貴方だけ何も知らない
「お嬢さん、よろしければどうぞ」
いつもなら無視してしまうビラ配りだが、今回に限って受け取ってしまったのはどうしてだろうか。歩道を歩く千景のすぐ隣は、自動車が走り抜ける二車線道路。人がすれ違えるかも怪しい道幅で逃げ場がなかったというのもあるだろうが、ワイヤートラップに引っかかったかのように、何かが学校帰りの千景の足を止めさせた。
受け取ったのは、普通のコピー用紙。家庭用プリンタで刷られただろうそれは、手書きの題字とイラストの温かみのある仕上がりだった。『珈琲喫茶・薫風 本日オープン』。まだ二ヶ月ほど早い単語に眉根を寄せ、視線を上げた。愛想と不安の混じった顔で笑う男は、白いエプロンに無地の紺のエプロンを着けて、確かに喫茶店の似合いそうな清潔感のある人物だ。高校生である千景の、十ほど歳上だろうか。
「コーヒー、好きですか?」
人一倍高い位置にある目線を、少し膝を折って千景の目線に近付ける。幼子のような扱いだが、不快感はなかった。彼なりの誠意の形と感じられて。
だから、千景も珍しく素直に応じた。
「……たまに、飲む程度で」
男は破顔する。何を考えているか分からない、とよく言われる千景の顔を見ても動じた様子なく、卒直な喜びを見せた。
「良ければ、寄っていきません? ほらこれ。割引券」
チラシの角を示す。そこには、手書きの点線と『百円引き』の文字があった。
彼の背後の店に視線を向ける。大きなガラスが嵌められた、白く塗られたモルタル外壁。千景から見た面は、非対称の五角形。左手側――南側の傾斜が緩めになっている。大きな窓から少し中を窺うと、モダンかつ落ち着いた雰囲気が感じられた。千景の趣味には合いそうだった。
――でも、何かが気になる。
じっと店内を見つめるが、その〝何か〟は外からは窺えなかった。
悩んだ末、決意した。
「……じゃあ、一杯だけ」
男の顔がもう一段階輝いた。
「ありがとう。では、どうぞ」
金属の枠にガラスを嵌めたドアを押し開く。カラカラとカウベルのような音が鳴る中で、千景は白いシャツの背に続いた。内装には木の板が多く使われていた。挽き板を敷き詰めた床は、下が空洞になっているのか、歩くと靴音が軽く響く。ウッドパネルの壁にはアイビーの飾りをガーランドのように這わせ、多肉植物を植えた小さなポットをところどころに吊り下げている。そして緩やかな傾斜の天井にはガラス窓があり、外光が直接入り込む。店内は白く柔らかい光に明るく照らされている。女性が好みそうな、洒落た店だ。
天井から降り注ぐ日光の下、床の上に影が揺れる。
「お好きな席にどうぞ」
店長は、まるで高級レストランのボウイのように、店内を指し示す。右手側には、カウンター。左手は、四人掛けのテーブル席が四席ほど。千景は迷わず、カウンター席に向かった。会計レジから一席置いたスツールに腰掛け、ポリエステルのスクールバッグを足元の籠に置く。
無垢材の天板にラミネートされたメニューが置かれた。『ブラジル』、『キリマンジャロ』、『モカ』――。目にしたことくらいはある銘柄を追いながら、眉間に皺を寄せ、悩んだ末に一番上の『オリジナルブレンド』を指さした。
コーヒー豆を挽く音が店内に響く。それから、空気が掻き混ぜられる音。天窓を横切る無垢な梁にぶら下がったシーリングファンは、少々勢い良く回っているようだ。音楽はなくひたすら静かで、まだ明るい夕方の日差しが入り込んでいることもあって、微睡みに近い心地よさが店内に満ちている。
千景は退屈しのぎに正面に並べられた棚に視線を這わせた。アンティーク調の棚に並ぶのは、密閉式のガラス瓶に入れられたたくさんの種類の珈琲豆。その合間に置かれている小さなポットの観葉植物。どうやら本物らしい。それらをちょっとした感慨の中で眺め、千景はテーブルの天板に視線を落とした。木目の模様を追う視界の端で、影が揺れる。
「お待たせしました」
