その善意、人身売買につき ~転生検事が勇者の奴隷購入を立件したら、誰も少女の名前を聞いていなかった~
「この子を買います」
勇者ユリウスが奴隷市場でそう言った日のことを、リーゼはよく覚えている。
覚えているけれど、感謝はしていない。
彼が金貨十枚を差し出したとき、商人は「まいどあり」と笑った。
鎖が外れた。首輪はそのままだった。
ユリウスは膝をつき、リーゼの目を見て言った。
「もう大丈夫だ。僕が君を守る」
リーゼは頷いた。頷くしかなかった。
奴隷は、頷くのが仕事だから。
◇
話が変わったのは、ユリウスが王都に凱旋して三日後のことである。
「勇者ユリウス殿。貴殿を人身取引の罪で告発します」
玉座の間に響いたその声は、宮廷のどの人間のものでもなかった。
壁際に立っていた黒髪の青年。王国法制局の末席書記官、タチバナ・レンジ。半年前にどこからともなく現れ、法制局に自ら志願した変わり者だと聞いている。
ユリウスは笑った。善意の笑みだった。
「告発? 僕は彼女を救ったんですよ。鎖に繋がれていたのを、自腹で」
「ええ。その『自腹で』が問題です」
レンジはまっすぐ立っていた。宮廷の空気が凍る中で、彼だけが法制局の羊皮紙を淡々と読み上げた。
「王国法典第四十四条。人を対価と引き換えに譲受する行為は、目的の如何を問わず人身取引に該当する。——条文をそのまま読めば、善意の購入も売買です」
「法を盾に善行を裁くのか!」
騎士団長が声を上げた。廷臣たちもざわめいた。
レンジは動じない。
「善行かどうかは、裁く前には誰にも分かりません。だから手続きがあるんです」
レンジの前世は東京地検の検事だった。三十二歳で過労死し、気がついたらこの世界の孤児院にいた。法律のない異世界で法律の知識だけを持つ人間が何をすべきか、二年かけて考えた結論が「法制局の書記官になる」だった。
最初の一年は誰にも相手にされなかった。「法の支配」と言っても鼻で笑われた。「前例がない」と百回は言われた。
それでもレンジは書き続けた。法案の草稿を。誰に頼まれたわけでもなく。
◇
裁定の場は、三日後に設けられた。
形式上は王国裁定官による審問だが、実質はユリウスの英雄譚に泥を塗るかどうかの政治判断だった。
裁定官ヴェルナーは白髪の老人で、四十年この職にある。彼はユリウスに好意的だった。廷臣の大半もそうだった。レンジに味方する者は一人もいなかった。
「書記官タチバナ。まず経緯を述べよ」
「はい。勇者ユリウス殿は、東方辺境の奴隷市場において、登録番号リ・二〇七の奴隷を金貨十枚で購入しました。その後、首輪を外さないまま三日間パーティに同行させ、本日に至ります」
「首輪は外す予定だった!」ユリウスが立ち上がった。「解呪に時間がかかるんだ。僕は彼女を——」
「彼女の名前は?」
レンジが遮った。静かな声だった。
「——え?」
「登録番号ではなく、名前です。ご存じですか」
沈黙が降りた。
ユリウスは口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……リ、リーゼ……だったか? いや、リーネか。すまない、ちょっと……」
レンジは彼を責めなかった。代わりに裁定官を見た。
「裁定官殿。奴隷市場の取引台帳を確認しました。そこに記載されていたのは登録番号のみで、名前の欄は空白でした。つまり——」
レンジは一度だけ息を吸った。
「この国の奴隷売買では、そもそも名前を記録する欄がないんです。商人も、買い手も、登録官も、一度も本人に名前を聞いていない」
廷臣たちが互いの顔を見た。
裁定官ヴェルナーの表情がわずかに変わった。
「……書記官。それは告発とどう関係するのか」
「大いに関係します。名前を聞かないということは、人として扱っていないということです。人として扱っていない取引を『救済』と呼ぶのは、制度の不備を善意で上書きしているだけです」
レンジの声は淡々としていた。怒鳴らない。糾弾しない。ただ事実を並べる。
それが前世から変わらない、この男のやり方だった。
「勇者殿を悪人だとは思っていません。ですが、善人が善意で人を買える制度は、悪人が悪意で人を買える制度と同じものです。問題はユリウス殿個人ではなく、名前すら記録しないこの国の仕組みのほうです」
ユリウスの顔から血の気が引いた。怒りではなかった。初めて気づいた人間の顔だった。
◇
裁定は中断された。
ヴェルナーが「判断に時間を要する」と宣言し、廷臣たちが散り始めたレンジは、回廊の柱に背を預けて息を吐いた。
勝てるとは思っていない。この国に前例はない。判例もない。法そのものが未整備だ。廷臣の十人中十人がユリウスの側に立つだろう。
それでも、言わなければならなかった。
——人を買う制度を、善意で運用し続けることはできない。
それは前世でも同じだった。人身取引の事件を扱うたび、加害者は言った。「あの子を助けてやったんだ」と。保護と支配の境界線を、誰もが善意という言葉で踏み越えた。
