一つめのうわさ(2)
あまりにぶしつけな質問に、少女は暫し言葉を無くした。それも当然、彼女にとっては、微塵も意味の通らない問いかけであるのだから。
そのような表情ではあったが、しかしてなお目を奪われる程、美しい少女であった。
女子の中では長身と言える部類に入るであろう、その体躯は完璧なバランスを保っており、スラリと伸びた手足はそれだけで芸術品のようだ。背中の中ほどまである髪は蛍光灯の明りを反射し、漆黒の中に光の環を作っていた。小さな顔からこぼれおちそうな、大きな瞳の色も黒。ややつりあがり気味なのが、猫を思わせる形である。
ただ、硬く引き結ばれた口元のせいで、およそ愛想というものは欠片も見当たらないのが残念といったところか。正面から顔を合わせれば、多くの者がその冷たい空気に耐えられず委縮させられてしまおう。一部には喜び跪く者もいるらしいが、それはごく少数のこと。本人の傲慢な性格も相まって、周囲は彼女を“女王様”と呼んだ。しかし、十人に問えば十人全員が、まさしく“美少女”と称することには間違いない。
少女の容姿についてはさておき、彼女の目的について触れておかなければならない。そもそも図書室へは忘れものを取りに来たのであって、誰か、ましてや少年のような人間に会いに来たわけではない。この時間ならば図書委員か、司書の教諭くらいしか残っていないだろうとは考えていたが、まさか扉を開けた出会いがしら、生死を確認されるなどとは思いもよらなかったはずだ。
予想する候補にすら上がらない展開に、少女は大いに困惑していた。おそらく一般的な人間は、ここで質問自体を無視するか無難な返答をして、少年と関わらない術を選択するであろう。
だが彼女は違った。
それが、彼女を“女王”という不名誉な称号で呼ばしめる所以でもあったのだが、本人はそのようなことには興味がない。ただ目の前の不快な少年に嫌悪をぶつけるのみ。
「“生きている人間か?”そう見えないのなら、今すぐその無駄な目、抉りなよ。もしくは空っぽの頭ごと捨ててくれば」
「つまりは生者か……とんだ期待外れだ」
はあ、と大きな溜息まで漏れ出す始末。少年は少女に怯むどころか、ただ落胆の色を目に浮かべている。そして近くの机に腰掛けると、ぼんやりと中空を見つめるばかりだった。たまに壁掛けの時計を見ては周囲を見渡してはいたが、会話も謝罪もする気はないようだ。
当たり前のことながら、そのような態度を女王が許容するはずもない。絶対零度の視線とでも言おうか、今にも射殺しそうな眼で無礼者を睨みつけていた。少女の顔はなまじ整い過ぎているだけに、侮蔑を込めて睨めばそれだけで相当の破壊力を持っている。
しかしそれも、視界に入れなければ関係のないこと。少年は、目を合わせない、という初歩的なかわし方で彼女の怒りをやり過ごしたのだが、もとより自分の世界に入りきっていたという方が正しい説明であった。最初に問いかけたきり、それ以降少女に顔を向けようともしない。おそらくは向ける気力もないのだろう。大きく項垂れて、何度もため息をつく様子は、とても美少女を前にした態度とは思えない。
今は何を言っても無駄。少女は少女で早々に見切りをつけ、自らの用事をはたすことにした。そもそも閉館間際ということもあって急いでいたのだ。こんな訳のわからない人間に関わっている場合ではない。とりあえずは未だに開け放したままのドアを閉め、室内へと入る。
――さて、一体どこにあるのだろうか。
ざっと辺りを見回すが、目的のものは見当たらない。ならば、自分が座っていた席の近くにあるはずと、少女は数時間前の記憶を掘り起こしていく。今日は空いていたから、確か一番良い席を確保したのだ。入り口から一番遠い、窓際の座席――思い起こしたその場所へ視線を滑らせると、途端にまた少女の表情は険しくなる。そこに陣取っていたのは、かの不愉快な男子生徒。先ほどと変わらぬ項垂れた姿勢のまま、何事か呟いている。
関わりたくない。絶対に相手にしたくない。
少女は一目見てそう感じた。その評価は決して大げさではなく、今の少年は同じ空間にいるのも憚られる程の負のオーラを放っている。誰であろうと迷うことなく避けていく、しかし少女は、そんな地帯に足を踏み入れなければ目的を達成出来ないのであった。
どうしてこうも、上手くいかないことばかりなのか。女王は物憂げに溜息をつく。だいたい、この生徒は何なのだろう。開口一番、ふざけた問いを発したかとか思えば、それきり何の反応もしない。友好的に、正しくコミュニケーションを取ろうなどという気概は双方持ち合わせてはいないのだが、それを引いても少年の態度は目に余る。
苦々しい気持ちを隠そうともせず、殆ど睨みつける様に、彼女は暫し少年を観察した。
おそらくは図書委員であろうに堂々と机に座っている辺り、それほど真面目という訳でもないのだろう。黒髪の中肉中背。制服のシャツは裾がはみ出しだらしないが、校則違反という程ではない。初めに顔を合わせた時の印象としては少々幼なさが残る顔立ちをしていたことから、自分よりも年下であろう。
そこまで考えたところで、さらに少女の苛立ちは増した。彼女は礼儀や規律などにうるさい質ではない。むしろそういったものを煩わしく思うタイプではあったが、自分に敬意が払われないとなれば話は別だ。不躾な質問も不遜な態度も、少年の全てが気に障った。それ以前に、行動を邪魔されている時点で懲罰ものだ。そうあって然るべき、と。図書室にたどり着いた時、ただ人の存在に安堵したことも忘れ、少女はそう憤慨する。そしてその感情を奥ゆかしく仕舞っておくような性格でもなかった。