ソーサーとともに、白いカップが千景の前に置かれた。続けて、シュガーポットと個包装のミルク。それらには全く手を付けず、千景はなみなみ注がれた黒い液体を啜る。
啜って、何も言わない。
千景の様子を観察していた店主は、細い顔に不安そうな表情を浮かべつつ、感想を催促するようなことはしなかった。千景がお喋りなたちではないことを見抜いてくれていたのだろう。千景もその好意に甘えて、無言で二口め、三口めを飲んでいく。
窓の向こうでは、右に左にと次々に車が走り抜けていった。狭い二車線道路だが、意外にも車は途切れない。しかし一方で、歩く人は疎らだ。たまに見かけても、せかせかと通り過ぎていく。誰も新しい店に気付かない。
それに、やはり不安を抱いたのだろうか。
「……君がはじめてのお客さんなんだ」
沈黙に耐えかねたのか、店主が溢す。カウンターの向こうでぽつんと立って、今の千景と同じように窓の外に目を向けていた。
天井からの影が掛かる。
店主は千景の視線に気付いたのか、誤魔化し笑いを浮かべた。
「もし良ければ、友だちを連れてきてよ。……あ、コーヒーを気に入ったなら、だけど」
「……そうですね」
居心地は悪くないし、コーヒーも店主の人当たりも良い。誰かに薦めるのは吝かではない。でも――
ずっと背後にあるものが気になって、千景は振り返ろうとした。だが、視界の端に影入り込んだところで、やめた。
顔の向きを店主に戻した千景は、無表情を貫いて言った。
「機会があれば」
喫茶店を出て、通り沿いを真っ直ぐに西に歩いて家に帰る。路地に入った途端に、この辺りの住宅街は静かになる。住んでいるのは、古くから居る年寄りとその家族ばかり。活気と呼べるほどのものはないが、このくらいが千景にはちょうど良かった。千景の家は、二階建ての、日本らしい古い一軒家。
引戸を開ければコンクリートの三和土があって、上がり框はフローリング。薄暗い廊下を少しだけ行って、ガラス障子を開け放したままの居間に入る。畳の上の炬燵には誰もいないが、テレビは夕方のニュースを流していた。それもそのはず、左手側の玉暖簾の向こうには、ビジネスカジュアル姿の母が夕食の支度をしているからだ。
「お帰り。珍しく遅かったじゃない」
包丁で根菜を切る音を軽快に立てながら、母は言う。部活動もしていない千景は寄り道もしないので、いつも帰宅はもっと早い。
千景はスクールバッグを下に置き、炬燵の電源を付けた。
「新しい喫茶店ができていて。誘われたの」
「新しい喫茶店? 何処に?」
包丁の音が止む。流しに手を洗いに来た千景を、母が熱心に見つめた。新しい店に興味津々といった様子。
「通りの向こうの、ずっと空き店舗だったところ」
場所を言うと、母は顔を曇らせた。
「……あそこ、お店が入ったの」
蛇口からの水音に掻き消されそうなほどの、低い声。
春先とはいえ、手にあたる水はまだ冷たかった。手の先から身体が冷えていくような気がする。
母は、包丁を持ったまま、まだ千景を見つめていた。
「あまり行かないほうが良いんじゃない? だって、あそこ……」
言い淀む。その理由を知っている千景は、促すこともせず、蛇口を閉めて古いタオルで手を拭いた。
「……知ってるでしょ? 昔、そこでレストラン開いていた女の子が自殺したって」
当然、知っている。ここらに住む地元民であればみんな知っている、といっても過言ではないほど、有名な話だった。あの通りは、狭くても古くからの主要道路で、通勤・通学によく使われている。誰もが、ここ五年ほどの間、あの白い建物のカーテンで塞がれたガラス窓に『テナント募集』の紙が貼られているのを知っている。その理由も、併せて。
「あんた、おばあちゃんに似てるから――」
母がこうも千景を心配しているのは、千景がたびたびこの世ならざるものに遭遇しているのを知っているからだ。同居の祖母に心得があることもあり、今まで大事にならずに済んでいるが、母はそれでも悪い事態を想定する癖を捨てきれていないらしい。
「大丈夫。私はなんともないから」
