち止まって首をこちらに向けた。そこには木の葉ほどの大きさで彼女の小さな顔と全く不釣り合いなサングラスが二つと褐色の完全な焼け方をした肌があり、茶色の短髪が颯爽と纏めあげられていた。けれどそのどれもなんの感情も持っていなかった。それらは個々に、全体的に明るさを放っていたが、その明るさは由来するものをもたない性質の明るさだった。

 僕は頭を下げた。「本当にごめんなさい」

 彼女は何も言わなかった。ただ川の流れのように単調に道行く人を振り返らせる明るさを放っていた。光の反射したサングラスの奥で彼女がどのような瞳で僕をどのように見つめているのかは分からなかった。あるいは彼女は何も見ていないのかもしれないし、僕をじっくり観察しているのかもしれないし、僕を通してその先にある何かを見ているのかもしれなかった。そして彼女は永遠とも取れるようなー実際には二、三秒のことだったと思うがー沈黙を僕に提供した後で感情のある明るさを口元に浮かべた。それは地上に生まれた太陽だった。あらゆる物事は意味を取り戻し、あらゆる色彩はその濃淡を際立てせた。僕の周りの世界が生まれ変わっているように感じた。

「いいわ。許してあげる。もうそんなことは忘れて散歩を続けましょう」

 彼女はまるで何事もなかったかのようにして歩き始めた。その後ろ姿には有無を言わせないところがあり、人に命令し慣れた人間の持つ凄みと自信を感じさせた。

「へ? あ、はい」

 僕はどんどん進んでいく彼女に追いつくために少し早足で歩かなければならなかった。我々はそのようにして和解をした。もちろん彼女の言葉をそのまま信じればの話だが、彼女には人を強引に納得させるような説得力があったので僕は内心ほっとしながら彼女の背中を追いかけた。

「私ってこう見えても寛容なのよ。怒るときは相手を殺すほど憎むけれど、いつまでも憎んでいられないの。こういうのって俗に飽き性というのでしょうね。でも私の場合は飽きるという主体的な動作ではないのよ」

 しばらく歩いてから彼女は何事もなさそうに言って、考えを整理するように黙った。それは目の前にあった箱状の思考を取り出して手のひらに乗せるような気軽さだった。その気軽さは僕を軽く混乱させた。僕はどのような相槌を返していいか、あるいはどのような沈黙を選択すべきか悩み、結論が出る前に彼女は話を再開してしまった。

「飽きるっていうのは文法的に自動詞ということだけではなくて、対象を手放すというようなイメージが私の中にあるのよね。世の中の拡大し続ける膨大な情報の中から自発的にーあるいは無自覚的にー好奇心を覚えたもの、あるいは対象が含有する何かに共鳴したり、それが私の好奇心に働きかけてきたものを取捨選択するわけよ。だからこそある一定の満足や感動を覚えるとそれ以上先に行っても何も感じなくなってしまうの。つまり彼らに対する好奇心や彼らの中の要素を食いつぶしてしまうわけね。でも私の場合はそれとは全然違う。私は何にも興味を持てない、あるいは全てに興味を持っているせいでそこから何か一つを選んだり並べたりすることができない。私は好奇心という釣り糸を垂らしていて、好奇心とか憎悪とかいう感情がそれに食らいついてくるわけ。けれどもそれは引き上げられる前にまるで突然目が見えなくなったかのようにふらっとどこかへ消えてしまうのよ。それは私にどのようにも作用しないし、私をどこにも連れていかないの」

 そこまでまるでせき立てられるように喋ると彼女は思考なり言語の断崖に立ちすくむように止まった。しかしそれは落ち葉のようにふっとした自然な制動で、まるで着地点を最初から見極めていたようで僕は何かしらの疑問や反応を返すことが難しかった。その文章は僕を経由して、あるいは僕という媒介を通して還元することで彼女に還っていくように僕に何かを訴えかけはしなかった。

「私が言いたいことはね、あなたはすごく運がいいということ。普通女の子のお尻に飛び込んでその子と一緒に散歩するなんていう機会はないわよ」

「う、うん。この機会を大事にしたいと思うよ」

「あなた反省してないでしょ」

 彼女は咎めるような口調で言った。

「い、いやそういうつもりで言ったんじゃないだ。君の寛容さに甘えようとか自分はなんの罪もないんだとかいうことじゃなくて、始まりは随分とおかしかったけれどこれからはきちんとした関係を築きたいと思っているということなんだよ」

「ふーん。ねえ、ここの川、私はもう何度見たか分からないけれど良いわね。あなたもそう思わない?」

 僕はそこで自分たちが公園を離れて(あるいはここも公園の中なのかもしれなかったが)河岸を歩いていることに気がついた。僕らの右手にはすぐそこに芝生が見え、僕はそれほど遠くに行ってしまっていなかったことを安心して彼女に倣って木の欄干に寄り掛かり川を眺めた。

