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 僕は久しぶりに外の、新鮮とは言えないまでも澄んでいる空気に触れ、首を回して伸びをした。まるで疲れという鎧を剥ぎ落とそうとするかのように。事実僕は何かを考えるにはあまりにも疲れていたし、こうして人々が行き交う街の入り口に立っているだけで、呆然としてそのままに眠り込んでしまうそうになった。それは蓄積されていた疲労による眠気なのか、大気中に蔓延する眠気の成分をどういうわけか僕が抽出して取り込んでしまうせいなのかは分からなかったが、ともかく僕は新しい街に着いて初めにするであろうことを(さらにそれは向こうから手を差し伸べていた)全て素通りして、どこか安全に自分の眠気を手放せる、そしてできれば安く済む場所を探していた。夏の乾いた日差しはその明るさを押し付けるように僕のうえに注いでいたので僕は些か閉口した。

 あらゆることが僕の目には新しく映ったし、あらゆることが僕を誘惑していたが、僕はそれに応えるには不十分であった。それらは限りなく近くにありながら、埋めることのできない距離を隔てているように思われた。嗄れた声で叫ぶ商売文句が僕の頭をがんがんと揺らし、まるで世界が回転し始めたかのようで気分が悪くなった。人混みに押され、時には打たれ、僕はそうこうするうちに主要道路とそこから枝分かれするように碁盤目状通っている各通りから外れ、郊外とは言わないまでも明らかなる活気の違いが隠そうともせずに連ねる軒から感じられる低所得者向けの安ホテルやアパートが密集する区域に出ていた。

 僕はその中から適当な一つを選び出し、フロントで二週間借りる旨を署名をして、二〇三号室の鍵を受け取った。そこは廃墟とは言わないまでも数年前に捨てられたように人が住んでいる気配がなかったし、実際人が住むべきところではなかった。だが僕は今ならば玩具箱の中に設えられた蜘蛛の巣のベットでも熟睡できる心持だったので、特に不自由とも感じず、老人の背骨のように奇妙に曲がりくねった建て付けの悪い扉を開け、背負っていたリュックを適当に放り出し、部屋の奥に縮こまっているように見える可哀想なベットに身を投じた。眠気はすぐそこまで迫っていたかのように、あるいは既に体を支配していたが、感覚がまるで花火の際の音響のように遅ればせながらやってきたかのように、僕の意識を小石でも投げるみたいにあっさりと奪っていった。

 僕が起きたのは、ドアの鋲のように眠り込んでから約二時間後だった。僕は起きてからまず自分が寝ていたベットのシーツのあらゆる体液をあらゆる方法でぶちまけたかのような汚さに恐怖し、それから天井から床に至るあらゆる木材が腐って湿っぽいことに驚愕した。それは今にも死にそうで(それはこちらに殺してくれと訴えかけているようでもあった)、僕としてはあまりに眠かったとは言えよくこの場所で寝れたものだと自分で自分のことを感心した。これらのことはベットを出て、一瞬のうちに滝のように頭の中に入ってきた情報であったが、引き千切られるようなベットスプリングの叫びを聞いて、いよいよ僕は不気味に思った。

 しかし僕は冷静になって部屋を見回した。一つには自分がこの場所でどれくらい禁欲的な生活に我慢ができるだろうかということをおおよそ計るためであり、また(これが大部分を占めていたのだが)部屋の隅や老婆の髪のような重苦しいカーテンの隙間から得体の知れない何かが覗いていないかどうかを確かめるためでもあった。僕は元来それほど臆病でもないのだが、この部屋にはどこか耐え難い病的な雰囲気が漂っていた。部屋の反対側には白い陶器の洗面台とその上の壁に取り付けられた垢が長年の集積によってある種の表情を持っているようにさえ見える縦横五十センチメートルほどの鏡があり、蛇口は逆側に不可視の力が働いているかのように動こうとしなかったが、何度か試してみるときちんと水が出ることが分かった。僕はそれがまたいつ巌のような頑固さを取り戻すか分からなかったので、そこの水を使って顔を洗い、衛生面が心配ではあったが二、三杯掬って飲んだ。しばらく体の中で何かの変革が起こることを不安し、もしくは期待して待っていたが、何事も起こらずにその水はひんやりと体内の眠気を追い出しただけであった。その隣の壁のドアを開けると、埃臭い胎内ほどの大きさのバスルームにあらゆる闇を凝縮して煎じ詰めたような闇が広がっていた。僕はその水を出したままにしておいて、象の皮膚ほども重厚なカーテンを引いて、陽の光を室内に入れた。一つには陽の光を全身で感じたかったからであり、一つには部屋の中の詳しい観察をするには光を取り込む必要があったからだった。

