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ギルド労務官シリーズ

その善意、人身売買につき ~転生検事が勇者の奴隷購入を立件したら、誰も少女の名前を聞いていなかった~

作者: lilylibrary
掲載日:2026/04/04


 「この子を買います」


 勇者ユリウスが奴隷市場でそう言った日のことを、リーゼはよく覚えている。

 覚えているけれど、感謝はしていない。


 彼が金貨十枚を差し出したとき、商人は「まいどあり」と笑った。

 鎖が外れた。首輪はそのままだった。

 ユリウスは膝をつき、リーゼの目を見て言った。


「もう大丈夫だ。僕が君を守る」


 リーゼは頷いた。頷くしかなかった。

 奴隷は、頷くのが仕事だから。


 ◇


 話が変わったのは、ユリウスが王都に凱旋して三日後のことである。


「勇者ユリウス殿。貴殿を人身取引の罪で告発します」


 玉座の間に響いたその声は、宮廷のどの人間のものでもなかった。

 壁際に立っていた黒髪の青年。王国法制局の末席書記官、タチバナ・レンジ。半年前にどこからともなく現れ、法制局に自ら志願した変わり者だと聞いている。


 ユリウスは笑った。善意の笑みだった。


「告発? 僕は彼女を救ったんですよ。鎖に繋がれていたのを、自腹で」


「ええ。その『自腹で』が問題です」


 レンジはまっすぐ立っていた。宮廷の空気が凍る中で、彼だけが法制局の羊皮紙を淡々と読み上げた。


「王国法典第四十四条。人を対価と引き換えに譲受する行為は、目的の如何を問わず人身取引に該当する。——条文をそのまま読めば、善意の購入も売買です」


「法を盾に善行を裁くのか!」


 騎士団長が声を上げた。廷臣たちもざわめいた。

 レンジは動じない。


「善行かどうかは、裁く前には誰にも分かりません。だから手続きがあるんです」


 レンジの前世は東京地検の検事だった。三十二歳で過労死し、気がついたらこの世界の孤児院にいた。法律のない異世界で法律の知識だけを持つ人間が何をすべきか、二年かけて考えた結論が「法制局の書記官になる」だった。


 最初の一年は誰にも相手にされなかった。「法の支配」と言っても鼻で笑われた。「前例がない」と百回は言われた。


 それでもレンジは書き続けた。法案の草稿を。誰に頼まれたわけでもなく。


 ◇


 裁定の場は、三日後に設けられた。


 形式上は王国裁定官による審問だが、実質はユリウスの英雄譚に泥を塗るかどうかの政治判断だった。


 裁定官ヴェルナーは白髪の老人で、四十年この職にある。彼はユリウスに好意的だった。廷臣の大半もそうだった。レンジに味方する者は一人もいなかった。


「書記官タチバナ。まず経緯を述べよ」


「はい。勇者ユリウス殿は、東方辺境の奴隷市場において、登録番号リ・二〇七の奴隷を金貨十枚で購入しました。その後、首輪を外さないまま三日間パーティに同行させ、本日に至ります」


「首輪は外す予定だった!」ユリウスが立ち上がった。「解呪に時間がかかるんだ。僕は彼女を——」


「彼女の名前は?」


 レンジが遮った。静かな声だった。


「——え?」


「登録番号ではなく、名前です。ご存じですか」


 沈黙が降りた。


 ユリウスは口を開き、閉じ、もう一度開いた。


「……リ、リーゼ……だったか? いや、リーネか。すまない、ちょっと……」


 レンジは彼を責めなかった。代わりに裁定官を見た。


「裁定官殿。奴隷市場の取引台帳を確認しました。そこに記載されていたのは登録番号のみで、名前の欄は空白でした。つまり——」


 レンジは一度だけ息を吸った。


「この国の奴隷売買では、そもそも名前を記録する欄がないんです。商人も、買い手も、登録官も、一度も本人に名前を聞いていない」


 廷臣たちが互いの顔を見た。

 裁定官ヴェルナーの表情がわずかに変わった。


「……書記官。それは告発とどう関係するのか」


「大いに関係します。名前を聞かないということは、人として扱っていないということです。人として扱っていない取引を『救済』と呼ぶのは、制度の不備を善意で上書きしているだけです」


 レンジの声は淡々としていた。怒鳴らない。糾弾しない。ただ事実を並べる。

 それが前世から変わらない、この男のやり方だった。


「勇者殿を悪人だとは思っていません。ですが、善人が善意で人を買える制度は、悪人が悪意で人を買える制度と同じものです。問題はユリウス殿個人ではなく、名前すら記録しないこの国の仕組みのほうです」


 ユリウスの顔から血の気が引いた。怒りではなかった。初めて気づいた人間の顔だった。


 ◇


 裁定は中断された。


 ヴェルナーが「判断に時間を要する」と宣言し、廷臣たちが散り始めたレンジは、回廊の柱に背を預けて息を吐いた。


 勝てるとは思っていない。この国に前例はない。判例もない。法そのものが未整備だ。廷臣の十人中十人がユリウスの側に立つだろう。


 それでも、言わなければならなかった。


——人を買う制度を、善意で運用し続けることはできない。


 それは前世でも同じだった。人身取引の事件を扱うたび、加害者は言った。「あの子を助けてやったんだ」と。保護と支配の境界線を、誰もが善意という言葉で踏み越えた。


 この世界でも同じことが起きている。

 善意の形をした鎖が、少女の首にかかっている。


「……タチバナ様」


 声は足元から聞こえた。


 見下ろすと、リーゼがいた。廊下の隅にしゃがみ込んで、こちらを見上げている。灰色の髪。首輪の痕が赤い。ユリウスのパーティの外套を借りて羽織っているが、袖が長すぎて指先が見えない。