そう告げて、千景は炬燵の中に入った。スクールバッグを引き寄せてチャックを開けると、店の前で店主からもらったビラが目に入った。店主のご厚意で、ビラの角の割引券はそのままにされている。また来てくれ、とのことだ。
千景は、幼い頃からずっと、この世ならざるものにそういうものに接している。だから母が心配するように、自分にその女が憑いてきていないことも、きちんと分かっていた。
ただ、あの喫茶店の、天窓のそば。シーリングファンが設置された梁に、首を吊ったエプロン姿の若い女がぶら下がり、じっとカウンターを見下ろしていたなんて。
敢えて伝えて母を怖がらせる必要はないだろう。
その喫茶店は、学校でも話題になっていた。洒落た店、若い男性が店主をしている店、ということもあるが、やはり事故物件に店を構えていることが何よりも注目されていた。
「暮葉さん、あそこのコーヒー屋さん行ったの?」
ただ友人の近くの席にいただけの千景に話を振ってくれた親切なクラスメイト。美容院で綺麗に切り揃えた髪を下ろし、校則に触れない程度にお洒落した彼女に、千景は愛想を見せる。
「学校帰りに、店長さんに声を掛けられて」
「押しに弱いんだ。意外」
それは千景自身も同意するところだ。ただ店にぶら下がっていた女がいただけでは、きっと通り過ぎていただろうから。
「どうだった?」
期待に目を輝かせる同級生たちを前に、どう答えるか千景は悩んだ。店の雰囲気や店主には好感を持っていたが、なにぶん梁にぶら下がった女が問題だ。素直で良い子の同級生たちを、あまり近づけたくはない。
悩んだ末、千景は惚けることにした。
「コーヒーは、よく分からなくて」
女子の集団は、苦笑して解散していった。
そんな話をしたからだろうか。
帰り道、千景はその喫茶店の前まで足を向けた。大きなガラス窓の喫茶店は、開店中であることを示す看板が出ているものの、静かすぎて存在感に乏しかった。相変わらず、道路を車が走り抜けていく。歩道には誰もいない。躊躇した千景が立ち尽くしていても、文句をいう人もいない。
所詮、通りすがりだ。自分から関わる必要はない。この店が噂になっているだけで、ああいうのは何処にでも視られる。
そう思っても、千景は結局店の扉に手を掛けてしまった。金属の、あまり響かない音に、カウンターに立つ店主は弾かれたように振り返った。
「い、いらっしゃいませ!」
来客を出迎える店主の声は、動揺した様子だった。怯えらしき色も感じられ、千景は身体を強張らせた。だが、千景の予想に反し、店主は遮るもののない天窓からの光の下で、ぱっと顔を輝かせた。
「ああ、この前のお嬢さん!」
実際、このように声を弾ませた様子を見せると、拒まれてはいないことが分かる。では先ほどのは何だったのか、と視線を隣に移して、理解。カウンターを挟んだ店主の対面に、スーツ姿の男が立っている。おそらく店主は彼に集中していて、来客の可能性をすっかり頭の外に出していたのだろう。
木を思わせるひょろ長いスーツ姿の男は、千景をじっと見つめていた。
好きな席に座って、と言われ、千景はスーツの男から視線を外し、店の奥へと入り込んだ。選んだのは、以前と同じ、レジスターから一つ座席を置いた席。
「それでは、私は失礼します」
千景を気にしてか、先の客はそう言って店を出ていこうとする。革靴の足音が木の床に響き、千景の真後ろを通り抜けていった。
「ありがとうございました」
店長は礼儀正しく頭を下げた。カウベルの音が男を送る。その背をなんとなく見送ったあと、千景は店主に尋ねた。
「お客さんですか?」
「阿奔さんのこと?」
聞き慣れない名前だ、と思った。地名以外でそんな名前があるとは、千景は知らなかった。『暮葉』もなかなかない苗字なので、他人のことは言えないが。
「あの人は、ここの物件を紹介してくれた不動産屋さんの人なんだ。すごく良くしてもらっちゃって」
