うさぎは何も語れない
今年見た初夢をモチーフに書きました。
暗い。暗闇だ。店内には少しばかり湿った空気が海流のように流れていて、真ん中にポツリと丸テーブルと椅子が置いてある。それはどちらもとびきり上等な代物なようで、その妖しげな空間の中でも確かな存在感を示していた。
水中にゆっくりと響き渡るように、鐘の音が鳴った。その瞬間にぶら下がっているライトがパチリと光り、中央のテーブルを照らす。
音を辿ると、少女が木製の扉に手をかけていた。深い深い赤のワンピースに同色の丸靴、白いフリルのついたソックスとそれによく合う純白の日傘。髪は綺麗に切りそろえられたおかっぱ頭をしている。少女は日傘を丁寧に畳み、扉を静かに閉めた。
この少女、齢は十かそこらというところだが、振る舞いに関して言うならばまさに貴婦人のそれである。指先の動き一つとってみても気品に溢れているのだ。そのせいもあってか、ミルク色の肌の裏側に言い知れぬ深遠が隠れているようである。
その音を聞きつけて、ピラルクの女店主がピンク色の鱗を妖しく揺らめかせながら少女に近づいていった。
「これはこれは珍しい。人間のお客様は随分と久しぶりで御座います。さあ遠慮なさらずに、どうぞこちらへ」
黒猫のウエイターがそっと椅子をひき、少女は軽く会釈をしながら腰掛けた。
真っ赤なテーブルクロスの上に、真っ白の皿と見事な銀のナイフとフォーク。
艶のある瞳は目の前に畳まれたナプキンを見つめている。
「ここはレストランの様なのに、メニューが見当たらないわ」
女店主に目を移して言った。
慣れた様な口振りで女店主は返す。
「そのことでしたら、そちらの水を飲んでいただければ分かります。あなたにピッタリの料理を用意いたしましょう」
少女は目の前に置かれたワイングラスに半分程注がれた水を、ゆっくりと飲み干した。
しばしの沈黙の後、少女はその艶やかな肌を小さく歪めた。女店主のヒレがピクリと動く。
隠すようにその異物を掌の上に吐き出した。
「痛いわ」
小さな掌には真っ赤に膨れ上がった、親指程の大きさのクリオネが全身をくねらせながら跳ねている。
「かしこまりました。直ぐに料理をお持ちいたします」
そう言うと女店主は空を泳ぎながら暗闇に消えていった。
5分、いや10分程だろうか。少女が掌の上でクリオネを弄んでいるうちに、料理が出来たようだ。
「大変お待たせいたしました」
ピラルクの女店主が獣臭い匂いを纏いながら部屋の中央へ戻ってきた。瞳の奥が鈍く光っている。先ほどの黒猫のウエイターが、銀細工の施された半球型の蓋がされた食器をコトリと置く。
「これならばきっと満足して戴ける筈でございます」
女店主はニタリと笑った。
臭い。獣臭い。銀の蓋を隔てて、何やらが蠢いている気配が漏れ出している。思わず少女は顔をしかめた。
女店主がまたニタリと笑う。
女店主の目配せでウエイターはゆっくりとその冷ややかな蓋を開けた。
じめついた空気の中、純白で小刻みに震えるそれを見た少女は思わず高揚に満ちた声を漏らした。真っ赤に澄んだ瞳はただ少女を見つめる。
「当店自慢のとびきり上等な雄うさぎでございます」
鱗が妖しく光る。
少女は少しだけ身を乗り出して、
「あなたとても美味しそうな毛並みをしているわね」
と光輝に満ちた瞳で言った。
純白の毛の隙間からは、いやらしく誘うように甘美な香りが放たれていた。うさぎは口元を小刻みに揺らしながらも、沈黙を守っている。
「あら、返事もしないだなんてマナーがなっていないわ」
女店主はすかさず、
「申し訳ありません。当店のうさぎは何も語れないのです。何しろとびきり上等なものですから」
と頭をさげた。
「そうなの」と興味も無さそうに、表面を煌めかせる銀のナイフとフォークを手に取り、テーブルの上で構える。
丸くふっくらとした尻尾にナイフをかけると、驚くほど簡単に刃はそれをすり抜けた。
されど、うさぎは語らない。
小さい口。うっすらと紅のついた厚みのある唇。その隙間をスルリと入り込むように、その柔らかな塊は少女の中に消えた。
嚥下の音が響く。
「嗚呼!なんて、なんて美味しいのでしょう!甘露に浸かっているような心地だわ!」
歓喜と陶酔にまみれた顔をして、次々に少女は食べ進めた。その手は止まらない。もっと、もっと、もっと、と快楽を貪るようにその手は止まらない。
気付けばその全てを平らげてしまっていた。
空になった皿を前にして、少女は呆けた顔で酔いしれた。
「満足戴けたでしょうか?」
女店主はいやらしい表情を見せながら訪ねる。
「ええ、とても。でも何故この店のうさぎはこんなにも美味しいのかしら?」
少女は満腹で動けなくなった体をゆっくりと動かし、顔を女店主に向けた。すると女店主はさも当たり前かのように言う。
「それはあなたにとてもお似合いだからです」
少女は訳が分からないといった様子。しかし何も言えない。女店主は鱗を揺らしながらクスクスと笑う。
「だってそうでしょう。そんなに真っ白な毛並みで真っ赤な瞳を持っている、あなた以上に似合う者はいませんよ」
視線を移した先、銀のナイフの中で真っ赤な瞳が少女を見つめていた。
少女は、もう、語れない。
◆
湿った空気の中、鐘の音が響く。
「これはこれは珍しい。人間のお客様は随分と久しぶりで御座います。さあ遠慮なさらずに、どうぞこちらへ。ちょうど上等な雌ウサギが入ったところで御座いますので」