「リーゼ。……その名前で合ってる?」


「……はい。合ってます」


 少女の声は小さかった。レンジはしゃがんで目線を合わせた。


「ごめん、いきなり裁定の場で名前の話をして。驚いただろう」


「いいえ」


 リーゼは首を横に振った。そして、少し黙ってから言った。


「あの。タチバナ様は、わたしを——助けたいんですか?」


「……うん。まあ、そうなるかな」


「ユリウス様も、そう言いました」


 レンジは口を閉じた。


 リーゼの目は澄んでいた。怒りはなかった。恨みもなかった。ただ、とても静かだった。何かを長い間諦めてきた人間の目だった。


「商人さんは、お金をくれる人に渡すのが一番いいって言いました。ユリウス様は、自分が守るのが一番いいって言いました。タチバナ様は、制度を変えるのが一番いいって言いました」


 一拍。


「みんな、"一番いいこと"を知ってるんですね」


 レンジの胸の奥が、冷たくなった。


「——誰も、わたしには聞かないのに」


 風が廊下を抜けた。春の初めの、まだ冷たい風だった。

 レンジは何も言えなかった。


 検事として。法律家として。転生者として。この世界を少しでもましにしたいと思って法制局に入った。奴隷制度を告発して、制度を変えて、それが正しいと信じていた。


 正しかったのだと思う。

 でも、正しさの中に、この子の声はなかった。


「…………あの、リーゼ」


「はい」


「君は、どうしたい?」


 リーゼが目を丸くした。


「……え?」


「ユリウスのところにいたいなら、それでもいい。どこかに行きたい場所があるなら、そこに行けるように俺が手続きを作る。何かやりたいことがあるなら——」


 レンジは自分の声が少し震えているのに気がついた。


「君がどうしたいか、聞かせてくれないか。俺はそれをまだ一度も聞いてなかった」


 リーゼはレンジを見つめた。

 長い沈黙だった。


 それから、彼女の目に、水の膜が張った。


「——聞いて、くれるんですか?」


「聞く」


「……本当に?」


「本当に」


 リーゼは袖で目元を押さえた。外套の長い袖が、少しだけ濡れた。


「わたし、……」


 声が震えた。


「わたし、パンを焼くのが好きでした。お母さんが売られる前に、一緒に焼いてたんです。丸い、小さいの。それだけなんですけど——」


「うん」


「それだけで、いいですか」


「いいよ」


 レンジは立ち上がった。そしてもう一度しゃがみ直した。目線の高さが合っていなかったからだ。


「パン屋をやるのに必要な手続き、この国にはまだないから。俺が作る。営業許可と、衛生基準と、——あと、名前の登録制度」


「……名前?」


「奴隷じゃなくて、一人の住民として。名前を届け出る制度。それがないと、パン屋の看板も出せないだろ?」


 リーゼは、泣きながら少しだけ笑った。


 レンジがその笑顔を見たのは初めてだった。裁定の場でも、廊下でも、一度も笑わなかった少女が、「パン屋の看板」という言葉で笑った。


 ◇


 翌週、裁定官ヴェルナーは判断を下した。


 ユリウスの行為は「現行法上は違法とまでは言えないが、制度の不備に起因する問題を含む」として、罪には問わなかった。その代わり、法制局に対し、奴隷取引の見直しと身元登録制度の整備を勧告した。


 政治的な妥協だった。レンジも分かっていた。


 ユリウスは判決の後、レンジのもとに来た。


「……名前、覚えてなかった。最低だな、僕は」


「最低ではないですよ。この国の制度がそうさせた」


「それでも」


 ユリウスは目を伏せた。


「助けたつもりだった。でも俺は、あの子が何を好きかも知らなかった」


 レンジは何も言わなかった。

 言う必要がなかった。ユリウスはもう気づいている。


 ◇


 三ヶ月後。


 王都の南門を少し入ったところに、小さな店が開いた。看板には下手な字でこう書いてある。


「リーゼのパン屋」


 名前の登録制度はまだ整備途中だったが、レンジが書いた草案の「住民届出に関する暫定令」の第一号届出者が、リーゼだった。届出書の名前欄に、彼女は自分で「リーゼ」と書いた。震える字だった。でも、自分の字だった。


 パンは小さくて丸い。特別な味がするわけではない。でも朝になると近所の子どもが買いに来る。


 レンジは週に一度、昼にそこへ寄る。


「タチバナ様。今日のは少し焦げました」


「それぐらいが美味い」


「……お世辞はいらないです」


「お世辞じゃない。本当にそう思ってる」


 リーゼは少しだけ笑う。あの日、廊下で見せた笑顔と同じだけれど、もう泣いてはいない。


 首輪の痕は、まだうっすらと残っている。

 でも、看板の名前は消えない。


 彼女が自分で書いた名前だから。


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