彼のお陰で初期投資が安く済んだのだ、と興奮気味に店主は言う。それまで必死にお金を貯めていたとしても、自分の店をはじめるとなれば先のことに不安もあるだろうから、できるだけ出費を抑えたいと思うのが普通だろう。そんな店主にとって、この物件は立地のわりに家賃がお手頃で都合が良かった。利用前のクリーニングや傷んだ設備の修繕なども全て不動産屋が手配し、費用を持ってくれた。至れり尽くせりだった、と店主は言う。
だが、彼の話しぶりからして、どうやら〝前の店のこと〟は聞かされていないようだ。〝至れり尽くせり〟もその所為ではないか、と千景は睨む。
「……て、ごめんね。お客さんにこんな話。やっぱりちょっと話し相手に飢えてて。それで、ご注文は?」
特に目的があったわけではないため、メニュー二番目に書かれているコーヒーを選んだ。
店主が豆を挽く音と、強めのシーリングファンの回る音。時折忍び込む、車の走行音。そして、時計の振り子の音。心地よい停滞の空間。柔らかい日差しの一部が天窓から入り込み、揺らぐものは何もない――
千景は、ようやく店に入ったときから頭の隅で抱いていた違和感に気付いた。背後を振り返り、天窓を見上げる。剥き出しの梁には、勢いよく回るシーリングファン以外の何もぶら下がっていなかった。
天井を見回し、何も見つけられず。ついには床まで。座ったまま見える場所は全て見渡した。が、首を吊った女の姿を見つけられることはできなかった。
前に来たときは、あれほどじっと、憧憬と嫉妬をないまぜにした目で店主を見下ろしていたというのに。
ただ居なくなっただけならば良いのだが――
「そういえば、宣伝してくれた?」
コーヒーを出しながら、遠慮しつつ店主が訊く。先ほどからそわそわしている様子を見せていたので、おそらく機を窺っていたのだろうと思う。話し相手に飢えていると言っていたから、やはりあまり客が来ていないのだろう。
「学校では、話しました」
宣伝はしていないけれど、話題になったことは嘘ではない。
「そっか。でも、やっぱり高校生はコーヒーじゃ来ないかな。ああ、話してくれてありがとうね」
コーヒーではなく建物そのものが原因なのだが、千景は黙っておいた。淹れてもらったコーヒーで、もどかしい想いを飲み下す。酸味が強く、口にえぐみが残るような苦手な味だった。知る必要のあることなのか、千景には判断ができない。それに、告げたとして、千景には何もできない。
「それで思い出したんだけど」
店主はしゃがみ、姿が見えなくなる。カウンターの下の辺りで何やらゴソゴソと聞こえ、やがて立ち上がった彼は、千景の席の前に拳大の物を置いた。音からして硬い物。手が退けられて見てみると、それは素焼きの小鳥――鳩の置物だった。
「これ、この前忘れていったみたいだよ?」
じっとその置物を見つめる。千景にはまるで覚えのない代物だった。可愛らしいとは思うが、千景の趣味ではないし。
「……これ」
店主を見上げて置物を指し示し、首を傾げる。
「ん? この前、君の席の隣に置いてあったんだけど」
答えた店主が指差したのは、千景が今座っている席と会計との間。
「足元に?」
「いや、テーブルの上に」
あの日、千景は鞄は足下に置いたし、カウンターテーブルの上に物を置いた覚えがない。そもそもこの鳩は千景のものでもない。
なのに何故、これが千景の持ち物である、と店主は認識したのだろうか。
訝しむ千景の様子に、店主もまた困惑の表情を浮かべる。
「情けないことにあれ以来お客さんは誰も来てなくて。業者さんは裏口だし。女の子の趣味かなって思ったから、阿奔さんの物でもないと思ったんだけど」
沈黙が落ちる。時計の振り子の音が、店の中でやけに響いた。あの有名な『大きな古時計』の歌を思わせるチクタク音。前はこのような音、気にならなかったのに――
