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ヴァリー城域の検問はまるで沸騰したやかんのように荒れ狂っていた。人という概念を失ったかのようにも見える無数の頭が行き場を求めてさまよう魂のように蠢いていて、その様は嵐の荒波よりも凄まじく、止めようのない力を底に秘めているようだった。溢れんばかりの人の波で、その光景を一言で形容するのならばさしずめ一寸先は人であった。加えてそれは人種のシチューであり、狭い区域に押し込められたことへの不満と、他人種に対する相容れない敵対心とが幾重にも重なり合い、身動きするのでさえも大変な空間を縫って、各所で喧嘩や暴動が起きていた。そしてそれは訛りが強く独特の表現を持つ南部の言語であったり、激しやすい西部の簡潔で強弱のはっきりした言語であったりするので、火に油を注ぐように熱気と暑気を惜しげも無くこの場に提供していた。
検問官であるジャックは額をハンケチで拭きながらこの騒々しい現場を、要領よく人を捌きながら、幾分当惑した様子で見つめた。彼は十五年もの間検問官を務めあげているので、実務的で厳しい態度を崩さずに、内面では全く他のことを思考するだけの余裕があった。あるいはそれらはどちらが欠けても十分ではない、即ち彼が検問官然とした態度を取ろうとすると必ずその内面での作業が始まるというようでもあった。飛び交う罵声や暴力などが発生したところで、身体検査を終えているので万に一つも漏れはないであろうし(多くの商人などが出入りする盛んなヴァリー城管轄地域はその人種や国籍の違いから生じる摩擦を軽減しようと、また武器の不法持ち込みなどを規制するため身体検査は厳重を極めていた)、そうした諍いは彼の職務外のことであったし、そういう輩の大抵は彼を前にすると猫を前にした鼠のように首を竦めたものだった。故に彼は安心して城域入場許可証に署名をし、安心して今日の晩御飯のことを考えていられた。だが、彼は今回はそのばかりではなかった。差し迫ったような事態に対するような当惑ではなかったが、それは慢性的で、言うなれば思春期の娘を持った父親のような困惑ぶりを、決してそれと悟らせずに味わっていた。
大陸を一つ沈められそうなほどの人の尋常ならざる量がその要因ではない、少なくとも直接の要因ではない。彼はそんな光景は石畳の路上に撒き散らした二日酔いの吐瀉物くらいには見飽きている。彼は週末と記念日と夏の休暇以外には毎日ここへ出勤しているし、まるで同じ映画を何度も見直すようにこのような光景が朝の訪れとともに蛇口を捻るかのように検問所へと流れ込んでくるのだ。もはや彼は数ヶ国語の暴言を解し、小麦色に焼けた西部の人間が喧嘩の際に繰り出す初めの手を覚え、相手に対する質問をまるで我が子のように愛でていた。だがそんな彼でさえもー不動の我らがジャックでさえも、だー今日の検問所の空気は何かが違うということを感じ取っていた。
先に述べたように彼はこの検問所を職場とする誠実なる検問官であり、僅かな差異、あるいは誤差、例えば机上の鉛筆の芯の尖り具合でさえも識別することができた。故に彼が何かが違うと感じるのであれば、それは必竟どこかで何かが違っていたし、何かがどこか違っていた。彼は自らの健康状態よりも外部に開けた検問所の方がよく理解していたし、向こうも彼に対して何らかの親愛なる感情を秘めていたかもしれなかった。だが、彼を本当に当惑させているのはそれが普段と違うからということに留まらず、その原因を彼なりに分析したところ結果が遭難したのか事故に遭ったのか、まったく返ってこないということだった。あるいはその問いは無謀であったのかもしれないし、その答えが辿る帰途は雪山のように先が見えず、困難な道であったのかもしれない。しかし彼は自分の感覚に絶対の自信を持っていたし、鉛筆の尖り具合も見分けることができた。つまり彼は財宝の眠る在処を示す地図を持ってはいたが、どうやら彼が、あるいは彼の答えが、通らなければならない道はマッターホルンのように険しいようだった。
彼はその脂ぎった顔に熱烈な愛情表現とも取れる唾を浴びせかけられながら手早く一人の西部人を捌き、もはや数十年前から用をなさなくなった整列線に並んでいた次の越境者をまるで前世からの因縁でもあるかのように大声で呼んだ。その間も彼は無限に引き伸ばされた内面の時間の中でじっくりと思考していた。彼の外見との違いをもし可視化できるならば、それはさながら無表情で血を抜き、適度な大きさに肉を切り落とす精肉業者のようであった。彼は鉛筆で眉間を龍のように眠る思考を呼び覚まそうとするかのようにとんとんと叩いて、もはや被爆地のようになった鉛筆にさらに新たなる跡を残した。つまり、彼は鉛筆を恨めしそうに噛んだのだ。それは彼が内的作業に没頭している時の癖であり、それを彼は認識していなかったので、毎朝自分の使用する鉛筆に歯の跡が付いているのを発見して同僚を叱責するのだった。彼はヴァリー城の首都に因んでペンシル・バイタと密かに呼ばれている。
それが発する、あるいはその残滓の異様な、常ならざる空気が漂っていることは理解しているのに、そこから形を、ひいては実態を捉えることが適わないということは彼を落ち着かない気持ちにさせた。だがそんな状態でも彼は目の前に座った青年を冷静に観察し、相手に対する質問を一瞬のうちに精査し、厳然とした口調で尋問にも似た検問を始めた。
「君はどこから来たのだね?」
向こうに座る越境者は大学に入ったばかりのような青年で、ジロジロ見られることに慣れていないのか、ジャックが鉛玉のように鋭い視線を彼の上に留めていただけで彼は赤面し、返事が生まれたての子鹿のようにか細く、しどろもどろになった。検問官はそれを客観的に分析し、それが純然たる観念から生ずるものなのか、怪しげな心持ちから溢れでたものなのかを判断しようとした。青年はどう見ても好意的だったし、一つ一つの線は細く、弱々しさを感じさせるが、全体的に捉えるとそれらが調和し、底流の静謐さとそこを撫でるように流れる若さと情熱が見るものに訴えかけるようであった。ジャックは青年のことを危険性がないが、人とうまく付き合う術を知らない、あるいは実践的でない、あるいはそもそも人と生まれてこの方広く浅く接したことがない型の人間であるだろうと断定した。
「僕は、その、キャブリックという都市から来ました」
「なるほど。なぜヴァリー城管轄地域に?」
「あ、あの、学問をするために…」
「なるほど。どれくらい滞在する予定だ?」
「二、三週間程度です」
「行ってよろしい。くれぐれも滞在中は揉め事や犯罪を起こさないように。それでは我らがリンザ様と”力”の善き意志とご加護がありますように!」
青年はまだ二言三言言いたそうな表情を浮かべていたが、ジャックの有無を言わさぬ口調に背中を押されたように慌ただしく去って行った。
検問官は既に先ほど交わした会話の大部分を忘れているし、彼も積極的に忘れようとしていた。ただ内実を剥ぎ取られた印象だけがぼんやりと薄らいでいく様が頭の片隅で繰り広げられるだけで、それは何も残しはしないし、彼をどこにも連れていかない。職務のためにも忘却するのが当然のことなのだ。それに彼はいつもの呼び掛けの声が掠れるほど、ある一つの事実の発見に打ち震えていた。その感動は自分が生まれ変わるようでもあったし、新たな自分を手に入れるようでもあった。彼は答を得たのだ。それは、現在は大学が長い夏期休業に入っているのに、あまりにも学問をするために来る人が多すぎるという事実だった。