 光は闇を掃討し、しかしそれによって尚更室内の惨めを引き立たせた。それはまるで切り裂かれた腹わたのように残酷で、見るに堪えない光景だった。薄ぼんやりとした中では陰気で黴くさいという漠然とした印象が強かったが、光の元に晒されると細部までありありと全貌を捉えることができ、部屋というのさえおぞましいようなーそれは言うなれば形を整えた箱だったー姿が浮かび上がってきたのだ。漆喰の壁は血が乾燥したような色が印象的な幾何学模様を描き出していて、今にも蠢き出しそうだった。僕は自分が顔をしかめるのを感じた。

 僕は悪戦苦闘してベット側の壁を開けて、換気した。外の空気も必ずしも綺麗なわけではなかったが、この部屋の空気よりもわずかに良ければ僕はそれで構わなかった。窓の桟に腰を乗せて、外の景色を半ば身を乗り出すようにして眺めていると、活気から取り残されたようなこの通りにでさえ開発の手が徐々に広げられるつつあることが実感できた。向かいのアパートとの間は手を伸ばせば届きそうなほどの間隔しかなかったので、アパートの燻んだ窓や煉瓦の壁などが詳細に眺められた。その狭さはここは中心部から離れた場所というよりも路地裏という形容の方が正しく感じられた。僕はその光景に見惚れるということはないにしろ、しばらく目が離せなかったというのは事実だった。僕は感傷的な思いに駆られたわけではないけれども、幾分か詩的な気分に身を浸しながらそのまま腰が痛くなるまで見ていた。


 リュックの中から財布を取り出し、今は自信をもって廃墟と断言できる部屋を後にして外に出ると自分が全く知らない土地にいるのだということを改めて自覚し、不安を感じつつも期待と高揚が眠気に取って代わって体を満たしていくのを感じた。覚束ない足取りで自分が辿った道をなぞっていくと、左側通行の大きな通りに出た。馭者が路肩に煙草を吹かしながら馬を留めており、通りすがりに南部の独特の訛りで「へい旦那、乗っていくかい」という言葉を一歩進むごとに掛けられ、まるで自分が同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥った。しかも彼らは必ず僕に話しかける際に、僕の顔に向かって紫煙をそうせずにはいられないように吐きかけたので、僕としては鼻がひん曲がりそうだった。加えて雑多な人通りのおかげで一つの場所に止まる事がなかったので、まるで僕は煙草を顔に塗りたくるためにこの道を歩いているようでいち早く抜け出したかった。

 僕が人混みを嫌味な顔をされながらも押し分け、なんとか出た場所は繁華な商店街であった。そこはまだ入り口であったため人通りも変わらず激しかったけれど、煙の洗礼はなかったので、幾分ゆったりとした気分で辺りを見回す事ができた。僕はまずろくに見れなかった、煙と埃と熱気が渾然一体となって街を振動させるほどの強大な力となって盛えている大通りの方を見やった。果物や野菜を積載した馬車や人の運送を生業とする人々の交通で、道はまさにぎゅうぎゅう詰めであった。空中から見たらばさぞ異様な光景である事だろう。そこに広がっていうのは褐色の踏みならされた土でもなく、灰色で冷たさを連想させるような石畳でもなく、水の上に落とした絵の具のように奇妙な形を描く無数の頭なのだから。次に僕は振り返って商店街を観察した。そこは僕が現在立っている地点から緩やかな傾斜を描いており、その両側をまるで貴族に仕える召使いのようにびっしりと青果店やら雑貨店やら香辛料を店先に吊るしている店などが軒を連ねていた。そしてその遥か向こうには霞んで見える山々の稜線が陽の光を受けて薄っすらと輝いて見える。僕は一望の価値がある景色だと思った。