何かのスイッチが入った音が鳴る。続いて、けたたましいとさえ思う鳩の鳴き声。驚いて振り返れば、壁のウッドパネルの高いところに、赤い屋根のポップでファンシーな鳩時計が飾ってあった。観葉植物を飾ったシックでモダンな装飾の中で、ただ一つ浮いた鳩時計。巣箱の中から飛び出しては、白い身体を前方に倒して、大きく虚ろな目で店内を見下ろした。そして今にも落ちてしまいそうな体勢のまま巣箱に戻り、また飛び出して、を繰り返す。
鳩が五回鳴いたのを見届けて、千景は店主に向き直った。
「……思い出しました。友だちに頼まれて、学校帰りに買ったんでした」
そして鳩の置物を掴み、そそくさとスクールバッグの中に放り込む。焦りの所為か、少々不自然になったかもしれない。店主は不思議そうにしていたが、持ち主が見つかったことで胸を撫で下ろしていた。
「そうそう。せっかくまた来てくれたから、サービスするよ。自家製のアイスクリームなんだけど」
そうして店主は、カウンターの中を通って、壁にぽっかりと開けられた出入口の向こうへと入っていった。隣室は厨房スペースだと予想されるが、扉や暖簾などの仕切りのないそこから覗く部屋は、窓はなく照明も点いてないのか、いやに暗く見えた。
『いかにも娘さんがやっている可愛いらしいお店でさ、鳩の小物がいっぱい置いてあったんだよね』
やはり気になったのだろう。一度目の来店の後、夕食の時間に母はこの店のことを家族の話題にのぼらせた。五年前、若い女性が開いた小さなレストラン『鳩時計』。あの大きなガラスの窓の側には飾り台があって、そこに鳩の置物がたくさん飾ってあったのだという。陶器のもの、布のもの、素材はいろいろ。だが、鳩たちの憩いの場を思わせるファンシーな飾りはいつも通りがかりの人々を楽しませていた。
そして、そんな展示につられてお客もまた、ぽつぽつとは入っていた。売上までは知らないが、その店主は楽しそうにしていたそうだ。
『アイスクリームが美味しいって評判だったんだけどね。お客さんがSNSに店の写真を上げたいって言ったのを、なんでだか拒否したらしくって』
そういうのが今の流行りだとはいえ、プライバシーの問題や、表現の問題など、断った理由や事情はいろいろあるだろう。それ自体は、誰も問題視していなかった。断られたその人以外は。
善意を断られたことに腹を立てたのか、その客はグルメサイトのレビューで、そのレストランを酷評したらしい。文面としては、明らかに自分勝手で偏屈な内容。だが、それを面白がる人はいる。
『それからずっと、あることないこと誹謗中傷の嵐。変な人が店に集るようになって、ご近所まで迷惑が掛かって』
営業妨害だけなら、まだどうにかなったかもしれない。そのうち飽きて鎮静化する可能性もあった。近所は彼女に同情していたし、代わって冷やかしを追い払いもしていた。誰も彼女を責めなかった。
だが、車道に飛び出して迷惑を掛けたり、通行人の邪魔をしたり。近隣のお店にも騒ぎ立てたり、ごみ被害も出たり。騒ぎは大きくなり、行政や警察も介入することもたびたび増え。独りで対処しきれなくなった彼女は、気に病んで首を吊ってしまった。
騒ぎは途端に止んだという。面白半分の行動が招いた結末に、気まずくなったのか。近隣は嘘のような静けさを取り戻し、不動産屋は店を片付け『テナント募集』の看板を掲げるも、中をカーテンで閉ざして人を招き入れることもなく。店は街の一風景として溶け込んで、忘れ去られていった。今、この若い男の店主が喫茶店を開くまで。
その間、彼女はずっと梁から店内を見下ろしていたのだろうか。新しい店が入って、どのような気持ちになったのだろうか。
いなくなったのは、どのような理由があるからなのだろうか。
虎口のような不穏さを漂わせる厨房への出入口から、笑顔の店主が出てきた。小さな器に載ったアイスクリームを出す。見事な半球状のそれは、白地に少々褐色が入っている。
「コーヒー屋さんらしく、エスプレッソを入れてみたんだ。砂糖も多めにしたから、そこまで苦くないと思うんだけど」
「……いただきます」
金色に光るスプーンで、アイスクリームの半球を削る。口に含めば、いかにも手作りらしい、卵と牛乳のシンプルな甘みが口の中で溶けていった。その中でコーヒーが仄かに苦みを主張して、甘みを引き締める。