 風に揺れてさざ波がたち、太陽の光がその間で愉快げな踊りを舞っていた。川は快い淡い青色で、覗くと意外にも深いらしく僕の間抜けな面が映るばかりで底は見通せなかった。波が僕らの立っている岸に砕け散る時にその水の生命の残滓のように響く音が僕をとても落ち着かせた。顔をあげると視界の両端には巨人の骨のような無骨で力強い橋がそれぞれ掛けられおり、そこを数え切れないほどの馬車や人が行き交っていた。対岸には近代的な建築の建物がまるで密林のように所狭しと並んでいた。あそこがペンシル・バイタに違いないと僕は思った。そしてそう思ったその瞬間、僕はそれまで忘れていた空腹を意識した。そしてそれはまるで光を当てられるのをじっと待っていたかのように、意識された途端僕の感覚や思考を全て占領してしまった。

「あそこへ渡るにはあの橋を渡るしかないのかな?」

「泳いでいく気があるなら話は別よ」

「やれやれ」

 僕は自分の空腹を慰めた。ごめんよ、お前は僕が橋を渡って、お金を現地のものに変えてからでないと満たしてあげられないんだ。だが空腹は断固とした拒絶を壮絶な音をたてて示し、今すぐにでも私を満たさないのであれば私はお前の支配下にいることを辞めるし、私はお前に敵対する体内存在としてじわじわと苦しめていくことになるだろうと告げていた。僕は彼に対してもう何もいうことはできなかったし、彼の毒はすでに僕を侵し始めているのか上手く思考を纏め上げることができなくなっていた。

「あなたそんなにお腹空いていたの?」

 彼女は半ば呆れたようにして僕に訊いた。

「うん、どうやらそのようなんだ。でも僕は自分を試しているわけでもなければ、空腹に虐げられるのが趣味なわけでもないんだ。ただいろいろな条件が三次元的に複合的に組み合わさってーあるいは作用しあってー僕の手に余る空腹とそれを埋めるための試練を押し付けて、その反応を楽しんでいるんだ。少なくともそんな気がするんだ。僕はこれからこの川を超えて、お金を替えて、それからなにか彼を満足させられるようなものを探さなくてはならないんだ」

「さっきから薄々思っていたけれど、あなた地元の人ではないのね?」

「そうなんだ」

「なぜこんな野暮ったいところにわざわざ来るようなことになったのよ?」

「悪いけれど、僕は今何かを答えるにはあまりにもお腹が空きすぎているんだ」

 彼女はため息をついた。井戸の底で長年封印されていたような重いため息だった。

「あなたはお金もないのね?」

「そうなんだ」

「お金がない状況なんて考えられないわ」

「僕もこうしてそうした状況に身を置いてみるまで考えたことがなかった。ただの物質が僕の生命を握っているなんてね」

 彼女はぶっきらぼうに僕の手を取って、確固たる目的があるかのような足取りで歩き出した。それは厳然たる手のとり方で決然たる歩みだった。

「ちょっと、どこへ行くんだい?」

「私の前で餓死されたら敵わないわよ」

「それは答えになっていないよ。僕はこれから…」

「鴉じゃないんだから少しくらい黙ってなさいよ」

 僕は空腹の海の中で溺れるように徐々に理性的な判断を失っていたので、彼女の行き先にはもはや何も思わなかった。よろしい彼女は僕を連れて行く。そこにはさらなる空腹が待っているかもしれない。彼女は救命ボートではなく僕を底へ沈めようとする海賊かもしれない。でも彼女の独特の説得力は僕に抵抗も反論も許さなかったし、もはやなるようにしかならないと僕には分かっていた。そのようにして彼女の柔らかい掌を握り返しながら、僕は億劫な一歩を運んでいった。

 僕は目の前に並べられた絢爛とは言わないまでも豪勢な料理の品々を見渡して軽い当惑と圧倒的な食欲を同時に感じていた。世界中の食欲が僕を襲っているかのように身体中が痺れたようになった。大小様々な大きさの白い皿に盛られた食材は新たなる命を手に入れたかのように滴る油で、意識を辺境に追いやる芳しい匂いで、瑞々しいその姿で僕を魅了した。僕は無意識のうちに喉が鳴るのが聞こえたし、自分の体をうまく制御できないほど素晴らしい料理に打ち震えていた。鶏と茄子とピーマンの炒め、鶏がらスープ、豚バラ大根、小松菜と卵のソテー、トマトとツナのサラダがその光沢で立ち上る湯気で僕を挑発し刺激していた。