 僕は見えざる運命のような人の流れに身を委ねて、先に進んだ。

「す、すみません」

 暫く歩き、坂の真ん中に差し掛かった時、僕はぎこちない口調で青果店を営む男に声を掛けた。彼は控えめに見ても暇そうであったし、精力的な時期を越えた優しげな人であったので、まるで自分を試すかのように声を張り上げている同業者の人に比べて話しかけやすかったのだ。その商品は他の商品と比べて(僕は現地の値段がどれくらいのものか知らないけれど、数字だけをみれば)驚くほど高値であったが、試食したときの味は抜群に美味であった。その美味しさを端的に表現するならば、瑞々しいという月並みな表現になってしまうけれど、確かに高値を払っても食べたいと思わせるような出来であった。実際僕が立ち止まって品物を眺めているときにも、数えきれないほどの客(おそらく近所の人であろう)が買い求めてきたのだった。

 僕はそんな中、ひとしきり客の波が引いたと思った時分に声を掛けた。

「はい?」

 彼は標準的なペンシル系の発音をしていて、抑揚が少なく聞き取りやすくこそあったが淡白な印象を僕に与えた。しかし人種の坩堝とも言えるこの喧騒ではそれくらいの一歩引いた冷静さが商いにおいては必要なのかもしれなかった。

「向こうにあるメインストリートの名前は何というのですか?」

「へ? ああ、あんた訪問客(ストレンジャー)かい。そういうことはここじゃなくて他のところで訊いてくれるかい」

「あ、いえ。こちらこそすみません」

「へいへい。何か買っていくかい?」

「いや、今は手持ちの現金が…」

「分かった、分かった。もういい。金を持って出直してくれ」

 僕は少し傷ついた気分でその場を離れた。ペンシル系ーつまり商工民族ーはどうも客あしらいが素っ気なくて、僕としては悪意がないことは十分に理解できるし、一日に何人もの客を相手にする商い人として一人一人の客の価値の水準が下がってしまう(加えて金も持っていない客などできるだけ早く立ち去らせたいのは本望だろう)のは当然だろうけれど、もう少し優しさが欲しいと思った。あるいは僕の考えは都合が良すぎるのかもしれなかった。

 僕はとにかくお金を現地の通貨なり、紙幣なりに変えてしまおうと思った。僕は為替市場がどこにあるのか知らなかったので、結局誰かに尋ねなければいけなくて気が重かった。

 とは言うものの、香辛料の香りに誘われて、骨董品が放つ鈍い輝きに魅了されて、色彩豊かな服の仕立屋の眩しさに惹きつけられて、僕は自分がすべきことも忘れてただ道を歩き、店を冷やかすことに没頭していた。ある喫茶店では、店の奥に座って休める場所があり、僕は無意識に喉が鳴ったのを感じた。ある散髪屋では生まれてこのかた髪を切るという行為が度し難いものであると信じていたようにある種の畏敬の念を抱かせるほどの長髪の男が座っていたのを見て仰天し、珍しい東部の薬草や麻薬などをボール型のかさに積み上げて並べたお店の前で感心したりして、僕は本来の目的を葬り去っていたが、自分が何とは無しに手を伸ばして触れてみた時計の実際の価値は分からないが、数量的に法外な値段を聞いて、為替市場のことを思い出した。

「あ、あの、おじさん」

「何だね、文無し(ピーナッツ)

「お、お金を現地のものに変えたいのですけど、どこかに取引してくれる場所はありませんか」

 まるで苗でも植えつけられたかのように伸びに伸びた白い髭を撫でながらおじさんは少し考えた。

「そんなところにはついぞ行った経験がないからな。なんとも言えんが、このペンシル・ケイド地区にはそういう場所はないと思うがね。なぜって? わしに訊かれても困る。必要がないからじゃろう。そういう難しいことはペンシル・バイタのお坊ちゃんどもがにんまり顔で保湿のためにバターでも塗りながらやっていそうさな」

「ここにはないんだね?」

「ま、そういうこった。ここにあるのはシチューで髭を汚した老いぼれと、職もねえで放蕩してぶん殴られるだけのおかま野郎と、亭主の()()()の大きさに愚痴ってるチキンみたいに丸々太った嫌味なババアだけさ」