「どうかな? 目玉商品が必要かなって思って、作ってみたんだけど」
美味しい、とだけ千景は答えた。無難な答えしか返すことができなかった。厨房に通じる出入口からの視線がどうしても気になって。
母曰く、前のレストランの評判だったアイスクリームは、ティラミス風と謳っていたそうだ。
コーヒーをメインに提供する店なのだから、発想としてはそれほど珍しいものではないのかもしれない。だが、エスプレッソを染み込ませたデザートの名を関した前の店の評判デザートとの整合性が、千景には不気味に思えた。
いつの間にか増えている鳩時計が、チクタク、と存在を主張する。規則正しい振り子の音が、千景の不安をさらに掻き立てた。
それから数日、学校からの帰路を気まぐれに変える千景は、喫茶店の前を通ることもなかった。一方で、どうしてもあの店のことが気懸かりで、あの店主と店の光景が頻繁に脳裏に浮かんだ。梁にぶら下がった女が居なくなっていたのが、ずっと頭の隅に引っ掛かっている。
週末が明けた日の放課後。千景は一度家に帰り、黒のワンピースに着替えて再び外に出た。日は暮れかけていたが、夜の散歩を習慣とするため千景を咎める家族はいなかった。
西の空はうっすらと明るい。店の前に立つ千景の背後では、帰宅ラッシュで車が列をなしてゆるゆると動いていた。大きなガラス窓からは店内の明かりが煌々と漏れて、歩道に差し掛かっている。それなのに、中からはうっすらと影の気配が漂っている。
扉を開けると、カウベルが鳴った。音に反応して、カウンターの下から頭がむくりと持ち上がる。清潔感のあった店主は、何処か荒んで見えた。髪は乱れ、シャツの襟もよれ。身体はくたびれた様子で、髭の剃り残しが目立つ顔は何処か憔悴している風で。
コーヒー豆の瓶が収められていた棚には、所狭しと鳩の置物が並べられていた。陶器のもの、布のもの、素材はいろいろ。いずれもデフォルメされて可愛らしいものだったが、窶れた様子の店主の後頭部を黒々とした円い眼が一斉に見つめているのは、戦慄するものがあった。
「……ああ、いらっしゃい」
声にはまるで生気がなかった。彼の方が幽鬼であるようにも感じられる。
「君か」
期待外れ、とでも言いたげだったが、千景は腹を立てなかった。無言でカウンターに近づき、椅子に座り込んでいる店主の向かいに立つ。だらりと垂らした手にスマートフォンを持っているのが見えた。
「お客さん、来ないんだ。君以外の誰も」
まるでうわごとのように、店主は口を動かす。壁の鳩時計が時を刻む音が、やけに耳に障った。
「覚悟はしていたよ、もちろん。お店をはじめるって、そういうことだって。だから僕なりに頑張った。チラシを配って、ブログやSNSで宣伝して。でも、誰一人興味を持ってくれない。来てくれない。通る人は横目には見てくれるけど、嫌な顔をして通り過ぎていく」
それは、かつてここに死人が出たからで。興味はあるが、忌避してしまうのだ。事情を知れば、納得はできたことだろう。しかし、この店主はまだ、それを知らない。
「それなのに、なんでだろうね。グルメサイトのレビューには、店の悪口がたくさん書かれているんだ。どれも身に覚えがない内容だし……そもそも、君以外のお客さんが、来てくれたことなんてないのに」
ゆらり、と男の影が揺れる。男は千景に画面を向けたまま立ち上がり、スマートフォンを手放した。端末が床にぶつかる音が、千景の神経を刺激する。
店主はカウンターがあるのも構わず、突進するかのような勢いで千景に迫り、その首に手を伸ばしてきた。反射的に身を引いて逃れたが、代わりに左手首を掴まれる。そのまま強い力で引っ張られ、千景の身体はテーブルにぶつかった。
「君が書いたんだろ」
「……いいえ」
「他に考えられない!」