 だが僕は何も考えずにこの料理を無神経に食べるわけにはいかなかった。これらの料理は彼女が注文し、僕に与えたものだったのだ。その彼女は僕の向かいに座ってその繊細な指の間に煙草を挟んでいた。初め僕は彼女が自分で食べるためにこれらを注文したものとばかり思っていたが、彼女は手をつける気はないらしく僕に奢ってくれたのだ。その事実は少なからず僕にとって彼女をより不思議にさせた。なぜならこれらの品々は庶民的ではあるが、あの商店街の水準を上回っていたし、量が多すぎた。当人は我関せずといったように煙草を吹かして、小切手に署名をして支払いを済ませた。

「ねえ、冷めちゃうわよ」

 彼女は煙を吐いてから、焦ったそうな口調で言った。まるで出来の悪い生徒を叱る先生のようだった。

「い、いやさあ。もしかしてこれ全てが僕のためのものなの?」

「なんで私が死ぬほどお腹減っている人の前でご飯食べなくてはいけないのかしら? 他にいくらでも食べる機会はあるし、できれば私は人と一緒に食事をすることを避けたいタイプなの」

「いや、でもあなたにこれ以上迷惑かけたくないですよ」

 彼女は丸いテーブルに煙草を持っている手の方の肘をついて、その上に頬を乗せて僕を観察するような体勢をとった。

「さっきのことをまだずるずる引きずっているのであれば、それは無用な気遣いだし、これは私が好意から提供したものであるから迷惑をかけているとか余計な心配はしないでほしい。逆に空腹で倒れる方が迷惑よ。食べなさい。あなたはこれから男であることを辞め、人であることを辞め、あなたであることを辞めて、ただ滂沱たる空腹の洪水に立ち向かうのよ」

 彼女は言い残したことはないか少しの間下を向いて黙っていたが、やがて顔を上げて短くなった煙草を灰皿に潰した。それからテーブルの上にまるで彼女のしもべのように置かれていた鈍い光を輝かせる燻し銀のような色合いのシガレット・ケースから一本取り出して、自分の神経の延長であるかのように慎重にマッチを擦って火をつけた。僕はまだしばらく迷っていたが、実際空腹は耐え難かったし、銀のフォークを使って手当たり次第に口に運んだ。彼女はこれを理由に何かを要求してくるかもしれなかったが、僕はそれについて正常な思考で取り組むことができなかったので、目の前にある空洞を埋めることに必死になるしかなかった。洪水に立ち向かうというよりも滝に身を委ねるように僕は空腹を満たしていった。それは留まることを知らず僕は無限に落下していくような、上昇していくような奇妙な感覚を味わった。僕の食事中彼女は煙草を何本か吸いながらただじっとテーブルの上の皿が一つまた一つと空けられていく様を眺めていた。あるいは目を閉じて瞑想でもしているのかもしれなかったが、どちらにせよ彼女の興味はここよりも遥かに遠い場所にあるようだった。

「ご、ごちそうさまでした」

「すごい食べっぷりだったわね。まるで料理を食べているのではなくて、空腹そのものを喰らっているかのような凄まじさだったわ。あなたほど豪快に食べる人もそうはいないわよ。で、どうだった?」

「美味しかったです」

「ねえ、もっと気の利いたこと言えないわけ?」

 彼女は不満そうな声を挙げた。僕も自分の言っていることが月並みで、陳腐な形容だと自覚していたので、顔が赤くなった。僕はもうすこし自分の頭の中で水脈を辿り、そこを泳いでいく大きな鮭を探すように言葉を探した。

「でも物事を形容する言葉はそれが真に近づくほどどんどん狭まっていくんだ。料理は美味しかったし、君はとても親切だったというのは僕にとって概念を持った事象というよりは概念そのものに見えるんだな」

 彼女は煙草を灰皿につぶしてにやりと笑った。

「行きましょうか」

「う、うん。本当にありがとう」

「いいのよ。どうせお金なんか腐るほど持ってるんだから」

 僕はそれに対して何も言わずに店内を出た。店に入る前よりは幾分か弱まったが、それでも驚異的な熱で地上を焼き焦がしている太陽の光の元に出た。あの公園は僕らのいるところから通りを一つ挟んだだけで、優しげな影を落としている木々の青々とした姿を見ていると、僕は彼らが恋しくなった。僕らはどちらから言い出すともなくそちらに向かって歩きはじめ、ほどなくして頭に残る余熱を感じながら日陰に入った。僕は彼女には心から感謝を感じていたし、何かお礼をしなくてはならないし、したいなと思った。

「君に何かお礼をしたいのだけれど、何か要望はある?」

「要望ねえ」

 彼女は歩きながら首を傾げて考え込むように上を向いた。それから真剣そうにこちらを振り返ったので僕は緊張しながら答えを待った。彼女は言いかけた言葉が途中で方向を見失ったように口を開けたまましばらく黙っていたが、やがて真面目そうな口調で言った。