「え」

 僕はおじさんの皮肉な口調と張り上げた磊落な笑い声に少しばかり当惑した。

「本当のことさ。わしらの楽しみといったら、毎日ひっかける一パイントの酒と、地方から出てきた運のねえ少女に気持ちよくしてもらう事だけさ。さあ、聞きたいことは全てかい? 小さい坊ちゃん(ピーナッツ)。そうそう、ペンシル・バイタはメインストリートを東に進むと目ん玉を飛び出してもおかしくないくらいの大きさの橋を超えたら着くぜ。なーに、すぐ近くさ。ぶおとこの目と目との間くらいなもんだな」

「あ、は、はい。ありがとうございます」

 僕はどこか釈然としないところがあったが、白身魚のように淡白で鋭い骨を持っている受け答えよりかは好感を持てたし、現地の言葉だったためにわからない部分もいくつかあったが、おじさんが善人ではないにしろ憎めない性格だということは分かったので、礼を言ってその場を離れた。

 坂を登っていくと、人の多さによる歩きにくさと昼時の太陽の強い日差しと、下っていくときには感じなかった勾配が足に絡みつくように負荷を与えてきて、僕は額に大粒の汗をかき、抜け出たときには奇妙な達成感と疲労感を同時に味わっていた。背中と脇にはじんわりと汗をかいていたし、空気は汚かったし、僕はどうにもやるせない気持ちを感じたが、勇気を絞り出すようにして大通りに合流した。

 僕は途中から骨董品店のおじさんの話が信じられなくなってきた。それは一つには強烈な日差しに体を晒していたからであり、もはや洪水と言って差し支えないほどの汗が全身から吹き出ていたからであり、永遠とも思われる距離を歩き続けていたからでもあった。おじさんの話は果たして真実であったのかもしれないし、僕もそうであって欲しいと思っていたが、感覚的には大陸の端から端まで横断しているような気分だった。僕は人に揉まれるうちにお腹が耐え難いほど空いてきて、喉も乾いてきた。自分の肉体がばらばらと分解していくように感じられた。煙草の紫煙で頭はぼんやりとしてきて、麻薬を使った後の幻覚症状のように世界が歪み、千切れ、引き伸ばされ、そして僕に対して空虚だがよく響く声で笑いかけていた。

 僕はこのままいくと頭がどうにかなってしまいそうだったし、さらに悪いのはそれがどの時点でやってくるかという事が明確でなかった事だった。僕はぼんやりした頭で稀薄な一歩一歩を踏みしめながら、次の一歩目が来ないかもしれない可能性について考えた。それは恐ろしい考えだったが、僕にはその形式的な論理しか理解できなかった。つまり感情がそっくり抜け落ちた抜け殻の思考だけが僕の頭の中では渦巻いていた。それは一貫性がないという事で一貫していた、秩序だった混沌だった。僕はもともと暑さに対してある程度の抵抗があるわけではないので余計に堪えた。

 そして僕は涸れ井戸の底から水を求めるように叫ぶ気力も無くなってしまったところで、半ば弾き出されるようにして開けた広場に出た。そして弾き出されるように急速に聴覚と視覚と明晰な思考ーとまではいかないまでもある程度の説得力と論理性を持った思考ーを取り戻した。僕はそれに対して喜びや感謝の情を感じなければいけないような気がしたが、実際には充足した自らの意識と肉体の一致にただ危機を免れたという利己的な考えが湧き上がっただけだった。ただどちらにせよそれは祝福すべき事であったし、時間が経つにつれて僕にも様々な感情が浮かんできたので、手を広げて深呼吸をし、自分の体を最低限ではあるけれど労った。それは眠気を覚えた体にコーヒーを流し込むように、僕という自己を再構成した。そしてそこに自分という存在を確かめ、僕は勢いよく以前よりも自信に満ちた一歩を踏み出した。

 そして、そうした一歩にはよくある事だけれど、その足が踏み込む地面には思いもよらぬ地雷やらバナナの皮やらが転がっていて、当初の目的やら意志やらをまるで蝋燭の火でも吹き消すかのようにーそれまでの努力やら天啓のような突然の思い立ちなどを嘲笑うかのようにー簡単に挫けさせてしまうものなのだ(そしてそうなされるべき運命にある物事の大半はそうした偶発的であり、必然的である事故の後ではまるでコップの中に入っていた水を溢すかのように忘れてしまうものなのだ)。僕の場合、それは女の子のデニムのショートパンツだった。

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