時限爆弾を思わせる時計の音の中に、クラクションとエンジン音が飛び込む。しかし、誰も店内の様子に気付いていないのか、店の外ではいつも通りの日常が通り過ぎていく。誰も千景に気づかない。店主の狂気に気が付かない。
カウンターの向こうに引きずり込まれそうになるのを、右手でテーブルの縁を掴んで抵抗するが、左手を引く力は強く、肩から腕がもがれてしまうのではないかと思うほどだった。
「離して」
「嫌だ!」
二人の攻防を嘲笑うかのように、鳩時計の鳩が鳴く。鳩が時を数えるほど、充血した店主の目の色が濁っていく。
「僕は何もしていないのに! みんなあることないこと面白おかしく喚き立てて! 私はただ真面目に、素敵なお店にしたくて……っ!」
店主の左手が千景のシャツの首元を掴んだ。千景の身体はとうとうカウンターの向こうへと引っ張り込まれた。
さすがに女子高生の体重をうまく支えきれなかったのか、店主はバランスを崩して倒れた。引っ張られていた千景もまた、床に転がる。痛みに呻きながら身を起こすと、視界の端で火花が散った。顔を向けてみると、店の奥の暗がりの中、おそらく床の上で何かが花火のように激しい明滅を繰り返している。
千景は立ち上がり、店主の腕を引っ張った。
「立って……っ」
店主は虚ろな顔を怪訝そうにしながら、千景に求められるままに身を起こす。
「来て」
手は引っ張ったまま。レジ横を抜けて狭いカウンターの中から出た。木の床を高く鳴らし、カウベルを激しく鳴らして店からも出る。そのまま歩道を横切り、車道にまで飛び出した。幸いにして、帰宅ラッシュで右も左も渋滞が起きていて、千景たちが轢かれることはない。クラクションは鳴り響いたが。
道の向こうまで渡りきり、目の前にあった店の重い扉にぶつかるようにして、中に転がり込む。
そこは、まるで異世界に飛び込んだかのように、薄い紫色に包まれていた。タイルカーペットの床は黒。カウンター席は大理石風でやはり黒。背の高いカウンターチェアは、赤いフェイクレザー。あとは壁も天井も薄紫色。
その趣味の良し悪しを議論している余裕は、千景たちにはなかった。
カウンターで煙草を燻らせていた、ワインレッドのドレスを纏った中年の女性が驚きの声を上げる。まじまじと床に這う千景たちを見つめ、それから縁を紫に染めた眼を吊り上げた。
「こら! あんたまだ高校生だろ! 未成年が入る店じゃないよ!」
だが、粗い呼吸のまま謝る千景と混乱している喫茶店の店主の様子に、ただならぬものを感じ取ったのか、スナックのママはすぐに怒りを収めた。
「……何があったの?」
「えっと……」
床に手を付いてぼうっとした様子で座り込む店主が、千景に助けを求めた。だが、ママが見たのは、事情を説明できそうな千景ではなく、最近近所付き合いをすることになった若者のほうだった。
「あ……あんた、向かいの」
「あ……はい……。お世話になってます」
先ほどの狂気はすっかりと消え去り、彼は心ここにあらずといった様子で頭を下げる。咄嗟にそれが出るあたり、彼の本質がよく分かる。
魂が抜けたような店主の様子に埒が明かないと悟ったのか、ママは今度は千景一人に尋ねた。
「……何があった?」
千景は落ち着いて立ち上がり、冷静に中年女性を見返した。
「あの店のこと、ご存じですよね」
「そりゃあ、ね。あたしゃ二十年ここに店構えてんだから」
「この人は知りません」
ママは苦いものを飲み下すような表情で、座り込んだ店主を見つめ、溜め息を吐きながら煙草の先端を分厚いガラスの灰皿に押し付けた。
「やっぱりか。まさかとは思ったけどねぇ……たちの悪い不動産屋もいたもんだ」
それからママは後ろを向き、棚からグラスを二つ引っ張り出した。ウィスキーに使われる、重そうなグラス。そこに氷を入れ、水を注ぎ、カウンターの席に出す。
「座りな。教えてやるから。だから、あんたたちも話を聴かせるんだね」
ようやく疑問に答えが出ると悟ってか、店主の目に光が灯る。ノロノロと立ち上がり、カウンターチェアに腰掛けた。