「抱いてほしい」

「へ?」

 僕は言っている意味が音声として確かに僕を通過したことを感じたが、そこから具体的な意味を取り出すことはなかったように、あるいは解読にひどく時間がかかっているように彼女の言ったことがうまく取り込めなかった。しかし彼女が呆然とした僕を見てくすくす笑っているのを見て、からかわれているのだと気がついた。

「びっくりしたよ」

「そうでしょうね。でも何もそんなに深刻に受け止めなくてもよかったのに」

 それから彼女は思い直したように僕に顔を近づけると、毛並みを確かめるような口調で耳元に囁きかけた。暖かく湿った吐息が僕の体にするすると入ってきて、その言葉を鉢の蜜のように甘くと濃密な性質を付与した。それは蜂の蜜のように甘さの中に独特の苦味が含有されていたが、僕はそれを心地よく思った。

「本気にしてしまったかしら?」

 それから彼女は名残惜しそうに離れて僕の瞳を覗き込んだ。まるで二つの眼球が正常に機能しているか確認するように。僕は自分の体温が上昇していくのを感じた。僕はあまり人に茶化されたりからかわれたりするのに慣れていないから、彼女のような人の前にいるとすぐに赤くなってしまった。彼女はその様子を見て笑い、先に歩きながら背中を向けて言った。

「本当に欲しいことやしたいことがあったら、君にできそうな範囲でお願いするからその時まで待ってよ」

 僕は返事をしなかった。あまりにも恥ずかしかったし、あまりにも冷静を欠いていたからだ。

 歩いていくと僕たちが座っていたベンチに行き当たった。もしかしたら違うベンチかもしれなかったが、雰囲気や質感がどことなく同じようであったので、おそらくそうだろうと推定した。彼女が少し疲れたと言って座ったので、僕も隣に座った。それから音もなく眠気が忍び込んできた。あるいはそれはベンチに座ることによって起動するような種類の眠気だったのかもしれないし、単純に満腹になった影響が体の他の器官にも影響を与えているせいかもしれなかった。あるいはそれらすべてが団結して僕を眠りの谷に突き落とそうとしているのかもしれなかった。どれも確からしかったし、どれも何か裏がありそうで嘘くさく思えた。それは明かされることのない疑いとして僕の中に漂い、やがてそれさえも僕を眠りに落とし込めようと他と手を繋いだ。僕は彼女が隣にいるので眠っては失礼だと思ったし、眠りたくなかった。けれど眠らないわけにはいかなかった。それは宿命的な眠気だった。そのようにして僕は泥に足を取られるように眠りに落ちていった。

 僕が目を覚ました時、彼女はいなかった。僕は時計を持っていなかったからあれからどれくらいの時間が経ってのかは知らなかったが、太陽は昼と夜の間の境界線で中立的な光を降り注いでいるようでもあったし、そのどちらに所属すべきかと躊躇っているかのようでもある弱さになっていた。西の空に太陽は燃えるような赤色を空に滲ませて浮かんでいた。

 僕は欠伸をしながら自分の中に眠気が残っていないこと確かめるように、あるいは残っている眠気を残らず出し切るように伸びをした。座ったままの姿勢で寝ていたせいか首を回すと、それはまるでブリキの人形になったかのようにぎこちない動き方をしたが僕は見かけ上は特に何の変化もないように見えた。

 それから僕は立ち上がって、川を超えた先にあるペンシル・バイタを見やった。でも何に焦点を合わせるでもなく、また全体像を俯瞰するわけでもなく、ただそこにあるものとして写実的に捉えただけだった。それは巧妙だが遠近感と立体感の欠如した写生画のように見えた。僕はその赤い光に包まれた風景を見ながら、彼女のことを考えていた。

 彼女の名前を訊いておけばよかったのかもしれない。僕はまるで彼女と明日も明後日も会うかのような気持ちで話していたが(そしてそういうつもりで何かお礼をしたいという旨のことを言ったのだ)、実際には彼女について何も知らないも同然だった。振り返って見ると彼女のよく通る声や節々に散りばめられた愛らしい仕草などは鮮明に覚えているが、それが果たして特定の一人によってなされたのかどうかまでは自信がなかった。他にも彼女を構成していた要素はたくさんあるだろうが、僕はそれらを具体的にイメージすることができなかった。彼女の不釣り合いなサングラスは覚えているが、それは彼女だけを指し示す指標ではなかったし、たとえそうであってもそれは彼女を間接的に支えるようなものでしかなかった。そこには平面的な印象だけが、主人を亡くした忠誠な犬のようにふらふらと彷徨っていた。

 僕はとにかく行くべきところに行き、なすべきことをなそうと思った。当面の間はそれに集中することで悩みやとめどない悔やみなどから少し冷静な立場で取り組もうと思った。まるで庭で遊ぶ子供を見ながら世間話を交わす母親のように。

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