この世界でも同じことが起きている。
善意の形をした鎖が、少女の首にかかっている。
「……タチバナ様」
声は足元から聞こえた。
見下ろすと、リーゼがいた。廊下の隅にしゃがみ込んで、こちらを見上げている。灰色の髪。首輪の痕が赤い。ユリウスのパーティの外套を借りて羽織っているが、袖が長すぎて指先が見えない。
「リーゼ。……その名前で合ってる?」
「……はい。合ってます」
少女の声は小さかった。レンジはしゃがんで目線を合わせた。
「ごめん、いきなり裁定の場で名前の話をして。驚いただろう」
「いいえ」
リーゼは首を横に振った。そして、少し黙ってから言った。
「あの。タチバナ様は、わたしを——助けたいんですか?」
「……うん。まあ、そうなるかな」
「ユリウス様も、そう言いました」
レンジは口を閉じた。
リーゼの目は澄んでいた。怒りはなかった。恨みもなかった。ただ、とても静かだった。何かを長い間諦めてきた人間の目だった。
「商人さんは、お金をくれる人に渡すのが一番いいって言いました。ユリウス様は、自分が守るのが一番いいって言いました。タチバナ様は、制度を変えるのが一番いいって言いました」
一拍。
「みんな、"一番いいこと"を知ってるんですね」
レンジの胸の奥が、冷たくなった。
「——誰も、わたしには聞かないのに」
風が廊下を抜けた。春の初めの、まだ冷たい風だった。
レンジは何も言えなかった。
検事として。法律家として。転生者として。この世界を少しでもましにしたいと思って法制局に入った。奴隷制度を告発して、制度を変えて、それが正しいと信じていた。
正しかったのだと思う。
でも、正しさの中に、この子の声はなかった。
「…………あの、リーゼ」
「はい」
「君は、どうしたい?」
リーゼが目を丸くした。
「……え?」
「ユリウスのところにいたいなら、それでもいい。どこかに行きたい場所があるなら、そこに行けるように俺が手続きを作る。何かやりたいことがあるなら——」
レンジは自分の声が少し震えているのに気がついた。
「君がどうしたいか、聞かせてくれないか。俺はそれをまだ一度も聞いてなかった」
リーゼはレンジを見つめた。
長い沈黙だった。
それから、彼女の目に、水の膜が張った。
「——聞いて、くれるんですか?」
「聞く」
「……本当に?」
「本当に」
リーゼは袖で目元を押さえた。外套の長い袖が、少しだけ濡れた。
「わたし、……」
声が震えた。
「わたし、パンを焼くのが好きでした。お母さんが売られる前に、一緒に焼いてたんです。丸い、小さいの。それだけなんですけど——」
「うん」
「それだけで、いいですか」
「いいよ」
レンジは立ち上がった。そしてもう一度しゃがみ直した。目線の高さが合っていなかったからだ。
「パン屋をやるのに必要な手続き、この国にはまだないから。俺が作る。営業許可と、衛生基準と、——あと、名前の登録制度」
「……名前?」
「奴隷じゃなくて、一人の住民として。名前を届け出る制度。それがないと、パン屋の看板も出せないだろ?」
リーゼは、泣きながら少しだけ笑った。
レンジがその笑顔を見たのは初めてだった。裁定の場でも、廊下でも、一度も笑わなかった少女が、「パン屋の看板」という言葉で笑った。
◇
翌週、裁定官ヴェルナーは判断を下した。
ユリウスの行為は「現行法上は違法とまでは言えないが、制度の不備に起因する問題を含む」として、罪には問わなかった。その代わり、法制局に対し、奴隷取引の見直しと身元登録制度の整備を勧告した。
政治的な妥協だった。レンジも分かっていた。
ユリウスは判決の後、レンジのもとに来た。
「……名前、覚えてなかった。最低だな、僕は」
「最低ではないですよ。この国の制度がそうさせた」
「それでも」
ユリウスは目を伏せた。
「助けたつもりだった。でも俺は、あの子が何を好きかも知らなかった」
レンジは何も言わなかった。
言う必要がなかった。ユリウスはもう気づいている。
◇
三ヶ月後。
王都の南門を少し入ったところに、小さな店が開いた。看板には下手な字でこう書いてある。
「リーゼのパン屋」
名前の登録制度はまだ整備途中だったが、レンジが書いた草案の「住民届出に関する暫定令」の第一号届出者が、リーゼだった。届出書の名前欄に、彼女は自分で「リーゼ」と書いた。震える字だった。でも、自分の字だった。
パンは小さくて丸い。特別な味がするわけではない。でも朝になると近所の子どもが買いに来る。
レンジは週に一度、昼にそこへ寄る。
「タチバナ様。今日のは少し焦げました」
「それぐらいが美味い」
「……お世辞はいらないです」
「お世辞じゃない。本当にそう思ってる」
リーゼは少しだけ笑う。あの日、廊下で見せた笑顔と同じだけれど、もう泣いてはいない。
首輪の痕は、まだうっすらと残っている。
でも、看板の名前は消えない。
彼女が自分で書いた名前だから。