一方、千景はカウンターの側に寄るも、椅子には座らなかった。その必要性を感じなかった。
気持ちの余裕ができて、ようやく表が騒がしいことに気付く。渋滞の喧騒とは異なる、事件の予感。一同が不審に思っていると、扉が開いた。
「大変だ、火事だ! 巻き込まれる前に、早く逃げたほうが良い!」
燃えていたのは、もちろん店主の喫茶店だった。十中八九、店を出る直前に見た電化製品のスパークが火元だろう。
二車線道路を埋めていた自動車はあっという間に居なくなり、代わりに緊急車両の赤いランプが夜闇を照らした。早いうちだったからか、幸いにして店は半焼で済み、周囲を巻き込むことはなかった。こうして呆気なく、『珈琲喫茶・薫風』は終わった。
「キッチンの配線が、古いままだったらしくて」
三日後。千景は学校帰りに『スナック・アメリ』に顔を出す。あの日千景を叱ったママ――アメリも知ってのことだった。
紫の店内で赤いレザーのカウンターチェア座った千景は、喫茶店の元店主――伊角椋平から、その後の顛末を聞いた。徹底的に修繕やクリーニングがされたというのに、配線周りだけは手が付けられていなかった。迂闊というにも有り得ないミスは、故意だったのか、それとも――
いずれにしろ、千景が気が付かなければ、伊角は火に呑まれていただろう。
「こっちの落ち度だからって、諸々の費用は、不動産屋さんが全部持ってくれた」
購入費用もそっくりそのままとはいかないが、返金されたという。店にあった全てを失った伊角だが、再起を図るには充分な補償を受け取ることができたようだ。悪い夢でも見ていたかのよう、と彼は語る。以前と同じように身なりを整えた伊角は、すっきりとした顔をしていた。
「……事故物件だったなんてね」
伊角はもう、すべてを知っていた。アメリから曰くを聞かされていた。それは、伊角の疑問を全て納得させるものだった。
「変だと思ったんだ。君を除いて、本当に誰一人来なかったから」
伊角が言っていた、グルメサイトの誹謗レビューも、物件が同じだったから残されていただけの、前の店のものだった。投稿された年月にも気づかず責め立てたことを、伊角は謝罪する。
「傷害で訴えられても仕方がないね……」
「しないわ」
「え?」
表情に乏しい千景の顔を、伊角はまじまじと見つめる。
「仕方がなかったから」
あそこはある種の異界だった、と千景は思っている。怨念か、執念か。いずれにしろ、『鳩時計』の店主だった女性が、忘れ去られていた五年の間に作り上げた世界。彼はその狂気に中てられただけだ。
「う~ん、それはどうなんだろ……」
彼は、梁にぶら下がっていた女を知らない。行動を自発的なものだと思っている。違うと言ってやりたかったが、真実は彼にいらぬ嫌悪感を掻き立てるような気もしたので、千景は何も言うことはしなかった。
梁の女は、あの後も視えない。少なくとも伊角と一緒にはいないようだから、もう気にしなくて良いだろう。
ところで、あの物件を伊角に紹介した阿奔は、行方不明になっているらしい。事件の前に不動産屋を退職していたそうだ。全ての元凶ともいえる阿奔の顔を、千景は覚えていない。スーツ姿のひょろ長い男だったということしか、思い出せなかった。
「これから、貴方は?」
どうするのか、と訊くと、しばらくは資金稼ぎだ、と伊角は答える。失った物を嘆きはしていたが、気持ちは前を向いているようだ。
幸いにして、彼はこの『スナック・アメリ』で雇ってもらえることになったらしい。夢をやり直す日は、そう遠くないことだろう。
「今度はきちんとした場所でお店をやるからさ。そうしたら、また来てよ」
「ええ。割引券も残っていることだし」
丁寧に折りたたんだ手製のビラを見せれば、伊角は恥ずかしそうに笑った。その目端に光ったものは、見なかったことにした。
さいごに。
千景の手元に一つだけ残った鳩の置物は、週末に千景が神社まで持っていった。どう始末されたかは知らないが、これでもう、彼女の遺したものは全てなくなったことだろう。