気に入らなければ態度で示すのみ。
自らの信条に従い、少女はすぐさま行動に移す。
「邪魔だから、どいて」
大股で一気に歩み寄り少年の正面に立つと、ゴミでも見るかのような目で告げる。対する少年はようやく顔を上げたかと思えば、なんと、その目を眇め見返したのだった。明らかに抗議の意思がこもったそれに、彼女は内心驚いた。そして少年の返答に、さらに意表をつかれた。
「邪魔?それはアンタの方だろ。俺の計画ぶち壊しやがって」
冒頭の問いかけに続き、またもや訳のわからないことを。だが少なくとも、自分が批難されていることは理解できる。そう、理解したからこそ、彼女は怒りを覚えた。苛立ちではなく、怒り。つまりは、少年を敵と認識するに至る。
「お前の都合なんか知らない。早くどけ」
「さっきから、顔に似合わず口汚ねぇな。ああ、中身が伴わないなんて、よくあることか」
「容姿をお褒め頂き光栄よ?いいからどけ。お前と会話する程、暇じゃない」
「嫌だね。とにかく謝りなよ、跪いて、さ。そうすればお探しのモノ、見つかるかもよ?」
――ないと困るもんね、ケータイデンワ
先ほどまでの暗い顔はどこへ行ったのか、少年はそれはもう楽しそうに口元に弧を描いた。意味深な台詞に、言葉を返す間もなく告げられた正解。少女が抱いた嫌な予感は一瞬にして現実となった。
少女が図書室に忘れ、わざわざこんな時間に取りに戻ったのはまさしく携帯電話だった。運の悪いことに今日は金曜日。休日に登校するような用事もない彼女にとっては、一日我慢をしてまた明日、というわけにもいかなかったのだ。
おそらくは放課後、自習後に慌てて立ち去った際に落としたのだろう。そして、今は陰となって見えない机の下に、それは落ちているのだろう。彼女がつけた予想は正しかったわけだが、そこで障害となるのがこの嫌みな少年だ。
実質、机の下を探すのなら彼が移動する必要はない。立場が逆であったなら制服の構造の違いから躊躇することもあっただろうが、男子生徒が下から覗き見られて困るということもないはず。
ならばなぜ、少女は執拗に少年を退かそうとしたのか。単にそれは、彼女のプライドの問題であった。一時的にとはいえ、いけすかない人間に上から見下ろされることを厭うたのだけのこと。多少の我慢をすれば済んだ話だったのだが、今やそれすら出来ない状況にあった。
不幸にも女王様は気付かなかったが、少女のみならず、少年も怒っていたのだ。
それは実験を邪魔されたことにであり、ぞんざいな口のきき方にであった。ただでさえ機嫌の悪い所に喧嘩を売られるような真似をされては、少年のあってないような忍耐など、簡単に切れてしまうもの。したがって、彼にとっては少女の言うことを聞く理由もなく、行っていることは正当な仕返しであった。
目論見通り、目の前の俺様女は黙している。それも、とびきり悔しそうに。
少年はますますうすら笑いを浮かべ、少女の反応を見守った。
「……さいってい」
「さっき図書室は見回ったからな。机の下なんてベストスポットに携帯しかなくて、がっかりした。せめて呪いの着信でもあれば良かったのにさ」
「な、なに意味分かんないこと……死ね、馬鹿。だいたい、なんで拾っておかないの」
「なんで、俺が拾わなくちゃいけないんだよ。落としたのはアンタの責任じゃん。ほら、早く拾えば?ちょうど俺の真下くらいの位置にあるはず。言っとくけど、俺はどかないから」
「ほんっと、死ねばいい」
少女の悪態も意に介さず、完全に優位な立場に立った少年はただ悠然と足を組む。宣言通り、動く気はないようだ。少女はひたすら煩悶する。
ここでしゃがみ込めば、無事目的は果たせるだろう。だが、きっと少年はそんな彼女をあざ笑う。一時の屈辱か、プライドを守るか――結論は案外早く出た。
無言のまま、少女は膝を折っていった。
時計は8時5分過ぎを指している。完全下校時刻過ぎた今、どれだけ敷地内に人が残っているだろうか。こんな時間まで活動している部活や委員会はあっただろうか。教員はまだ仕事をしているかもしれないが、数は多くないはず。何より、早くしなければ通学路からはもう人の姿が消えてしまう。
早く帰りたい。
その一念が決定打。
唇をかみしめ、少年を視界から閉めだす。あのムカつく表情を見てしまえば、今日の夜は悔しくて眠れそうにない。嫌なことはさっさと済ませてしまいたいものだが、屈辱に震える少女の体はぎこちなくしか動かなかった。
少しずつ、少しずつ姿勢を低くしていく。
途中、スカートが汚れぬよう片手で押え、足の間に挟み込む。
ローファーの爪先が、だんだん近くなっていく。
完全に腰を落とした所で、携帯は見つかった。
嘘だけはついていなかったのか、証言のまま少年が座る真下に落ちている。
少し手を伸ばせば届く場所。
見慣れたシンプルな白い機種――手を、伸ばす、
爪の先が、カツン。
さらに伸ばし、指先がツルリとした触感を感じる。
安堵、安心。
ふと、視線を上げる。
顔があった。
「ひっ―――――」
人は本当に恐怖を感じた時、声も出ない。
そんなフレーズを、少女は頭の片隅で思い出していた。